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第0004話

Auteur: 龍之介
綿は、目の前で自分の手を引いていく男を見つめた。酔いが回ったせいか、視界が少し霞む。

――あの頃も、彼はこうやって私の手を引いた。

追手から逃げるように、必死に走ったあの日。

もし――

もしあの時、輝明がもう少し冷たかったら。

こんなにも深く、彼を愛してしまうことはなかっただろう。

家族を捨ててまで、彼と結婚しようとは思わなかったかもしれない。

それなのに――

どうして、彼がここにいるの?何をしようとしているの?

私が他の男と親しげにしているのを見て、嫉妬でもしてるの?

――ありえない。

綿は、その考えをすぐに振り払った。

――輝明は心を持たない。彼は私を、一度たりとも愛したことがない。だから、嫉妬するはずがない。

――バタン。

重い扉の音とともに、綿はトイレの中へと押し込まれた。酒のせいで、身体から力が抜ける。

洗面台の端に追いやられた瞬間、逆光の中に立つ輝明の姿がぼんやりと映る。影に包まれた顔――それでも、その美しさだけは際立っていた。

そして、冷たい声が落ちる。

「綿。俺たちは、まだ離婚していない」

奥歯を噛みしめながら、低く絞り出すような声だった。

綿は、鏡を見た。そこに映るのは、自分の背中に刻まれた蝶のタトゥー。まるで自由を求めるかのように羽を広げている。

彼女はゆっくりと目を上げ、痛みを押し殺しながら、静かに言った。

「――高杉さん、離婚届にはもうサインしたわ。ある意味では、もう離婚しているのよ」

――ピキッ。

わずかに、輝明の表情が動いた。その瞬間、彼の指が、強く綿の手首を握り締める。

「……高杉、さん?」

その名を、一語ずつ噛み締めるように、低く問いただす。

綿は微笑んだ。

「何?高杉さんって呼ぶの、間違ってる?」

綿が彼にそう呼びかけたのは、これが初めてだった。今まで、彼のそばではずっと――

「明くん」

「明お兄ちゃん」

どんな時も、優しい声で、彼の名前を呼んでいた。

でも、彼が「その呼び方はやめろ」と言ったから、彼女は二度とそう呼ばなかった。

結婚して三年、距離は縮まるどころか、ただ広がるばかりだった。

綿は、少しだけ顔を近づける。

「違うわね」

「私はあなたを『元夫』と呼ぶべきね」

彼の瞳が、一瞬で冷たく凍る。そして、綿の細い腕を、さらに強く引いた。彼女の背中が、勢いよく洗面台にぶつかる。

「綿、お前――俺に挑発してるのか?」

「どこが挑発?」

綿は、薄く微笑みながら皮肉げに言う。その態度が、輝明の神経をさらに逆撫でした。

「桜井さん、大丈夫?」

――コン、コン。

外から、控えめなノック音とともに聞こえたのは、男の声。綿は、わずかに目を細めた。

その名を聞いた瞬間、輝明は眉をひそめる。

……小林家の息子か。はっ。こんなにも早く絡んでくるとは。

綿は、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。まるで面白いものを見つけたかのように。

そして、ゆっくりと輝明の目を見つめながら、甘く囁いた。

「大丈夫よ、小林くん。少し待っててくださいね」

――わざとだった。

彼女は意識的に「小林くん」の名前を強調した。まるで、「あなたはもう、私の世界に必要のない人」と告げるように。

輝明の眉がわずかに動く。その瞳の奥に、怒りの火が灯った。

――綿が、俺の目の前で、他の男と密会する?

「……綿。」

輝明は、ゆっくりと歯を食いしばりながら、彼女の顎を強く掴む。

「お前――本当に、あいつとホテルに行くつもりか?」

綿は、何のためらいもなく、彼の手を振り払う。そして、最も優しく、最も冷たく微笑みながら、彼の耳元で囁く。

「元夫、あなたには関係ないでしょう?」

――カチン。

その瞬間、輝明の中で何かが切れた。綿の挑発が、彼の怒りに火をつける。

ドンッ!綿の腰を掴み、壁に押しつけると、迷いなく唇を塞いだ。

――関係ない?だったら、俺が関係あるってことを思い出させてやるよ。

――俺たちはただ離婚届にサインしただけ。法的手続きはまだ終わっていない。つまり、綿はまだ俺の妻だ。それなのに、俺の目の前で他の男とホテルに行く?そんな侮辱、耐えられるはずがない。

綿の瞳が驚きに見開かれる。信じられない、と言わんばかりに。

結婚して三年間、一度も触れたことがなかったのに、なぜ今になって?

唇は強引で、まるで噛みつくように。綿は痛みを感じ、酒のせいで全身の力が抜けていく。

「んっ……!」

耐えきれず、洗面台に手をついた。そして――思いきり、彼の足を踏みつける。

「っ……!」

痛みが走る。だが、輝明はそれでも綿を放さなかった。さらに彼女の腰を引き寄せ、キスを深める。

綿は眉をひそめ、必死に抵抗した。手を引き抜き、全力で彼を突き飛ばす。そして――

パチンッ!!

