Short
雪に散り、業火に咲く

雪に散り、業火に咲く

By:  緋色の追憶Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
21Chapters
6views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

「皇后がまた子を望んでおられる。お前は子を成しやすいゆえ、もう一人身ごもるがよい」 ただ皇后の「子が欲しい」というその一言のためだけに、聞令儀(ぶん れいぎ)は十ヶ月身籠り、再び娘を産み落とした。 へその緒が切られるやいなや、産婆は赤子の顔をひと目も見せることなく、そそくさと抱き去ってしまった。 これで、二人目だ…… 後宮の誰もが噂している。もし皇后がかつて帝と共に戦場を駆け、その身を損なって石女にならなければ、この後宮に他の女が召されることなど、決してなかっただろうと。 朝廷の重鎮たる太師(太政大臣と同等する)の嫡女(長女)、聞令儀。彼女はただ都合よく選ばれただけの、皇族の血脈を繋ぐための「器」に過ぎないのだ。

View More

Chapter 1

第1話

「皇后がまた子を望んでおられる。お前は子を成しやすいゆえ、もう一人身ごもるがよい」

ただ皇后の「子が欲しい」というその一言のためだけに、聞令儀(ぶん れいぎ)は十ヶ月身籠り、再び娘を産み落とした。

へその緒が切られるやいなや、産婆は赤子の顔をひと目も見せることなく、そそくさと抱き去ってしまった。

これで、二人目だ……

後宮の誰もが噂している。もし皇后がかつて帝と共に戦場を駆け、その身を損なって石女にならなければ、この後宮に他の女が召されることなど、決してなかっただろうと。

朝廷の重鎮たる太師(太政大臣と同等する)の嫡女(長女)、聞令儀。彼女はただ都合よく選ばれただけの、皇族の血脈を繋ぐための「器」に過ぎないのだ。

三年前、聞令儀は第一皇子を産んだ時も、我が子の顔を見ることは叶わなかった。皇帝である蕭承璽(しょう しょうじ)は自ら赤子を抱き上げ、冷酷に言い放った。

「この子は今日から皇后の嫡子となる。余計な気を起こすな」

あの頃の彼女には、まだ泣き縋る気力が残っていた。寝台から這い出し、後を追おうともがいたが、侍女たちに力ずくで押さえつけられた。

やがて彼女は後宮の掟を学んだ。毎朝、皇后の宮へご機嫌伺いに赴くのは、ただ衝立越しに聞こえてくる我が子の喃語を聞くためだけだった。

帝も初めは黙認していたが、後に皇后が「皇子には静養が必要だ」と口にしてからは、我が子に会うことすら二度と許されなくなった。

そして今、二人目の子供も奪われた。

血と汗にまみれた産褥に横たわる彼女は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、もはや涙すら流せなかった。

産後間もないうちに、皇后に仕える筆頭女官が、朝の挨拶に来るよう呼び出しの伝言を持ってきた。

令儀は癒えきらぬ身体を引きずり、皇后の住まう鳳儀宮(ほうぎきゅう)へと向かった。

皇后、慕容姝(ぼよう しゅ)は、生まれたばかりの姫君を抱いてあやしていた。令儀の青白くやつれた顔を見るなり、口角を微かに吊り上げた。

「令儀が来たのね。随分と酷い顔をして、まさか私に何か不満でもあるのかしら?」

「滅相もございません。私めにそのような不遜な心はございません」

「なら、いいのよ」

皇后は赤子を乳母に預け、ゆったりと袖口を整えた。

「後宮に入ったからには、己の身の程を弁えなさい。帝がお前を娶ったのは、文官を束ねる太師の力で朝廷を安定させるため。お前自身はと言えば――」

皇后は言葉を切り、さらに笑みを深めた。

「ただの産むための道具よ。私の代わりに皇子や姫を産むこと、それがお前の唯一の価値なの」

殿外では雪が舞い始めていた。

皇后はふっと笑みを消した。

「先ほど入ってきた時、お前は微かに眉を顰めていたわね。私への不敬にあたるわ。中庭に跪いて、頭を冷やしてきなさい」

石畳の上に、しんしんと雪が積もっていく。

令儀は雪の中に無理やり跪かされた。視線の先では、殿内で皇后が、生まれて間もない我が娘を抱き、優しく子守歌を歌っている。その手慣れた様子は、まるで本当の母親のようだった。

