Share

第0005話

Author: 龍之介
夜、シャロンホテル33階。

華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。

ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。

半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。

男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。

今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。

ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。

そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。

天河『酒宴に行った?』

綿『うん』

短く返信し、ため息をつく。

昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。

問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。

酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。

「……綿さん?」

耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。

不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。

そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。

「本当に君なのか?」

綿もまた、思わず驚いた。

「……ジョン?」

どうしてここに――?

傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。

「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」

ジョンは微笑みながら頷く。

――五年前。

海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。

「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」

アシスタントが説明する。

「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」

綿は、ぼんやりと彼を見つめた。

――ジョンが、そんなに成功しているなんて。

五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。

ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。

「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらったんだよ」

彼女がいなければ、きっとあの橋の下で死んでいただろう。綿は、彼の命の恩人だ。

「今回はどうして日本に?」

綿が尋ねると、ジョンは笑顔でドアの方を指差した。

「高杉さんとの仕事でね」

――その名前を聞いた瞬間、綿の呼吸が止まった。

雲城で「高杉」といえば、彼女が最も会いたくない、あの人しかいない。

綿が顔を上げると、そこに立っていたのは彼女が最も会いたくない男、高杉輝明だった。

男はオーダーメイドのスーツをまとい、颯爽とした姿勢で立っている。広い肩と引き締まった腰のバランスが見事で、洗練された雰囲気を漂わせていた。

宴会場に足を踏み入れるや否や、その場の視線は一斉に彼へと向けられた。多くの人々が彼に話しかけ、少しでも顔を覚えてもらおうと必死になっている。

彼は若いにもかかわらず、その地位は揺るぎなく、年配の実業家たちでさえ「高杉様」と敬意を込めて呼ばざるを得なかった。

綿にとって、輝明は――彼女を愛していないことを除けば、完璧な男だった。

彼の隣には、白いドレスをまとった小柄な女性が寄り添っていた。

陸川グループの令嬢、陸川嬌。

陸川家は雲城の四大家族の一つで、その華やかな背景は言うまでもない。

両親からの溺愛に加え、彼女には三人の兄がいて、誰もが彼女を大切にしていた。

綿と嬌は長年の友人だった。

だが皮肉なことに、二人は同じ男を愛してしまった。

愛だけでなく、友情さえも失った。

彼女は、完全な敗者だった。

嬌はそっと輝明の腕に手を絡ませ、二人は微笑みを交わす。輝明の表情には、穏やかな優しさが滲んでいた。

――嬌に対して、彼はいつも優しかった。

その光景を目の当たりにした瞬間、綿の胸が強く締めつけられた。

――結婚していた三年間、彼は一度もこんな風に微笑んだことはなかったのに。

まるで、彼女との結婚など最初から存在しなかったかのように。

「綿さん、あの人が有名な高杉さんだよ。紹介するね」

ジョンはそう言いながら、綿の手を取り、高杉輝明の方へと歩き出した。

綿は思わず苦笑した。

――私に、誰かがわざわざ高杉を「紹介」する必要があるの?