鋭い音が洗面所に響いた。

輝明は頭を横にそらし、唇を舐める。口紅の味とウイスキーの香りが混じる。

綿は大きく息を吸い込み、口紅が唇の周りに滲んでいた。目が赤く潤み、震えている。

指で唇を拭いながら、輝明は彼女をじっと見つめ、そして――笑った。

「……これが、お前の望みだったんじゃないのか?」

再び彼女に迫り、抑えきれない怒りを込めて言う。

「こんな格好で男を誘っておいて、あの男は良くて、俺はダメだって?」

「綿、お前、俺の前で何を気取っている?」

「……高杉輝明、あんたって、本当に最低」

綿は怒りをぶつけ、目には失望が浮かんでいた。

彼女が本当に望んでいたもの――それすら、彼にはわからないのか?欲しかったのは、ただ少しの愛だけだった。それなのに、一度たりとも与えられることはなかった。

彼は、彼女に思い知らせた。

――自分は価値のない安物だと。

――ただの、笑いものだと。

「最低?」

輝明の目が細まる。

「泣いて、俺に結婚してくれと頼んだのは誰だった?」

綿の心が、一瞬に震えた。胸が上下し、彼の侮辱を聞いて、ただただ寒さを感じる。

彼女の愛は――彼にとって、ただ彼女を傷つけるための武器だった。

彼のために、家族と決裂した。

彼のために、誘拐犯と取引した。

彼のために、すべてを捨てた。

だが、この七年間は――何の価値もなかった。

綿は鼻をすすり、笑う。その目に涙を浮かべながら。そして、震える唇で、静かに言った。

「……高杉輝明。あなたを愛したことが、私の大きな過ちだった」

輝明は、鏡越しに彼女の背中を見つめた。彼女の言葉が、心に突き刺さる。足が、一瞬ふらついた。壁に手をつく。

――高杉輝明。あなたを愛したことが、私の大きな過ちだった。

「ふっ……」

乾いた笑いが漏れた。だが、彼はまだ気づいていなかった。

七年間、自分を愛し続けた女を、今度こそ――永遠に失ったことに。

綿はトイレから出ると、震える手で唇を拭った。

――汚い。

嬌とキスしたの唇で、私に触れた?

――耐えられない。

唇を擦りながら、涙を滲ませる。玲奈を見つけると、その腕を掴み、何も言わず外へ向かった。

「綿ちゃん、大丈夫?」

玲奈は困惑しながら尋ねる。

「……大丈夫。大丈夫よ」

それでも、声は震えていた。

ハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で歩く。行き交う人の視線など、どうでもよかった。

冷たい夜風が吹き抜ける。彼女は、やっと決心したように叫んだ。

「もう二度と――高杉輝明を愛さない!」

「二度と!もう!絶対に!」

叫ぶ声は、静かな夜の街に響いた。だが――彼女自身にも、わかっていた。

この道のりはあまりにも痛すぎた。

彼のために自分を犠牲にし、彼のためにすべてを投げ打ち、それでも——彼からは、何一つ与えられなかった。こんなふうに自分を踏みにじるなんて、なんて愚かだったのか。

――もう二度と、あの男には会わない。

自分の人生を取り戻す。花は花に、木は木に――本来あるべき姿に戻すんだ。

「綿!!」

後ろから玲奈が駆け寄り、強く抱きしめた。

綿の肩が、小刻みに震えている。静かに、静かに――声もなく泣き続ける彼女の姿に、玲奈は胸が締めつけられる。

言葉なんて、何もいらなかった。玲奈は、ただそっと腕を回し、綿の震えを受け止めることしかできなかった。

綿は、どうやって帰ってきたのか覚えていなかった。

気がつくと、すでに翌日の午後だった。

重いまぶたをゆっくりと開け、ベッドの上でぼんやりと座り込む。ズキズキと痛む頭を押さえながら、深く息をついた。

――ピロン

スマホの通知音が響く。

綿は、無意識に手を伸ばし、画面を覗き込んだ。そして、次の瞬間、動きが止まる。

『本日、高杉グループ社長・高杉輝明氏が、陸川家の令嬢と共に、新作化粧品発表会に出席』

無機質なテキストが、スクリーンに浮かんでいる。指先で画面をスワイプし、動画を再生した。

そこには――

嬌が輝明の腕にしっかりとしがみつき、カメラに向かって優雅に微笑む姿が映っていた。メディアのフラッシュを浴びながら、二人は笑顔で立っている。

――とても「お似合い」に見えた。

綿の手が、スマホを握りしめる。目の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。

――結婚して三年間、彼は一度も私をイベントに連れて行ったことがなかった。なのに、今や……

離婚したばかりのその口で、こんなにも堂々と「大切な人」を世界に向けて紹介している。

昨夜、あの洗面所で、彼に強引に奪われた唇の感触が蘇る。その直後の映像が、こんな形で映し出されるなんて、皮肉以外の何物でもなかった。

――コン、コン。

ドアがノックされる音。

綿は顔を上げ、感情を押し殺したまま、静かに言った。

「……入って」

ゆっくりとドアが開く。紺色のスーツを身に纏い、優雅な微笑みを浮かべた天河が立っていた。

「綿、昨夜の約束、忘れてないよね?」

綿は、瞬きをした。

――約束?

何のことだろう?

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