「そ、そうなんだ。産業医の先生だったんだ」 私はたしかにこの顔を見たことがある。 「おれはただの付き添い、勉強だけどな。おまえの会社でインフルエンザや、怪我、病気、なんかあったら診るのは、うちの父親と、うちの病院だ」 「……そうなんですね。だから私のこと、知ってたんですね。メガネしてるからわからなかった。……あれ? でも会ったの最近じゃないですか? ここ二ヶ月ぐらい前な気がする。そんな何回も会った記憶ないですし……」 私は記憶を辿るが、どう考えても、《《いつも》》と言われるほど、龍太郎と会った覚えがない。 「おれね、よくこの辺り、走ってんの。兄貴のクリニックがこの近くにあって、そこでバイトもしてんの」 あ、お兄さんも医者なんだ。すごい。パンピーとは一線を画する華麗なる一族か。 「けっこう、おまえとすれ違ってるよ。少なくとも、おれは覚えてるんだけどな」 龍太郎が口元に曲線を描いた。信じられないぐらいの美形だ。それに妙な色気がある。 「え……?」 そんなこと言われると戸惑ってしまう。なんで? 覚えてるの? 心臓がドキドキと音を立て始めた。 「おまえのパステルピンクの車、あんまりいないから目立つんだよ。いかにも女の子ですって、色の車な」 ……なんだ、なるほどね。絢斗が女の子らしいって、これがいいって! って言ってきたから半分妥協して買ったやつだ。 ……自分を持ってない女の黒歴史。 「私だって、好きであんな色に乗ってるんじゃないんです。買い替えたいけど、まだローンが残ってて……」 その言葉に龍太郎は、不機嫌そうに口を開いた。 「車ぐらい自分の乗りたい車に乗れよ。どうせあれだろ? 彼氏がこれ可愛いとか言ったんだろ」 「……そうですけど。どうせ、もう別れましたし、今度、車を買う時は自分の好きな色の車に乗ります」 いつの間にか涙は止まっていた。車に関しては、自分に似合わない色であることは、百も承知だ。 「……おまえ、彼氏と別れたんだ。てかやっぱ、彼氏いたんだな……」 龍太郎の目に関心の色が宿ったのを、私は見逃さなかった。 夜風が冷たい。四月に降った季節はずれの雪。今はもう溶けて消えちゃったけど、今日は朝から色々あったなぁって考えてたら、あくびが出てきた。 疲れた……。非常に疲れた。
「み、見てたって……、な、なにを?」 私が龍太郎に会うのは、今日が初めてのはず。 いや、間違いなく会ったことなどない。 「おまえを見てた」 「いや、そういうことじゃなくて、仕事も知ってるの?」 「知ってる。おれ、おまえの後をつけたことがある」 ……うわぁぁあ!! 怖っ!! ス、ス、ストーカー? 「あ、あの、け、けけけ、剣堂様はなんで、そのようなことをい、いたしたのですか?」 混乱して、もう日本語がぐちゃぐちゃだ。 「おまえのこと、気になったから。それより剣堂様ってなんだ?」 龍太郎が首をかしげる。 ……こいつ、なんでもないことのように平然と。き、気になったってなに? 後をつけられて、気になってるのは私のほうなんですけど……!! 「おまえの仕事場、あのグリコロ製菓だろ? 山の中にある……」 うぉぉ、こいつ、ガチで知ってる。私のこと!! 「あはは、私、最後にデザート食べようかなぁ……」 私は彼の質問には答えず、現実逃避しようとタッチパネルを手元に引き寄せ、画面に触れる。 こいつとは、これきりだ。二度と関わってはいけない、そういうやばいレベルの男だ。 『デザートを食べ、何事もなく穏便に済まし、無事に帰宅する』 これが今日、最大のミッションだ。疲れ果てた身体に、こんなに色々なことが起こるとは、今日は厄日か? スマホを間違えたために、入れ違いになったために起きたことだ—— ……ぜんぶ、自分が悪い。 いつもなにかしら抜けている自分のせいだ。 「……悪かったな。車で後をつけたりして」 なぜか謝ってきた龍太郎。 「く、く、車で、へ、へぇ……」 あの高級車と、私の軽自動車では最初から勝ち負けは決まっている。逃げることもできないだろう。 「おまえがあまりにも暗い顔して、車に乗ってたから……。いつ見かけても、いつも、つまらなそうだったから、つい気になって……」 …………なにそれ……? 暗い顔? つまらなそうな顔? つい気になって? なに? いったい……、いったいこいつに、なにがわかるの……? 私がこれまでどれだけ一生懸命に働いて生きてきたか、なにがわかるわけ? 女が一人で生きていくのがどれだけ大変か、わからないよね……? 私はタッチパネルに触れる
