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雨は遅く、人は遠く

雨は遅く、人は遠く

作家:  几時完了
言語: Japanese
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概要

逆転

愛人

ひいき/自己中

クズ男

不倫

カウントダウン

「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」 グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみや りつま)にそう提案した。 けれど、その場で部屋の隅に座る白川静乃(しらかわ しずの)へ視線を向ける者は、ひとりもいなかった。 それも当然のことだ。 ふたりが結婚して、もう四年。 周囲では「仮面夫婦」として有名だった。 誰もが知っている。律真は外では女遊びばかりで、ただひとり、妻の静乃には決して手を出さなかった。 静乃も分かっていた。彼は自分の身体を求めてはいない。代わりに欲しがっているのは――自分のすべての愛情だ。だからこそ、彼はいつも自分を試し続けていたのだ。

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第1話

第1話

「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」

グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみや りつま)にそう提案した。

けれど、その場で部屋の隅に座る白川静乃(しらかわ しずの)へ視線を向ける者は、ひとりもいなかった。

それも当然のことだ。

ふたりが結婚して、もう四年。

周囲では「仮面夫婦」として有名だった。

誰もが知っている。律真は外ではよく女遊びをするが、ただひとり、妻の静乃には決して手を出さなかった。

静乃も分かっていた。彼は自分の身体を求めてはいない。代わりに欲しがっているのは――自分のすべての愛情だ。だからこそ、彼はいつも自分を試し続けていたのだ。

たとえば、雪が降る夜に、わざわざ指定したお店のチョコレートを買わせに、往復十キロも歩かされた――それは、自分を試すためだった。

二年間、大事に育ててきた小鳥を放されてしまった――それは、自分の心の中でどちらが大切かを知るためだった。

あるいは、数日おきに別の女を家に連れ込み、夕食の席で目と目を交わし、わざと甘い仕草を見せつけられた――それは、自分が嫉妬する様子を見たかったからだった。

四年経っても、その試しは終わらなかった。目を覚ませば、また何かが始まる。この日も一日中、不安を抱えたまま過ごし、ようやく何事もなく一日が終わろうとしたのに、連れてこられたのはこの騒がしいクラブだった。テーブルの上でボトルが回る音に、静乃は現実へ引き戻された。

ボトルの口が止まったのは、赤いドレスの女。静乃は、その女を知っている。

――水原詩織(みずはら しおり)。

律真の恋人たちは次々と変わっていったが、その中で詩織だけは長く続いていた。

「キス!キス!」

囃し立てる声に押され、詩織は律真の腕の中へと押しやられた。艶めくライトが揺れ、その下で静乃の目に映ったのは――得意げで、どこか期待を含んだ彼の視線。

その目には見覚えがあった。

律真が嫉妬を誘いたいとき、いつもああいう目で彼女を見る。そして静乃は、毎回涙をこらえきれずに問い詰めるのだった。「どうして?一番愛しているのは私じゃなかったの?」

けれど、今日は違う。静乃は、もう疲れてしまったのだ。

「お手洗いに行ってくる」それだけ告げて席を立ち、人いきれの中を抜け出した。扉を閉める直前に目にしたのは――詩織と唇を重ねる律真と、彼の不機嫌そうに眉をひそめる顔。

