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第6話

作者: ラクガキワンちゃん
碧はかろうじて理性の手綱を引き、思考を巡らせた。

舞なら、父の亡骸をどこへ隠すだろうか。

その瞬間、閃光のごとき思考が脳裏を貫いた。

「研究室だ!」

舞の研究室では近頃、人体実験が行われているという黒い噂が立っていた。

碧が研究室へと駆けつけ、扉を蹴り破った瞬間、その身を走る血がことごとく凍てついた。

父の亡骸は巨大なガラスケースの中でホルマリンに浸され、その傍らには、息子・安晴の骨壷が無造作に置かれていたのだ。

あまりの衝撃に碧はごぼりと血を吐き、血走った眼でガラスケースにすがりつく。堰を切ったように大粒の涙が溢れ、止まらなかった。

二人を取り戻そうと、彼女は狂ったように厚いガラスを叩き続けた。

その時、壁一枚を隔てた隣室から、淫らな声が漏れ聞こえてきた。男の荒い息遣いと、女の甘ったるい嬌声。

碧の身体が石のように硬直した。おそるおそる隣室へと歩み寄り、ガラス窓の隙間から中を覗き込んだ。

そこでは、朗と舞が互いの体を貪るように絡み合っていた。

瞬間、全身の血が沸騰し、逆流するような怒りが碧を貫いた。

耐えきれず部屋へ踏み込もうとしたその時、背後から現れた黒ずくめの男二人によって口を塞がれ、床へと組み伏せられた。

舞がこちらに顔を向け、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。声を出さず、唇の動きだけで碧にそう告げたのだ。

「よく見て。あなたの夫は、私のものよ」

朗の腰の動きはさらに激しさを増し、彼はうわ言のように繰り返していた。

「舞……愛してる。ずっと俺が守ってやるからな……」

碧は必死にもがき、嗚咽を漏らしたが、後頭部に走った鈍い衝撃を最後に、ぷつりと意識を失った。

どれほどの時間が経ったのだろうか。不意に浴びせられた冷水に、碧ははっと目を覚ました。

気がつくと、身体は椅子に固く縛り付けられていた。目の前には、朗のものと思しきシャツを無造作に羽織った舞が、愉快そうに碧を見下ろしていた。

「舞……!いったい何を企んでいるの!?ただで済むと思わないで!」

「自分の息子も父親も守れなかった女が、この私に何が出来るっていうの?」

舞はせせら笑うとガラスケースの前へ歩み寄り、安晴の骨壷を玩びながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。

「舞、安晴くんはまだ子供だったのよ……!どうしてあの子を殺したの!?」

碧は心の底に澱のように沈めていた疑問を、ついに突きつけた。

舞は、侮蔑を隠さない皮肉な視線を碧に向けた。

「どうして?見てはいけないものを見てしまったからよ」

碧の顔がこわばった。あるおぞましい予感が、脳裏を駆け巡った。

「あの子、私とお兄ちゃんの関係に気づいてしまったのよ。あなたに話すって騒ぎ立てるから……仕方なかったじゃない」

舞はさも当然とでも言うように肩をすくめてみせた。

「可哀想にねぇ。あの子、死ぬ間際まで『ママ、助けて!』って叫んでいたわよ。そしてあなたの旦那様は、すぐ隣の部屋で、最愛の息子が息絶えていくのをただ聞いていただけ。あはははは!」

舞の甲高い笑い声が部屋に響き渡った。

あまりにも残酷な真実に、碧は言葉を失い、ただ喘いだ。

「嘘よ……そんなはずない……」

碧はか細い声で呟き、何度も首を横に振って、その現実を振り払おうとした。

「まだ分からないの?」

舞はゆっくりと屈み込み、その指先で乱暴に碧の顎を掴み上げた。

「お兄ちゃんはあなたを愛してなどいないわ。結婚したのは、あなたのお父さんへの恩返しと、この新橋家の資産と人脈を手に入れるため。すべてが手に入った今、あなたたち親子は邪魔なだけなのよ」

碧の瞳から絶望の涙がとめどなく溢れ、唇がわなわなと震えた。

「舞……もう朗はいらないわ。だからお願い、お父さんと安晴の亡骸だけは……返して」

もはやあなたたちには関わりたくない――そう訴える碧の姿に、舞は氷のように冷たい笑みを返した。

「碧さん、あなたが何を考えているかなんてお見通しよ。黙って身を引いて、お兄ちゃんの後悔を誘い、気を引こうという魂胆でしょう?……甘いわね!」

言うが早いか、舞は部屋の隅にあった木の棒を手に取ると、狂ったようにガラスケースを叩き割り始めた。

「舞、何をするの!?やめて!」

ひとしきり暴れて満足したのか、舞は傍らのアルコールランプを手に取った。そして悪魔のような微笑を浮かべると、碧の耳元で囁いた。

「ねえ、もしここが火事になったら、お兄ちゃんはどちらを助けると思う?」

碧が答える暇もなく、舞はアルコールランプを床に叩きつけた。

青い炎は瞬く間に燃え広がり、業火となって床を舐めた。

「舞、正気なの?!」

燃え盛る炎の中で、舞は部屋の隅にうずくまると、芝居がかった仕草でカウントダウンを始めた。

「三、二……」

「舞!どこだ!」

朗の焦燥に満ちた叫び声が響いた。

駆け込んできた彼は周囲を見渡し、椅子に縛られた碧の姿を認めると、驚愕に目を見開いた。

「碧、どうしてここに?」

朗が碧のもとへ歩み寄ろうとした、まさにその時だった。

「お兄ちゃん、助けて……」

舞がか細く、子猫のような声で助けを求めた。「痛い……助けて、お兄ちゃん!」

朗の足がぴたりと止まった。その顔に、一瞬、葛藤の色がよぎる。

だが、彼は結局――舞のもとへと駆け寄った。

「怖がるな、舞!今すぐ助け出してやる!」

朗は舞を腕に抱き上げると、出口へと走り出した。碧の横を通り過ぎる刹那、その顔に一瞬だけ、後ろめたさのようなものが浮かんだ。

「碧、舞は身体が弱いんだ。先に彼女を助けるが、すぐに戻ってくるからな!」

そう言い捨て、二人の姿は炎の向こうへと消えた。

火勢はいや増しに激しくなり、黒い煙が天井に渦を巻いた。

熱が皮膚を焼き、全身が悲鳴をあげていた。喉に絡みつく黒煙のせいで、目を開けていることすらままならない。

遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、碧の心は、音もなく完全に死んだ。

――もしこのまま炎に焼かれて死ぬのなら、怨霊と化してでも、夜ごと二人の枕元に立ち、必ずや呪い殺してくれる。

――もし、もしも生き延びることができたなら……あの二人には、この苦しみを何百倍にもして返してやる!

全身を苛む激痛と、魂を蝕む絶望のなかで、碧の意識はゆっくりと闇の底へと沈んでいった。

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