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灰になった愛

灰になった愛

By:  トマトCompleted
Language: Japanese
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Synopsis

切ない恋

愛人

ひいき/自己中

クズ男

不倫

カウントダウン

不倫現場

一ノ瀬蓮(いちのせ れん)と共に過ごした九年間、私は彼のために九人の女との関係を清算してきた。そして十人目は、私自身だ。 別れを決意し、私はこれまで九回差し出してきた手切れの合意書を手に取り、そこに自分の名前を署名した。 蓮にそれを渡すと、彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて言った。 「待たなくていいの?もしかしたら、本当にお前と結婚する気になったかもしれないのに」 この九年間、そんなセリフは嫌というほど聞かされてきた。 だが、九人目の女の後始末をした時、私は愕然とした。 その相手は、私が初めて彼のために女性トラブルを解決した際に出会った、あの時の少女だったのだ。 彼女は目を細めて微笑み、私にこう言った。 「意外だわ。あれから何年も経って、まだ彼のそばにいるのがあなただったなんて」 胸が締め付けられるような痛みに襲われ、私はようやく悟った。 九年間も囚われていたこの茶番劇から、今こそ降りるべき時なのだと。

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Chapter 1

第1話

一ノ瀬蓮(いちのせ れん)と共に過ごした九年間、私は彼のために九人の恋人との関係を清算してきた。そして十人目は、私自身だ。

別れを決意した私は、これまで九度も突きつけてきた手切れの合意書を手に取り、そこに自分の名前を署名した。

蓮にそれを渡すと、彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて言った。

「待たなくていいのかい?もしかしたら、本当にお前と結婚する気になったかもしれないのに」

この九年間、そんな台詞は嫌というほど聞かされてきた。

だが、九人目の相手の後始末をした時、私は愕然とした。

その相手は、私が初めて彼のために女性トラブルを解決した際に出会った、あの時の少女だったのだ。

彼女は目を細めて私に言った。

「意外だわ。あれから何年も経って、まだ彼のそばにいるのがあなただったなんて」

胸が締め付けられるような痛みに襲われ、私はようやく悟った。

九年間も囚われていたこの茶番劇から、今こそ降りるべき時なのだと。

私は荷物をまとめ、五日後に出発する航空券の手配をした。

九年間の別れを告げるには、五日もあれば十分だ。

……

蓮が私の元へやってきた時、彼はいつものように口角にキスをした。

「今度の子はちょっと厄介でね。お前に直接出向いてもらわないといけない」

そう言いながら、彼の冷ややかな指先が私の背筋をなぞり、自分では留めにくい服のボタンを留めてくれた。

私は眉をひそめたが、表情には出さなかった。

どうせ、こんなことは初めてではない。

だが、その相手を見た瞬間、私は理解した。

蓮の言う「厄介」がどういう意味だったのかを。

九年という月日は、彼女を大きく変えていた。

青臭い女子大生から、洗練されたキャリアウーマンへ。かつて肩までだった髪は、栗色のウェーブヘアに変わっていた。

彼女は、かつての私のように淡々とした眼差しを向けた。

「また会ったね、佐伯奈緒(さえき なお)さん。まさかあれから何年も経って、まだ彼のそばにいるのがあなただったなんて」

私は呆気にとられ、目の前の事実が信じられないほどだった。

しばらくして、ようやく席に着き、手元にある見慣れた書類を取り出した。

「顔なじみとなれば、単刀直入に言わせてもらうわ」

口に出してみて初めて、自分の声がひどく枯れていることに気づいた。

奥歯を噛み締め、数秒間呼吸を整えてから、私は言葉を継いだ。

「現金、マンション、車、クルーザー……好きなものを選んで。その代わり……」