洗面所で水を全開にし、何度も顔を洗った。冷たい水が頬に触れ、ようやく胸のざわめきが静まっていく。

――棘のあるやり方で愛を試しても、得られるのは離れ行く心だけ。

律真は、一生そのことに気づかないだろう。

静乃はスマートフォンを取り出し、自分と律真の電子署名データを弁護士に送信した。【離婚協議書を作成してください】

返事を確認すると、今度は継母へメッセージを送った。

【私はあの瀕死の冴木家御曹司と政略結婚しても構わない。ただし条件がある。私の母のお墓の前で、あなたが土下座して謝ること】

すべてを終え、もう一度顔を洗ってから、ゆっくりと個室へ戻った。

扉が見えてきた頃、中から賑やかな笑い声が聞こえてくる。誰かが律真に、今夜の「一夜だけの花嫁」に満足したかどうかを尋ねていた。

そんな声が聞こえた直後、周囲の期待を感じながら、静乃は無意識に指先にぎゅっと力を込めていた。

間を置かず、律真の声が響いた。「満足だよ。ああいう明るくて大胆な性格、俺すごく好きなんだ。静乃は違って、地味で真面目でつまらない」

その瞬間、静乃の唇から苦笑いが漏れた。

そして、目の奥がじんわり熱くなった。

――地味で、真面目でつまらない。

彼はもう忘れてしまったのだろうか。

かつての自分は、まさに詩織のように、明るくて奔放で、どこまでも輝いていたことを。あの頃、彼は何度も懇願していた。「そんなに眩しいと、俺、不安になる。他の男に見られるのが嫌なんだ」

最初は、自分を変えるつもりなんてなかった。

でも――見知らぬ男に声をかけられた夜、その男の小指がベッド脇に置かれていた。

ただ見つめられただけで、家に三日三晩閉じ込められたこともあった。彼の目以外に、自分が映ることは許されなかった。

やがて、静乃は「いい子」になった。

赤いドレスも着るのをやめ、化粧も笑顔も封じ、代わりに無難な白いワンピースばかりを身にまとう。

表情も無くし、彼の後を静かに歩く。喜びも怒りも、哀しみも――すべて彼ひとりのためだけに。

……それなのに、今の彼は明るくて大胆な子を好むと言っていた。

はっとして、静乃は涙を拭った。もう心なんて死んだと思っていたのに、まだ涙が出るなんて。

そのとき、スマホが光った。継母からの返信だった。

いいとも、嫌だとも書かれていない。たった一行――【半月後、海ノ市にある冴木家へ嫁げ】
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コメント

