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4.退堂の刹那、心が呼び覚まされる

Author: 中岡 始
last update publish date: 2025-11-21 16:00:33

本堂に満ちていた読経の響きが静かに終わりを迎えた。最後の一音が天井へ吸い込まれるように消えていき、空気は途端にしんと凍りついたように感じられた。参列者たちの間に重たい沈黙が流れる。椅子の軋む音も、衣擦れの気配も、小さな呼吸すらも吸い込まれるような沈黙だった。

導師を務めた住職がゆっくりと立ち上がる。その動きを合図に、脇僧たちが整然とした所作で続いた。黒い僧衣が一斉に揺れ、わずかに生まれる布の擦れが、静寂に沈んだ本堂に淡い波紋を落とす。光沢のない布地が上下に揺れるたび、ろうそくの光が反射し、僅かな明滅を生んだ。

その列の中で、隆寛が立ち上がった。

少しも乱れのない所作。背筋は真っすぐで、剃髪した頭に影が落ちる。冬の薄明かりが横から差し込み、彼の横顔をわずかに照らした。僧衣の襟元は静かに揺れ、それが彼の呼吸に合わせてかすかに上下するのが見えた。

浩人は、思わず前屈みになりそうになるのを必死で抑えた。

その姿が、今にも消えてしまいそうで――目を逸らせなかった。

隆寛の表情は、読経のときとは違っていた。表面上は静かで、僧侶らしい落ち着きを保っている。だが、ほんの一瞬、その瞳の奥が揺れたように見えた。

気のせいではない。

浩人は、微かに震えた自分の指を握り込んだ。呼吸が浅くなっていく。胸の奥が、じわりと熱を帯びていく。

(……あいつ、本当に…ここに…)

現実なのかどうか分からなくなるほど、五年ぶりの再会は唐突だった。それでも、彼が立っている。ただそれだけで、全ての感情が暴れ出しそうになる。

僧侶たちが、静かに、列を組んだまま退堂を始めた。

隆寛は、その列の中ほどにいた。導師に続き、他の脇僧たちに合わせて足を運ぶ。その一歩一歩がやけに滑らかで、揺れがない。肩の高さも目線も乱れず、まるで一本の線のような動きだった。

本堂の奥から前方へ、黒い列が流れていく。

隆寛が、浩人の前を通る。

息が止まった。

僧衣の布が擦れる音が、浩人の耳にだけ異様に大きく響いた。僧衣の裾がふわりと揺れる。その揺れ方が、ゆっくりと時間を引き延ばす。

隆寛の背が、目の前にあった。

剃髪したうなじが露わになっている。いつか指で触れ、口づけた場所。髪の影に隠れていた頃とは違い、肌の色が淡く光を反射している。わずかに乾いた冬の空気が、その表面を冷ややかに撫でているようだった。

浩人の喉がつかえた。

呼吸が、戻らない。

僧衣越しにも分かる筋肉の線。背筋が端正に伸びている。肩の幅が以前より逞しくなった気がする。修行によって削ぎ落された余分なものは一切なく、研ぎ澄まされた肉体がそこにあった。

そして――

左耳のピアスホール。

僧衣の襟から覗くその耳に、何も飾られない孔だけが、空白のようにそこにあった。

浩人の雄叫びのような衝撃は、その一点に収束した。

なぜ残している――

なぜ消さなかったのか。

なぜ閉じなかったのか。

なぜ、今もそこにあるのか。

その孔を見るだけで、あの夜が蘇る。

隆寛の呼吸。

耳に触れたときの震え。

孔を開けた後の、あの泣きそうな表情。

胸の底に沈んでいたはずの想いが、一気に浮上した。

(……駄目だ。)

何に対しての「駄目」なのか分からなかった。

だが、その言葉は、抑えつけようとしていた欲を否定するように響いた。

隆寛は、浩人に目を向けなかった。

僧侶として当然のことだった。

前を向き、姿勢を乱さず、足音ひとつ立てずに歩いていく。

それでも、退堂の列が浩人の前を横切るその瞬間――

隆寛の背中が、微かに強張った。

視線を向けられたわけではない。

顔を上げたわけでもない。

だが確かに、彼は感じたのだ。

浩人が、自分を見ていることを。

隆寛の足が、わずかに速くなる。

ほんの一歩分だけ、前の僧と距離が詰まった。

普段なら絶対に乱さない歩調。

逃げるようだった。

(……見るな。触れないで。今の俺を壊さないで)

そんな心の声が、背中越しに聞こえる気がした。

逃げている。

五年前、別れると決めたあのときと同じように。

いや、あのときよりも、もっと強く。

彼の背中が、遠ざかっていく。

浩人の胸の奥で、何かが弾けた。

逃げるな。

どこへ行くな。

まだ何も終わっていない。

拳を握りしめる。

手のひらが痛むほど強く。

冬の冷たい空気が、その熱に吸い寄せられるように震えた。

(……もう黙ってられない)

その瞬間、胸の疼きが、確かな執着へと変わった。

五年の空白は、意味を持たなかった。

忘れようとした時間は、ただの蓋だった。

触れれば壊れるほどの熱が、まだそこに残っていた。

退堂する僧侶たちが本堂の外へ消えると、場内はさらに静けさを深めた。

線香と蝋燭の匂いが、濃度を増したように漂う。

隆寛の姿は、もう見えない。

だが、消えてなどいない。

ここから、再び始まる。

これは偶然の再会ではない。

必然だ。

浩人は、椅子から立ち上がる前に、短く息を吐いた。

肺に溜まっていたものが、一気に放たれる感覚。

揺れない心など要らない。

諦めたふりも、もうしない。

隆寛を取り戻す。

僧侶であろうが、どこに逃げようが関係ない。

浩人は、静かに、しかし確実に歩き出した。

熱はまだ、胸の奥で燃え続けていた。

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