「お、おまえ、ふざけんなよ~!!」 龍太郎の口調が荒い。 私の案内通りに車を走らせて、とあるお店に着いたのだけど、やっぱりそういう反応になるよね。 「ここなんだよ⁉︎ 回転寿司じゃねぇか! おまえ、せっかくおれがいい店に連れて行ってやろうと思ったのに! チッ!」 龍太郎は舌打ちしたけど、これ以上、お姫様になったら、もう現実世界に戻れなくなっちゃうよ……。 もう、十分だよ……。 「いいじゃないですか。安くて美味い、庶民の味方。剣堂さんもたまには、こういうお店で楽しく食事を楽しみましょうよ」 私は龍太郎をなだめる。 「まったくおまえは《《いつも》》欲がねぇな。もっと、ひとに甘えて生きればいいのに」 龍太郎の言葉に私は戸惑った。 ……え? いつも? 「来たからには、たらふく食うからな。おれは腹が減ってんだ。おまえの奢《おご》りな!!」 龍太郎は私に背中を向けて、お店の方に歩き出したけど、龍太郎の言葉に引っ掛かりを覚えていた。 ——どこかで会ったことあるの? …………まっさか~、こんな目立つヤツと会ってたら、いくら私でも気づくって。 「二名様、ご案内~」 音吐朗々《おんとろうろう》とした店員の声が店内に響き渡った。 龍太郎の後ろをちょこちょこ歩く私は、客と店員の視線を感じずにはいられなかった。 ——みんなが龍太郎を見ている気がする。やっぱり目立つからかなぁ? 龍太郎が歩いて連れてくる、風に乗った香りがふんわりと、私の鼻をくすぐる。 車に乗っている時から気づいていたけど、龍太郎はなんというか、すごくいい匂いがする。 森林みたいな……それでいてとても上品な香りだ。 うまく例えられないけど、大自然に包まれているような安心する香りだ。 龍太郎の後ろ歩くと、その香りに包まれる。 「ふぅ……」 龍太郎が席に座って息を吐いた。 テーブル席に座っても、なおも視線を感じる。私がちらりと見ると女性たちが頬を赤らめて、龍太郎にうっとりとした視線を投げつけて、なにやらヒソヒソと話をしているのが目に入った。 「ずっと、運転してもらってすいません。つ、疲れましたよね?」 龍太郎の形のよい鼻を見ながら、私は口にした。一応、私は私なりに気を使っている。 「別に……」 龍太郎のそっけない返事が耳を通
「あ、あの私は鈴山雪音と言います(もう会うことはないでしょうが)よろしくお願いします(なにを)」 とりあえず、私は挨拶をしておいた。私の顔を見て、小町さんはにこりと微笑んだ。 彼女の背景にオレンジ色の薔薇の花が咲いた。 ……美しい。私はその笑顔に見惚れた。 小町さんはそれなりに年齢を重ねてはいるが、誰もが振り返るほどの美人だ。 「母さん、おれ車を回してきます」 支払いを終えた龍太郎が店から出て行った。 「あ、あの、ぜんぶ、剣堂さんに買っていただいて、ほんとに良かったんでしょうか……?」 龍太郎の母親なら、きっとなにか思ってるはずだ。 なんで龍太郎はこんな娘に、高額な買い物をしたのか? この娘は息子にとって、どんな存在なんだろうって、普通なら思うはず……。 「雪音さん、龍太郎は私に見せたいものがある時にしか、この店に来ないわ。あなたが変身する様《さま》を私に見せたかったんでしょうね。それにあの子があなたに素敵なプレゼントしたい、と思って買い物をしたんなら、それでいいと思うわ。もうあの子も大人よ。ふふ」 余裕のある大人の笑みを浮かべて、小町さんは微笑んだ。 ……へぇ、いいんだ……。雪音さん、名前呼びか、これは完全に勘違いされてるやつだな。 「それに龍太郎、最近、笑わなかったから心配してたのよ。あなたといると、とても楽しそうだった」 小町さんが顎に手をおいて考える仕草をする。 「そ、そうですか?」 ……全然、わからない。あれ、楽しそうに見えたの? 「また来てね。売り上げにも繋がるし……、なぁんてね。ふふ。私はやらなきゃならない仕事があるから、ここで失礼するわね、ごめんなさい」 小町さんはそう言って、店の奥に消えていった。ふんわりと、とろけそうな甘い花の香りだけが残った。 「あのこれ、龍太郎様からです」 瞳がぱっちりと大きく、奇麗なストレートヘアの若い女性店員が紙袋を手渡してきた。女らしいとは彼女のためにある言葉だと思った。 「え? なんですか、これ?」 私は間抜けな声を出した。 「こちらは鈴山様が髪を切っておられた時に、龍太郎様がお選びになった物です」 ……え? あいつ、なにか選んだの? 「い、いや、返しておいてください。返品で」 ……い、いらない! 「で、でも……」