膝の痛みは刺すような痛みから麻痺へと変わり、やがて完全に感覚を失った。

令儀の目の前が真っ暗になりかけた時、侍従の甲高い声が響いた。

「主上のお成り――」

皇帝の証である鮮やかな黄色の衣が彼女の脇をかすめ、真っ直ぐに殿内へ入っていく。

「なぜ彼女を雪の中に跪かせている?」

承璽の声だ。皇后は甘えるような声を出した。

「わたくしはただ、ほんの少し礼儀を教えていただけにございます。それなのに、令儀はすぐにあのように今にも倒れそうな顔をして……陛下もご存じの通り、わたくしは武門の出。気性が真っ直ぐなだけで、陰険な企みなど持ち合わせておりませんわ」

令儀が意識を失う寸前に聞いたのは、承璽の淡々とした一言だった。

「……まあよい、部屋へ運んでやれ」

次に目を覚ました時には、すでに夕暮れだった。

承璽が寝台の傍らに腰掛けていた。令儀が目を開けたのを見ると、彼は眉間の皺を和らげた。

「気がついたか? 侍医によれば、産後の肥立ちが悪い上に寒気に当てられたとのことだ。皇后も悪気があってのことではない、気にするな」

令儀は静かに彼を見つめた。

この男はかつて、深窓の令嬢であった彼女が夢にまで見た、戦場を駆ける英雄だった。彼のために詩を詠み、姿を絵に描いたこともあった。

その男が今、目の前で帝の御衣を纏い、最も残酷な言葉を口にしている。

「弁えております」

彼女の声は凪いだ水面のように静かだった。

「皇后様は陛下の正室。わたくしが敬うべきお方であり、いささかの怨みも抱いてはおりません」

言葉の端々が、あまりにも平穏で従順だった。承璽は思わず言葉を失った。

彼の記憶にある令儀は、このような女ではなかった。

以前なら、涙を浮かべて我が子に会わせてほしいと縋り、拒絶されれば唇を噛みしめて黙り込んだ。その瞳の光が少しずつ消え失せていくのを彼は見てきた。しかし今の彼女の目には、何も映っていない。まるで枯れ果てた死水のようだった。

「子供のことだが……」

彼は何かを取り繕うように口を開いた。

「皇后の籍に入れば、嫡子となる。将来は……」

「……あの子にとって、この上ない幸せにございます」

令儀は言葉を引き継ぎ、うっすらと微笑みさえ浮かべた。その微笑みは完璧でありながら、どこまでも冷徹だった。

「身分の卑しいわたくしの子を、皇后様にお育ていただけるなど、陛下と皇后様からの過分なる御恩に他なりません」

御恩。蕭承璽は喉が詰まるような感覚を覚えた。

殿外から侍従の声が響く。

「陛下、皇后様が自ら滋養の薬湯を煎じ、雪の寒さを凌ぐためにお待ちでございます。幼い姫君も陛下を心待ちにしておられます」

承璽は立ち上がり、寝台の令儀を一瞥した。令儀はすでに目を閉じており、再び眠りについたかのようだった。

彼は扉のところまで歩いていき、再び振り返った。

「令儀よ、皇后は子を持てぬ身。朕(ちん)は彼女に対して、どうしても生涯の負い目があるのだ。お前は物分かりが良いのだから、どうか察してやってくれ。

今はただ、身体を休めよ」

彼はなぜか湧き上がる苛立ちを覚えた。

「もし次に身ごもることがあれば……その時は、お前の手元で育てさせる」

令儀は答えなかった。ただ静かに天蓋を見つめながら、遠ざかる足音に耳を傾けていた。

しばらくして、彼女は傍らに控えていた侍女の青黛(せいたい)に、ぽつりと尋ねた。

「陛下がご即位されてから、もう三年になるわね?」

「はい、お妃様」

「天下は、泰平になったのかしら?」

「はい。北の国境は安定し、南方の水害も収まりました。朝廷では太師様が文官たちを率い、武官の一派と多少のいさかいはあるものの、大枠では極めて安泰にございます」

令儀の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。その笑みは、冬の終わりに落ちる最後の一枚の枯れ葉のように、酷く物悲しかった。

