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第0963話

Author: 龍之介
「綿ちゃん、君が今までにどれだけの人を振ったか、覚えてるか?」

炎は手にしたグラスを軽く揺らしながらそう言い、そのまま中身を一気に飲み干した。

綿は眉をひそめ、少し考えた。

思い返してみても、そんなに多くはなかった気がする。

時期が悪かったり、そもそも合わなかったり。

恋愛は妥協するものじゃない——

輝明と別れた後、彼女が得た大切な教訓だった。一度学んだ以上、二度と自ら進んで感情の牢獄に囚われることはない。

もし本当に次の恋を始めるとしたら、

それは慎重に、よくよく考え抜いた末のことだと、綿は決めていた。

「覚えてないわ」

綿はあっさりと答えた。

炎は苦笑した。

「随分と冷たいんだな」

そして、綿をじっと見つめながら、静かに問うた。その目には、深い失望と悲しみが浮かんでいた。

「将来、誰かに『商崎炎という男を知ってるか』って聞かれたら、君はまた同じように冷たく『知らない』って言うのか?」

綿は一つうなずいた。

どうせ拒絶するのなら、徹底的に、曖昧な期待を持たせずに断ち切るべきだ。

それが、相手を余計に傷つけないための、せめてもの優しさだと知っている。

綿は、少しの甘さに惑わされ、その甘さがまた相手に期待を持たせてしまう、あの痛みを、誰よりも知っていた。

「はあ……」

炎は深くため息を吐き、それからステージへと視線を向けた。

ちょうど輝明もこちらを見たところだった。

四目が合った瞬間、炎の胸に、嫉妬が激しく燃え上がった。

彼は輝明の成功を妬まなかった。その端正な顔立ちも、幼い頃からの才能も、何一つ羨ましいとは思わなかった。

だが……

彼だけが綿を得られること、彼だけが綿から再びチャンスを与えられること。

それだけは、どうしても嫉妬せずにはいられなかった。

「昨年の総括は以上となります。改めて皆様のご信頼とご支援に感謝申し上げます。来年も、皆様と共に更なる繁栄を築いてまいりましょう」

輝明が締めの挨拶を終えると、

会場には大きな拍手が鳴り響いた。

綿も手を叩きながら、

彼を見上げた。

炎は無言で、ステージ上の輝明を見つめ続けた。

目が合う。炎はふっと笑った。

だが、輝明の目は、少しも穏やかではなかった。

輝明にとって、炎と綿が親しげに話していた時間は、耐えがたいものだったに違いない。できることなら、今
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