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霧中の春は幻に

霧中の春は幻に

By:  黒崎 燕Completed
Language: Japanese
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結婚七年目になって、松本琴音(まつもとことね)は初めて知った。夫に六歳の息子がいることを。 幼稚園の滑り台の陰に隠れ、彼女は黒澤光希(くろさわみつき)が小さな男の子を抱き上げて遊んでいるのを見ていた。 「パパ、ずっと来てくれなかったよ。」 「いい子だね、アンくん。パパは仕事で忙しかったんだ。ママの言うことをちゃんと聞くんだよ。」 ゴォンッと頭の中で音がした。琴音はその場に立ちすくみ、頭の中が真っ白になった。 大人と子供、ふたりの姿。七分どおり似た面差し。 それらが一つ一つ、彼女に告げていた。口では「一生愛する」と誓ったあの男が、とっくに浮気していたんだと! 二人は幼い頃から一緒で、何年も愛し合ってきたのに。 彼女はかつて、彼をかばって腹を一刺しされ、流産しただけでなく、一生妊娠できなくなった。 あの時、光希は彼女のそばに膝まづき、真っ赤な目をして言った。「子供なんていらない。琴音一人で十分だ…!」 あの時の震える声が、今も耳元に残っているのに。今、目の前の光景が、あの誓いを粉々に砕け散らせた!

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Chapter 1

第1話

結婚して七年目で初めて、琴音(ことね)は自分の夫に六歳の息子がいることを知った。

彼女は幼稚園の滑り台の裏に身を隠し、光希(みつき)がかがんで小さな男の子を抱き上げて遊んでいる姿をじっと見ていた。

「パパ、もうずっと長い間会いに来てくれなかったんだもん」

夫は男の子の頭をやさしく撫で、「いい子だな、陽向。パパは仕事で忙しいんだ、ちゃんとママの言うことを聞くんだぞ」と言った。

「ゴーン」という轟音が響いたと同時に、琴音はその場で立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。

パパ? ママ?