「なら、よかった……」

彼女は呟いた。

「これでようやく、死ぬことができるわ」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
21 Chapters
第1話
「皇后がまた子を望んでおられる。お前は子を成しやすいゆえ、もう一人身ごもるがよい」ただ皇后の「子が欲しい」というその一言のためだけに、聞令儀(ぶん れいぎ)は十ヶ月身籠り、再び娘を産み落とした。へその緒が切られるやいなや、産婆は赤子の顔をひと目も見せることなく、そそくさと抱き去ってしまった。これで、二人目だ……後宮の誰もが噂している。もし皇后がかつて帝と共に戦場を駆け、その身を損なって石女にならなければ、この後宮に他の女が召されることなど、決してなかっただろうと。朝廷の重鎮たる太師(太政大臣と同等する)の嫡女(長女)、聞令儀。彼女はただ都合よく選ばれただけの、皇族の血脈を繋ぐための「器」に過ぎないのだ。三年前、聞令儀は第一皇子を産んだ時も、我が子の顔を見ることは叶わなかった。皇帝である蕭承璽(しょう しょうじ)は自ら赤子を抱き上げ、冷酷に言い放った。「この子は今日から皇后の嫡子となる。余計な気を起こすな」あの頃の彼女には、まだ泣き縋る気力が残っていた。寝台から這い出し、後を追おうともがいたが、侍女たちに力ずくで押さえつけられた。やがて彼女は後宮の掟を学んだ。毎朝、皇后の宮へご機嫌伺いに赴くのは、ただ衝立越しに聞こえてくる我が子の喃語を聞くためだけだった。帝も初めは黙認していたが、後に皇后が「皇子には静養が必要だ」と口にしてからは、我が子に会うことすら二度と許されなくなった。そして今、二人目の子供も奪われた。血と汗にまみれた産褥に横たわる彼女は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、もはや涙すら流せなかった。産後間もないうちに、皇后に仕える筆頭女官が、朝の挨拶に来るよう呼び出しの伝言を持ってきた。令儀は癒えきらぬ身体を引きずり、皇后の住まう鳳儀宮(ほうぎきゅう)へと向かった。皇后、慕容姝(ぼよう しゅ)は、生まれたばかりの姫君を抱いてあやしていた。令儀の青白くやつれた顔を見るなり、口角を微かに吊り上げた。「令儀が来たのね。随分と酷い顔をして、まさか私に何か不満でもあるのかしら?」「滅相もございません。私めにそのような不遜な心はございません」「なら、いいのよ」皇后は赤子を乳母に預け、ゆったりと袖口を整えた。「後宮に入ったからには、己の身の程を弁えなさい。帝がお前を娶ったのは、文官を束ねる太師の力
Read more
第2話
三年前、長男が奪い去られた夜、令儀は自ら死を望んだ。彼女は太師のひとり娘であり、幼い頃から詩書を読み耽り、その才名は都に知れ渡っていた。もし新帝が即位したばかりで朝廷が不安定でなければ、父が「文官は君主と一蓮托生であるべきだ」と彼女を後宮に送り込むこともなく、才能ある文人と結ばれ、詩や酒を嗜む清らかな人生を送るはずだった。後宮に入るのは本意ではなかった。しかし当時、新帝は武力で天下を平定したばかりで、朝廷の基盤は脆く、天下はまだ安定していなかった。父は文官の筆頭であり、この婚姻は君臣同盟の象徴であったため、彼女は聖旨(詔勅)を受け入れたのだ。だが心の奥底には、自分でも深追いしたくない、密かな期待があったのも事実だ。なぜなら、彼女は確かに承璽を慕っていたからだ。北の国境から凱旋した皇帝。反乱を鎮圧した英雄。朝議の場で百官の拝礼を堂々と受けるその姿を。彼女は淡い期待を抱いて後宮に入った。せめて少しの真心を向けてもらえると信じて。しかし、身ごもって四ヶ月が経った頃、御花園の築山の陰で、承璽が皇后に語るのを聞いてしまった。「姝よ、案ずるな。朕の心にはお前しかおらぬ。聞氏の娘は皇室の血を繋ぐためだけのものだ。