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松坂 美枝
クズ男の狂人ぶりが最初からフルスロットルだったがいつものような最後じゃないのはビックリ
2025-08-19 12:18:43
1
23 チャプター
第1話
「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみや りつま)にそう提案した。けれど、その場で部屋の隅に座る白川静乃(しらかわ しずの)へ視線を向ける者は、ひとりもいなかった。それも当然のことだ。ふたりが結婚して、もう四年。周囲では「仮面夫婦」として有名だった。誰もが知っている。律真は外ではよく女遊びをするが、ただひとり、妻の静乃には決して手を出さなかった。静乃も分かっていた。彼は自分の身体を求めてはいない。代わりに欲しがっているのは――自分のすべての愛情だ。だからこそ、彼はいつも自分を試し続けていたのだ。たとえば、雪が降る夜に、わざわざ指定したお店のチョコレートを買わせに、往復十キロも歩かされた――それは、自分を試すためだった。二年間、大事に育ててきた小鳥を放されてしまった――それは、自分の心の中でどちらが大切かを知るためだった。あるいは、数日おきに別の女を家に連れ込み、夕食の席で目と目を交わし、わざと甘い仕草を見せつけられた――それは、自分が嫉妬する様子を見たかったからだった。四年経っても、その試しは終わらなかった。目を覚ませば、また何かが始まる。この日も一日中、不安を抱えたまま過ごし、ようやく何事もなく一日が終わろうとしたのに、連れてこられたのはこの騒がしいクラブだった。テーブルの上でボトルが回る音に、静乃は現実へ引き戻された。ボトルの口が止まったのは、赤いドレスの女。静乃は、その女を知っている。――水原詩織(みずはら しおり)。律真の恋人たちは次々と変わっていったが、その中で詩織だけは長く続いていた。「キス!キス!」囃し立てる声に押され、詩織は律真の腕の中へと押しやられた。艶めくライトが揺れ、その下で静乃の目に映ったのは――得意げで、どこか期待を含んだ彼の視線。その目には見覚えがあった。律真が嫉妬を誘いたいとき、いつもああいう目で彼女を見る。そして静乃は、毎回涙をこらえきれずに問い詰めるのだった。「どうして?一番愛しているのは私じゃなかったの?」けれど、今日は違う。静乃は、もう疲れてしまったのだ。「お手洗いに行ってくる」それだけ告げて席を立ち、人いきれの中を抜け出した。扉を閉める直前に目にしたのは―
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第2話
静乃は最後にもう一度、個室の中を振り返った。律真は周囲のざわめきの中で、詩織を抱きかかえ、そのまま二人きりの部屋へ向かおうとしていた。テーブルの上には、律真がわざと置いていったと思われるネクタイがあった。静乃にはそれがわかっていた。あたかも激しいことがあったかのように見せかけるための演出だと。ただ、自分にネクタイを持たせ、一軒ずつドアを叩かせて、泣きながら「帰ってきて」と頼ませるための仕掛けにすぎなかった。そんなことはこれまでも何度も繰り返されてきた。だが今回は、静乃は見なかったふりをした。さっとタクシーに乗って帰宅し、軽くシャワーを浴びると、そのままベッドに入った。うつらうつらと眠りかけた深夜、外では突風が吹き荒れ、激しい雨が窓を叩いていた。静乃はその音に驚き、身体をぎゅっとすくめた。携帯を見ると、もう午前五時を過ぎていた。隣のベッドはひんやりと冷たく、律真は今夜戻らないことはわかっていたはずなのに、心のどこかで期待していたのかもしれない。どうしようもなく、胸の奥にわずかな失望が広がった。再び眠ろうとしたそのとき、不意に背後から誰かに抱きしめられた。「静乃、怖がりなの知ってるから……帰ってきたよ」律真の声が耳元でそっと囁かれた。彼は優しく耳たぶに触れてきたが、その身体からは明らかに他の女の香水の匂いがした。静乃はゆっくり身を翻した。