「こ、こ、これが私ですか⁉︎」 私は鏡に映った自分をみて、目を丸くした。 黒のスラリとした長袖のワンピースに、細いベルトが大人っぽい。ヒールは華奢で女らしいデザインだった。 肩下まで伸ばしっぱなしだった髪は先ほど、前下がりのボブに切ってもらった。 ほんのりお化粧もしてもらい、気分はお姫様だった。 「よく、お似合いですよ」 店員さんに褒められると、照れてしまう。 …… こ、これが自分? プロがメイクするとこんなに変わるの? いつもうまく描けない眉も、奇麗なアーチを描いていた。 カサカサの唇も嘘のように潤いを帯びていた。 パールがかった肌も、涙の跡を消してくれている。 「すごい……」 私はもう、それしか言えなかった。 「もうすぐ剣堂様がお戻りだと思うんですけどね。そういえば、着ていたお召し物はいかがなされますか?」 店員さんが私が着ていたトレーナーと、ガウチョパンツを畳んで持ってくれた。 「あ、それ持って帰りま……」 「捨てます」 横から声がした。龍太郎だった。今までどこに行ってたんだろう。 「おかえりなさいませ。剣堂様」「おかえりなさい」 何人かの店員の声が重なった。 「ではこちらは処分してもよろしかったですか?」 店員が龍太郎に尋ねた。 「はい」 龍太郎がなんの迷いもなく即答した。 「ちょ、あれ、私の服ですよ。あなた……ひとの私物を勝手に……」 「ふん、あんな毛玉が付いた服、いらんだろ」 「いやいや要りますって。着やすくて、気に入ってたんですから。あの、すいませんが、袋に入れてください」 私は店員さんに頼むと、店員さんは少し微笑んだ。いやな感じではない笑い方だ。 え? なにか、おかしかった? 「おまえはおしゃれしなさすぎだ。……というか、自分に似合う服をまるで、わかっていない」 龍太郎はふぅ、とため息を吐いた。やれやれといった様子で頭を手で押さえ、かぶりを振っていた。 それから、私をジロジロ見てきた。龍太郎の視線が私にまとわりつく。 「……そのワンピース、悪くないじゃないか。でも童顔なおまえには、少しばかり大人すぎるから……」 龍太郎が店の中をウロウロし始めた。なにやらアクセサリーを探しているようだ。 「よし、これだな」 そう
「あ、あの、なんでスマホ入れ替わったんですかね?」 私は不思議に思っていた。 「おまえが派手に転んだから、おれもびっくりして落としたらしい。本当、おまえ、あれだかんな。おれだったから良かったものの、下手したら、おまえスマホで写真撮られてネットのおもちゃにされてんぞ。気をつけろよ」 「……はい。気をつけます」 確かに今の世の中、なにをされるかわかったもんじゃない。 それにしても、この車、内装もセンスいいなぁ。黒一色じゃなくて、アーモンド? みたいな色とうまく組み合わさってる。 この車の中で不倫してんのかな、ふとそんなことを考えたが、龍太郎の顔立ちを見ると、まぁこんだけいい男なら女に不自由しないだろうな、と思った。 それに不倫してようがしてまいが、私には関係ない。 ……にしても、運転も上手いなぁ……。うちの会社の送迎のおじさんなんて、もう荒いのなんのって。酔うわ、酔うわ。 まぁそれも嫌で、送迎車利用してないんだけどね……。 ……って、んん⁉︎ やばい! 車のバッテリーがあがったまんまなの、すっかり忘れてた! 「あの、用事ってあと何分ぐらいで終わりますか?」 私は車をどうにかしないと、明日も仕事だ。 「……なんだよ。もうすぐ着くよ。忙《せわ》しいやつだなぁ」 龍太郎の苛立つ声が聞こえたけど、周りをふと周りを見ると、まだ桜の上に雪が積もっている。朝はゆっくり見れなかったけど、なんて幻想的なんだろう。 こんな光景を好きなひとと見れたら、どんなに素敵だろう—— 「おい、雪音、着いたぞ」 龍太郎が山の中の駐車場に車を停めた。 「あ、あの、なんで呼び捨て……」 いきなり呼び捨てにされて戸惑った。 「だっておれ、お前の苗字知らねーもん」 あっけらかんとした口調で返された。 「鈴山雪音です。鈴山!」 「あっ、そうなんだ。降りるぞ、雪音」 「え? あれ、結局、呼び捨て?」 あ、あれ、ここって。駅の裏側じゃない? 駅の裏側の山の中にこんな場所があったの、ここって—— 「そう、墓地だ。おれが助けられなかった子のお墓がある場所」 目の前には小さな墓地が広がっていた。 「今日はその子の命日なんだ……」 少し遠い目をして龍太郎は風に言葉を乗せた。 え? このひと、本当に医療