子が産まれれば、お前の膝元で育てさせよう」その言葉が刃のように彼女の幻想を切り裂いた。その夜、令儀は寝殿で夜明けまで座り尽くしたが、一滴の涙も流さなかった。彼女が嫁いだのは英雄と結ばれるためではなく、ただの駒として、器となるためだったのだ。死を考えたが、当時はまだ天下が定まったばかりで、朝廷は不安定だった。もし自刃すれば、妃嬪の自刃は大罪となり、父を連座させてしまう。仮死を装って逃げれば、父が天下のために必死に築いた君臣の和を裏切ることになる。彼女は深宮で耐え忍ぶしかなかった。毎日の唯一の救いは、皇后の宮へ朝の挨拶に赴いた際、衝立越しに我が子の喃語を聞くことだった。たとえぼんやりとした影しか見えなくても、それで一日を乗り切ることができた。今、三年が過ぎた。娘も産み、二人の子供はどちらも皇后の嫡子となった。天下は泰平となり、朝廷も安定した。彼女という政治の駒は、皇室に血脈を残すという役目を十二分に果たした。ようやく、解放される。令儀は寝台に横たわり、日数を指折り数えた。七日後には
Read more
第3話
その夜、承璽がやって来たのは、すでに子(ね)の刻(真夜中)近かった。令儀は床に就こうとしていたが、知らせを聞いて上着を羽織り、起き上がった。青黛が髪を結い上げようとしたが、彼女は手で制した。「そのままでよいわ」冷気をまとって入ってきた承璽は、彼女が薄絹の寝着一枚で髪を解き放っているのを見て、足を止めた。「陛下」令儀は礼をした。「面を上げよ」彼は卓のそばに座り、自分で茶を注いだ。「皇后が姫に名をつけた。『安寧(あんねい)』とな。お前も生母なのだから、意見を聞いておこうと思ってな」令儀は目を伏せたまま答えた。「皇后様は姫君の母親でいらっしゃいます。皇后様が付けられた名なら、間違いなく良い名に違いありません」承璽の茶杯を握る手に力が入った。殿内で炭火がパチリと音を立てた。「そう思ってくれるなら、それでよい」彼は茶杯を置いた。「今日来たのは、もう一つ用があるからだ。昱が三歳になり、学問を始める時期になった。皇后が自ら教師を選ぶことになった」令儀は静かに聞いていた。承璽は言葉を切った。「朕の考えだが……今後は、昱に会うのを控えた方がよかろう。子供はまだ幼い。生母が別にいると知れば、いらぬ騒ぎが起こりかねん。母親は皇后一人だけだと思わせるのが、誰にとっても一番良いのだ」彼女は顔を上げ、彼をじっと見つめた。蝋燭の光に照らされた彼女の瞳は、晩秋のように静かで、波一つ立っていなかった。「仰せのままに」承璽は不意に苛立ちを覚えた。泣き叫び、騒ぎ立て、昔のように涙を浮かべて「なぜですか」と問い詰めて欲しかった。今のように、魂のない人形のように恭順に従うのではなく。「恨みに思っておるのか?」彼の声が冷ややかになった。「滅相もございません」承璽は胸の奥が詰まるのを感じた。この逆らうこともなく、暖簾に腕押しのような態度は、かつての涙ながらの懇願よりも彼を息苦しくさせた。「令儀、その態度は朕への当てつけか? もし不満があるのなら、どうして皇室のために安心して子を成すことができるというのだ!」令儀の口元が、ほんのわずかに歪んだ。嘲笑うようでもあり、ただ単に感情が麻痺しているようにも見えた。「陛下が後継ぎをご案じでしたら、後宮に広く賢淑な女子をお召しになればよろしいかと存じます
Read more
第4話