「何もいらない」

彼女はあの頃と同じ強固な意志で、同じくらい幼稚な言葉を口にした。

私はふと肩の力が抜け、椅子の背もたれに体を預けた。

「あれから何年も経つのに、あなたは変わらないのね」

彼女は私を見ず、何も答えなかった。

ただ窓の外、九年前よりもずっと賑やかになった町を見つめていた。

しばらくして、彼女は独り言のように呟いた。

「ねえ、奈緒さん。あなたの他には、本当に誰も彼のそばに長くはいられないの?」

「ずっとそばにいることが、良いことだと言えるのかしら?」

なぜか、そんな言葉が口をついて出た。

おそらくこの九年間、私自身が何度も自問してきたことだからだろう。

数え切れないほどに……

初めて蓮がこの子とデートしているのを知った時のことを覚えている。

私は泣き叫び、家中の物を手当たり次第に叩き壊した。

「どうして浮気なんかするの」「どうして裏切ったの」と彼を問い詰めた。

彼はただ淡々とタバコをふかし、私の怒りになど興味がないようだった。

そう、私に彼を責める資格などあっただろうか。

私も彼女たちと同じ、ただの暇つぶし、ただの愛人に過ぎない。

ただ、少しだけ長く居座っているというだけで。

私は瞬きをして意識を戻し、書類を彼女の前に押しやった。

「私たちのこういう関係に、愛だのなんだのを持ち込まないで。サインしてちょうだい。そうすればお互い、顔を立てられるわ」

私は事務的な態度を装ったが、目の前の彼女はふっと笑った。

「わかったわ。今回はサインする」
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第1話
一ノ瀬蓮(いちのせ れん)と共に過ごした九年間、私は彼のために九人の恋人との関係を清算してきた。そして十人目は、私自身だ。別れを決意した私は、これまで九度も突きつけてきた手切れの合意書を手に取り、そこに自分の名前を署名した。蓮にそれを渡すと、彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて言った。「待たなくていいのかい?もしかしたら、本当にお前と結婚する気になったかもしれないのに」この九年間、そんな台詞は嫌というほど聞かされてきた。だが、九人目の相手の後始末をした時、私は愕然とした。その相手は、私が初めて彼のために女性トラブルを解決した際に出会った、あの時の少女だったのだ。彼女は目を細めて私に言った。「意外だわ。あれから何年も経って、まだ彼のそばにいるのがあなただったなんて」胸が締め付けられるような痛みに襲われ、私はようやく悟った。九年間も囚われていたこの茶番劇から、今こそ降りるべき時なのだと。私は荷物をまとめ、五日後に出発する航空券の手配をした。九年間の別れを告げるには、五日もあれば十分だ。……蓮が私の元へやってきた時、彼はいつものように口角にキスをした。「今度の子はちょっと厄介でね。お前に直接出向いてもらわないといけない」そう言いながら、彼の冷ややかな指先が私の背筋をなぞり、自分では留めにくい服のボタンを留めてくれた。私は眉をひそめたが、表情には出さなかった。どうせ、こんなことは初めてではない。だが、その相手を見た瞬間、私は理解した。蓮の言う「厄介」がどういう意味だったのかを。九年という月日は、彼女を大きく変えていた。青臭い女子大生から、洗練されたキャリアウーマンへ。かつて肩までだった髪は、栗色のウェーブヘアに変わっていた。彼女は、かつての私のように淡々とした眼差しを向けた。「また会ったね、佐伯奈緒(さえき なお)さん。まさかあれから何年も経って、まだ彼のそばにいるのがあなただったなんて」私は呆気にとられ、目の前の事実が信じられないほどだった。しばらくして、ようやく席に着き、手元にある見慣れた書類を取り出した。「顔なじみとなれば、単刀直入に言わせてもらうわ」口に出してみて初めて、自分の声がひどく枯れていることに気づいた。奥歯を噛み締め、数秒間呼吸を整
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第2話
