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第0010話

Author: 龍之介
輝明は、綿の言葉に驚きを隠せなかった。

彼女と祖母の関係は非常に良好で、祖母は実の孫娘のように綿を可愛がっていた。

輝明が少しでも彼女に冷たくすれば、祖母はすぐに綿をかばい、何度も会社まで乗り込んできては、彼を叱りつけたほどだった。

そんな彼女が、祖母の誕生日に出席しないと言うなんて――信じられなかった。

「綿、嬌の件はもう済んだことだ」

眉をひそめ、穏やかな口調で言う。

「済んだ?じゃあ何、私が突き落としたってことで終わらせる気?」

綿は間髪入れずに反論した。

輝明はこれ以上、この話を続けるつもりはなかった。不快感を隠そうともせず、低く言い放つ。

「わがままなことを言うな」

綿は彼を睨みつけた。失望の色が、瞳の奥にじんわりと広がっていく。

――わがまま、だって?

ふっと笑いが漏れる。

「結婚したばかりの頃は、確かにわがままだったかもしれない。でも、その後は? 私がどれだけ駄々をこねた?」

「あなたが言ったでしょ?『お前を甘やかすことはできない』って。そんなの、とっくにわかってるよ」

「今さら私がわがまま言ったって、誰か構ってくれる?」

綿は靴を履きながら、静かに言った。

その声には、怒りもなければ、涙もない。ただ、静かで、どこか空虚だった。

目を上げると、輝明に包帯を返す。だが、その瞳は正直だった。

どれだけ平静を装っても、憎しみでも、失望でも、彼に向ける視線の奥には、拭いきれない想いが滲んでいた。

「もし私が嬌だったら、きっとあなたにしがみついて、思いっきりわがまま言ったのに」

目を細めて微笑む。その笑顔は明るく見えるけれど、どこか苦い。

彼女は嬌ではない。その資格はなかった。

他人が持っているものは、彼女も持っていた。他人が持っていないものも、彼女は持っていた。

それなのに、今――彼女は初めて、誰かを羨ましいと思った。

――嬌は、輝明の愛を手に入れた。

喉の奥で小さく音を鳴らしながら、輝明は目を細める。胸の奥で、じわりと得体の知れない熱が広がっていくのを感じた。

「時間ができたら、連絡して。役所で離婚手続きをしよう」

綿は微笑みながらそう言った。その目は澄んでいて、明るく、美しく輝いていた。

――もう、泣いてすがる綿ではない。

本当に、手放す覚悟を決めたのだ。

輝明は眉をひそめる。胸の奥に、鈍く引き裂かれるような感覚に襲われた。

「綿――」

「おばあさんの体調を考えて、離婚のことはまだ言わないでほしい。そうでしょ?」

綿は、彼の言葉を遮った。

一瞬、沈黙が落ちる。

「そういえば――」綿は彼をじっと見つめ、静かに尋ねる。「3年前にあなたに贈った指輪、覚えてる?」

指輪――?

輝明の表情が、一瞬だけ曇った。

……覚えていない。

その反応を見て、綿は確信する。

「お前がくれたものは全部、書斎の三つ目の引き出しにある」

輝明は、そう答えるのが精一杯だった。

綿はわずかにうなずき、「離婚後、私は何もいらない。ただ、その指輪だけ。時間があれば、別荘に取りに行くから」

そう言いながら、車のドアに手をかける。しかし――

その手首を、輝明が強く掴んだ。

「……離婚を、そんなに急いでいるのか?」

綿はふっと笑った。

――彼は、急がないとでも?