七年間。

彼の優しさも、情熱も、冷たさも、すべて見てきたのは、誰よりも自分なのに。

「ヘイ、高杉さん!」

ジョンが明るい声で輝明に呼びかける。

輝明はまずジョンに視線を向けたが、次の瞬間、綿の姿をとらえた。

綿は思わず息を呑んだ。

――目が合ってしまった。

不意を突かれたように、彼女は反射的に身を翻し、その場を立ち去ろうとする。しかし、ジョンが綿の手首を握り、引き止めた。

輝明の目が、一瞬だけジョンの手元に落ちる。そのまま冷静な表情で、しっかりと彼の手が綿を掴んでいるのを見つめていた。

――離婚したばかりで、もう次の男か。綿も、なかなかのやり手だな。

「綿ちゃんも来てたのね」

嬌が驚いたように声を上げる。

ジョンは嬌の方を見て、意外そうに尋ねた。

「えっ?高杉さんって、既婚者だって聞いてたけど……もしかして、この方が奥さん?」

――その言葉を聞いた瞬間、綿の目が暗く沈んだ。

結婚して三年。

彼女という「妻」は、まるで泡のように儚く、あまりにも小さな存在だった。

ジョンと同じように、彼女が輝明の妻であることを知らない人間は多い。

それはつまり――輝明自身が、そう扱ってきたということ。

嬌は、一瞬躊躇うように輝明を見上げた。彼の腕をそっと握りしめる。

――この場で、自分にどんな「立場」を与えてくれるのか。

緊張したような表情で、それを待っている。

輝明は、ほんの一瞥だけ綿に向け、冷たく言った。

「そうだ」

「へぇ、高杉さんは才能があって、奥さんは美しい。まさにお似合いの二人だな」

そう言いながら、彼は綿の方へと振り返った。

「綿さんもそう思わない?」

綿は、ワイングラスを強く握りしめた。視線の先――漆黒の瞳が、彼女を見つめていた。

一瞬、呼吸が詰まる。彼女は、表情を変えず、静かに微笑んでみせた。それでも、心は、激しく引き裂かれ、息が詰まるほど痛かった。

――結婚して三年間、彼は一度も彼女を妻として紹介したことはなかったのに。

綿がその理由を尋ねるたび、彼は決まって不機嫌そうにこう言った。

「ただの結婚だろ。わざわざ世間に知らせる必要なんてない。ガキみたいなことを言うな」

今になって思えば、知らせる必要がなかったのではなく、「桜井綿」という存在に、その価値がなかっただけなのだ。

そのことを理解した嬌は、どこか誇らしげに、それでいて少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

これは――輝明が初めて、彼女を「妻」として認めた瞬間だった。しかも、その場には綿がいた。

綿はまつげを伏せ、淡く微笑む。

「確かに、お似合いですね」

その一言を聞いた瞬間、輝明の眉がわずかに動く。ポケットの中で、拳がゆっくりと握られた。

――綿に「好きだ」と言われた、あの日のことを思い出す。

彼女は、明るく輝く瞳で、堂々と言い切った。

「誰かがあなたとお似合いだなんて、そんなの絶対に許せない!」

「あなたにふさわしいのは、この私――桜井綿だけよ!」

なのに、今――

彼女は微笑みながら、自分と嬌ちゃんが「お似合い」と言っている。

こんなに従順で、大人しく、穏やかに笑って――いったい、何を企んでいる?

「高杉さん、こちらは僕の友人、桜井綿さんだよ」

ジョンが綿を紹介すると、綿は穏やかな笑みを浮かべ、右手を差し出した。

「はじめまして、高杉さん。お噂はかねがね伺っています」

その言葉に、輝明の瞳が微かに揺れる。

「高杉さん」――それはまるで、一線を引かれたかのような響きだった。

彼女の微笑みは美しかった。けれど、その目の奥には、鋭い刃のような光が潜んでいた。

初めて、彼女に「殺傷力」というものを感じた。

輝明は、その手を取らなかった。

綿は気にしなかった。彼に冷たくされたのは、これが初めてではなかったのだから。

――そもそも、彼にとって「桜井綿」は、尊重に値する存在ではなかった。

その場の異様な空気にも気づかず、ジョンは綿を惜しみなく称賛する。

「綿さんは、僕が今まで出会った中で一番優しくて、素晴らしい女性だよ。本当に尊敬している」

その言葉に、輝明はふとジョンの視線を見た。ジョンの目は、ただの友情だけではない、別の感情を宿していた。

輝明は、冷たく笑う。

何度も嬌に罠を仕掛け、彼女が水を怖がることを知りながら、プールに突き落とした女が――?

クラブで、簡単に男とホテルに行こうとした女が――?

そんな女が、「優しい」?

