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霧中の春は幻に
霧中の春は幻に
Author: 黒崎 燕

第1話

Author: 黒崎 燕
結婚して七年目で初めて、琴音(ことね)は自分の夫に六歳の息子がいることを知った。

彼女は幼稚園の滑り台の裏に身を隠し、光希(みつき)がかがんで小さな男の子を抱き上げて遊んでいる姿をじっと見ていた。

「パパ、もうずっと長い間会いに来てくれなかったんだもん」

夫は男の子の頭をやさしく撫で、「いい子だな、陽向。パパは仕事で忙しいんだ、ちゃんとママの言うことを聞くんだぞ」と言った。

「ゴーン」という轟音が響いたと同時に、琴音はその場で立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。

パパ? ママ?

その大人と子供の影はあまりにもよく似ている顔立ちで並んでいた。

どう見ても明らかだった。その「一生愛してる」と何度でも言ってくれた男は、とうの昔に自分を裏切っていたのだ。

二人は幼い頃から一緒に育ち、長い間愛し合ってきた。

琴音は彼を守るために刃物で刺され、子供を失い、生涯子供を産めなくなった。

あの時の光希は彼女の隣でひざまずき、真っ赤の目で言った。「子どもなんてもういらない、俺には琴音だけで十分だ!」

あの震える声はいまも耳に残っている。しかし、今目の前の光景は、その誓いを容赦なく粉々に打ち砕いたのだった。

琴音はよろよろと後ずさりした。心は鋭い刃で無数に切り刻まれるように痛み、血まみれになったようだった。

もうこれ以上見ていられなかった。自分が今にも光希に詰め寄ってしまいそうで、それよりもピエロのように泣いて、惨めな姿をさらして嫌われるのが何より怖かった。

彼女は背を向け、その場から逃げるように去っていった。

幼稚園の門の前では、親友の山本莉子(やまもと りこ)が車の中で待っていて、彼女の青ざめた顔に気づくと、あわてて車から降りてきた。「琴音、どうしたの?」

「颯はあなたが忘れ物したって取りに戻ったって言ってたけど、何があったの?」

颯(はやて)は莉子の息子で、今日は莉子に頼まれて琴音も一緒に保護者会に来ていた。

琴音の顔は真っ青で、目には涙が溜まっていた。「莉子、人調べを手伝って」

「誰を?」

「光希……」喉が詰まり、かすれた声で言った。「彼、子どもがいるの」

……

【琴音、俺はあと一週間帰れないけど、ちゃんと俺のこと考えてる?】

琴音は光希からのメッセージを見つめながら、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろと落ちた。

光希は毎年七月になると二週間、出張だと言って海外の支社を見に行くと話していた。

この六年間、彼を一度も疑ったことがなかった。

しかし現実は、彼女に容赦ない一撃を与え、その愚かさをしきりに嘲笑っているかのようだった。

光希は出張ではなく、愛人と隠し子に会いに行っていたのだ。

もし今日の偶然がなければ、彼女はまだ騙され続けていただろう。

琴音は自虐的に手元の写真を何度も見返した。窓の外では激しい雨が降り、時おり稲妻が彼女の青白い顔を照らした。

この状況はもっと早く気付くべきだったのかもしれない。

黒澤家は昔から伝統を重んじる家だ。子供を産めない女が黒澤家の妻でいられるはずがない。

きっと、彼らはもうすべてを準備していたのだろう。

それなら、あれほど自分を愛してくれた光希は一体何を担っていたのだろう。

琴音の胸は、引き裂かれるような痛みに襲われた。光希と子どもの頃から共に過ごし、誰もが「一生添い遂げるだろう」と言っていたのに。

彼女が八歳で木から落ちたとき、光希は危険を顧みず、身を投げ出し腕を骨折した。それなのに、自分は平気だと笑っていた。

十二歳のとき、初潮でスカートを汚した彼女に、事情が分かっていながらも光希は泣きながら「琴音のために死ぬ」と叫んだ。

十八歳のとき、光希はこっそり危険なレースに出場し大怪我をしながらも指輪を勝ち取って彼女に告白した。

光希はこう言った。「琴音のことを一生愛する」

その少年の愛は純粋で熱烈で、琴音の心はとっくに奪われていた。

その後、結婚直前に彼女は光希の敵に誘拐され、三日間監禁された。発見されたとき、彼女は瀕死の状態だった。

光希は彼女を救うために肋骨を三本折られ、そのとき彼女は彼を守るために刺され、母親になれる希望を失った。

光希の母・黒澤結衣(くろさわ ゆい)はそれを知って二人を別れさせようとした。

それでも、光希は全身傷だらけで家族の墓前に座り込み、「黒澤家なんかいらない、俺は琴音と一緒にいたい」と言い切った。その言葉に結衣も折れるしかなかった。

怪我が治ると二人はすぐに結婚し、霧島市中の誰もがその壮絶な愛の証人となった。

だが結局、光希は彼女を裏切った。

携帯の着信音が鳴り、画面には「夫」と表示されていた、なんという皮肉だろう。

琴音は無感情なまま応答ボタンを押すと、彼の優しい声が流れてきた。「琴音、一人でちゃんとご飯食べてる? 俺のこと、想ってくれてるか?」

以前なら、彼女は愛の甘さに溺れてすぐ光希に返事をしていただろう。

でも今は――口を開いたら涙をこらえきれなくなるのが怖かった。

「琴音?何かあったのか?怖がらなくていい、今すぐ帰るから!」

光希の声は焦りに満ち、今にも帰ろうとしていた。

でも琴音は今、彼に会いたくなくなった。

「なんでもない」必死に平静を装ったが、声はひどくかすれていた。「本当に大丈夫、仕事の方が大事でしょ。帰ってこなくていい、ただちょっと風邪ひいただけ」

彼女が光希に嘘をついたのはこれが初めてだった。

彼は何も気づかず、何かに気を取られた様子だったが、それでも何度も念を押した。「じゃあ、ちゃんと休んで。あとで俺に電話して。心配だから」

琴音は小さく「うん」と答えた。

電話を切ろうとしたとき、向こうから艶めかしい女の声が聞こえてきた。「光希、陽向はもう寝たよ。私たち……」

彼女は男の呼吸が荒くなったのを敏感に察知し、通話は唐突に途切れた。

琴音は思わず携帯を強く握りしめた。指の関節が真っ白になるほど力を入れても、心の冷たさを抑えきれなかった。

彼はあの女と一緒にいる。もうこれ以上考えたくもなかった。

彼女の喉から、自然に嗚咽が漏れた。それは自分の意思ではどうにもならない、まるで心を大きな手で握り潰されるような耐え難い痛みだった。

一度は、光希が子供のために仕方なくやっているのだと思いたかった。

でも今、それは彼が自分で選んだことだとわかった。

莉子は異変に気づき、すぐに部屋のドアを開けた。しかし琴音の絶望した様子に、普段は気の強い彼女も呆然と立ち尽くした。

「琴音、男のために泣くなんて、もったいないよ」

涙が写真の上にぽたぽたと落ちた。

莉子は胸が張り裂けそうになり、琴音をぎゅっと抱きしめ、歯を食いしばって叫んだ。「光希なんて最低!」

「プロポーズのときはあんなに甘い言葉を並べてたのに、今になって平気で他の女と子供を養うなんて」

琴音は目を閉じ、流れるままに涙をこぼしながら、すでに心の中で決意を固めていた……

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