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第0971話

Author: 龍之介
綿は輝明の手をぎゅっと握りしめ、彼の手の甲に爪痕が残るほどだった。

輝明の脳裏に、以前二人が言い争いをしたときのことがふとよぎった。

綿が離婚に同意したあの日。

彼は愚かにも、嬌が水を怖がるのに綿が彼女を突き落とした……そんな馬鹿なことを言ったのだった。

そのとき、綿はどう答えたか。

「私だって、水が怖いの」

彼女は本当に怖がっていた。

演技なんかじゃない。

輝明を助けるために、命がけで海に飛び込んだあのとき、死にかけた恐怖が、心に深い傷を残してしまったのだ。

思い出すだけで、輝明は自分の愚かさに吐き気がした。

過去の記憶は、彼にとって思い返すことすら恐ろしいものだった。思い出せば思い出すほど、それは心に突き刺さる棘となり、息をすることすら苦しくなる。綿への罪悪感は日ごとに膨れ上がり、いつしか彼の胸を押し潰すほどの重さになっていた。

彼は綿をぎゅっと抱き締めた。

一月の雲城。暖房がない場所は、骨まで凍えるほど寒かった。

エレベーターの中には「ジリジリ」という不快な音が鳴り響き、赤黒く点滅するランプと漆黒の闇が交互に訪れた。

綿は一言も声を出さなかった。ただ、必死に耐えていた。

輝明はそっと彼女の背を撫でた。

「怖がらないで」

「……もっと早く送ればよかった。本当にごめん」

彼の声はかすかに震えていた。そこには、抑えきれない後悔がにじんでいた。

綿と一緒にいるとき、いつだって何か問題が起こる。彼女に良い思いをさせた記憶など、ろくになかった。

綿は、完全に膝をつきながら彼に抱きついていた。輝明の体温が、彼女にわずかな安心感を与えた。

「寒くないか?」

輝明は尋ねた。

綿は首を振った。

たぶん、エレベーターが停止して安定したせい。あるいは、輝明が傍にいてくれる安心感のおかげかもしれない。少しずつ、彼女の気持ちは落ち着いてきた。

それでも輝明は、自分の上着を脱ぎ、綿の肩にそっとかけた。

男らしいクールな香りが、ふわりと鼻先をかすめた。綿は薄暗いライトの中で、輝明の顔を見た。

深く眉を寄せ、重い呼吸をしている。完璧な顔立ちには、心からの不安と心配がにじんでいた。

……エレベーターの故障よりも、綿の方が心配だった。

綿は視線をそらし、俯いた。

輝明はそっと彼女の手を取った。

先ほどは自分の手が冷たかったのに、今は綿の
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