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第0003話

Author: 龍之介
輝明は、信じられなかった。綿がいそうな場所を、手当たり次第に探し回った。

裏庭、書斎、映写室……

どこにも綿の姿はなく、彼女の物さえも見当たらなかった。

書斎の本棚にあった、綿がよく読んでいた医学書も、跡形もなく消えている。

もともと、この家にはあまり帰らなかった。

だが、綿がいなくなった今、この家はまるで何年も前から空き家だったかのように、冷え切っていた。

重い足取りで階段を降りると、ふと目に入った。

ソファの後ろの空いたスペース。

――何かが、なくなっている。

近づくと、ゴミ箱の中に破られた絵が捨てられていた。その瞬間、息が止まる。

――あの絵だ。

結婚してから、綿はよく「一緒に買い物に行こう」とせがんできた。だが、輝明は忙しさを理由に、彼女のことを疎ましく思い、何度も断り続けていた。

その日――綿の誕生日。

彼女が会社までやって来て、「一緒に誕生日を過ごせる?」と聞いた。

「忙しいなら、半時間でもいいから……」

彼女の声は、どこか怯えていた。まるで、彼に拒まれることをすでに覚悟しているかのように。

それが、妙に目についた。だから、仕方なく了承した。

どうせ、高価なプレゼントをねだったり、特別なディナーに連れていけとでも言うつもりだろう。そう思っていた。

しかし、彼女はただ、「一緒にショッピングセンターに行きたい」と言っただけだった。

「輝明……手をつないでもいい?」

その声は、期待というよりも、不安げだった。

彼が忙しいのをわかっていたから、負担にならないようにと、あちこち歩き回る買い物ではなく、手作りの店で一緒に絵を描くことを選んだ。

くだらない。彼はそう思いながら、ただ隣で見ていただけだった。その間、嬌からの電話が何度かかかってきた。

綿は何も言わなかった。ただ黙って、筆を走らせていた。

家に戻ると、彼女はその絵をリビングに飾り、とても嬉しそうにしていた。

……それ以来、彼女は二度と、買い物に誘うこともなかった。誕生日を祝ってほしいとも言わなかった。

輝明は、壊れた絵に手を伸ばした、その時、視線の端に何かが移る。

――離婚届。

眉がピクリと動く。

無造作に置かれたその紙に、彼と綿の名前が記されていた。

喉を鳴る。心臓が、嫌な音を立てる。

綿が……本当に、離婚に同意したのか?

――ピロン

スマホの通知音が、静寂を引き裂いた。綿かと思い、すぐに画面を確認する。だが、表示されたのは家族からのメッセージだった。

『おばあちゃんの七十歳の誕生日パーティーの準備がほぼ整った。

おばあちゃんは見栄っ張りだから、今回は大々的にやるらしい。招待状もすべて送った。

おばあちゃんからの特別な指示:

あなたと綿は必ず時間通りに出席すること。さもなければ、後悔することになるよ!』

輝明は、舌打ちしそうになるのをこらえた。

最悪のタイミングだ。

この誕生日パーティーが、よりによって今なのか。

雲城の中心区、桜井家の別荘。

和服姿の祖父・桜井山助は食卓で杯を掲げ、目を細めて笑った。

「――綿の自由を祝おう!」

その言葉を合図に、家族の声が一斉に飛び交う。

「綿、家に戻ったからには、パパの会社を継いでくれよ!パパはもう引退したいんだ!」

桜井天河が、兆単位の財産を押し付けるように甘えた声で言う。

「何言ってるの、綿はおばあちゃんと一緒に病院で働くべきよ。綿の医術を無駄にするなんて、もったいなさすぎるわ!」

桜井千恵子は腕を組み、真剣な顔で反論する。

「いやいや、綿はママと一緒に宝石デザインを学ぶべきだよ!」

桜井盛晴が、目を輝かせながら嬉しそうに言った。

――好き勝手言ってるなぁ。

綿は、箸を握りしめる。目の前の茶碗には、自分の好きな料理が山盛りになっていた。

彼女は、家族を見つめる。

――胸が痛んだ。

桜井家は、いつだって情熱的で、どこまでも温かい。自分がどれだけ傷つけても、どれだけ愚かでも、何も言わずに受け入れてくれる。

やっと、気付いた。家族だけが、どんな自分でも無条件で受け入れてくれる。

それなのに、彼女はこんなに大切な人たちを傷つけてまで、愛されない人のために生きようとしていた。

――もう二度と、そんなことはしない。

「綿は医学を続けるべきよ!」

「いや、商売の道が一番だ!」

「いやいや、デザインの方がが前途有望だよ!」

三人の声が重なり、食卓は一瞬で修羅場と化した。綿と山助は目を合わせ、顔を引きつらせる。

「綿、どれを選ぶ?」

三つの声が同時に響いた。綿の背筋に緊張が走る。

「……私は――」

息が詰まる。どれを選んでも、誰かを傷つける。

ブォンブォブォブォブォーンーー

突然、外からバイクのエンジン音が響いた。その瞬間、綿は笑みを浮かぶ。

親友の玲奈だ。

「ねぇ、みんな!」

綿はサッと口元を拭き、立ち上がる。

「ちょっと遊びに行ってくるね。遊び尽くしたら、一つずつ引き受けるから!」

そう言い残し、駆け出した。

「ちょ、綿!?」

「話はまだ終わってないぞ!!」

「帰ってきたら、デザインを――」

後ろでは、顔を真っ赤にした家族たちが、言い争いを続けている。

兆億の財産も、医術も、デザインの世界も、どれも魅力的だ。

けれど、今の綿にとって一番大事なのは、自由を楽しむことだった。

失った三年間の青春を、彼女は今、取り戻す――!

Skクラブ。

耳をつんざくような音楽が鳴り響き、スポットライトがダンスフロアの中央を照らしていた。

赤のタイトなミニドレス。10センチのハイヒール。長くて白い脚がまっすぐに伸び、ドレスが彼女の完璧なプロポーションを際立たせる。

綿は、今日は濃いメイクを施し、カールした髪を背中に流していた。

深く彩られた美しい瞳は、どこか妖艶で、見る者を惹きつける。

ライトが彼女の背中に落ちると、肌に浮かぶ蝶のタトゥーがくっきりと浮かび上がった。それはまるで、誰もが唇を寄せたくなるほど、魅惑的だった。

玲奈は、綿を見つめる。一瞬だけ、瞳に哀れみがよぎった。

綿は平然と振る舞っている。けれど、玲奈にはわかっていた。幼い頃から彼女を見てきた玲奈だけが知っている。彼女がどれほど傷ついているのかを。

今の綿は、苦しんでいる。だが、それはすべて自業自得で、誰にも言えず、酒でしか誤魔化せない。

綿ほど、高杉輝明を愛していた人間はいなかった。

綿を失って、高杉は本当に、後悔しないのかしら?

