「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。
「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「
「桜井綿、俺がお前を愛するなんて妄想するな!」男は彼女の首を掴み、ソファに押しつけながら憎々しげに叫んだ。「もう限界だ。おとなしくしてろ。半年後、絶対離婚してやる!」「陸川嬌を突き落としたのは私じゃない……彼女が自分でプールに落ちたの!」桜井綿の声はか細く震え、全身びしょ濡れのまま、痩せた体が絶えず小刻みに揺れていた。先ほど水に落ちた恐怖から、まだ抜け出せずにいた。「言い訳はやめろ!お前は嬌ちゃんと長年の友人だろ?彼女が水を怖がるのは、一番知っているはずだ!」男はさらに力を込める。まるで「嬌に何かあれば、お前も同じ目に遭わせてやる」とでも言うような、凶悪な表情だった。「長年の友人」――その一言で、彼女の罪は決まった。綿の瞳は薄く霞み、一筋の涙がゆっくりと頬を伝い落ちた。心が砕ける音が、自分にだけ鮮明に響く。他の女のために、自分を責めるこの男が夫だなんて――信じたくなかった。彼女は高杉輝明を四年間愛し、三年間、彼の妻だった。三年前、彼と結婚できると知ったときの喜びは、言葉にできないほどだった。――だが、輝明と結婚してから知った。この結婚には最初から、彼の愛なんてなかったのだと。輝明の母は、たとえ何があっても、彼の想い人である陸川嬌を家に入れないと決めていた。それで綿は、陸川が彼のそばに居続けるための「道具」にされたのだ。陸川がプールに落ちたとき、みんなが彼女を助けに行き、必死で取り囲んだ。――けれど。綿がプールに落ちたときには、誰一人、気にも留めなかった。冷たい水の底で、ただ一人、死にかけていた。輝明は陸川が水を怖がることを覚えていた。けれど、彼女も同じく水を恐れていることは忘れていた。必死に築き上げた結婚が、ただの空っぽな殻だったと気付いた瞬間、綿は思わず笑ってしまった。ソファに座ったまま、乾いた笑みをこぼす彼女を見て、輝明は軽蔑の色を浮かべる。そして、冷たく言い捨てた。「……狂ってるな。」――そう。彼女は、狂っていたのかもしれない。輝明と結婚するために、彼女は何度も父に逆らい、桜井家を混乱に巻き込み、ついには父と決裂した。その結果、父は病で倒れ、入院することになった。父は彼女に言った。「愛してくれない男と結婚しても、苦痛なだけだ。君は、勝てない」――けれど、彼女は信じていた。
「パパ、あなたの言う通りだったわ。輝明の心を温めることなんて、私にはできなかった。間違っていた、帰りたい……おうちに帰りたいの……」綿のかすれた声が、静まり返ったリビングに沈んだ。桜井家は南城でも指折りの名家であり、医者の家系でもある。祖父は成功した実業家であり、祖母は心臓外科の名医。その二人は、周囲から理想の夫婦と称えられていた。幼い頃から綿は祖母のもとで医学を学んでいた。祖母は彼女を天才と呼び、「あなたはこの道を歩むべく生まれてきたのだ」とまで言った。祖父と祖母は、彼女が医師としての道を歩めるように環境を整え、父は彼女のために莫大な資産を築いた。母は、「綿はいつまでもあたしの可愛い娘よ」といつも優しく微笑みながら、彼女をそっと包み込むように愛し続けた。けれども綿は、そのすべての捨てた。ただ一人のために。高杉輝明。愛のために全てを投げ打ち、彼のもとへと飛び込んだ自分を、かつては「愛に生きる勇者」だと信じていた。だが今、思い返せば、ただの愚か者だった。綿は深く息を吸い込むと、静かに階段を上り、シャワーを浴びた。流れ落ちる湯とともに、張り詰めていた感情がほどけていくのを感じる。肌を拭き、丁寧に髪を梳かし、軽く化粧を施した。もう、泣かない。荷物をまとめ終えると、リビングの壁にかかった一枚の絵に目を向けた。輝明と共に描いた夕焼けの絵。彼女はそっと指先で絵の端をなぞる。結婚したばかりの頃の、あの幸福感が胸をよぎる。――結婚式なんてなくてもいい。輝明の妻になれるだけで、それで十分。そう信じていた。だが、父は激怒した。――「お前は自分の価値を貶めている。いつか、大きな過ちだったと気づく日が来るぞ」あの日の言葉が、いまさらになって胸に突き刺さる。綿は、そっと絵を額縁から外した。一度、深く息を吸う。そして──破り捨てた。絵の断片が、床に散る。その欠片を手でかき集め、ゴミ箱へ押し込んだ。終わりだ。この選択が、命を削るほどの痛みを伴うものだったことは確かだ。だが、まだ生きている。これからは、ただ平穏に、穏やかに生きていきたい。それだけを、願う。新婚初夜、輝明が投げつけた離婚届。綿はそれを引き出しの奥から取り出し、そっとテーブルの上に置いた。そして、その紙を見つめながら、ま