その大人と子供の影はあまりにもよく似ている顔立ちで並んでいた。

どう見ても明らかだった。その「一生愛してる」と何度でも言ってくれた男は、とうの昔に自分を裏切っていたのだ。

二人は幼い頃から一緒に育ち、長い間愛し合ってきた。

琴音は彼を守るために刃物で刺され、子供を失い、生涯子供を産めなくなった。

あの時の光希は彼女の隣でひざまずき、真っ赤の目で言った。「子どもなんてもういらない、俺には琴音だけで十分だ!」

あの震える声はいまも耳に残っている。しかし、今目の前の光景は、その誓いを容赦なく粉々に打ち砕いたのだった。

琴音はよろよろと後ずさりした。心は鋭い刃で無数に切り刻まれるように痛み、血まみれになったようだった。

もうこれ以上見ていられなかった。自分が今にも光希に詰め寄ってしまいそうで、それよりもピエロのように泣いて、惨めな姿をさらして嫌われるのが何より怖かった。

彼女は背を向け、その場から逃げるように去っていった。

幼稚園の門の前では、親友の山本莉子(やまもと りこ)が車の中で待っていて、彼女の青ざめた顔に気づくと、あわてて車から降りてきた。「琴音、どうしたの?」

「颯はあなたが忘れ物したって取りに戻ったって言ってたけど、何があったの?」

颯(はやて)は莉子の息子で、今日は莉子に頼まれて琴音も一緒に保護者会に来ていた。

琴音の顔は真っ青で、目には涙が溜まっていた。「莉子、人調べを手伝って」

「誰を?」

「光希……」喉が詰まり、かすれた声で言った。「彼、子どもがいるの」

……

【琴音、俺はあと一週間帰れないけど、ちゃんと俺のこと考えてる?】

琴音は光希からのメッセージを見つめながら、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろと落ちた。

光希は毎年七月になると二週間、出張だと言って海外の支社を見に行くと話していた。

この六年間、彼を一度も疑ったことがなかった。

しかし現実は、彼女に容赦ない一撃を与え、その愚かさをしきりに嘲笑っているかのようだった。

光希は出張ではなく、愛人と隠し子に会いに行っていたのだ。

もし今日の偶然がなければ、彼女はまだ騙され続けていただろう。

琴音は自虐的に手元の写真を何度も見返した。窓の外では激しい雨が降り、時おり稲妻が彼女の青白い顔を照らした。

この状況はもっと早く気付くべきだったのかもしれない。

黒澤家は昔から伝統を重んじる家だ。子供を産めない女が黒澤家の妻でいられるはずがない。

きっと、彼らはもうすべてを準備していたのだろう。

それなら、あれほど自分を愛してくれた光希は一体何を担っていたのだろう。

琴音の胸は、引き裂かれるような痛みに襲われた。光希と子どもの頃から共に過ごし、誰もが「一生添い遂げるだろう」と言っていたのに。

彼女が八歳で木から落ちたとき、光希は危険を顧みず、身を投げ出し腕を骨折した。それなのに、自分は平気だと笑っていた。

十二歳のとき、初潮でスカートを汚した彼女に、事情が分かっていながらも光希は泣きながら「琴音のために死ぬ」と叫んだ。

十八歳のとき、光希はこっそり危険なレースに出場し大怪我をしながらも指輪を勝ち取って彼女に告白した。

光希はこう言った。「琴音のことを一生愛する」

その少年の愛は純粋で熱烈で、琴音の心はとっくに奪われていた。

その後、結婚直前に彼女は光希の敵に誘拐され、三日間監禁された。発見されたとき、彼女は瀕死の状態だった。

光希は彼女を救うために肋骨を三本折られ、そのとき彼女は彼を守るために刺され、母親になれる希望を失った。

光希の母・黒澤結衣(くろさわ ゆい)はそれを知って二人を別れさせようとした。

それでも、光希は全身傷だらけで家族の墓前に座り込み、「黒澤家なんかいらない、俺は琴音と一緒にいたい」と言い切った。その言葉に結衣も折れるしかなかった。

怪我が治ると二人はすぐに結婚し、霧島市中の誰もがその壮絶な愛の証人となった。

だが結局、光希は彼女を裏切った。

携帯の着信音が鳴り、画面には「夫」と表示されていた、なんという皮肉だろう。

琴音は無感情なまま応答ボタンを押すと、彼の優しい声が流れてきた。「琴音、一人でちゃんとご飯食べてる? 俺のこと、想ってくれてるか?」

以前なら、彼女は愛の甘さに溺れてすぐ光希に返事をしていただろう。