「九年も経ったんだもん、人間少しは成長しないとね」彼女が署名する手つきは早かった。私は彼女の美しい文字をじっと見つめた……深田菜生(ふかだ なお)……奈緒……菜生……私たちは同じ名前だったのだ。ずっと堪えていた涙が溢れ出し、視界が滲んだ。初めて会った時、誰かに似ていると感じた理由がようやくわかった。けれど、それが誰なのかどうしても思い出せなかった。今ならわかる。それは私自身だったのだ。まだ若く、瞳には愛だけを湛え、疲れを知らず、引くことも知らず、ただひたすらに愛することしか知らなかった頃の私。ただ、彼女は私より賢かった。そして、私より運が良かった。一人の男のために、九回も繰り返し傷つくようなことはしないのだから。瞳の奥から涙が音もなくこぼれ落ちた。彼女はすでにサインを終え、入店した時とは打って変わった晴れやかな笑顔でカフェを出て行った。私は深く長い息を吐いた。店の外で聞き覚えのあるクラクションが鳴った。蓮が来たのだ。しかし今回は、急いで店を出ることはしなかった。ただ、これまで九回差し出してきた別れの合意書を取り出し、十枚目の紙に、自分の名前を書き入れた。……静かに荷物をまとめると、私は回転扉を抜けてカフェを出て、外に停まっていた彼の車に乗り込んだ。車内には独特な香りが漂っていた。さっきの菜生がつけていたのと同じ香りだ。私は窓を少し開けて空気を入れ替えた。真冬の夜風が鎌のように頬を切り裂いたが、痛みは少しも感じなかった。蓮は背後から私の乱れた髪に指を絡ませ、相変わらず甘く、絡みつくような口調で言った。「どうだ?今日の子、どこか見覚えがあっただろ?」彼はまるで笑い話でもするように、平然とそんなことを言った。私は低く乾いた笑い声を漏らしたが、しばらく言葉が出なかった。ただ窓の外、この九年間で九回座ったその場所から景色を眺めていた。そして、ぽつりと呟いた。「一ノ瀬蓮、私たち別れよう」この九年間で、彼をフルネームで呼んだのはこれが初めてだった。親密な時は「蓮」と呼び、会社では「社長」と呼んでいた。これ一度きりだ。別れるのなら、最後くらい形式ばってもいいだろうと思った。蓮は少し驚いた様子で、髪に絡めていた指を引っ込めると、自分の側の窓を
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第3話
だが次の瞬間、私はすぐに自分のみっともなさに気づき、コートでスカートの裂け目を隠そうとした。九年という月日をかけて、蓮の影響は私の体に刻み込まれていた。彼がスカートが好きだと言えば、私は九年間スカートを履き続けた。彼が私の香水の匂いが好きだと言えば、九年間ブランドを変えなかった。彼がそばにいてほしいと言えば、私は馬鹿みたいに九年間待ち続けた。九年、百八ヶ月。問い詰めなかったわけでも、騒がなかったわけでもない。けれどその度に、自分を納得させることができなかった。人間とは運命を信じず、諦めの悪い生き物だ。遊び人がいつか改心すると信じてしまう。永遠の愛などという嘘を信じてしまうのだ。私は裸足で地面にうずくまりながら、ぼんやりと思い出していた。初めて蓮に出会ったのも、こんな冬の、こんな人気のない道端だった。あの年、私は大学二年生になったばかりで、義父に母の医療費を盾に脅され、借金返済のためにバーで働くことになった。忘れることなどできない。あの日、店に足を踏み入れた瞬間、男たちが私に向けた視線を。彼らは私を、獲物を見るような目で見ていた。私は泣き叫んで帰ろうとしたが、彼らは私を引きずり、無理やり個室へと連れ込んだ。結局、私は酒瓶で一人の男を殴り倒し、ようやく店から逃げ出した。バーの薄暗い路地裏を必死で逃げた。けれど急ぎすぎて足元に注意せず、鉄筋につまずいて転んでしまった。どうしても起き上がれなかった。そこへ、まるで救世主のように蓮が現れたのだ。女は絶望した時、どうしても男に希望を託してしまう。だが、避難場所だと思ったそこは、ただの別の深淵に過ぎなかった。ただ、その理屈を理解するのに、私は九年もかかってしまった。あの時、彼はすべての男たちを、私の強欲な義父さえも追い払ってくれた。さらに母の医療費を全額支払い、大学を卒業させ、海外の大学院へ留学までさせてくれた。大学院を卒業し、彼のアシスタントになって初めて、私たちは肉体関係を持った。だから、自分は他の女たちとは違うのだとずっと思っていた。けれど、違いなんて何もなかった。ただ私が使いやすく、従順だったというだけのことだ。冷気を吸い込みすぎて、胃がまた痛み出した。誰かに迎えに来てもらおうとスマホを取り出す。だが、連絡先の一番上にはまだ蓮の名前があった。私
