森下は軽く頷いた。「はい」すると、輝明が尋ねた。「頼んだ件、どうなった?」「ご安心ください、社長」森下は笑顔で答えた。「桜井さんが欲しがっていたバッグ、何があっても手に入れます」綿は思わず心の中で森下に同情した。本当に、面倒かけてごめんね。車内には、少し静かな空気が流れていた。気を利かせた森下は、雰囲気を和らげようと話題を振った。「桜井さん、おばあさま方に、うちの社長……いじめられたりしませんでした?」綿は顔を上げ、さらりと答えた。「いえ、うちのおじいちゃん、とても優しかったよ」輝明「?」優しかった?……どこがだ。さっき、露骨に追い返されたばかりだろうが!「じゃあ、つまり……おばあさまの方が、ちょっと厳しかったんですかね?」森下は軽く笑った。綿は慌てて首を振った。「そんなことないよ。おばあちゃんも優しかった。『あまり喋るな』って忠告してくれただけ」輝明「……」……いや、それ、普通に黙れって意味だからな?……でもまあ、綿なりに気を遣って、うまくオブラートに包んでくれてるんだな。森下はルームミラー越しに社長の顔をちらりと見た。社長の顔色は、完全に曇っていた。……まあ、さっき相当やられたんだろうな。「社長、焦らずにいきましょう。未来は長いですから」森下は気を利かせて慰めた。輝明は黙ったまま、窓の外を見ていた。綿はまた森下と軽く話を続けた。輝明は、その光景に内心穏やかではなかった。なんであいつとは、そんなに楽しそうに話せるんだ。俺とは、話も続かないくせに。隣で拗ねていることに、綿はまったく気づいていなかった。だが、森下はすぐに察した。——これはヤバい、僕は黙ろう。以後、森下は黙々と車を走らせた。ほどなくして、車はローズレストランの前に到着した。ここは、少し高級な西洋料理の店だった。綿は輝明に付き従い、二人で店内へ入った。店員が先導し、席へと案内する。レストランはシックな雰囲気で、天井は高く、照明は抑えられていた。低く流れるチェロの音色が、空気を一層静かにしていた。「何か食べる?」輝明は綿に尋ねた。綿は少し考えたあと、答えた。「フォアグラと、デザートを一つ」「わかった」テーブルの上には、
輝明は本当に慌てていた。たぶん、普段は数10億の契約を平然と結んでいる彼でさえ、ここまで緊張することはなかっただろう。綿はそっと彼にお茶を注ぎ、落ち着くようにと促した。輝明は茶杯を手にしたまま、しばらく迷い、結局飲まずに綿の方を見た。「俺、まだ……希望あるかな?」綿は吹き出した。クズじゃない輝明は、案外面白い。「分かんない」綿はわざと首を振った。輝明の瞳には、明らかに落胆の色が浮かんだ。……分かんないって、なんだよ。「おじいさんとおばあさんの前で、もうちょっと俺のこと褒めてよ……」彼は溜息をつき、しょんぼりしていた。綿は下を向いた。「褒めたって無駄だよ。私があんなに必死であなたと結婚したいって言ったとき、あなたのお母さんもおばあさまも、必死で私のこと褒めてくれたけど?」でも、彼、全然聞く耳持たなかったじゃない。輝明は、ぐうの音も出なかった。確かに……どんなに周りが心を砕いても、本人にその気がなければ、無意味だった。静けさの中、山助が階段の上から声をかけた。「綿、そろそろ帰った方がいい」綿はじっと祖父を見た。輝明が来てから、明らかに自分への態度がよそよそしい。昔なら、必ず「綿ちゃん」って呼んでくれてたのに、今日は「綿」だなんて!「おじいちゃん、私を追い出してるの?」綿は少し拗ねたように言った。山助は鼻を鳴らし、何も言わずに背を向けた。輝明は立ち上がり、笑いながら言った。「追い出してるのは、君じゃない。俺だ」そう言って、彼も立ち上がった。「俺、帰る」綿は一枚のコートを手に取り、「じゃあ、私も一緒に行く」と言った。「君、ここに泊まるんじゃなかったのか?」輝明は尋ねた。綿は首を振った。「今日はたまたま休みだったから、顔を見に来たの。おばあちゃんの手の具合も気になってたし。それで一緒に食事しただけ」「ふうん。たまたまね。ただ、俺のことは見事に忘れたと」輝明は綿をじっと見た。どこか寂しげな、拗ねたような声だった。綿は口元を緩めた。こういう時の輝明は、妙に可愛い。たまには、彼にも少し寂しい思いをさせた方がいい。「じゃあ、埋め合わせに一緒にご飯行こうか。ごめんね」綿は顔を上げ、彼を見つめた。その瞳に、輝明は不意を突かれた。廊下の灯り