でも今は――口を開いたら涙をこらえきれなくなるのが怖かった。

「琴音?何かあったのか?怖がらなくていい、今すぐ帰るから!」

光希の声は焦りに満ち、今にも帰ろうとしていた。

でも琴音は今、彼に会いたくなくなった。

「なんでもない」必死に平静を装ったが、声はひどくかすれていた。「本当に大丈夫、仕事の方が大事でしょ。帰ってこなくていい、ただちょっと風邪ひいただけ」

彼女が光希に嘘をついたのはこれが初めてだった。

彼は何も気づかず、何かに気を取られた様子だったが、それでも何度も念を押した。「じゃあ、ちゃんと休んで。あとで俺に電話して。心配だから」

琴音は小さく「うん」と答えた。

電話を切ろうとしたとき、向こうから艶めかしい女の声が聞こえてきた。「光希、陽向はもう寝たよ。私たち……」

彼女は男の呼吸が荒くなったのを敏感に察知し、通話は唐突に途切れた。

琴音は思わず携帯を強く握りしめた。指の関節が真っ白になるほど力を入れても、心の冷たさを抑えきれなかった。

彼はあの女と一緒にいる。もうこれ以上考えたくもなかった。

彼女の喉から、自然に嗚咽が漏れた。それは自分の意思ではどうにもならない、まるで心を大きな手で握り潰されるような耐え難い痛みだった。

一度は、光希が子供のために仕方なくやっているのだと思いたかった。

でも今、それは彼が自分で選んだことだとわかった。

莉子は異変に気づき、すぐに部屋のドアを開けた。しかし琴音の絶望した様子に、普段は気の強い彼女も呆然と立ち尽くした。

「琴音、男のために泣くなんて、もったいないよ」

涙が写真の上にぽたぽたと落ちた。

莉子は胸が張り裂けそうになり、琴音をぎゅっと抱きしめ、歯を食いしばって叫んだ。「光希なんて最低!」

「プロポーズのときはあんなに甘い言葉を並べてたのに、今になって平気で他の女と子供を養うなんて」

琴音は目を閉じ、流れるままに涙をこぼしながら、すでに心の中で決意を固めていた……

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第1話
結婚して七年目で初めて、琴音(ことね)は自分の夫に六歳の息子がいることを知った。彼女は幼稚園の滑り台の裏に身を隠し、光希(みつき)がかがんで小さな男の子を抱き上げて遊んでいる姿をじっと見ていた。「パパ、もうずっと長い間会いに来てくれなかったんだもん」夫は男の子の頭をやさしく撫で、「いい子だな、陽向。パパは仕事で忙しいんだ、ちゃんとママの言うことを聞くんだぞ」と言った。「ゴーン」という轟音が響いたと同時に、琴音はその場で立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。パパ? ママ?その大人と子供の影はあまりにもよく似ている顔立ちで並んでいた。どう見ても明らかだった。その「一生愛してる」と何度でも言ってくれた男は、とうの昔に自分を裏切っていたのだ。二人は幼い頃から一緒に育ち、長い間愛し合ってきた。琴音は彼を守るために刃物で刺され、子供を失い、生涯子供を産めなくなった。あの時の光希は彼女の隣でひざまずき、真っ赤の目で言った。「子どもなんてもういらない、俺には琴音だけで十分だ!」あの震える声はいまも耳に残っている。しかし、今目の前の光景は、その誓いを容赦なく粉々に打ち砕いたのだった。琴音はよろよろと後ずさりした。心は鋭い刃で無数に切り刻まれるように痛み、血まみれになったようだった。もうこれ以上見ていられなかった。自分が今にも光希に詰め寄ってしまいそうで、それよりもピエロのように泣いて、惨めな姿をさらして嫌われるのが何より怖かった。彼女は背を向け、その場から逃げるように去っていった。幼稚園の門の前では、親友の山本莉子(やまもと りこ)が車の中で待っていて、彼女の青ざめた顔に気づくと、あわてて車から降りてきた。「琴音、どうしたの?」「颯はあなたが忘れ物したって取りに戻ったって言ってたけど、何があったの?」颯(はやて)は莉子の息子で、今日は莉子に頼まれて琴音も一緒に保護者会に来ていた。琴音の顔は真っ青で、目には涙が溜まっていた。「莉子、人調べを手伝って」「誰を?」「光希……」喉が詰まり、かすれた声で言った。「彼、子どもがいるの」……【琴音、俺はあと一週間帰れないけど、ちゃんと俺のこと考えてる?】琴音は光希からのメッセージを見つめながら、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろと落ちた。光希は毎年七月にな