翌朝、まだ夜も明けきらぬうちに、鳳儀宮の筆頭女官がやって来た。昨夜、陛下が女御の宮から立ち去った際、顔色が悪かった。きっと女御の仕え方が至らず、陛下を怒らせたに違いない。ゆえに、皇后が女御に作法を教えるというのだ。宮殿の小道には薄雪が積もり、早朝の寒風は刃のように冷たかった。令儀が鳳儀宮の前庭に着くと、皇后は狐の毛皮を羽織り、手焙りを抱きかかえ、回廊の下に座っていた。「令儀、己の罪がわかっているかしら?」姝がゆったりと口を開いた。そこには皇后だけでなく、朝の挨拶に来た数人の妃嬪(後宮に仕えた皇帝の側室)たちや、通りかかる宮女たちもいた。「お前が昨日、陛下に口答えをして怒らせたというのは、本当のこと?」皇后は椅子に座ったまま、指先の爪飾りを弄りながら言った。令儀は跪いて礼をした。「わたくしめは愚鈍ゆえ、どうか皇后様からご教示を賜りたく存じます」「愚鈍ですって? 私には、お前の腹の中は真っ黒にしか見えないわ!」姝の声が突然鋭くなった。「昨日、陛下がわざわざお前の様子を見に下ったというのに、恩を感じるどころか、陛下を怒らせて帰すとは!これがお前たち聞家が教えた作法なの?『都一番の才女』とやらの教養なの?」令儀は頭を垂れたまま、袖の中で手を微かに握りしめた。「不服そうね」姝は冷笑した。「まあいいわ。作法が身についていないのなら、今日私が直々に教えてあげる。そこの宮道に跪き、『女誡(女性の徳)』と『内訓(後宮の掟)』を百回暗唱しなさい。すべて唱え終えるまで、決して立ってはならないわ。陛下を敬わず、皇后を尊ばぬ者がどうなるか、後宮の皆に見せしめとするのよ!」季節は真冬。朝の風は骨を刺すように冷たい。広々とした前庭で、行き交う宮女たちは直視することは避けたが、氷のように冷たい石畳の上に跪く令儀の姿は誰もが目にしていた。令儀は背筋を伸ばし、暗唱を始めた。声ははっきりと平坦で、一語一語が寒風の中に響き渡った。「卑弱第一」から始まり、「専心第五」へ、さらに「内訓」の「徳性章」へ……彼女の膝は刺すような痛みからやがて感覚がなくなり、唇は凍えて紫に変わったが、背筋だけは決して曲げなかった。二時間が過ぎ、四時間が過ぎた……姝は最初は面白そうに聞いていたが、彼女が本当に暗唱し続けるのを見て、次第に顔
Read more
第5話
「ここで何の騒ぎだ?!」怒気を孕んだ低い声が響いた。いつの間にか、承璽が宮の門に立っていた。早朝の朝議を終えたばかりのようで、まだ朝服のままだった。彼の視線は、冷たい石畳の上に跪き、頬を赤く腫らした令儀を一瞥し、次いで怒りに満ちた姝へと移り、眉をひそめた。姝は瞬時に顔つきを変え、目を赤くして彼に駆け寄り、縋るように訴えた。「陛下、ご覧ください、令儀を!わたくしはほんの少しお説教をしただけなのに、彼女は聞太師の名を出してわたくしを威圧し、口答えばかりして、全く反省の素振りすら見せません!わたくしは腹に据えかねて、つい……」承璽は令儀の顔の傷を見た。その青白い肌に浮かぶ赤い腫れは痛々しかった。彼の心臓が大きく波打ち、微かな痛みが走った。しかし、姝の涙ぐんだ目を見た時、彼女が自分のために子供を産めない体になったことへの痛みが、その小さな心の痛みを押し殺してしまった。大勢の前で皇后を叱責し、その威厳を損なうわけにはいかない。そう判断した彼は、令儀に目を向け、冷酷な声で言い放った。「令儀よ、己の非を認めるか?皇后は後宮を束ねる者。妃嬪を教え導くのは当然の務めだ。それにもかかわらず、口答えし、目上に逆らい、皇后を怒らせた罪、どう償うつもりだ?」令儀はゆっくりと目を上げ、彼を見据えた。その瞳は、地面の氷よりも冷たく、吹き荒れる寒風よりも鋭く、承璽の心の奥底を射抜いた。怨みも、哀願もなかった。ただ、すべてを諦めきったような荒涼とした光があるだけだった。令儀はゆっくりと身をかがめ、冷たい石畳に額をこすりつけた。その声は恐ろしいほどに穏やかだった。「わたくしめの……罪にございます。陛下と皇后様の……如何なるご処分も甘んじてお受けいたします」その「ご処分」という言葉は、軽く放たれたものだったが、承璽の心には重い鉄槌のように打ち付けられた。ふと、昨夜彼女が口にした言葉が脳裏をよぎった。「陛下は後宮に広く女子をお召しになればよろしいかと存じます」胸の奥底で、名状しがたい怒りの火が再び燃え上がった。彼は目を閉じ、再び開いた時には、皇帝としての冷徹な表情に戻っていた。「令儀の言動は甚だ不心得であり、皇后を侮辱した。本日より長信宮(ちょうしんきゅう)へ移り、謹慎して反省せよ。朕の許しがあるまで一歩も外に出てはな