輝明は、信じられなかった。綿がいそうな場所を、手当たり次第に探し回った。裏庭、書斎、映写室……どこにも綿の姿はなく、彼女の物さえも見当たらなかった。書斎の本棚にあった、綿がよく読んでいた医学書も、跡形もなく消えている。もともと、この家にはあまり帰らなかった。だが、綿がいなくなった今、この家はまるで何年も前から空き家だったかのように、冷え切っていた。重い足取りで階段を降りると、ふと目に入った。ソファの後ろの空いたスペース。――何かが、なくなっている。近づくと、ゴミ箱の中に破られた絵が捨てられていた。その瞬間、息が止まる。――あの絵だ。結婚してから、綿はよく「一緒に買い物に行こう」とせがんできた。だが、輝明は忙しさを理由に、彼女のことを疎ましく思い、何度も断り続けていた。その日――綿の誕生日。彼女が会社までやって来て、「一緒に誕生日を過ごせる?」と聞いた。「忙しいなら、半時間でもいいから……」彼女の声は、どこか怯えていた。まるで、彼に拒まれることをすでに覚悟しているかのように。それが、妙に目についた。だから、仕方なく了承した。どうせ、高価なプレゼントをねだったり、特別なディナーに連れていけとでも言うつもりだろう。そう思っていた。しかし、彼女はただ、「一緒にショッピングセンターに行きたい」と言っただけだった。「輝明……手をつないでもいい?」その声は、期待というよりも、不安げだった。彼が忙しいのをわかっていたから、負担にならないようにと、あちこち歩き回る買い物ではなく、手作りの店で一緒に絵を描くことを選んだ。くだらない。彼はそう思いながら、ただ隣で見ていただけだった。その間、嬌からの電話が何度かかかってきた。綿は何も言わなかった。ただ黙って、筆を走らせていた。家に戻ると、彼女はその絵をリビングに飾り、とても嬉しそうにしていた。……それ以来、彼女は二度と、買い物に誘うこともなかった。誕生日を祝ってほしいとも言わなかった。輝明は、壊れた絵に手を伸ばした、その時、視線の端に何かが移る。――離婚届。眉がピクリと動く。無造作に置かれたその紙に、彼と綿の名前が記されていた。喉を鳴る。心臓が、嫌な音を立てる。綿が……本当に、離婚に同意したのか?――ピロンスマ
綿は、目の前で自分の手を引いていく男を見つめた。酔いが回ったせいか、視界が少し霞む。――あの頃も、彼はこうやって私の手を引いた。追手から逃げるように、必死に走ったあの日。もし――もしあの時、輝明がもう少し冷たかったら。こんなにも深く、彼を愛してしまうことはなかっただろう。家族を捨ててまで、彼と結婚しようとは思わなかったかもしれない。それなのに――どうして、彼がここにいるの?何をしようとしているの?私が他の男と親しげにしているのを見て、嫉妬でもしてるの?――ありえない。綿は、その考えをすぐに振り払った。――輝明は心を持たない。彼は私を、一度たりとも愛したことがない。だから、嫉妬するはずがない。――バタン。重い扉の音とともに、綿はトイレの中へと押し込まれた。酒のせいで、身体から力が抜ける。洗面台の端に追いやられた瞬間、逆光の中に立つ輝明の姿がぼんやりと映る。影に包まれた顔――それでも、その美しさだけは際立っていた。そして、冷たい声が落ちる。「綿。俺たちは、まだ離婚していない」奥歯を噛みしめながら、低く絞り出すような声だった。綿は、鏡を見た。そこに映るのは、自分の背中に刻まれた蝶のタトゥー。まるで自由を求めるかのように羽を広げている。彼女はゆっくりと目を上げ、痛みを押し殺しながら、静かに言った。「――高杉さん、離婚届にはもうサインしたわ。ある意味では、もう離婚しているのよ」――ピキッ。わずかに、輝明の表情が動いた。その瞬間、彼の指が、強く綿の手首を握り締める。「……高杉、さん?」その名を、一語ずつ噛み締めるように、低く問いただす。綿は微笑んだ。「何?高杉さんって呼ぶの、間違ってる?」綿が彼にそう呼びかけたのは、これが初めてだった。今まで、彼のそばではずっと――「明くん」「明お兄ちゃん」どんな時も、優しい声で、彼の名前を呼んでいた。でも、彼が「その呼び方はやめろ」と言ったから、彼女は二度とそう呼ばなかった。結婚して三年、距離は縮まるどころか、ただ広がるばかりだった。綿は、少しだけ顔を近づける。「違うわね」「私はあなたを『元夫』と呼ぶべきね」彼の瞳が、一瞬で冷たく凍る。そして、綿の細い腕を、さらに強く引いた。彼女の背中が、勢いよく洗