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第2話
翌朝、雨は上がり、空には晴れ間が広がっていた。琴音は一睡もできなかった。彼女は夜通し考え続けていた。愛の最も純粋な形を知っているからこそ、すでに変わってしまった気持ちに耐えられなかった。彼女は光希を深く愛していて、松本家のお嬢様であるとして、こんな屈辱に耐えることができなかった。そう思いながら、彼女は実家である松本家に電話をかけた。「父さん、松本家はA国で事業を拡大したいって話してたよね。ちょうど莉子の夫はA国の王室出身だし、莉子も半月後に子供を連れて帰国する予定だから、私も一緒に行ってみたいの」松本奏太(まつもと そうた)は訝しげに聞き返した。「それは光希に頼まれたのか?」「違うよ。今回は自分の意思で行きたいの」琴音は苦笑した。みんな彼女と光希を一心同体だと当たり前のように思っていて、自分の父でさえもそうだった。奏太は驚いていた。これまで琴音は光希から離れることを嫌がっていたのに、なぜ突然遠くへ行きたいと言い出したのか。「琴音、もしかして光希が何かしたのか?」奏太の声は急に険しくなった。琴音は唇を結び、本当のことを隠すことを選んだ。「お父さん、今は聞かないで。A国に行ったら、全部話すから」黑澤家と松本家は長年の付き合いがあり、近年は縁戚関係も深まっていた。琴音は自分のことで松本家に少しでも迷惑かけたくなかった。奏太は最終的に琴音に押し切られ、承諾した。「分かった。あとで松本グループに来て、向こうでの業務に慣れておきなさい」琴音はうなずき、電話を切って身支度を始めた。鏡に映る自分の目はひどく腫れていて、胸が締め付けられるように見苦しかった。弁護士はすでに離婚届を用意してくれていた。琴音はまだ光希にどうやって離婚を切り出すか決められずにいた。長年の愛情は、そう簡単に断ち切れるものではなかった。彼女は泣き腫らした目元を化粧でを隠し、きちんとしたビジネススーツに着替えて部屋を出た。階下では莉子が颯の朝食に付き添っていた。昨日の彼女の様子が颯を驚かせたのだろう。「おばちゃん、おはよう!」颯は小さな足で琴音のそばに駆け寄り、彼女の手を取って口元に当てて息を吹きかけた。「ママが言ってたよ。昨日、おばちゃんは心が痛かったんだって。俺がふーってすれば、もう痛くなくなるんだよ」六歳の子供もは本当に無邪気だ。琴音は彼の
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第3話
琴音はタクシーを捕まえ、紗英の後を追った。たどり着いたのは病院だった。病室の入口に立った琴音は、扉の隙間から中の様子ををじっと見つめていた。ただ鋭い痛みが心の奥底から突き上げてきた。彼女は唇を固く噛みしめ、声を漏らさないように必死に耐えた。そのとき、光希の息子は点滴を受けていて、小さな顔にはやつれが浮かび、見るからに痛々しかった。光希はひどく取り乱していて、病室の中を何度も往復しながら、苛立ちをぶつけていた。「本当に役に立たないな!子供の熱も治せないのか!」そばで忙しくしている医師は、琴音もよく知る光希の親友・高橋大輝(たかはし だいき)だった。「お前、自分の息子が風邪で熱が出たんだ、ちゃんと面倒見てやれよ。友人に八つ当たりするな!」「光希、お前、一体どうなってるんだ。あの女が子供を産んだら金を渡して追い払うって言ってただろ?今じゃちょっとした風邪でも俺を呼び出してるなんて、もし琴音にバレたらどうするつもりだ?」しばらく沈黙が流れ、光希の声がやっと響いた。疲労と諦めが混ざった声音だった。「俺にどうしろって言うんだよ。母親と子供の絆は深い、毎回紗英を帰そうとすると、陽向が泣き止まなかった、子供をずっと泣かせておくわけにはいかないだろ?」「ふん、子供が離れたくないだけなのか、それともお前自身がそうしたいのか、自分でよく考えろよ!」大輝は鼻で笑った。その言葉に光希はますます苛立ち、痛む額を乱暴に揉んだ。「バカ言うな、俺が一生愛するのは琴音だけだ。でも黒澤家には跡継ぎが必要なんだ。このことは絶対に琴音に知られたくない。彼女を傷つけたくないんだ」「紗英にしても、俺の子を産んでくれた以上、ないがしろにはできない」その言葉を聞いて、紗英がようやくドアを開けて入ってきた。彼女はひどく泣いていた。「光希、全部私が陽向の面倒をちゃんと見ていなかったからよ。昨夜帰った後、陽向は熱を出して、パパに会いたいって泣きだして……でもあなたと琴音さんの邪魔はしたくなかったから、ずっと言えなかったの」光希は子供の熱い頬に触れ、ため息をつくと、少し落ち着いた。彼は紗英を抱き寄せ、優しく慰めた。「もう泣くなよ、俺は紗英を責めているわけじゃない、陽向は俺たちの子だ。父親である俺の責任が至らなかっただけだ」紗英は光希のシャツを握りしめ、指先で彼