Read more
第6話
出発の前、承璽は長信宮へ足を運んだ。令儀は中庭で日向ぼっこをしていたが、彼が来たのを見て立ち上がり、礼をした。「朕は数日、西山へ赴く。お前は……しっかり養生せよ」彼は令儀のまだ赤く腫れた頬を見て、何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。「陛下を、お見送りいたします」承璽はしばらく立ち尽くしていたが、袖から小さな磁器の瓶を取り出した。「これは傷薬だ。塗っておくといい」令儀はそれを受け取ったが、彼の目を見ることはなかった。「感謝いたします」承璽は去った。令儀は磁器の瓶を握りしめ、儀仗の足音が遠ざかり聞こえなくなるまで待ってから、手を離した。瓶は地面に落ちて砕け散り、薬膏が散乱した。「お妃様!」青黛が悲鳴を上げた。「掃いておいて」令儀は背を向け、部屋へと戻った。三日後、後宮で噂が流れ始めた。令儀には後宮に入る前、心に決めた人がいたという。それは風雅な貴公子であり、二人は詩を交わして愛を誓い合っていたのだと。もし突然の聖旨が下らなければ、美談として結ばれていたはずだった、と。またある者は、令儀が一枚の似顔絵に向かって涙を流しているのを見たという。そこに描かれていたのは美しい若者であり、陛下ではなかった、と。噂は野火のように、一夜にして後宮中に燃え広がった。その日の午後、皇后は後宮の風紀を正し、噂を明らかにするという名目で、令儀を長信宮から鳳儀宮へと連行させた。「後宮の風紀を乱すとは、令儀、随分といい度胸ね」皇后は声を荒らげることはなかったが、その言葉の端々には毒が込められていた。「陛下が宮を離れてたった一日で、このような薄汚い噂が飛び交うなんて。お前が寂しさに耐えられなかったのか、それともお前たち聞家の家風が元から乱れているのかしら?」令儀は冷たい床に跪き、背筋を真っ直ぐに伸ばした。「噂は根も葉もないものにございます。皇后様には明察を伏してお願いいたします」「根も葉もないですって?」姝は身を乗り出し、指先が令儀の鼻先に触れんばかりになった。「火のない所に煙は立たないわ!お前のあの普段の気高い振る舞いは、すべて陛下に見せるための演技で、心の中には別の男が住んでいたというわけね?陛下がお戻りになられたら、必ずご報告し、聞家の娘の素行を徹底的に調べ上げてやるわ……」
Read more
第7話
西山の行営から都までは、途方もない距離があった。承璽は御輦(天子の輿)を捨て、数十人の親衛隊だけを連れて、夜通し馬を猛烈に走らせた。宮門に到着した時、空はまだ白みかけたばかりだったが、長信宮の方角からは未だ黒煙が立ち上り、焦げた匂いが空気に充満していた。彼は長信宮へと直行した。火はすでに消し止められていたが、離れは真っ黒な骨組みだけを残し、いくつかの柱からはまだ細い白煙が立ち上っていた。宮女や宦官たちが地面にひれ伏し、ガタガタと震えている。「令儀はどこだ?」承璽の嗄れた声が響き、その視線が廃墟を舐めるように見渡した。宦官の長が震えながら進み出た。「陛下……火の勢いが凄まじく、発見した時には、離れはすでに……」「朕は令儀はどこだと聞いているのだ!」承璽は最前列に跪いていた宦官を蹴り飛ばした。「お前たちは逃げ出せたというのに、なぜ令儀は逃げ出せなかったのだ?!」蹴り飛ばされた宦官は血を吐き、地面に伏したまま声を出すこともできなかった。後ろで跪いていた若い宮女が、震える声で泣きながら訴えた。「陛下、お命ばかりは。昨夜、皇后様が宮を封鎖し、何人の出入りも禁じられたのです。門番の老女官が封鎖の命令書を持っていたため、私たちが助けようとしても中に入れず……」「宮を封鎖しただと?」承璽は勢いよく振り返った。「なぜ皇后が宮を封鎖した?」重い沈黙。誰も答えない。廃墟を吹き抜ける寒風の音だけが、すすり泣きのように響いた。