「もちろん。だって、小林くんやジョンくん、私を待ってる人がたくさんいるんだもの」

瞳を細め、いたずらっぽく微笑む。その清純な笑顔は、どこか妖しさすら感じさせた。

――彼も、一刻も早く心に決めた相手を迎え入れたいはずなのに。

輝明の表情が曇り、目の奥に複雑な色が滲む。次の瞬間、彼の手に力がこもる。

綿の瞳孔がわずかに縮まり、掴まれた傷口からじんわりと痛みが広がった。

車内の空気が張り詰める中、輝明は彼女の無表情な横顔を見つめ、突然問いかけた。

「……誰か好きなやつでもできたのか?」

不意の問いに、綿は一瞬驚いたが、すぐに平静を取り戻す。

息が触れそうなほど近づき、熱を帯びた視線で彼を見つめた。

「――高杉さん、元夫として少し口出しが過ぎるんじゃない?」

輝明は一瞬言葉を失う。

「高杉さん」「元夫」――その呼び方が、なぜか苛立たしかった。

綿はすっと彼の手を振り払い、何も言わずに車のドアを開けて降りる。

冷たい雨の中、彼女はゆっくりと歩き出した。車のライトに照らされた背中は、どこか儚げで、今にも崩れ落ちそうだった。

輝明はハンドルを強く握りしめる。

綿がもう彼に執着しなくなった――

それは、ずっと望んでいたはずのことだった。

――なのに、少しも喜べない。

胸の奥がざわつく。何かが失われていくような感覚に、苛立ちと焦りがこみ上げる。

あてもなく街を歩きながら、綿は思った。この煌びやかな街が、こんなにも虚しく見えるなんて。どれだけネオンが輝いていても、心の隙間は埋まらない。

家に戻ると、すでに11時を過ぎていた。

リビングでは、天河と盛晴が並んでソファに座り、テレビドラマを観ながら、楽しげに話している。

綿がドアを開けると、盛晴が手を振った。

「おかえり、楽しかった?」

天河も続く。「どうだった?」

綿は立ち止まり、二人を見つめる。

――ああ、ここが私の帰る場所なんだ。

胸の奥がじんわりと温かくなった。

綿は二人の間に入り込み、盛晴をぎゅっと抱きしめる。

「お母さん……」

盛晴は驚いたように天河と目を合わせたが、すぐに綿が何か抱え込んでいることに気づいた。彼女の背中を優しく撫でながら、落ち着いた声で言う。

「お母さんがついてるから、大丈夫よ」

天河も冗談めかした口調で続けた。

「お父さんも、ちゃんとここにいるぞ」

綿は盛晴から身を離すと、今度は天河を抱きしめ、小さくつぶやく。

「……ごめんなさい」

天河の顔が曇る。

「何を謝ることがある?親が子供を責めるわけがないだろ」

盛晴も綿の頭をそっと撫で、「大丈夫よ、綿ちゃん。今は辛いかもしれないけど、乗り越えたら未来はきっと明るいわ」と優しく励ました。

綿は鼻をすすりながら天河から離れ、改めて二人を見た。目の前にあるのは、いつもと変わらない、あたたかい眼差し。笑みを浮かべながら静かに頷く二人の姿に、綿の胸がじんわりと満たされていく。

――私は、なんて勝手なことをしてきたんだろう。

「今日は、どんな一日だった?」天河が軽い調子で聞く。

綿は心を落ち着けて、二人の間に座り、今日の出来事を説明し始めた。

「韓井社長を助けたって?」天河は驚きの声を上げた。

「うん」綿は水をひと口飲み、頬杖をついて窓の外を眺めた。

天河は続けて尋ねる。「へえ、で、彼の息子にも会ったのか?」

「……うん」

天河はふっと笑い、「いやぁ、やっぱり俺の娘はすごいな!でも、おばあさんにはこの話をしない方がいいな。あの人、また『やっぱり医者になるべきよ』って言いだすからな」

綿は思わず吹き出した。「確かに」

「ところで……」天河はニヤリとしながら腕を組んだ。「そろそろ俺の会社を引き継ぐ気になったか?」

「お父さん、またその話?」綿は笑いながら立ち上がり、さっと逃げる。

「忘れるためには、忙しくするのが一番だぞ!」背後から天河の声が飛んできた。

「会社を継げって言ってるようで、実はお前が余計なことを考えずに済むようにしてるんだよ」

「じゃあ、明日の夜、俺の代わりに会食に行ってくれ。そろそろこういう場にも慣れないと」

「……お父さん」

部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せる。

確かに、何かに没頭していれば余計なことを考えずに済むかもしれない。でも、さすがに詰め込みすぎじゃない?

ベッドに倒れ込み、スマートフォンを手に取る。通知が光っていた。

雅彦『ボス、指輪は手に入れたか?早く戦いに行こうぜ!』

――指輪……

綿は数秒の間、画面を見つめたあと、短く返信した。

『明日取りに行く。昼にM基地で会おう』
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