暗がりの中でも彼の瞳がはっきり見えた。「律真……わたしのこと、愛してる?」「もちろん」律真は迷いなく答えた。その返事を聞いて、静乃は彼の手を引き寄せ自分の身体に当て、そっと唇を重ねた。唇と唇が重なり、互いに求め合うように熱を帯びていく。けれど、いざ最も深く結ばれようとしたその瞬間――律真は静乃を突き放した。同時に、まばゆい照明がパッと灯った。静乃の目に飛び込んできたのは、ずぶ濡れの彼の髪。彼は間違いなく、あの土砂降りの中急いで戻ってきたのだ。自分のために。彼は愛しているように見える。でも同時に、まるで愛していないようでもあった。「どうして?」静乃は静かに問いかけた。律真は黙って布団を引き寄せ、彼女を包み込んだ。そして自身の服を整えながら、淡々と言った。「結婚する前から、これは『形式だけの結婚』って決めてたよね。……あまり踏み込みすぎないで」その言葉を口にするとき
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第3話
静乃は、半日ものあいだ部屋に閉じこもっていた。その間も、律真と詩織の楽しげな笑い声が、わざとなのか無意識なのか、扉の隙間から何度も漏れ聞こえてくる。静乃は何も聞こえないふりをした。昼どきになり、部屋のドアがノックされたかと思うと、次の瞬間には律真が中へ入ってきた。「まだ、嫉妬してるのか?」そう言って彼は静乃の隣に腰を下ろし、穏やかな口調で、眉のあたりには笑みを浮かべていた。静乃はそっぽを向いた。「別に、嫉妬なんてしてないわ。だって、あなたの妻なんて誰にでもなれるようなものなんでしょう?でも私は違う。そんな私が、誰に嫉妬する資格があるの?」その言葉を聞いた途端、律真の表情はさっと冷たくなった。長い沈黙のあと、彼はふっとため息をついた。「……静乃、お前もわかってるだろう。いちばん愛してるのはお前なんだよ。そんなの、怒ってるから言ってるだけで、本心じゃないってのはわかってる」そう言いながら、彼は静乃の耳元にかかる髪を指先で優しく整えた。思いがけない仕草に、静乃はほんの一瞬、驚きの表情を浮かべた。まさか、律真が……自分の機嫌を取ろうとしている?そんなこと、今までなかったのに。だが、次の瞬間、彼の口から出た言葉は違った。「今日は詩織の誕生日なんだ。パーティーを用意してある。一緒に来てくれ。あまり顔をしかめて、雰囲気を壊さないで」その一言に、静乃は思わず律真を見つめた。揺れる瞳には、自分自身への虚しさが浮かんでいた。ようやく彼が折れたかと思えば――それは、愛人の誕生日パーティーに連れて行くためだったなんて。「……もし行かなかったら?」律真の顔が一気に険しくなった。「お前が来なければ、詩織が周囲からどんな目で見られるかわからない。お前がそこにいてくれさえすれば、彼女への風当たりも和らぐ。だから、これはお前の意思だけで決められることじゃない」そう言い捨てると、律真は立ち上がって出ていった。するとすぐに誰かが部屋に入ってきて、静乃を無理やりパーティー会場へと連れて行った。誕生日パーティーの会場を見渡せば、知らない人はきっと、律真の妻のための祝いだと勘違いするだろう。そこかしこに、贅を尽くしたきらびやかさが溢れていた。「律真社長、今回の誕生日パーティーには相当な額をかけたって聞きましたけど……本当に驚かされまし
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第4話