千恵子はむすっとしたまま、茶杯を手に取り、一口啜った。「おじいさん、おばあさん。本日ようやくご挨拶に伺えましたこと、心よりお詫び申し上げます」輝明は丁寧な口調で切り出した。その瞬間、綿は思った。……ああ、この人、うちの空気と全然馴染んでない。「謝る必要なんてないわよ」千恵子はぶつぶつと文句を言った。「私たちとあなたに何の関係があるっていうの?別に来なくたって、誰も気にしないわよ!」輝明は言葉を詰まらせた。……確かに、その通りだ。だが彼は続けた。「ですが、僕は綿と結婚したにもかかわらず、一度もご挨拶に伺ったことがありませんでした。それが、ずっと心に引っかかっていました」その言葉を聞いた途端、千恵子の手から茶杯がテーブルに音を立てて置かれた。……よくもまあ、そんなことを平然と言えるわね!輝明は、急に何も言えなくなった。綿も頭が痛くなった。この人、マジで勇気あるな……結婚の話題なんて、今ここで出す?まだ、茶杯だけで済んだからよかったものの。千恵子が必死に怒りを抑えているのは、綿にもわかった。空気が、一瞬で凍りついた。誰も口を開こうとしなかった。輝明は茶杯を持ち上げ、一口飲もうとした。しかし、千恵子が冷たく言い放った。「あなたと綿ちゃんに、もう未来はないわ」まるで爆弾みたいな一言を、不意に投げつけられた感じだった。輝明は完全に不意を突かれ、手にしていたお茶をどうすべきか一瞬迷った。結局、そのままそっとテーブルに置いた。千恵子はさらに続けた。「あなたがどれだけ復縁を望んでも、たとえ綿ちゃんが許したとしても、私たちは許さない」「おばあさん、今回は本当に真剣なんです。必ず綿を大事にします」輝明は声を低くし、誠実な思いを込めて言った。だが、千恵子は鼻で笑った。「そんな言葉、男なら誰だって言えるわ。『本気』か『嘘』か、誰にもわかりはしない。うちの孫娘は、一度痛い目を見た。二度と同じ目には遭わせない。ここではっきり言っておくわ。……将来、孫娘の婿が誰になろうと、あなただけは絶対に認めない!」言い終えると、千恵子はそのまま二階へ上がっていった。輝明は、硬直したまま立ち尽くした。山助は、そんな彼をちらりと見た。こいつ、めっちゃ焦ってるな。輝明は綿に助け
「挑発してるのか?」輝明は顔を引き締め、重々しく言った。綿は肩をすくめた。別にそんなつもりはない。だが、どう見ても、誰が見ても、それは明らかな挑発だった。森下は後ろでこっそり笑っていた。二人の間に漂っていた氷が、少しずつ溶けていく様子を見て、森下は心の中でほっとしていた。うちの社長、まだ見込みあるじゃないか。「挑発なんてしてないよ。入るかどうか、自分で決めて」綿はあくまで無邪気に肩をすくめ、体を横にずらして、彼に道を開けた。輝明は、もちろん入るつもりだった。ここで引き返したら、一生笑い者にされる。「入る!」彼はきっぱりと言い切った。綿はくすっと笑った。「もう逃げられないよ?」「ひとつだけ頼みがある」輝明は、どこか情けなさを滲ませた声で言った。綿は目を細めた。……ん?「もし俺が押し切られそうになったら、助けてくれ」彼は本当に、必死だった。綿は自分でも理由がわからなかったけど、こういうギャップのある輝明を見ると、なんだかつい笑ってしまう。もしかすると、本当の彼ってこういう人なのかもしれない。あの鉄壁な態度も、ただの仮面なんじゃないかって。無理にクールぶる輝明より、こうやってちょっと隙を見せる彼の方が、ずっと好きだ。「いいよ、助けてあげる」綿はにこやかに頷いた。「でも、条件がある」「何でも言え」彼は即答した。「LI氏が出す新作のバッグ、世界限定一個のやつ、それが欲しい」綿はさらりと言った。輝明は即座に手で「OK」のサインを作った。言われなくても分かってるさ。たかがバッグひとつだろう?輝明は森下をちらりと見た。その目は、「分かってるよな?」と無言で訴えていた。森下はすかさず頷いた。——了解、あとで手配します。「行こう」綿が先に歩き出した。廊下の鏡を通り過ぎるとき、綿はこっそり鏡越しに輝明を見た。唇の端が、ふっと上がった。バッグなんて、どうでもいい。ただ、ちょっとからかいたかっただけ。長い廊下を抜けると、桜井家の本宅に到着した。綿は輝明と森下を連れて、千恵子と山助の前へ進んだ。「おじいさん、おばあさん」輝明はきちんと土産を置き、背筋を伸ばして立った。礼儀正しく、立ち姿も美しかった。千恵子はじっと輝明を見