「言え!」「皇后様は、一昨日……令儀様に杖刑をお命じになり……」年老いた宦官が震える声で言った。「令儀様が後宮の風紀を乱したゆえ、厳重に見張るようにと……」承璽の目の前が真っ暗になり、危うく足元がふらついた。杖刑?封鎖?「陛下――」遠くから足音が聞こえ、姝が足早に駆けつけてきた。髪の乱れから、彼女も急報を聞いて駆けつけたのは明らかだった。彼女は承璽の青ざめた顔色を見て胸を締め付けられたが、表面上は気丈に振る舞った。「陛下、どうして夜通しお戻りになられたのですか? わたくしもちょうど報告の者を遣わそうとしていたところです。この長信宮の失火は……」「お前が封鎖したのか?」承璽は彼女の言葉を遮った。その声は氷のように冷たかった。姝は言葉に詰まった。
Read more
第8話
「たとえ無情に捨てられようとも、決して恥じはしない……」令儀がこの言葉を書いた時、一体どんな思いだったのだろうか? 無情に捨てられることをとうの昔に予見しながらも、それでも哀れなほどちっぽけな「恥じはしない」という執念を抱いていたのだろうか?あの夜、自分が「朕と皇后には誓約がある」と言い放った時、彼女はその言葉を聞き、この絵を見つめながら、どれほど心を痛めたことだろう?「陛下……」姝は顔を紙のように真っ白にし、彼に歩み寄って袖を引こうとした。「わたくしは、この絵に描かれているのが……」「知らなかっただと?」承璽は荒々しく彼女の手を振り払い、血走った目で彼女を睨みつけた。「姝、この絵を見ろ!この文字を見ろ!これのどこが後宮の風紀を乱しているというのだ? これは朕だ!」彼は絵を彼女の目の前に叩きつけた。「答えろ!彼女が朕の絵を隠し持ち、昼夜を問わず眺めていたことが何の罪になるというのだ!」姝はよろめきながら後ずさりし、唇を震わせた。「わたくしはただ、宮女たちの噂を聞いて……」「噂だと?」承璽は笑った。その笑い声は泣き声よりも酷く聞こえた。「ただの噂だけで、お前は彼女に杖刑を下したのか?宮を封鎖したのか?彼女を一人離れに寝かせ、火の手が上がっても逃げ出せないようにしたのか!」彼は廃墟を指差し、嗄れた声で叫んだ。「姝、あれは二つの命だぞ!彼女は安寧を産んでまだ二ヶ月にも満たないのだ!お前はそこまで彼女が憎かったのか?彼女を死に追いやるほどに!」「わたくしは火など放っておりません!」姝は金切り声を上げた。「事故です!思いがけない出火だったのです!」「思いがけないだと?」承璽は地面にひれ伏す宮女たちを指差した。「宮を封鎖したのはお前の命令だ!杖刑を下したのもお前だ!お前が封鎖さえしなければ、彼女が逃げ遅れることはなかった!姝、よく聞け。彼女はお前の手によって殺されたのだ!」姝は彼の眼差しに宿る凄絶な怒りに怯えながらも、なお首を頑なに立てて言い返した。「陛下は死んだ女のために、わたくしを咎めるおつもりですか?わたくしと陛下は若い頃から夫婦として生死を共にしてきたというのに、陛下は今、ただの子作りの道具のために、わたくしにそのように仕打ちをなさるのですか?」「子作りの道具……」
Read more
第9話
承璽はその絵を乾清宮(けんせいきゅう)へと持ち帰った。彼は殿内に灯りを増やさせ、寝殿の最も目立つ場所にその絵を掛けた。絵の中の若き将軍は馬上で振り返り、眼差しは鋭く、意気揚々としていた、それは三年前の彼であり、令儀の目に映っていた彼だった。今の彼は龍袍(皇帝の御衣)を纏い、この冷たい玉座に座っているが、もう二度とあの絵のような飛揚する輝きを取り戻すことはできない。彼は人払いをし、一人灯りの下でその絵を見つめた。見つめているうちに、視界がぼやけてきた。多くのことを思い出した。彼女が入内したばかりの頃、御花園で梅の枝を折って瓶に生けていたこと、彼に小さな声で優しく話しかけていたこと、宮中での宴の席でこっそり彼を見つめ、見つかると慌てて目を逸らしていたこと。