ダンスフロアでは、男たちの視線は綿に集中していた。誰もが唾を飲み込み、囁き合う。

「さすがは桜井お嬢様……絶世の美女だな」

「高杉輝明は、つくづく幸運な男だ。こんな美しい妻がいるなんて!」

――その瞬間、音楽がふっと途切れる。

綿は飲み干したボトルをソファへと投げ、ふわりと身体を揺らした。耳に入った名前に、眉を寄せる。

――輝明。

舞台下を見渡し、微かに目を細める。

「……こんな楽しい夜に、輝明の名前を出すなんて、気分が悪くならない?」

静寂が走る。

だが、次の瞬間、彼女は微笑みながら言い放った。

「今夜は私が貸し切ったの。高杉輝明の名前を口にしたら、出て行ってもらうわよ?」

――歓声が上がった。

誰もが桜井お嬢様の言葉に同意し、クラスを掲げ、陽気に笑う。

――ただ、一人を除いて。

誰も気づいていない。店の隅、暗がりに座る男の手が、握りしめたグラスを割りそうなほどに強張っていることを。

「ハハハ、高杉、お前の奥さんは、離婚して自由を満喫してるみたいだな?」

秋年が楽しげに笑い、綿を見つめたまま言う。

「それにしても、お前の奥さんにタトゥーがあったなんてな。気づかなかったよ」

秋年の視線は、綿に釘付けだった。何度も口からこぼれる「お前の奥さん」という言葉。

隣で、輝明は黙ったままクラスを傾ける。氷が揺れ、ガラスの内側を叩いた。

――結婚して三年。

彼女はどんな場でも慎ましく、上品な服装をしていた。こんな派手な姿は、一度たりとも見せたことがなかった。

そして、彼は知らなかった――綿の背中に、あんなタトゥーがあることを。

「桜井お嬢様は、愛するときも別れるときも、実に潔いな」

秋年は、どこか感心したように笑う。

輝明は、何も言わずに酒を飲み続けた。

――くだらない。

これはただ、一時的な気まぐれだ。三日もすれば、綿はまた戻ってくる。

――そう、何もなかったかのように。

輝明の視線は綿を捉えた。瞬間、目つきが冷たくなる。

綿は男の胸元に身を寄せ、薄い唇をそっと近づけ、耳元に何かを囁いていた。伏せた瞳に微笑みを浮かべるその姿は、あまりにも誘惑的だった。

誰かが彼女に酒を差し出すと、綿はそれをすべて受け取り、微笑みながら杯を傾ける。その仕草一つ一つが、周囲の視線を惹きつけて離さなかった。

輝明は喉を鳴らし、グラスの中の氷がカランと音を立てた。綿の身体が、完全にその男にもたれかかっていくのを、じっと見つめる。

――突然、歓声が上がった。

「桜井お嬢様と小林くん、本当にお似合いだ!」

その言葉に、綿は唇の端を上げながら、男の顔を覗き込む。手元の酒をくるくると回しながら、酔ったような目で囁いた。

「ねえ、小林くん。みんな、私たちお似合いだって言ってるわよ?」

薄く笑みを浮かべながら、首を傾げる。

「あなた、結婚してるの?」

男は、その艶やかな仕草に目を奪われたまま、誘惑に負けるように口を開いた。

「……俺は独身だ。でも、君には旦那がいるんじゃないのか?」

「誰がそんなことを言ったの?」

綿は唇を綻ばせ、妖艶な笑みを浮かべる。

「私も独身よ」

――グラスの酒を、一気に飲み干した音が響いた。

輝明だった。

彼は、何も考えずに酒をあおった。心を鎮めようとするように、無理やり喉を通す。

だが、なぜか——今日はどうしても、じっと座っていられなかった。何度も、何度も、視線が綿へと向かってしまう。

「……君と、高杉は――」

男が言いかけた、その瞬間。

綿は細い指を伸ばし、男の唇にそっと触れる。

「しっ」

赤く塗られた唇が、妖しく歪む。

「彼の話はしないで。気分が悪くなるわ」

――グラスが、軋む音がした。

握りしめた輝明の指が、ガラスを砕きそうなほど力を込めていた。

気分が悪くなる?

この女、口では愛してると言いながら、今は他の男とこうして笑っている。

あの時、どうしても結婚したいと言ったのは、誰だった?

綿は、唇をゆっくりと舐める。指先で、男のシャツのボタンをひとつ外し、耳元で囁いた。

「―-大胆な遊び、してみない?」

男の喉が、ごくりと鳴る。

「……どうやって遊ぶ?」

求めるような声。

綿は微笑んだ。

「――ホテルに行くの」

――ざわっ。

一瞬の静寂の後、クラブ内に歓声が沸き起こった。だた一人、輝明の表情だけが、瞬時に曇った。

異様なほどの圧迫感を感じたのは、秋年だった。

男は、綿の瞳を覗き込みながら、軽く笑う。

「桜井お嬢様、そんなこと言うと、俺、本気にするよ?」

綿は、気にした様子もなく、軽く肩をすくめる。

「私が冗談を言ったこと、あったかしら?」

男は、ソファから立ち上がる。目の前の女を見つめ、ゆっくりと手を差し出す。

「……行こう?」

――だが、その瞬間。

「おい、高杉、お前の奥さんが――」

興奮した声で、秋年が隣を振り返る。

しかし、そこには、もう誰もいなかった。

――次の瞬間、場内に響き渡る悲鳴。

「――高杉輝明!?」

視線を向けると、そこにいたのは――綿の細い手首を、強引に掴む男。

――高杉輝明。

その目が、殺気に満ちていた。男に向けられた視線は、威圧的なまでに冷たかった。

何も言わず、綿の腕を引き寄せる。彼女が抗う隙すら与えず、そのままクラブの奥へと向かっていく。

――トイレの方へ。

「え……?」

ソファにいた玲奈は、立ち上がり、呆然とその光景を見つめた。

――高杉輝明が、どうしてここにいるの?
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梶原 あずさ
あれだけ嫌っていた妻に夫が急に執着し始めて嫉妬する様子にイラッとします。財力があるイケメンの自分本位さが表現されているシーンです。
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