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第4話
紗英は黒澤家の本邸で使用人の制服を着ていた。少し離れた場所では、小さな男の子がリビングを散らかしながら遊んでいた。琴音が玄関に入ると、紗英は光希のそばから立ち上がり、落ち着いた優雅な微笑みを浮かべた。「琴音様、お帰りなさい。本邸からお坊ちゃまのお世話を任されたメイドです」琴音は無意識に唇を噛みしめ、息をすることさえ苦しくなった。光希はなぜこんなことができるのか。どうしてこの二人を平然と家に連れてくることができるのか。琴音の様子がおかしいことに気づき、光希は慌てて説明した。「琴音、午後にメッセージを送ったけど、たぶん見てなかったよな。陽向は母さんが孤児院から連れてきた子で、俺たちに縁があるって言ってたんだ」すべての心の痛みは、もうあの無人の会議室で吐き出してしまった。今の琴音の胸には、ただ怒りだけが激しく渦巻いていた。こいつら、本気で私を馬鹿にしている――。「光希、わざと私の心をえぐりにきたの?」彼女の声は震えていて、その怒りが限界まで高まっているのが伝わった。その言葉に、光希は眉をひそめ、まさか琴音がここまで強く拒絶するとは思っていなかった。彼は少し動揺しながら弁解した。「琴音、怒らないでくれ!」「黒澤家に後継ぎが必要であることも分かってるだろ?琴音がずっと死んだ子供のことで悲しんでいるのを見たから、母さんの頼みを聞き入れたんだ」「もし琴音が嫌なら、すぐこの子をどこかにやる!」誰もが知っていた、光希が琴音を心から愛していることを。彼の原則は、いつだって琴音を最優先することだ。今も、琴音が嫌だと言えば、たとえ実の子供であっても迷わず手放すつもりだった。けれど、そんな極端な偏愛こそが、琴音には耐えがたいほど嫌悪感を呼び起こした。彼女が口を開き、すべてをはっきりさせようとしたその瞬間、あの子供――黒澤陽向(くろさわ ひなた)が唇を曲げて、わっと大きな声で泣き出した。「この悪い女め!パパ、なんでこんな悪い女と一緒にいるの?僕のこと、もういらないの?」子供の鋭い泣き声が響き、光希は頭痛に苛まれた。「陽向、誰にそんな言葉を教わったんだ!」「何してる!早く陽向を部屋に連れて行け!」数人のメイドが慌てて近づき、泣き止まない陽向をすぐに部屋へ連れて行った。紗英も動揺し、何度も謝罪した。「光希社長、すべて私
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第5話
翌朝、琴音が階段を下りると、紗英がダイニングテーブルで食器を並べていた。彼女はついに使用人の制服を脱ぎ捨て、首筋のラインが際立つ和服に着替えていた。その姿は女性らしい雰囲気を醸し出した。しかも、その顔立ちはどこか琴音と似ていた。それで光希が彼女を選んだのも無理はないと思えた。琴音の姿に気づいた紗英は、親しげに声をかけた。「琴音様、起きたんですね。早く朝ごはんを召し上がってください」彼女は何気なく体を傾け、首筋に残ったキスマークを見せつけた。その細い手首には、鮮やかな緑色の翡翠のブレスレットが光っていた。琴音は一目でそれが結衣がかつて身につけていた、黒澤家に代々伝わってきた宝物だと分かった。以前、結衣からその話を聞いたことがあった。光希も欲しがっていたが、結衣は「子供を産めないから」ということを理由に断ったという。それが今、紗英の腕にある。琴音は拳を握りしめた。これまで守ってきたもの全てが急に空しく思えた。彼女は家同士の関係を大事にしてきたし、問題を大きくしたくなかった。だが結局、結衣に義理の娘と認められたのは、紗英だった。昨日の病院でも、光希の親友は紗英の存在を知っていた。琴音だけが何も知らず、光希の甘い誓いに振り回されていた。思わず苦笑がこぼれた。もし光希が最初から子供が欲しいと決めていたなら、自分だって覚悟を決めて、身を引けたはずだ。