静乃はひとりで街中を歩いていた。冷たい風が吹き、思わず両腕をさすって身を縮めた。ふと、律真と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出した。彼はいつも、自分のコートをかけて「俺のものだ」と言わんばかりに示してくれた。でも今、そのコートはきっと、もう別の誰かのものになっているのだろう。「静乃!」後ろから自分の名前を呼ぶ声に、彼女が振り向くと、律真が追いかけてきていた。彼の身体には酒の匂いがまとわりついていて、寒風のなか、真っすぐ彼女を見つめながら言った。「最近、なんで全然嫉妬してくれないの?お前、昔はそんなふうじゃなかったよな」「もう、俺のこと……愛してないんだろ?」その言葉に、静乃は思わず笑いそうになった。一番この質問を口にする資格がないのは律真だというのに。「じゃあ、どうすれば信じるの?どうすれば、私があなたを愛してるって思えるの?律真……私が死ななきゃ、あなたは納得しないの?そうなんでしょ?」声を荒げる静乃の瞳には、涙が溢れていた。律真は一瞬息を呑み、黙り込んだあと、そっと答えた。「……そうだ」次の瞬間、静乃は何の迷いもなく車道へと駆け出した。ブレーキ音が響き、間に合わず突っ込んできた車が彼女をはね飛ばした。意識が遠のく直前、律真の顔が見えた。驚き、戸惑い、どうしようもなく動揺している――そんな顔だった。目を覚ますと、病院にいた。静乃が薄く目を開けると、病室の傍らで律真がお粥をかき混ぜていた。落ち着いた表情で、丁寧にスプーンを動かしている。まるで恋人同士だった頃のように。あの頃、自分が体調を崩すたびに律真は側を離れず、赤い目で言ってくれた。「静乃、一生そばにいさせてくれ」自分が苦しいとき、律真はそれ以上に苦しんでくれた。そんな記憶がよみがえり、静乃は思わず鼻の奥がつんと痛くなった。「律真……」名前を呼ぶと、その瞬間、律真の目が冷たく光った。「静乃、お前って……死んでも『愛してる』の一言すら言ってくれないのか?」言葉を失ったまま、静乃は凍りついた。そうか――彼の中では、自分が命を賭けても、まだ「愛」とは呼べないらしい。「そうね」静乃は静かに口を開いた。律真は眉間にしわを寄せたが、静乃は続けた。「私はあなたを愛してない。律真、あなたは狂ってる。そんなあなたを、誰が愛せるの?」命をかけても信じ
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第5話
「じゃあ、詩織は飲めるって言うのか?」律真の目は鋭く光り、その声には反論の余地がなかった。静乃はしばらく黙り込み、ゆっくりと頷いた。「わかった、飲むわ」もう限界だった。これ以上言い争いたくなかった。ただ眠りたかった。もし飲むことで律真が放っておいてくれるのなら、それでいいと思った。あまりにもあっさり承諾した静乃に、逆に律真は気に食わなかったらしい。彼は彼女の前に歩み寄り、見下ろすように問いかけた。「お前が飲むのか?」「静乃、俺に大事に思ってほしいんじゃないのか?」静乃は答えず、ただ身をかがめて一本の酒瓶を拾い上げた。その揺るがぬ態度に律真の目は狂気を帯びていった。「俺に頼むくらいなら酒を飲む方がいいってか?そんなに飲みたいなら……全部飲み干せ」次の瞬間、律真は容赦なく彼女の顎をつかみ、無理やり酒を口に流し込んだ。胃が焼けるような痛みと吐き気に襲われ、静乃は床に崩れ落ちた。律真の瞳に一瞬だけためらいがよぎったが、その手は止まらなかった。最近の静乃は、おとなしくなかった。だからこそ彼は教え込もうとしていた。――妻という役割を。どれほどの時間が過ぎたのだろう。静乃はもはや虫の息で、口元から酒がこぼれ続けていた。焦点を失った瞳は、生気をすっかり失っている。その時、病床の詩織が急に口を押さえ、えずくように何度か喉を鳴らした。そして勢いよくトイレへ駆け込み、激しい嘔吐の音が響き渡る。律真は慌てて医者を呼びに行った。だが静乃は、床に横たわったまま微動だにせず、胃の奥をえぐるような灼熱感に呑み込まれていた。――どうして、自分はあの人を見誤ったのだろう。医師や看護師たちは、まるで彼女がそこにいないかのように出入りし、その体をまたいで行った。律真も視線すら向けなかった。どれほど経っただろう。病室に驚きと喜びが入り混じった声が響いた。「妊娠してる?!」その言葉に、静乃の心がかすかに動いた。――詩織が……妊娠?かつて何度も律真に「子どもがほしい」と願ったが、そのたびに拒まれた。「俺たちは形式だけの夫婦だ。子どもを作る気はないし、お前には触れもしない。諦めろ」彼はそう冷たく言い放った。それなのに「子どもを作る気はない」と言い続けた夫が、別の女との間に命を宿している。律真が大事そうに詩織を支える姿を