彼女が初めて身ごもった時、お腹をそっと撫でながら、目に細かな光を宿して「陛下は皇子と姫君、どちらをご希望ですか?」と尋ねてきたこと。あの時、自分はどう答えたのだったか?「皇后は皇子を好むゆえ、皇子であれば良いのだが」と言ったのだ。彼女の目の光は少し翳ったが、それでも笑って「わたくしも皇子であることを願っております。陛下のお憂いを一つでも減らすことができますように」と言った。後に子供が生まれ、自分が自ら産室に入って赤子を抱き上げた時、彼女は泣いて彼にすがり、衣の裾を掴んで「どうして」と問い詰めた。自分は「この子は今日から皇后の嫡子となる。余計な気を起こすな」と言い放った。彼女は手を離し、その目の光は完全に消え失せた。それ以来、彼女は二度と自分に皇子と姫のどちらが好きか尋ねることはなく、御花園で梅を折ることもなく、宴の席で彼を盗み見ることもなくなった。彼女は後宮の掟を学び、恭順を学び、最も平穏な声で最も人を傷つける言葉を口にするようになった。「弁えております」「滅相もございません」「陛下の過分なるご恩に感謝いたします」。当時の自分は、ただ彼女が「物分かりが良くて手がかからない」としか思っていなかった。今になって思えば、あれが物分かりの良さなわけがない。心が死んでいただけなのだ。彼女を長信宮へ移らせたのも、本来は皇后から遠ざけ、いさかいから遠ざけるためだった。思っていたのだ。西山の閲兵から戻ったら、彼女とゆっくり話し合い、あの白玉の腕輪を贈り
Read more
第10話
都の郊外、聞家の別邸。夜も深く静まり返っていたが、書斎にはまだ灯りがともっていた。聞仲卿(ぶん ちゅうけい)は重厚な椅子に座り、目の前に立つ娘を見つめていた。普段は鋭利な彼の目に、今は痛恨と怒りの色が渦巻いていた。令儀は素っ気ない白い衣を着ていた。顔の赤みや腫れはすでに引いていたが、相変わらず青白く、その身体は一陣の風で吹き飛ばされそうなほど薄かった。背中の杖刑の傷はすでに薬を塗り包帯が巻かれていたが、身動きするたびに不自然にこわばっているのがわかった。「お父様」彼女は小さな声で呼んだ。仲卿は立ち上がり、彼女の前に歩み寄って顔に触れようとしたが、手は止まった。朝廷で権勢を振るい、天下を動かしてきたこの手が、今は震えており、娘に触れることさえ恐れていた。「父の過ちだ」彼の声は嗄れていた。「お前を入内させれば守れると思った。陛下も私の顔を立てて、せめてお前を大事にしてくださると思ったのだ」彼は目を閉じた。「私の考えが甘かった」「お父様のせいではありません」令儀は平静に言った。「当時、朝廷は不安定で、文官と武官が対立していました。お父様が私を入内させたのは、大局のため、天下のためです。わかっております」「わかっているだと?」仲卿は苦笑した。「お前はわかっていながら、三年間も無念を耐え忍んでいたのか。私は江南を巡察中、都から届く知らせを聞き、お前が後宮で平穏に過ごしているとばかり思っていた。お前が雪の中で跪かされ辱めを受け、子供を奪われ、平手打ちされ杖で打たれていたとは露知らず……これは父の落ち度だ、父の無能だ!」彼は最後には言葉を詰まらせ、むせび泣くような声になった。朝廷で権勢を振るい、皇帝でさえ一目置く太師が、今や娘の前では、ただ心を痛め自責の念に駆られる一人の父親でしかなかった。令儀は赤くなった彼の目頭を見て鼻の奥がツンとしたが、必死に涙をこらえた。彼女はもう十分に泣いたのだ。あの夜、長信宮で布団の角を噛みしめながら、承璽に対する最後の未練の残骸をすべて泣き尽くした。今さら、涙など無用だ。「お父様、すべては過ぎたことです」彼女は静かに言った。「私は今、お父様に一つだけお伺いいたします。まだ私を助けてくださるお気持ちはありますか?」仲卿は感情を抑え込み
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status