――笑わせるな。

綿は、彼の嘲笑に気づいた。ゆっくりと表情を崩し、淡々と言う。

「ジョン、高杉さんはどうやら、私のことをあまり好ましく思っていないようです。お話の邪魔をしてしまいましたね」

そう言うと、綿は静かにその場を離れた。

彼女の歩調はゆったりとして、どこか気怠げだった。けれど、背中にある蝶のタトゥーが揺れるたび、まるで生きているかのように艶やかに浮かび上がる。

――だが、輝明にはそれが、ひどく目障りだった。

ジョンは苦笑しながら、軽く肩をすくめる。

「この世に綿さんを嫌う人がいるなんて、信じられないな。もしそんな人がいるなら……きっと、その人の目が見えていないんだろうね」

「……」

綿には、ニュースをチェックする習慣がある。特に彼に関するものは、欠かさなかった。

今朝、彼が嬌と共に新製品発表会に参加したニュースも、彼女は目にしていたはずだ。

――それでも、彼にメッセージを送ることも、電話をかけることもなかった。

本当に、今度こそ、手放すつもりなのか?

嬌は、じっと輝明を観察していた。彼女は、ずっと気になっていた。綿が離婚を申し出た後、輝明は特に喜んでいるようには見えなかった。それどころか、何か考え込むように、時折ふと黙り込むことがあった。

――まさか、綿のことを気にしているの?

その可能性が頭をよぎった瞬間、胸の奥がざわめく。

――そんなはずはない。

そう思いたかった。

だが、その時――

「大変だ!」

大広間の一角から、誰かの叫び声が響く。

「韓井総一郎社長が、心臓発作で倒れた!」
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
蘇枋美郷
私の元夫って言ってやれば良かったのに!
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1157話

    彼は笑った。「はいはい、通報していいよ」「ちょっとあなたってば——」輝明は綿の口を手で塞ぎ、彼女に文句を言わせまいとした。「シーッ、ここは図書館だぞ」綿は彼を睨みつけ、「ふん」とそっぽを向いた。図書館を出ると、綿は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。心の中に、様々な思いが溢れていた。「もし大学時代に戻れたら……輝明、私はやっぱりあなたを好きになると思う」綿は彼を見つめながら、静かに言った。輝明は彼女を見下ろし、笑みを浮かべた。「後で、もう一箇所連れていきたいところがある」「どこへ?」「君がずっとしたかったことをしに行く」え?綿はずっと、自分が本当にやりたいことが何なのか分からなかった。輝明に、かつてどんな願いを口にしたかさえ、忘れてしまっていた。それが分かったのは——海辺で、夕日を見たあの瞬間だった。「ずっと言ってたろ?一緒に夕日を見たいって。今日は絶好の機会だと思って」西の空に夕日が沈みかけ、赤く染まった太陽が水平線にゆっくりと姿を隠していく。荒々しい波が海面をかき乱し、潮の香りがふわりと鼻をかすめた。綿は遠く沈んでいく夕陽を見ながら、自然と笑みを浮かべた。まさか、本当にあの願いを覚えていてくれたなんて。自分でさえ忘れたのに。「綺麗……」「もし十八歳の時にこんな夕陽を見てたら、きっと大騒ぎしてたわね」綿は柔らかく笑った。もうすぐ二十八歳になる。輝明は言った。「今だって、思うままに騒いでもいいんだよ」綿は首を振った。「もう子どもじゃないもの。大人らしく、落ち着かないと」「どうして?」「もう十八歳の少女じゃない。もうすぐ、高杉さんの奥さんになるんだもの」綿は彼を見上げた。輝明の中にあった疑問は、一瞬で解けた。彼は、耳まで裂けそうな笑みを浮かべた。二人はそっと並んでベンチに座った。夕陽の光が二人を柔らかく包んでいた。「いいかな、高杉さん」「何が?」「あなたの奥さんになってもいいかな」「もちろん、願ってもないことだ」夕陽はゆっくりと沈みかけていた。輝明はそっと唇を開いた。「綿……愛が、この瞬間、形になった」「え?」綿は首を傾げた。「つまり、君を愛してるってことさ」彼は顔を彼女に向け、真剣な眼差しで見つめた。輝明は綿を