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第4話
彼はただ菜生の合意書を取り出し、私の目の前で粉々に破り捨てた。だが、私の分は手付かずのまま、彼の膝の上に置かれていた。共に過ごした九年間で、私は彼のために四度中絶した。初めて妊娠がわかった時、私は興奮して彼に伝えた。だが彼は長い沈黙の後、それまで見たこともないほど冷ややかな目で私にこう言った。「子供は好きじゃない。ましてや子供をダシにして結婚を迫るような女はもっと嫌いだ」私は検査結果を握りしめ、まるでピエロのように立ち尽くすしかなかった。そうか、彼は子供が嫌いなわけじゃない。私との子供が嫌だっただけなのだ……喉が詰まり、しばらくしてからようやく声が出た。「わかった」「私がすべきことは?」「明日、一緒に彼女を病院へ連れて行ってくれ。検診だ。それから部屋を片付けておけ。明日から彼女が住むことになる」ペンを握る指の関節が白くなった。九年間、蓮は外の女を家に連れ込んだことは一度もなかった……あの家は、私たち二人だけのものだと言っていたのに。九年間演じ続けてきたけれど、とうとう演じきれなくなったのだ。取り出した手帳には、一文字も記すことができなかった。蓮は用件を伝え終えると、運転に集中し始めた。機嫌が良いようだった。私はうつむいてスマホのフライト情報を確認した。五日。この九年間の感情を断ち切るのに、五日というのは少し長すぎる気がした。いや、一日で十分だ。車は走っていたが、家へ向かう方向ではなかった。不思議に思って顔を上げると、蓮はすでに薬局の前に車を停めていた。彼は何も言わずに車を降りた。ほどなくして戻ってきた彼の手には、胃薬の箱があった。私がいつも飲んでいる銘柄だ。「自分で管理しろよ。お前に何かあったら労災扱いだ。俺が責任を取らなきゃならない」薄暗い照明の下、男の目尻は艶めかしく、口元の優しい笑みは、より一層人を惑わす毒薬のようだった。彼はいつもこうだ。何を言うにもふざけた態度を崩さない。だから本心なのか嘘なのか、見分けがつかない。けれど私にはわかる。彼に本心などないのだと。車は再び走り出し、私はゆっくりと目を閉じて考えるのをやめた。突然、蓮が急ブレーキをかけ、私の手から薬とバッグがフロアマットに転がり落ちた。顔を上げると、彼はスマホで電話を受けていた
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第5話
家に着いて壁の時計を見ると、すでに午前三時を回っていた。私は薬を飲み、そのままバスルームへ向かい、熱いシャワーを浴びた。九年も住んだ家なのに、どこもかしこも馴染み深いのに、そこには私の痕跡が一つもない。このマンションは蓮のものだ。内装からインテリアに至るまで、すべてが彼の好みで埋め尽くされている。私に意見なんてなかったし、あるべきでもなかった。今にして思えば、「私たちの家」なんて言葉、滑稽でしかない。熱いお湯が体を打ちつけ、私の意識をより鮮明に覚醒させた。バスルームから出ると、蓮はすでに帰宅していた。彼はベランダで電話をかけていた。とろけるような甘い言葉を、何度も何度も繰り返している。相変わらずの口説き文句だ。彼が言い飽きていなくても、私の方が聞き飽きてしまった。胃の底から込み上げる吐き気をこらえ、私は書斎へ向かい、自分のパソコンで退職願を打ち出した。そして、航空券を明日の早朝便に変更した。リビングに戻ると、蓮もちょうど電話を終えたところだった。私の口元を見て、彼は笑みを浮かべていた。何かを言おうとした彼より先に、私が口を開いた。「蓮、これ、私の退職願」差し出された封筒を、彼は受け取らなかった。整った眉を寄せ、その表情には私が理解できない、理解したくもない複雑な色が浮かんでいた。すぐに蓮の口元から笑みが消え、表情が氷のように冷え切った。声も恐ろしいほど低い。「奈緒、いつまでそうやって駄々をこねるつもりだ?」