ログイン飛行機が中東のとある都市に着陸したのは、現地時間の午後八時三十分。 背後では戦争の砲火が夜を昼のように照らし出している。私は夫の渡辺舟(わたなべ しゅう)にメッセージを送った。 【着いたよ。迎えに来たから、一緒に帰ろう】 返事はなかった。 慌てて彼の親友、北村真(きたむら まこと)に電話をかけると、相手は言葉を濁した。 「お、お前、本当に中東まで行ったのか?」 耳元で爆発音が響く。私は焦りで目の前が真っ赤になるようだった。 「彼は一体どの地区にいるの?」 電話の向こうで数秒の沈黙。 「実は、あいつ、出国なんてしてない」 風が襟元に吹き込み、冷たさに身震いした。 彼の声はさらに低くなった。「出張だって言ったのは、嘘なんだ」 電話を切ると、スマホに一枚の写真が届いていた。日付は今日。 舟が目を細めて幸せそうに笑っている。腕に女を抱き、誕生日ケーキのろうそくを吹き消しているところだった。 一目でわかった。 彼女は林優奈(はやし ゆうな)だ。 三年前、舟が私に跪いて誓った相手――「もう二度と会わない」と約束した、あの女。 舟はどうやら忘れているらしい。今日が私の誕生日でもあることを。 スマホがもう一度震えた。 【咲季、実は舟、ずっとあいつとは切れてなかったんだ。二人の仲が良さそうだったから、言い出せなくて】 私は画面を見つめた。 【迎えに来たから、一緒に帰ろう】 そのメッセージは、送信エラーで結局送れなかった。 ――それなら、私ももう、彼の帰りを待つのはやめよう。
もっと見る彼の膝が折れ、重々しくその場に跪いた。私も思わず息を呑んだ。舟がどれほど体面を重んじる男か、私はよく知っている。彼は飛び降りる時でさえ、人目の最も少ない明け方を選ぶような男だった。人混みの中から誰かが息を呑む音が聞こえ、スマホのレンズがさらに近づいてくる。彼は膝を半歩、前ににじり寄せた。舟は顎をぎゅっと引き締め、喉仏が何度か上下して、ようやく声が絞り出される。「咲季、許してほしいわけじゃない」声はひどくかすれていたが、骨に染みついた自制だけは残っていた。「ただ、知ってほしい。俺がお前を愛してるのは、本当なんだ」涙が、張り詰めた顎の輪郭を伝って滑り落ちる。「お前が熱を出した時、三日三晩付き添ったのは、本当だ。お前がフルーツ飴を食べたいと言って、俺が街の端から端まで走り回ったのも、本当だ」彼が目を上げて私を見る。目のふちは真っ赤に染まり、その奥は、何かに押し潰されたように粉々だった。「でも、俺は汚れてしまった」その言葉は、喉の奥からえぐり出したようだった。「誓う。俺は遊びのつもりだった。まさか、こんなことになるなんて……俺は人でなしだ。お前にふさわしくない。でも、もしお前がいなくなったら、俺は本当に、何もかも終わりなんだ」私は見下ろすように彼を見つめる。あの、かつて法廷で相手を一言も反論できなくさせた渡辺舟。今、私の足元に跪き、涙が顎いっぱいに伝って流れている。でも、もう私の心は痛まない。「話が終わったなら、離婚協議書はちゃんと署名してくれた?私に訴訟を起こさせないで」私は彼を迂回してエレベーターへ向かう。舟はよろけながらも手を伸ばし、閉まりかけたドアに手を挟み込んだ。私は何も言わない。エレベーターが途中で止まり、ドアの外に真が立っていた。彼は私たちの様子を見て、一瞬硬直する。舟は彼を睨みつけ、赤い目をしたまま、突然口を開く。「お前たち、いつからできてたんだ?」私も真も凍りついた。舟は彼を睨み据え、声を震わせ、冷たく硬い声で続ける。「ずっとこの日を待ってたんだろ?俺はお前を親友だと思ってたのに!」ドゴッ。真の拳が彼の顔にめり込んだ。舟はエレベーターの壁に激突し、鼻血が瞬間に噴き出す。「てめえ、頭おかしいのか?」真は彼の襟を掴み上げる。「彼女