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第6話
静乃と詩織は、ほとんど同じタイミングで目を覚ました。目を開けると、静乃のすぐそばで看護師たちがひそひそ話をしていた。「隣の病室の詩織さんって、本当に運がいいよね。あんなにかっこよくて、しかも一生懸命支えてくれる彼氏がついてるんだから。聞いた話じゃ、海外から一流シェフを呼んで、彼女のために栄養価の高いスープを作らせてるんだって」「私も見たの!しかも彼、自分の手で食べさせてあげてたのよ。私もあんなふうに幸せになれたらいいなぁ」その話が静乃の耳に飛び込んできた。彼女は天井を見つめたまま、目の焦点を失い、胸の奥からじわじわと苦い感情が広がっていく。――律真、あなたは一体どこまで私を苦しめれば気が済むの?どうすれば私を自由にしてくれるの?静乃の指がゆっくりと拳を握り締めた。気のせいかもしれないが、彼女ははっきりと腹の中に小さな命の存在を感じ取った気がした。無意識にその手を下腹部へ伸ばし、触れた途端、涙がひと粒こぼれ落ちる。かつて何度も、子どもを授かることを夢見ていた。しかし、その願いを律真は一度たりとも受け入れてはくれなかった。そして今、ようやく宿った小さな命は――夫と別の女性の子どもだった。静乃の瞳から、絶望そのものの涙があふれ出す。次の瞬間、彼女は拳を振り下ろし、自分の腹を何度も叩きつけた。いらない。この子は――いらない。律真と、もうこれ以上、何のつながりも持ちたくない。縫ったばかりの傷口はあっという間に裂け、鮮血が患者服を染め、白いシーツを真っ赤に滲ませた。あまりの惨状に、ようやく看護師が異変に気づき、悲鳴を上げて駆け寄った。「静乃さん!何をしているんですか?早く!早く医者を呼んで!」「呼ぶ必要はない」低く震える声が響いた。看護師と静乃が同時に振り向くと、そこには律真が立っていた。腕には花束――だが、その茎は握りつぶしそうなほど強く握りしめられていた。看護師は彼が隣の病室の「彼氏」だと悟ると、空気を読んでそっとその場を離れた。静乃は一瞬ためらっただけで、再び自分の腹を打ちつけた。手術明けの身体は脆く、少しの動きで息が詰まり、意識が飛びそうになった。顔は血の気を失い、雪のように白くなった。律真は二、三歩で駆け寄り、花束を投げ捨てると同時に、彼女の手首をがっしりと掴んだ。額から汗が滑り落ちる
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第7話
律真の顔色がさっと変わり、一緒に帰ると言い出した。「いいえ、一人で帰るわ。少し……お父さんと話がしたいの」そう言って律真の申し出を断ると、静乃はゆっくり立ち上がり、彼の目の前で服を着替え始めた。律真は眉をひそめながらも、どこか心配そうな表情で彼女を見つめていた。玄関を出る直前まで、薬を忘れないように、体に気をつけるようにと何度も念を押してきた。廊下の隅では、使用人たちが小声でささやき合っていた。「奥さま、あんなに旦那さまを罵ってたのに、それでも甘やかされて……本当に贅沢だわ」「そうよ。自分で帰るって言ったら、本当に帰らせてくれるんだもの。これが信頼じゃなくて何なの?」……そんな声は、歩くごとに遠ざかっていった。静乃は細めた目で久しぶりの陽射しを見上げ、胸の中が驚くほど静まっているのを感じた。あと三日。それを過ぎれば冴木家へ嫁ぎ、律真から完全に解放される。「奥さま、お乗りください」車に乗り込んだ静乃は、車内のあちこちに設置された監視カメラを見やり、ふっと冷たい笑みを浮かべた。さきほどの使用人たちの言葉が頭をよぎるが、彼女には滑稽にしか思えない。信頼?本当に信頼しているなら、何日も家に閉じ込めたりしない。本当に信頼しているなら、外出した途端に継母へ電話して事実確認などしない。そして――本当に信頼しているなら、車に監視カメラなんてつけるはずがない。だが構わない。