彼が私の名前を呼んだ時、想っているのが私なのか、それとも「ナオ」なのか、私には区別がつかなかった。私は自嘲気味に笑った。「駄々なんてこねてないわ。私たち別れたんだもの、あなたの会社に居座る資格なんてないでしょ。明日の仕事は、悪いけど他の人に振って。それから、今までお世話になりました。この数年で借りたお金、返して欲しければ借用書を書くわよ」私の声にも、何の感情も籠っていなかった。蓮は私を見つめたまま、ベッドサイドのテーブルへと歩み寄った。そして、紙屑の山を掴み上げ、私の顔に投げつけた。舞い散る紙片を見ると、それは彼がさっき破り捨てた別れの合意書だった。ただ、そこに書かれていた名前は、私だった。そして、菜生の合意書は、無傷のままテーブルの
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第6話
その言葉を聞いた瞬間、心臓を誰かに強く掴まれたような、微かな痛みが走った。蓮が私を追ってくるかもしれないとは予想していた。なにしろ九年だ。彼だって私がそばにいる生活に慣れきっているはずだ。けれど、私はもう去ると決めた。心が揺らぐことはない。私は乗務員に彼には会わないと告げ、もう伝言も頼まないでほしいと伝えた。「佐伯様、管制塔より全便離陸見合わせの指示が入りました」乗務員の瞳に一瞬困惑の色が浮かんだが、すぐにプロフェッショナルな微笑みに取って代わられた。隣にいた美しい女性が、場違いにもボトルを差し出してきた。それは、一ノ瀬家のパーティーで初めて私が受け取ったのと全く同じだった。あの時、私は借り物のシャンパンカラーのドレスを身にまとい、邸宅のホールの中央に立っていた。その時、蓮が二階から私の背中をじっと見下ろしていたことなど知らずに。まるで、手に入ると確信した獲物を狙うかのように。蓮が機内に入ってきた時、私はまだ過去の記憶に浸っていて、現実に戻れずにいた。航空会社の規定では、チケットを購入しておらず、搭乗時間を過ぎた人間が機内に乗り込むことなどできないはずだ。蓮がどうやって入ってきたのかは知らない。だが、この手の人間に一般人のルールが適用されないのは明らかだった。乗務員は気を利かせてその場を離れていた。機内は満席だった。それまで自分の世界に没頭していた乗客たちが、次々と振り返り、私に視線を注いだ。頬が熱くなったが、蓮に妥協などしたくなかった。「俺と一緒に戻るぞ」私の腕を掴む蓮の力は強かった。彼は声を潜めて私に話しかけたが、その口調には拒絶を許さない響きがあった。いつの間にか外は雨になっていた。しとしとと降る雨越しに窓の外を見ると、滑走路には人っ子一人いなかった。私は芝生の上で雨に打たれる雑草を眺めながら、また「ナオ」という女の子のことを思い出した。私と彼女に違いなんてない。二人とも、蓮が捨てたい時に捨て、あやしたい時にあやす道具に過ぎないのだ。離陸時間が遅れ続け、乗客の中には不満を漏らし始める者もいた。いつ出発するのかとCAに詰め寄る声も聞こえる。私と蓮の個人的な事情で他人に迷惑をかけるのは耐えられなかった。仕方なく、私は彼と一緒に飛行機を降りることにした。彼に手を引かれ
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第7話
彼は相変わらず冷静さを保っていた。「いい加減、騒ぐのはやめろ。帰るぞ」私の口元には、凄涼でやるせない笑みが浮かんだ。私は生涯、彼に見せたことのない怒りを込め、大声で叫んだ。「あそこは私の家じゃない!」彼の冷徹な瞳には、声を張り上げて喚く私の醜い姿だけが映っていた。私はもう一度繰り返した。「あそこは私の家じゃない。あなたと菜生の家よ」彼は何も言わず、ただ静かに私を見ていた。その瞬間、私は悟った。彼の言う愛とは、単なる独占欲、支配欲に過ぎないのだと。彼が求めているのは対等な恋人ではなく、言うことを聞くペットなのだ。蓮は相変わらず平然と言った。「俺がわざわざここまで来たんだぞ。俺の許可なく、どこかへ行けるとでも思ってるのか?」私は鼻で笑った。「蓮、あなたはいつもそう。自分の権力や地位を使って、他人を追い詰める。あなたは愛なんてこれっぽっちも理解してない。知っているのは独占と支配だけよ」私の言葉は彼を突き刺したようだった。彼は呆気にとられ、その瞳に一瞬、狼狽の色が走った。