【本当に知りたいのか?】【話せ】向こう側では「入力中」の表示が、長いこと点滅していた。やがて、長い文章が画面に飛び込んでくる。【あの日、彼女は中東のあの空港に着いて、お前にメッセージを送ったが返事はなかった。お前が何か事故に遭ったんだと思ったんだ。その後、誰かからあの地区がちょうど砲撃を受けたと聞いて、彼女はすぐさまタクシーを呼んでそこへ向かおうとした。運転手は危険だと断ったが、彼女は料金を三倍払うと言った。三倍だ。最後に運転手は彼女を五キロ手前で降ろし、彼女は自分の足で歩いていったんだ】舟の携帯を握る手が震え始める。【あとになって俺が知ったんだ。彼女はまだ妊娠中で、死ぬ覚悟でお前を迎えに行ったんだ】舟は画面を凝視し、両目は真っ赤に充血し、呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのようだ。【舟、悪く思うなよ。俺、お前と林優奈のことを全部彼女に話した】【お前が適当にでっち上げた言い訳のために、彼女が本当にあの場所で命を落とすんじゃないかと、本気で怖くなったんだ】【渡辺舟、お前は彼女にふさわしくない】舟は手で顔を覆い、肩が激しく震えている。あの傷跡は、まだ小指に残っている。十八歳の時、彼女のために作った傷。彼はそれを生涯の勲章だと思っていた。彼は思い出す。あの日エレベーターの中で、疲れ果てた顔、落ち窪んだ目、乾いてひび割れた唇の彼女の姿を。優奈を抱き寄せて彼女の目の前を通り過ぎたのに、気づきもしなかった。「彼女は俺が一番愛している人だ」あの言葉を、彼は優奈に対して言い放った。電話口で。動画のコメント欄で。彼女が聞こえないと思い込んでいた、あらゆる場所で。今、その一言ひとことが刃物となって、ひとつひとつ、自分の身に突き刺さって返ってくる。咲季が命がけで彼を迎えに行った時、彼は別の女のベッドにいた。彼女が病院で手術同意書にサインした時、彼は優奈を抱き寄せ「もう一度」と囁いていた。舟はゆっくりと身を丸め、病衣の中で小さく震えた。全身の目に見えない痛みが、ついに彼に思い知らせる。これが自業自得なのだと。……三ヶ月が経ち、私は特例で正社員に昇格し、ロビーマネージャーにまでなった。総支配人は海外研修にも行かせてくれると約束してくれた。ようやく一筋の光明が見えてきた気がした。
私は仕事を見つけた。都心にあるあの五つ星ホテル、フロント受付係。試用期間の給料は25万円、社会保険完備、社員寮は二十二階にあり、一面ガラス張りの窓から都心のビル群が一望できた。私はワンルームのアパートを割り当てられ、ドアを押し開けた瞬間、長いこと立ち尽くしていた。いいものだ。誰の帰りも待たなくていいなんて。五日目、母から電話が入る。「舟くんが本当に川に飛び込んだそうよ」私は携帯を握りしめ、窓の外を流れる車列が蛍のように高架道路を這っていくのを眺めていた。「たまたま寒中水泳をしていた人が助けてくれなかったら、命はなかったらしいわ。見舞いに行かないの?」「行かない」受話器の向こうで数秒の沈黙が落ちた。「今どこに住んでるの?家に戻って。流産したばかりで感情が高ぶってるのはわかるから、お母さんが面倒を見るわ」「仕事を見つけたの。寮と食事つきだから」「でも、まだ体が回復してないでしょ」「五つ星ホテルのフロント係よ」私はガラスに映る自分の姿を見つめる。