こんな泥沼に巻き込まれることもなかった。昨夜の書斎での出来事を思い出すたび、胸はズキズキと痛み、光希を思いきり叩きたくなる衝動が湧き上がった。だが、それは自分が望む結末ではなかった。自分は光希に一生後悔させてやりたかった。そのとき、光希が階段を下りてきた。彼は一晩中何もなかったかのように爽やかな顔をしていた。紗英のそばを通る時、二人の間にははっきりと甘い空気が漂い、紗英は恥じらうようにうつむいた。光希は振り返ると、ようやく琴音の顔色が悪いのに気づき、不安げに声をかけた。「琴音、昨日雨に濡れて風邪でも引いちゃったのか?今日は会社休んで、一緒に家にいようか」今の琴音は一刻も早くこの家から出て行きたかった。光希と同じ空間にいるだけで息が詰まり、心の底から汚らわしく思っていた。「そんなことする必要はやめて」琴音は冷たく答えた。「会社のほうが大事なんじゃない?私は家でゆ
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第6話
ダイニングテーブルの前で、琴音は湯気の立つ朝食を見つめていたが、いくら口に運んでも味がしなかった。光希の優しさや気遣い、紗英の挑発や誇示などが全部頭の中で繰り返されていて、どうしても食事が喉を通らなかった。琴音は静かに立ち上がると、そのまま階段を上がり、自分の荷物をまとめ始めた。この別荘には、二人の思い出があまりにも多く詰まっている。琴音はその一つ一つを自分の手で整理し、すべてを置いていく覚悟を決めた。いつの間にか、紗英が背後に立っていた。「琴音様、本当に肝が据わっていますのね。陽向は黒澤家の跡取り、私はその子の母親なの。この家には、もう琴音様の居場所なんてありませんのよ」琴音は顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。「だから何?」琴音のあまりに落ち着いた態度に、紗英は少しだけ戸惑いながらも、眉をひそめて、続けた。「離婚したくない気持ちは分かります。でも、そんなふうに黒澤家の嫁の座にしがみつくのはやめたらどうです?黒澤家が子供を産めない女を嫁にすることなんてあり得ないんだから」琴音は冷ややかに鼻で笑った。その目はあからさまな嘲りで満ちていた。「黒澤家の嫁の座?そんなに欲しいなら、あげるわ」そう言って、彼女は鞄から離婚届を取り出し、紗英の目の前に差し出した。「光希の気持ちも知ってるわよね、彼に離婚させるのは簡単なことじゃないって」「これを渡すわ。もし本当に力があるなら、光希にサインさせて私に返して。もしできないなら、永遠に正妻になれない覚悟をしなさい」紗英はその言葉に顔を輝かせ、離婚届を奪い取った。すでに琴音のサインが入っているのを見て、今度は疑うような目で見つめてきた。「本当に光希を諦められるの?」琴音の胸がわずかに痛んだ。人生のほとんどを捧げて愛してきた人と、別れを口にすることは簡単ではなかった。彼女はそっと目を閉じ、心に渦巻く苦しさを抑え込んだ。そして、再び目を開けたとき、そこにあったのは静寂だけだった。「他人と男を取り合うなんてくだらないことはしない」光希のためなら命さえ投げ出せる――そう思ったこともあった。でも、裏切りだけは絶対に許せなかった。紗英は琴音を小馬鹿にしたように笑い、結局はただの頑固者だと決めつけて、そのまま離婚届を持っていった。琴音はクローゼットに山のように積まれた光希からの贈り物
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第7話
陽向がまさか失踪した――琴音はその場に凍りつき、身動き一つできなかった。果物ナイフはすでに彼女の首元に浅い傷を残し、ヒリヒリとした痛みがじんじん広がっていた。「目を覚ましてよ。息子の居場所なんて知るわけないじゃない」だが、紗英は正気を失ったようにナイフを握る手を震わせていた。「そんなはずない!陽向を嫌うのはあんただけ。今日だって車を何台も呼んで荷物を運んでたのはあんたしかいない!」紗英の目は真っ赤に腫れ、まるで本当に子どもをなくした母親のようだった。かすれた声で泣き続け、「琴音様、お願い、陽向を返して、あの子は私の唯一の拠り所なの」と訴え続けた。そしてついに、彼女はナイフを投げ捨て、その場に膝をつき、琴音の前で崩れ落ちた。