従順だった私が、まさかこんな言葉を口にするとは思いもしなかったのだろう。私は続けた。「今回も私が大人しくあなたの元に戻ると思ってるの?私が欲しいもの、あなたは永遠に与えられないし、与える資格もないわ」蓮の顔色は蒼白になり、瞳から光が消えた。何か言いたげだったが、結局は沈黙を選んだ。そんな彼の姿を見ても、胸に快感など微塵もなく、ただ果てしない悲哀だけが広がった。「奈緒!」彼は唐突に口を開いた。その声は微かに震えていた。「今回は俺が悪かった」「菜生とはお前が思ってるような関係じゃない。ただ、お前の気を引きたかっただけなんだ。俺が間違っていた」私は足を止め、彼を振り返った。その瞳は、懇願と期待に満ちていた。こんな彼を見るのは初めてだった。あの蓮が、人に頭を下げるというのか?それとも、私を連れ戻すための芝居なのか。心が揺らぎ始めた。だが次の瞬間、私はひどく苦く、やるせない笑みを浮かべた。「菜生がいなくても、また別の誰かが現れるわ」丸九年だ。彼にとってその歳月は、たった一言の「俺が悪かった」で帳消しにできる程度のものなのか?「あなたは何もわかってない。私が欲しいのは謝罪じゃないの
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第8話
私はカフェのボックス席で膝を抱え、少し離れた場所にいる背の高い外国人の男が着ている、カーキ色のロングトレンチコートを眺めていた。蓮も同じものを持っていた。あれは私が彼に贈った最初のプレゼントだった。国内を離れてB州に来てから、ここでは全てが順調だ。異国の地で、知っている人は誰もいない。蓮を愛することに心を砕かなくていいというのは、とても良い癒やしだった。彼と一緒にいた数年間はあまりに忙しく、ずっとここへ旅行に来たいと思っていたけれど、時間は作れなかった。まさか彼から逃げるために、その願いが叶うことになるとは思わなかったけれど。彼を中心とした世界から離れて三年が経った。この三年の間、過去の全ては夢のように私を閉じ込め、あるいは彼をも閉じ込めていたのかもしれない。そして今、私はようやく逃げ出した。心身ともに疲れ果ててはいたが、これは私が進むべき道だとわかっていた。あの日、一ノ瀬家のパーティーで顔を合わせた後、数少ない一般社員の出席者だった私は、一人で家路についた。歩き始めて間もなく、私は路地裏で数人のチンピラに囲まれた。雨水と涙が混じり合い、視界が滲む。絶望に飲み込まれそうになったその時、蓮が現れた。まるで闇を切り裂く一筋の光のように。彼は背筋を伸ばしてチンピラたちの前に歩み出ると、冷ややかで威厳のある口調で言った。「法治国家で、まだそんな真似をしてるのか?」普段は横暴な振る舞いをしている連中も、彼の前では借りてきた猫のようになり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。彼は私の前まで来ると、私を見下ろした。その瞳には、少しの探るような色が混じっていた。「怪我はないか?」私は彼の身分を知っていたので、緊張して頷いた。その夜が、私たち二人の関係をどう変えることになるかなど、想像もしていなかった。彼は少しの間沈黙すると、着ていたコートを脱ぎ、私の肩にかけてくれた。「女が夜、こんな道を一人で歩くんじゃない」そう言い残して、彼は去っていった。蓮を愛してしまったのは、あまりに自然なことだったと今でも思う。あの夜、彼のコートは私の体を温め、そして私の心をも温めた。私のような女が、彼のような人の関心や助けを得られるなんて、考えたこともなかった。その後、私たちはまるで偶然のように頻繁に顔を
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第9話