夜、シャロンホテル33階。華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。天河『酒宴に行った?』綿『うん』短く返信し、ため息をつく。昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。「……綿さん?」耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。「本当に君なのか?」綿もまた、思わず驚いた。「……ジョン?」どうしてここに――?傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」ジョンは微笑みながら頷く。――五年前。海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」アシスタントが説明する。「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」綿は、ぼんやりと彼を見つめた。――ジョンが、そんなに成功しているなんて。五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらった
大広間が一気に混乱に陥った。人々はワイングラスを置き、次々と韓井総一郎が倒れた場所へと集まり、何が起こったのかを確かめようとしていた。「救急車は呼んだか?」「いつ到着するんだ?ここで韓井社長が死んだら、韓井家は黙らないぞ!」綿は目を上げ、倒れている男性を見た。50代くらいだろうか。青白い顔に、ぐったりとした体。手元の時計を確認する。――市立病院までは車で15分。だが、この時間帯は渋滞がひどい。救急車を待っていたら、間に合わないかもしれない。ホテルのスタッフはまだ何の対応もできておらず、その間にも男性の容態は悪化している。綿は静かに息を吸い、眉を寄せた。――もう、黙って見ている時間はない。前へと歩み出し、力強く声を上げる。「ちょっと見せてください」その瞬間、一斉に視線が集まった。――桜井綿?「お前に何ができる?」男の声が、ざわめきの中で響いた。「桜井家は医学の名門だが、お前はただの飾り物だろう。医術なんて何も学んでいないはずだ!」その言葉に、人々の間で次々と騒ぎが起こる。「そうだ!人の命がかかっているんだぞ!韓井社長を素人に任せるなんて、火に飛び込ませるようなもんだ!」「もしここで死んだら、責任を取れるのか?これは子供の遊びじゃないんだぞ!」「彼女に治療させるわけにはいかない!どけ!」怒号が飛び交う。まるで、あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、彼女を否定する言葉が次々と投げかけられた。綿は、まだ男性に触れてもいないのに、すでに人々に押しのけられていた。「でも、もう待てません!」強く訴えるが、その声は雑音にかき消される。「たとえ死んでも、お前みたいな無能な飾りに救われるくらいならマシだ!」――その声は、鋭く突き刺さるような女性のものだった。同時に、強く肩を押される。たとえ死んでも、私に助けられるのは嫌だというのか。その言葉は、冷たい刃のように胸に突き刺さる。綿は無意識に息を詰まらせ、感情が一瞬にして凍りついた。ふらりと後ろへ二歩下がる。目の前には、壁のように立ちはだかる黒い人の波。――敵意に満ちた視線。その圧倒的な拒絶の中で、胸の奥がじわりと痺れる感覚を覚えた。無能?お飾り?彼女の医術を疑われたことなど、一度もな
「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「
「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。