「琴音様、陽向は私のすべてなの……」ようやく紗英の束縛から解放された琴音は、その言葉の薄っぺらさに皮肉を感じざるを得なかった。「返して?――孤児院から引き取った子と何の関係があるの、なぜ返さなきゃいけないのよ?」「この子は、私の……」紗英は咄嗟に何かを言いかけたが、すぐ口をつぐみ、静かに泣き出した。だが、今度は琴音が一歩も引かなかった。彼女はすべてを見抜くような眼差しで紗英を見つめ、あえて追い打ちをかけた。「どういうことなのか、ちゃんと言ってみなさいよ」「もうやめろ!」光希が鋭く声を荒げた。「琴音、そこまで追い詰めるな!」琴音は思わず絶句し、信じられない思いで光希を見返した。瞳がわずかに揺れていた。子どもの頃からずっと一緒だった光希は、今まで琴音に一度もきつい言葉をぶつけたことがなかった。さっき紗英に脅されていた時でさえ、琴音をかばってくれなかった。なのに、人生で初めて声を荒げたのは――愛人と隠し子のためだった。「失望」――その言葉だけが頭の中でこだまし、琴音の胸をひたすら重く圧迫した。光希は琴音の表情の変化に気づき、自分の言い方がきつかったことを察してすぐ声を和らげた。「琴音、責めるつもりじゃなかった。陽向は最初から彼女が面倒を見てきたし、ただ今は取り乱してるだけなんだ……」琴音は冷たく遮った。「もういい、聞きたくないわ」「もう一度言うけど、あなたの息子の居場所なんて知らない、本当にいなくなったなら警察でも呼びなさい」その瞳には一切の感情がなく、あまりにも平静すぎ
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第8話
琴音の心には、突然どうしようもない無力感が広がった。彼女は苦く唇を歪め、静かに言った。「もういい、どう思われても構わない。どうせ何を言っても無駄だから」「パパ、この悪い女が認めたよ、ちゃんと罰を与えないと!」陽向は光希の袖をしっかりと握りしめながら、こっそりと紗英の方をうかがった。目が合うと、紗英はわずかにうなずき、陽向の強張った顔がほんの少しだけ緩んだ。光希はしゃがんで陽向の頭を優しく撫で、「いい子だね、陽向。俺が必ず守ってあげるから」と慈しむように言った。そして、声色を一変させて冷たく命じた。「誰か、琴音を家の仏壇の前で反省させろ。俺が許すまで絶対に出させるな」光希の決断は絶対的で、誰にも変えられなかった。そう言い終わると、光希が自ら紗英を立ち上がらせ、三人家族で何も言わず玄関へ向かった。彼は、最後まで琴音の方を一度も振り返らなかった。紗英だけが挑発的な視線で琴音を見つめ、その勝ち誇った目が琴音の心を鋭く刺すようだった。外で車のエンジンがかかるのを見て、結衣はようやく満足そうにうなずき、年長者らしい態度で手を振り、そばの使用人に琴音を無理やり連れていくよう命じた。この家で何年も仕えてきた使用人たちは、みな心苦しげな顔をして、そっと琴音の耳元でささやいた。「琴音様、心配しないでください。私たちは琴音様がそんな人じゃないって信じてます。光希社長もきっと何か事情があるんだと思います。本当に琴音様のことを愛しているから、絶対に苦しめたりしませんよ」琴音は力なく微笑み、もういいやと心の中で呟いた。どうせもうこの家を出ていくのだから、すべてがどうでもよかった。彼女は仏壇の前で三日三晩ひざまずき、想像以上に苦しい日々を過ごした。本邸の使用人たちは明らかに誰かに命じられ、罰を与えていた。数えきれないほどの嘲りや罵り、数時間ごとに連れ出されては何度も殴打された。棒で打たれる痛みが全身に降り注ぐ中、琴音は必死で声を出さずに耐えた。唇を強く噛みしめ、口の中に広がる鉄の味にも、心の奥に沈む絶望にも、ただじっと耐えた。ふと、七年前のことがよみがえった。光希が自分を嫁入りさせるために黒澤家の仏壇で三日三晩ひざまずき、骨折した肋骨がつながったばかりで、一生残るかもしれない後遺症と闘ったあの時のこと。結衣が光希を追い詰めた
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第9話