制服はアイロンがけが行き届いていて、髪は一筋の乱れもなくまとめられている。「疲れないわ。自分で自分を養っていける」本当の疲れというものは、心の疲れだ。舟から離れて、ようやく私はほっと一息つけた。電話を切った。その夜、勤務を終えて寮に戻り、スマホをスクロールする。SNSで盗撮写真がとんでもない勢いで拡散されていた。舟が病院のベッドに横たわっている。顔は紙のように青白く、唇は乾いて皮が剥け、目の下には二つのどんよりとした青黒い窪みができている。優奈がベッドの脇に座り、彼の体を拭いているところだった。コメント欄は大荒れだ。【渡辺弁護士が川に飛び込んだ日、気温は零下十度で、氷水に五分も浸かってから引き上げられたらしいよ。肺炎と低体温症で、あやうく助からなかったんだって】【優奈さんは三日三晩、一歩も離れずに付き添ってるんだって。はあ、これが本当の愛なら、本妻はいったい何だったんだ?】【何って、笑い話だろ。渡辺弁護士は林優奈のために三年間不倫してたくせに、奥さんが流産して出て行った途端、川に飛び込んで同情を引こうとした。で、結局、奥さんは来なくて、愛人が本妻気取りってわけ】【同僚たちが病室の外で笑ってたよ。渡辺弁護士のあの作戦、妻は
舟は私の手首をぎゅっと掴んで離さない。指の節が白くなり、まるで最後の頼みの綱にすがるようだった。「咲季、頼む」その声は、彼とは思えないほど嗄れていた。「自分が間違ってたのはわかってる。ただの出来心だったんだ。俺が心から愛してるのは、お前なんだ!」私は歩みを止め、彼の言葉を遮った。「もういい」あのボイスメッセージの返信を見つけ出し、音量を最大にして彼の耳元で再生する。「彼女は愛人なんかじゃない。彼女は俺が一番愛している人だ」舟の顔は青ざめ、エプロンを外し、スーツ姿のまま私の足元に跪いた。「咲季、弁解させてくれ。あれはただの……」「ただの何?」私は苛立たしげに遮った。「ただ、彼女を抱き寄せてキスしただけ?ただ、彼女の脚を揉みしだいただけ?ただ、彼女はあなたが一番愛してる人だと宣言しただけ?彼女が愛人じゃないなら、じゃあ私が愛人なの?」彼は口を開きかけて、また閉じた。目のふちが真っ赤に染まり、ついに涙がこぼれ落ちた。あの決して頭を下げなかった渡辺舟。飛び降りる時ですら、ためらいの欠片も見せなかった渡辺舟が。今、私の前に跪き、顔中を涙で濡らしている。「俺を殴ってくれ。罵ってくれ」彼は私の手首を放し、両手で私の頬を包み込んだ。「何をしてくれてもいい。ただ、行かないでくれ。咲季、俺はお前なしでは生きていけない」私は彼にされるがままに、心の中は、荒野のように荒れ果てていた。彼の涙に濡れた目、震える唇を見つめ、かつて私が愛した彼の顔の、そのすべてを。それから、思い切り彼を突き飛ばした。「手を離して。あなたはただ、私がいないことに慣れてないだけ」彼はその場に呆然と立ち尽くし、涙がまだ頬に張り付いたまま、手が空を掴んだ形で止まっている。母が傍らで涙を拭いていた。「咲季、もう一度だけチャンスをあげられないの?あんたはあんなに彼を愛しているじゃない。命まで懸けて迎えに行ったのに、もう一度だけ許してやれないの?」私は母に向き直る。「お母さん。私がこの人生で一番後悔してること、知ってる?」母が息を呑む。私は苦笑しながら口を開いた。「初めて彼の浮気に気づいた時、すぐに立ち去らなかったことよ」私はドアを開けた。背後で舟が一歩追いかけてきて、また立ち止まる。「咲季!」