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1156話

    綿は笑った。「じゃあ、雲大に行くってことだね」輝明は答えず、黙って頷いた。やがて車は雲大の正門に到着した。綿は校門から出入りする学生たちを眺めて、ふっとため息をついた。「前に一度来たじゃない」「でも、今ここを歩く気持ちは、前とは違うよ。もう一度歩いてみないか?」彼は提案した。綿は眉をひそめた。何が違うというのだろう?いまいちわからなかったが、それでも彼について車を降りた。輝明は先を歩き、綿はその後を追った。昔と同じように、輝明はいつも先を歩き、彼女は必死で後ろからついていった。輝明は振り返り、彼女に尋ねた。「なんで前に出てこないの?」「昔みたいに、あなたをこっそり好きだった気持ちを思い出してるの」綿は冗談めかして言った。彼は鼻で笑った。「こっそり?あれは堂々とだろ、全世界にバレバレだったぞ」「少しは私のプライドを守ってよ」綿は口を尖らせた。「はいはい、こっそり。君の言う通り」輝明は素直に頷いた。綿は笑った。輝明は彼女を待って、手を差し伸べた。たしかに、彼の言った通り、昔とは違っていた。綿は彼に手を引かれ、キャンパス内をのんびり歩いた。周囲には彼女を認識する学生もいた。彼女がバタフライであると知って、誰もが驚いていたが、邪魔することはなく、ただ遠くから見守っていた。雲大は昔と変わらない。噴水広場に着くと、ちょうど噴水が上がる時間だった。水しぶきが空高く舞い上がり、周りには笑い声があふれ、青春の真っただ中という空気が満ちていた。綿と輝明は足を止め、青春の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。まるで本当に、あの頃に戻ったかのようだった。「昔、よく雲大まであなたに会いに来たけど、あの頃は迷惑だった?」綿は感慨深げに聞いた。「正直に言っていいのか?」「うん」「……ちょっとだけ」「ちぇっ」綿は拗ねたが、すぐに輝明が続けた。「でも、君が一日来なかったら、すぐに寂しくなった」彼は綿を見つめながら、真剣な顔で言った。「本当だよ。嘘じゃない」あの頃、輝明はたしかに綿のことが好きだった。ただ、あの事故——嬌に救われたことで、すべてがずれてしまっただけだった。「ふーん、だからあの時、急に『?』だけのメッセージを送ってきたんだね」あれは寂しかったから。でも素

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1155話

    綿がバタフライだったという事実は、瞬く間に大きな波紋を呼んだ。話題はすべて綿とバタフライの名前で埋め尽くされ、誰もが衝撃を受けた。かつて「桜井家の無能」とまで言われた綿が、今やこれほど世間を驚かせる存在になるとは、誰が想像しただろうか。彼女には、まだまだ世間が知らない顔があるに違いなかった。スタジオはオープンしたばかりで、スクリーンにはバタフライの作品が映し出され、メディアも来賓もみな、大満足といった様子だった。「雪と涙」は展示台に飾られ、今まで直接見たことがなかった人々も、夢中で写真を撮り、次々とSNSにアップしていた。綿は皆が自分の作品を賞賛する様子を見ながら、自信に満ちた気持ちで胸を張った。きっと、デザインの道をもっと遠くまで歩いていける。謙虚に学び、努力を惜しまないと、彼女は心に誓った。綿がソファに腰を下ろしてひと息つこうとしたその時、輝明が彼女の前に現れた。「ちょっと出かけない?」彼が言った。綿は輝明を睨みながら、不思議そうに尋ねた。「スタジオ忙しいのに、どこ行くのよ?」「遊びに連れていく」彼はにっこり笑った。綿は思わず吹き出した。遊び?「男のモデルを八人呼べるなら、いいよ、高杉さん」綿は首をかしげ、彼を見上げた。輝明はすぐに眉をひそめた。「綿」綿はふてくされた顔で言った。「八人じゃ少ない?じゃあ十人!」彼はすかさず綿の頬をつまんだ。眉間にしわを寄せ、顔をしかめた。「君、一体どうしたんだ」「なにが?十人でも足りないって言うの?」綿はにっこりと笑った。輝明は彼女の唇に指を当て、言葉を遮った。もうやめてくれ。八人でも十分図々しいのに、十人なんて冗談じゃない。彼は本気で怒りそうだった。「行こう」彼は綿の手を引いた。綿は抵抗せず、彼についていった。どこへでもいい。彼が連れていくなら、どこへでも。自分を安心して委ねられる人。信じられる人。彼なら、この先も絶対に裏切らない。綿は輝明の背中を見ながら、しっかりとその後をついていった。玲奈と秋年は、首を伸ばしてその様子を見ていた。「どこ行くんだろう?」「どこへ行こうと彼らの自由だよ。私たちはこっちをしっかり守らなきゃ」玲奈は眉を上げて笑った。秋年は目を細めた。「ほう……俺たちの仕事、っ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1154話