朝早くから黒澤家の本邸では、使用人たちがせわしなく動き回り、屋敷のあちこちを華やかに飾り付けていた。今日は黒澤家の小さな当主――陽向の誕生日パーティーの準備で大忙しだった。昨日、仏壇から戻ったあと、光希はずっと書斎にこもり、今に至るまで部屋を出なかった。彼はデスクの引き出しを開け、中に眠っている一通の遺言書をじっと見つめていた。それは黒澤瑛士(くろさわ えいじ)が亡くなる間際に遺したもので、黒澤家の後継人の条件や持ち株の継承について厳密に記されていた。光希は遺言書を見ながら、胸の奥の重圧がほんの少しだけ軽くなった気がした。ついに自分が本当に黒澤家を支配できる時が来たのだ。黒澤家には代々の家訓によると、後継者を得なければ父から株式を譲られず、本当の当主になることはできないことになっている。瑛士が早くに亡くなったこともあり、この条件は当然ながら遺言にも残されていた。光希は家業を継ぐため、家族の先輩たちとの妥協を余儀なくされてきた。ただ、琴音のことを思うと、心の底に少し不安が残った。この決断が琴音にとってどれほど大きな傷になるか、分かっている。それでも彼には他に選択肢はなかった。「家の方はどうなっている?琴音はいつ来る?」そばにいた助手が即座に答えた。「光希社長、ご安心ください。もうスタイリストと運転手を手配して、琴音様のお迎えに行かせています」光希は短く「うん」と答え、こめかみを押さえて苛立ちを隠しきれなかった。昨夜は一睡もできず、胸に渦巻く悪い予感がどうしても消えなかった。あのとき見た琴音の決然とした後ろ姿を思い出すと、どこか不安が募った。だが黒澤家の未来のため、心を鬼にするしかなかった。今日一日が終われば、すべてが元に戻る――そう自分に言い聞かせた。窓際に立ち、庭を見ると、結衣が陽向を抱き寄せて柔らかな微笑みを浮かべていた。「今日は陽向の誕生日だよ。一番好きなプレゼントを用意したわよ、気に入ってくれるといいわ」陽向はうれしそうに「おばあちゃん」と呼びかけるだけで、結衣は満面の笑みを浮かべた。「紗英、本当にいい孫を産んでくれてありがとう。生きている限り、絶対辛い思いはさせないわ」紗英は柔らかく微笑み、「ありがとうございます、結衣様。黒澤家の血をつなぐことができて、何より光栄です」と
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第10話
一瞬にして、庭にいる人々の結衣を見る目が変わり、ざわめきが広がった。「そうだな、この子の目元や雰囲気は確かに光希社長に似ている。実の子と言われてもおかしくないかもな」「琴音さんは昔、光希社長を助けて体を壊し、子供を産めなくなったって話だろ?もしかして家業を継ぐために、外でできた子を連れてきたんじゃないか」「まあ、こういう家では珍しい話じゃないさ。自分はこういう名家にも本当の愛があると思ってたけどな……結局一番可哀想なのは奥さんだよな。命懸けで助けたのに、今はこんな目に遭ったなんて……」誰もが好き勝手に憶測を語り出し、噂はあっという間に広がった。結衣の顔色がさっと曇り、ちょうど口を開きかけたその時。光希が屋敷の中から現れた。彼はオーダーメイドのスーツに身を包み、すらりとした体に冷たい表情がよく映えていた。「何を話している?」低く静かな声には、自然と威圧感があった。場がぴたりと静まり返った。光希がどれほど琴音を大事にしているかは有名で、彼女を娶るために命を懸けた話も皆が知っていた。真実が明らかになる前に、本人の前で噂を口にする者はいなかった。「いえ、陽向様と光希社長は本当に縁が深いんだなと話していただけです。琴音様も、この子が息子で嬉しいでしょうね」誰かが意味深に周囲を見渡し、さらに続けた。「そういえば、今日は陽向様の誕生日なのに、琴音様の姿が見えませんね?」ようやく皆も気づき、大事な日に琴音がいないことを不審に思った。自然と視線が光希に集まり、その反応を窺った。光希は一切表情を変えずに結衣のそばへ行き、陽向の手を取った。「ご心配なく、琴音は陽向のためにプレゼントを用意していて、今まさにこちらに向かっています」「もうすぐ誕生日パーティーが始まりますし、自分も少し用事がありますので、皆さんご自由にお過ごしください」そう言うと、周囲を気にすることなく陽向を連れて屋敷の中へ入っていった。二階の書斎の前まで来て、ようやく陽向が不安そうに話しかけた。「パパ、今日は僕の誕生日なのに、ママはどうして一緒にいないの?僕ママがほしい」光希は表情を引き締め、厳しい声で言った。「これから、陽向のママは琴音だ、忘れるな」陽向はその言葉に反発し、手を振りほどいて叫んだ。「嫌だ!僕はあの人をママなんて呼びたくない!あの人は
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