雲城に足を踏み入れるような人物であれば、この爺さんも間違いなく一流の人だろう。その後も会話が弾み、気がつけば時刻は既に夕方。昼食を取るのも忘れて話し込んでしまった。6時を過ぎた頃、和也がようやく口を挟んだ。「そろそろ夕食に行きませんか?場所はもう予約してあります」綿は時計を見て、驚きと共に宗一郎に微笑みかけた。「教授、私ったらつい夢中になりすぎて、食事の時間をすっかり忘れてしまいました」「話が弾んでいたようだね」宗一郎は私的な場面では寡黙だが、的確な一言を返した。「行きましょう。今日は僕たちがご馳走します。幻城へようこそ!」和也は笑顔で綿たちを招いた。その表情は温かく、どこか優しげだった。綿は彼を少しじっと見つめた。――快活でハンサムな青年だ。外に出て和也たちと一緒に車に乗り込む前、綿のスマホ電話が鳴った。輝明「どこにいる?今日はクリスマスだ。昼間は一切邪魔しなかったけど、夜は一緒に過ごせないか?」綿は眉を上げ、メッセージを打った。綿「出張中」輝明「出張?なぜ一言教えてくれなかった?」綿「アシスタントと一緒。徹さんはあなたの友達だから、もう聞いてると思ってたのに?」綿は心の中でつぶやいた。――私の行動を知りたければ、いくらでも手を回せるくせに……何を今さら。輝明「何時に帰る?もう遅い時間だ」綿「順調なら夜8時の新幹線で戻る予定」輝明「順調じゃない可能性もある?」綿「わからないわ」話が弾んでいることに加え、せっかくの機会なので、あと2日ほど滞在してもっと議論を深めたいと綿は考えていた。だが、今日がクリスマスであり、父が自分のために飾り付けたツリーのことを思うと、心が揺れる。輝明「迎えに行くよ」そのメッセージを見た綿は即座に警戒し、慌てて返した。綿「来なくていい!」――何で彼に迎えに来てもらう必要があるの?自分で新幹線で帰ればいいじゃない。綿「仕事で来てるの。邪魔しないで」輝明「君が心配なんだ」綿「あなたがいなかった3年間も、私はちゃんとやってたわ。あなたの心配なんて必要ない」輝明「それは過去の話。今は違う」綿「何も変わらないわ」輝明「俺に3か月の猶予をくれたじゃないか」綿「猶予を与えたからって、あなたの望むままに付き合わなきゃ
目の前に広がるのは、これ以上ありふれたものはない、普通の店構えだった。外壁には「LK研究所」と書かれた小さな看板が掛けられているが、ぱっと見ただけでは、まるで路上の軽食店のようだった。山下はまたも気まずそうに笑いながら言った。「お恥ずかしい話ですが、僕たちの研究所は予算が少ないんです。でも技術だけは確かですので、どうかご安心を!」「では、どうぞこちらへ」彼は綿たちを中へ案内した。綿は無言のまま、周囲を見渡した。――このベテラン教授が信頼できる人だと知っているからこそついてきたものの。もし彼のことを知らなかったら、こんな場所、絶対に罠だと疑ったに違いない。「腎臓を売られるんじゃないか」とさえ思うほどだった。陽菜もおそらく、さっき目撃した事故の光景が頭に焼き付いているのだろう。妙におどおどしていて、綿のすぐそばから離れようとせず、以前のような口数の多さもすっかり影を潜めていた。綿にとっては、ようやく訪れた静けさだった。二人は山下の後について店の中に入った。外見はみすぼらしいが、内装は意外にも新しさがあり、ここ数年で改装されたようだった。綿はちらりと室内を見渡し、山下の後についてさらに奥へ進んだ。応接間を通り抜けると、そこは研究所の核心部である研究室だった。外観がボロボロなのは、わざと目立たないようにしているのかもしれない。派手に飾ってしまったら、盗みに入られるリスクが高まるからだ。そんなことを考えていたその時、後ろから年配の男性の声が聞こえた。「お待ちしていましたよ」綿と陽菜は声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、70代と思しき白髪の紳士。彼は白い着物を身にまとっていて、威厳が感じられる。山下は彼を見てすぐさま駆け寄った。黒服の山下と白服の紳士――二人の対比はとても目を引いた。しかし、綿はすぐに妙なことに気づいた。この二人、顔つきがあまりにも似ているではないか。それだけでなく、二人の姓も同じ「山下」だった。紳士は名乗りながら言った。「山下宗一郎です」綿は再び山下に目を向けた。すると、老紳士は山下を指差して続けた。「こちらは私の孫、山下和也です」綿は思わず息を飲んだ。――なるほど、親族だったのか……「この研究所にはお二人しかいないんですか
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか
綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手
陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて
綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ
綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