    秋年と玲奈は一瞬きょとんとした。すぐに秋年は笑い、玲奈は唇を尖らせながら「はいはい、仕方ないから引き受けてあげる!」とぶつぶつ言った。「明くんが中にいるから、先に入ってね」綿が秋年に声をかけた。秋年は頷き、玲奈と一緒に中へ入っていった。二人は笑いながら談笑し、なんとも和やかだった。その様子を眺めながら、綿は心から思った。——本当に、私は幸せだ。「ボス、ライブ配信始まるよ!もうすぐテープカットだ!」清墨の声が響いた。綿は頷き、「今行く!」と返事をした。十時の鐘が鳴る頃には、芝生に設けられた席にはすでに来賓が座っていた。スタジオの名前はまだ赤い布で覆われ、誰もが好奇心でいっぱいだった。綿のスタジオ、あまりにも秘密主義すぎる!招待状に書かれていたのはたった一文だけだった。「5月8日、私のスタジオが開業します。お時間ありましたら、ぜひお越しください」スタジオとは聞いていたが、何をするのかまでは誰にも知らされていなかった。「では、余計な言葉はなしにして……スタジオ、いよいよ除幕です!」綿の声に、皆は現実へ引き戻された。ライブ配信のコメント欄は一気に盛り上がった。「早くー!気になりすぎる!」「ジュエリーデザインのスタジオだって言ってたよね?もしかしていい物でも見つけたのか?じゃなきゃ、急にジュエリーデザインのスタジオなんて開かないでしょ!」「なあ、バタフライってもしかして綿のスタジオに来たんじゃないか?」「ありえないだろ!バタフライはフリーでやってるんだぞ!」「いや、絶対じゃないぞ?もし本当に関係あったら?」「もしそうだったら、俺、土下座して謝るわ!」……綿は頭上の赤布を見上げ、カメラに向かって微笑んだ。「ここで、皆さんに正式に発表します」ふわりと微風が吹き、綿の髪が風に揺れた。彼女はカメラを見据え、優しく微笑みながら宣言した。「私が、バタフライです」その瞬間、赤布がめくれ、現れたのは——「バタフライスタジオ」の文字だった。場内は一瞬で凍りついた。「な、なに!?」「嘘だろ、桜井綿がバタフライだったの!?」綿は皆の驚きを受け流し、そのまま続けた。「私の最新作《紅》は、すでに全ネットで先行予約開始しました。これからもたくさん新作を発表していくので、ぜひ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1153話