ほんの束の間でも律真の家から離れられるのなら、この忌まわしい子を堕ろす方法はいくらでもあるのだ。三十分後、白川家。玄関をくぐった瞬間、足元でガラスが割れる音が響いた。静乃は反射的に跪いた。目の前には、病に伏しているはずの父が立っていた。「お前……綾子に、母さんの墓前で土下座させたそうだな? 親不孝にもほどがある!」「そうよ! あの女はお母さんを殺したのよ。跪いて当然じゃない!」突然の反論に、父は一瞬驚いた。長年、何かあればすぐ膝をつき、逆らわない娘の姿に慣れきっていたからだ。だが今の静乃は怯むどころか真っ向から言い返した。父の顔はみるみる怒りに染まり、杖を振り上げ、背に叩きつけた。鈍い衝撃が走り、静乃は床にうつ伏せた。「大げさな……背を打っただけだ。腹なんて押さえてどうする」静乃は怒りに燃える目で父を見上げ、睨み返し
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第8話
背後では炎が勢いよく燃え上がっていた。静乃は一度も振り返らず、ただひたすら外へ歩き出した。炎の光が彼女の頬を照らし、一筋の涙を浮かばせ、その涙が地面に落ちた瞬間、静乃は心の中で誓った。――これが律真に流す、最後の涙だ。彼女は冴木家へ直行することなく、曲がりくねった路地を抜けて小さな診療所へ向かった。律真の性格を知っているからだ。大きな病院で堕胎をすれば、すぐに足がつく。あの火事で彼が生き延びていたら、それこそ取り返しがつかなくなる。埃をかぶったガラス扉の向こうに貼られた紙切れに、静乃は手を伸ばした。【六千円で無痛人工妊娠中絶】その紙切れを握りしめ、迷いなく中へ入った。「若い娘さんが、そんな軽はずみなことをしてはいけませんよ」汚れた白衣の医者は消毒もせず器具を手に取り、強引に静乃の足を広げた。彼女は何も言わず、目を閉じて屈辱に耐えた。名ばかりは律真の妻でありながら、これまで何年もの間、日の当たらぬ愛人と何ひとつ変わらなかった。「なんだ、まだ処女か?おかしいな……」医者はぶつぶつ呟きながら、静乃を怪訝な目で見つめた。次の瞬間、彼女は自分の下腹部で何かが壊れるのをはっきり感じた。苦笑いを浮かべ、顔には自嘲が満ちていた。何度も何度も律真と愛し合う姿を思い描き、最も大切なあの膜も自分が彼に捧げる最高の贈り物だと思っていたのに。しかし今は、冷たくて汚れた器具が無情にも自分の最後の防御線を突き破ったのだ。丸四年。これほど冷たい結婚生活があるだろうか。恨まずにいられるはずがない。……診療所を出ると、足に力が入らずふらついた。通りがかりの車を止め、冴木家の住所を告げると、そのまま深い眠りに落ちった。夢の中で、瓦礫の山の中に立つ律真が苦しげに手を伸ばしていた。「静乃、助けて……」彼女は立ち尽くし、二人で過ごした日々を一瞬だけ思い返す。だが最後には覚悟を決め、背を向けて歩き出した。……しかし、その道はあまりにも険しく、重かった。静乃は額に汗を滲ませて目を覚ました。「着きましたよ」運転手の声に促され、静乃は車を降りた。使用人たちが彼女を迎え、広大な屋敷の中へと案内した。冴木家は海ノ市で屈指の財力を誇っており、たとえ律真であっても冴木蓮司(さえき れんじ)には相手にされないほどだ。しかし、冴木
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第9話
「結婚式が終われば、ちゃんと説明するよ」蓮司は静乃の目を避け、手にした腕輪を弄びながら彼女の手首にはめようとしていた。だが静乃は一歩下がり、距離を取った。その瞳にはうっすらと嘲りが浮かんでいた。彼女の目には、蓮司のこの一連の行動は、両親の命令に押し切られて仕方なく自分と結婚したようにしか見えなかった。今も、急いで腕輪をはめてやればそれで任務完了だと言わんばかりだった。まるで、正面から向き合うことすら拒んでいるようだった。「まだ離婚届の受理証明書も手元にないし、厳密にいえば私は既婚者よ。もし蓮司さんがそこまで嫌なら、ほかの人と結婚すればいいじゃないですか」そう言い残し、静乃は玄関へ向かった。だが、ドアの前で足を止めた。