彼は傷つくのを恐れ、だからこそ先に相手を突き放す。無数の試練と苦痛の中で、私は次第に悟っていった。どんなに努力しても、彼の心に踏み込むことはできないのだと。彼はこの世の誰をも愛することはない。私が去れば、すぐに私のことなど忘れ、相変わらず贅沢三昧で遊び歩く日々に戻ると思っていた。彼の目には女なんて何の意味も持たない。私なんて尚更だ。彼の周りには彼を慕う女の子なんて掃いて捨てるほどいるし、追い払っても居座るような取り巻きも多い。苦しんでいるのは、私一人だけなのかもしれない。丸三年。蓮はもう私の顔さえ覚えていないかもしれない。しばらくして、友人が出張でB州に来たついでに私を訪ねてきた。彼女が持ってきたのは、蓮の消息だった。彼女の話では、私が去ってから蓮はずっと荒れていたらしい。毎日のように悪友たちと酒に溺れ、正体をなくすほど飲んでいたそうだ。友人たちは菜生と喧嘩でもしたのかと思い、彼女を呼んで慰めさせようとした。だが菜生が来ると、彼は不機嫌になって彼女を追い返したという。悪友たちは彼の酔ったうわ言を聞いて初めて、彼が落ち込んでいる原因が私だと知った。彼らは笑ったそうだ。「いる時は大事にしなかったくせに、いなくなってから酒に逃げて何の意味があるんだ」と。蓮はその言葉に腹を立て、その怒りをすべて菜生にぶつけた。菜生もついに耐えきれず、彼のもとを去った。去り際、彼女はこう言い残した。「あなたに愛される資格なんてあると思ってるの?あなたみたいな人間は、誰かに愛される資格なんてない。私を含め、あなたに媚びへつらっていた人間はみんな、あなたのお金が目当てだったのよ。奈緒さん以外に、誰が九年もあなたのそばにいるの?」友人の話を聞いて、胸がずきずきと痛んだ。蓮は後悔しているのだろうか。私を大切にしなかったことを。けれど、すべてはもう遅い。……D国の四月。プラタナスの綿毛がオフィスに舞い込む頃、私は来週の展示品リストを照合していた。「佐伯さん、受付に一ノ瀬様という男性がいらしてます」D国人のインターン生、アンナが躊躇いがちに付け加えた。「本国から列車ではるばる会いに来たそうです。どうしても一目会いたいと」一ノ瀬という名を聞いた瞬間。数年間鳴りを潜めていた胸の痛みが、
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第10話
下にいるあの人のことを思い出すだけで、仕事をする気分なんて完全に失せてしまった。気晴らしに下へ降りることにした。エレベーターが下降する三十秒の間、記憶がフィルムの巻き戻しのように蘇る。最後に止まったのはあの空港。彼は私の腕を掴み、怒りと執着を込めて引き止めようとした。痛ましい記憶が、突然脳内の蓮を追い出し、跡形もなく消し去った。とっくに決めたことだ。彼がわざわざここまで来たからといって、変わるわけがない。一階の曲がり角に来た時、背後から名を呼ばれた。立ち止まるべきじゃない、反応すべきじゃないとわかっていたけれど、体は勝手に強張ってしまった。一歩も動けない。「奈緒ちゃん」歩み寄る蓮からシダーウッドの香りが漂う。語尾には本国の言葉特有の、柔らかな響きがあった。「痩せたな」彼の声を聞いて、少し呆気にとられた。彼は滅多にこんな親しげに呼ばない。普段は「奈緒ちゃん」ではなく「奈緒」、あるいは仕事中は役職名で呼ぶ。深夜、泥酔した時か、情事に溺れた時だけ、私のことをちゃん付けで呼ぶのだ。昔は、意識がはっきりしていないからだと思っていた。誰が誰だかわからなくて、心の中に何百人もの「ナオ」がいるのかもしれないと。でも今はわかる。彼がそう呼ぶのは、心に描いているのが私だからだ。ただ、もう遅すぎるけれど。蓮の茶色の瞳には血走った糸が浮かび、長旅で睡眠不足なのは明らかだった。顎の無精髭は耳の後ろまで伸び、高級なカシミヤのマフラーは雑巾のように皺くちゃだ。彼が手を伸ばして私を掴もうとする。私は半歩下がって避けた。「一ノ瀬さん、私は今、XXXX会社D国支社の社長補佐です」「『蓮』と呼べ」彼は突然私の手首を掴み、強引に抱き寄せると、顎を私の柔らかい髪に押し付けた。「奈緒、酷いじゃないか。俺が飛行機恐怖症だって知ってるくせに。この三十日間、国際列車を六回も乗り継いで……逃げるな。もう少し抱かせろ。いい匂いだ」「佐伯!」澄んだ男の声が、淀んだ空気を切り裂いた。新しい上司、早川誠(はやかわ まこと)が紙袋を提げて早足でやってきた。私と蓮が抱き合っているのを見て、眉を挑発的に上げた。「頼まれてたシナモンロール、最後の二つを確保できたよ」誠の言葉に他意はなかったが、蓮は瞬時に警戒心を露わ
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