綿は気まずそうにうつむいた。「君に会うのも一苦労だな」輝明はぼそりとつぶやいた。昨日、彼はわざわざ研究所に足を運んだが、スタッフに「外回りに出ています」と告げられたばかりだった。綿は地面をつま先でこすりながら、黙っていた。そんな沈黙の中、輝明が不意に尋ねた。「いつ戻る?」「まだしばらくは、じいちゃんとばあちゃんと一緒にいるつもり」綿は素直に答えた。輝明は数秒黙り込んだ。何かを決心したように言った。「じゃあ、俺がそっちに行く。ちょうどご挨拶もしたいし」綿は目を見開いた。「やめといたほうがいいよ。二人にイヤミ言われたら、嫌な思いするだけだよ?」綿はやんわり断ろうとした。しかし、輝明は軽く笑って言った。「君の前で恥かくの、今に始まったことじゃない」綿「……いや、私は……」言い返す言葉が出てこなかった。思えば、綿の輝明への当たりの強さは、他の誰とも比べ物にならなかった。「もう向かってるから」輝明はそう告げた。綿は肩をすくめた。「好きにすれば。助け舟は出さないからね」「でも、君は俺を見捨てない」彼は優しい声でそう言った。綿は窓の外を見つめ、唇を噛み、何も言わずに電話を切った。振り返ると、食卓にいた二人が、じっとこちらを見ていた。彼女が電話をかけていたのは窓際だったが、食卓とはそう離れていなかった。耳を傾けようと思えば、内容は十分に聞き取れる距離だった。聞く気がなかったんじゃなきゃ、絶対に何を話してたか分かってたはず。綿は苦笑いしながら言った。「えっと……輝明が、お二人に会いに来るって」二人は眉をひそめた。「なんで急に来るの?」と千恵子が問う。綿は正直に答えた。「最近、彼と少しだけ連絡を取ってて……」「連絡してるからって、うちに来る必要はないだろう!」山助は不満を隠さなかった。今日の山助は上機嫌だった。できれば、邪魔されたくなかった。「まあまあ、ただの若いもんが挨拶に来るだけよ」綿は説明に困りながらなだめた。確かに急すぎだ。本当は、もっと前に知らせておけばよかったのだが、輝明の急な行動に、準備する暇もなかった。「私たち、会わないって断れないの?」千恵子が聞いた。綿はすがるような目で祖母を見た。「おばあちゃん」その表情を見た千
研究所では年末の総まとめ作業が始まった。綿は全身全霊を注いで仕事に取り組んでいた。空いた時間には、祖父母の家に顔を出していた。千恵子は手を痛めていたが、それでも研究所への関心を失わなかった。綿が訪ねるたび、彼女は必ず研究の進捗を報告させた。そのたびに山助は口を挟んだ。「やれやれ、せっかく孫が来てくれたんだから、少しはゆっくりさせてやれよ。毎回仕事の話ばっかりじゃ、疲れるだろうが」それを聞いた千恵子はすかさず言い返した。「何も分かってないわね、あんたは!」山助は小声でぶつぶつと反論した。「はいはい、俺は分かってないよ。分かってるのはお前だけだよ」二人はいつものように言い合いをしていたが、そこには温かな愛情が滲んでいた。そして時折、千恵子はこんなことも口にした。「じゃあ、仕事以外に何を話せっていうの?まさか恋愛の話なんかできないでしょ。この子の恋愛はぐちゃぐちゃだし」こうなると、黙るのは山助ではなく、綿の方だった。頭が痛くなりそうだった。今日は珍しく休みが取れたので、綿は祖父母の家で食事をすることにした。食事の最中も、千恵子はあからさまに、あるいは遠回しに、こう言ってきた。「もういい頃なんじゃない?心も癒されたでしょ」「聞こえません」綿は白々しく答えた。千恵子は眉をひそめた。「あんたほど頭の回る子が、私の言いたいことが分からないわけないでしょ」綿は黙々とご飯をかき込み、まるで聞こえなかったふりを続けた。焦れた山助は、遠回しな言い方をやめて、単刀直入に言った。「つまり、そろそろ彼氏作れってことだよ!いつまで意地張ってるんだ!」「男なんていらないよ。邪魔なだけ」綿はスペアリブにかぶりつきながら答えた。なにが悪い、独り身だってスペアリブぐらい食えるし!祖父母は一緒にため息をつき、綿を無視することにした。その後は、綿が一人ずつ機嫌を取って回る羽目になった。まったく、年寄りというのは本当に子供みたいに手がかかる。ちゃんと宥めてあげないと、何日でも根に持つんだから。「ところで、おじいちゃん。最近あのお坊さんと遊びに行ってるの?」綿はからかうように言った。山助はピタリと動きを止めた後、鼻を鳴らした。「お前は余計なことを……」綿は声を上げて笑った。「どうしたの?ま