「それに、あなたの体も別に厄を祓う必要なんてなさそうです」玄関から出ようとしたそのとき、背後で沈黙を守っていた蓮司が突然、数歩で追いついた。長く細い指がドアノブにかかり、初めて彼女の目を見て言った。「静乃、本当に僕のことを忘れたのか?」その一言に、静乃はハッと振り返った。疑わしげに見つめると、蓮司の瞳にはどこか緊張の色が宿っていた。軽蔑しているのではない。むしろ、直視することを怖れているのだ。蓮司は静乃の戸惑いを見て、深く息を吐き、言葉を続けた。「七年前、あの児童養護施設で、君と会ったことがある」その言葉で、静乃の脳裏にぼんやりとした記憶がよみがえった。七年前、彼女は大学生で、週末にサークル活動として養護施設でボランティアをしていた。そこで一人の少年と出会った。無表情で人混みの中に立ち、ほうきの使い方すら分からず、ある女性職員に叱られていた。静乃は彼のもとへ行き、ほうきの使い方を教え、一緒に子どもたちと遊んだ。その記憶はやがて、日々の中に埋もれていた。「あなたが、あのときの……」静乃は目を見開いた。裕福な家の子息は、幼い頃に施設を訪れ、貧しい暮らしを体験することがあると聞いていた。まさか、あのときに会っていたとは。蓮司は小さくうなずく。静乃は思わずもう一度思い返した。彼がほうきを使えなかったのは、家事をする必要がなかったから。服にブランドロゴがないのも安物ではなく、オーダーメイドの高級品だったからだ。「あの日から、君のことを調べたんだけど、恋人がいると知ってからは、何もせずに
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第10話
「それで、十分だ」蓮司はふっと微笑んだ。おそらく、あまりに若くして会社を継いだせいだろう。年齢以上に大人っぽく見え、立ち居振る舞いや服装にもどこか威圧感があった。雑誌で何度か写真を見たことのある静乃も、その迫力に思わず圧倒されてしまった。だが今は、彼の鋭い眉目が和らぎ、命令ばかりしていた口元からは信じられないほど穏やかな言葉がこぼれた。静乃は思わず言葉を失った。蓮司はさらに続けた。「君が結婚で傷ついてきたことは知っている。だから最初から、すぐに僕を受け入れてくれなんて思っていない。ただ……君にはこの家に残って、妻として、ちゃんと幸せを感じてほしい。それだけでいい。他のことはどうだって構わない」「式は五日後だ。少しずつ準備を進めてくれればいい」そう言うと、拒まれるのを恐れるように、彼はそそくさと部屋を出て扉を閉めた。静まり返った部屋で、静乃はようやく肩の力を抜いた。視線を巡らせると、ほとんどが自分好みの内装で整えられていた。蓮司が心を砕いたことは明らかだった。数日間、緊張を張り詰めたまま過ごしてきた彼女は、もう長い間まともに眠れていなかった。外は夕暮れ。簡単に身支度を済ませ、ベッドに横になった。まぶたを閉じる直前、頭に浮かんだのは今日の昼間――家が炎に包まれる光景だった。あの時は怒りと焦りから衝動的に火をつけたが、今思うと背筋が凍る。もし律真が本当に死ねば、自分は人殺しだ。もし生きていたとしても――その先を考えるのは怖くて、静乃は体をよじりながら布団をかぶり、闇に包まれたままうとうとと眠りに落ちた。夜が更ける頃、静乃は寝返りを何度も打ち、落ち着かなくなった。寝返りを何度も打つが、どうしても目は開けられなかった。夢の中で、全身を焼かれて黒焦げになった律真が、憎しみに満ちた目でこちらを見据えていた。「なぜだ、静乃……なぜ俺を殺した? なぜ俺を愛してくれない?」「なぜ殺した? なぜ愛してくれない?」「なぜ――」叫び声は次第に痛ましく、耳をつんざくほどに響いた。夢の中の静乃は耳を塞ぎ、唯一の光を求めて走り出した。だが辿り着いた先にいたのは――二十歳の律真だった。彼はにこやかに笑い、静乃の手を取った。「さっきの映画、ちょっと怖すぎたか? じゃあ午後の授業はサボって、気分転換に別のところへ行こ
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