    綿は清墨に連れられて外に出た。そこには、街路に停められた大型トラックがあった。トラックの荷台部分は透明なガラスケースで覆われていた。ガラスケースには一列の文字が貼られており、その中にはマットパープルのスポーツカーが置かれていた。周りにはたくさんの風船と、いくつかの高級ブランドのギフトボックスが飾られていた。「お嬢様の開業お祝いに贈るおもちゃ」綿は思わず息を呑み、驚いた目で清墨を見た。これは?スポーツカーの後ろには、次々と運び込まれる花束たちがあった。どの花束にも祝福の言葉が添えられていた。何十もの花束が両側にずらりと並び、たちまち、スタジオの外はまるで花園のようになった。周囲は静まり返り、綿はまだ驚きの中にいた。その間に清墨は静かに身を引いていた。さらに前を見やると、一人の男が、鮮やかなマンタローズの花束を抱えて、ゆっくりと綿の方へ歩いてくるのが見えた。男は完璧に仕立てられたスーツに身を包み、背筋をまっすぐ伸ばしていた。彼は綿の目の前に来ると、そこで足を止めた。綿は鼻の奥がツンとした。「やっぱり、あなたか」輝明は微笑んだ。「どうしてわかった?」「だって、わかるもん」綿は言った。輝明は手に持っていた花束を綿に差し出した。「開業、おめでとう」綿は素直に花束を受け取り、そっと頷いた。「ありがとう、高杉さん」「まだプレゼントがあるよ」輝明はスマホを取り出した。綿はこれ以上の贈り物なんて、想像もしていなかった。どうやら、そのプレゼントはスマホの中にあるらしい。「でも、残念ながらこのプレゼントは、すぐには届かないんだ。直接、催促しちゃダメかな?」彼はスマホを綿に差し出した。綿は画面を覗き込み、ようやく理解した。輝明が、《紅》を注文していたのだ。「これ、どうして買ったの?」綿が尋ねると、輝明は首をかしげた。「愛する人から《紅》を贈られるべきだろ?君は愛されてるんだから、当然持つべきだよ」綿は思わず吹き出して笑った。……このバカ。「じゃあ……できるだけ早く?」綿が言うと、輝明は軽く頷いた。綿は一歩踏み出して、輝明をぎゅっと抱きしめた。「ありがとう、高杉さん」「お礼なんていらないよ。今日は俺、クライアントとして来たから。契約書も持ってきたんだ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第1152話

    「もちろん!」《紅》のデザインは、輝明が自分を救ってくれたあの日に着想を得たものだった。《紅》が持つ意味は、ただ一つ。——血が彼の衣服を染め、そこから愛情は絶え間なく、ますます深く濃くなった。発表と同時に、再びバタフライに対する称賛の声が高まった。白地に赤がにじむシンプルなデザイン、クラシックで洗練された美しさは、一目で誰もを虜にした。そして何より、今回は唯一無二の限定品ではなく、誰でも購入できる仕様になっていた。意味は明白だった。——すべての人に、絶え間なく続き、ますます深まる愛を手にしてほしい。ジュエリーの下には、綿のメッセージが添えられていた。「あなたを愛する彼に《紅》を贈ってもらってください。もし、そんな彼がいないなら、自分で自分に贈ってあげてください」輝明は会議を終えた後、そのジュエリーが公開されたニュースを目にした。胸が、ぎゅっと締めつけられた。——どうりで、あの日、東屋でiPadを抱えて何かを描いていたわけだ。「紅……」輝明はその名を呟きながら、スクリーンに映る小さな文字を見つめた。「鮮血が彼の衣を染め、そこから愛は絶え間なく、ますます深くなった」輝明の口元がほころび、目には柔らかな笑みが浮かんだ。——自分は彼女のインスピレーションだったのか?……5月8日。あっという間に、スタジオ開業の日がやってきた。朝8時、綿スタジオの公式アカウントがついに稼働を始めた。「@桜井綿スタジオ:みなさん、こんにちは!いつも応援ありがとうございます。本日、桜井綿のスタジオが正式にオープンします!長い間お待たせしましたね。そして、皆さんが一番気になっていた質問に、ここでお答えします。『桜井綿スタジオって何のスタジオなの?』今までは情報を伏せていましたが、答えは——ジュエリーデザインのスタジオです!ぜひ遊びに来てください。そして、ここには驚くべき小さな秘密が隠されています。もし現地に来られない方は、10時からのライブ配信をチェックしてくださいね!」今日の天気は格別だった。空には薄い雲がいくつか浮かび、真っ白な綿飴のようだったり、ほんのり赤く染まって美しい女の頬のようだったり。メディア関係者たちはすでに集まっていた。そして、今日の来賓には業界の名士たちも多く含まれていた。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status