LOGIN冬の午後の光は弱く、控室の障子を透かしてわずかに滲み込んでいた。
葬儀が終わったあとの空気は、どこか湿ったような静けさを纏っている。線香と抹香の匂いが、まだ肌の内側にまで染み入ってくるようだった。浩人は、案内された控室に足を踏み入れた。黒いスーツを着た人々が、思い思いの姿勢で椅子に腰かけたり、立って軽く会釈したりしている。低い声が幾重にも重なり、落ち着かないざわめきを生んでいたが、それですら葬儀の余韻を壊すほど大きくはない。
「お疲れさまでした」
「急なことで…」 「香港から戻って来てくれたんだね」そんな声が耳に届くたび、浩人はゆっくりと頷いた。
形式的な挨拶に、形式的な笑顔を返す。 受け取る湯呑みの温かさの裏に、どこか虚しさのようなものがあった。胸の奥にざらつくような空白がある。
ついさっきまで、あの本堂で奇跡のような再会をしてしまった影響か、それとも、五年という時間が急に押し寄せたせいか、感情の置き場がない。控室の窓辺に視線を向けると、冬枯れの庭が見えた。
彩りはなく、風もなく、どこか時間だけが止まったように感じられる。 その静けさが逆に胸に刺さる。そんな時だった。
控室の扉が、ゆっくりと音を立てた。
ぎ…と小さく鳴っただけなのに、なぜか部屋中の空気が一瞬止まったように感じる。
浩人は無意識に扉の方へ視線を向けた。そこに、隆寛が立っていた。
僧衣をまとい、整えられた襟元。
袖口から覗く指は細く、しかし迷いのない仕草をしている。 剃髪した頭がわずかに光を受け、落ち着いた影を作っていた。堂々としている。
静かで、揺れがなく、僧侶としての端正な空気を纏っている。 五年前に知っていた隆寛とは、似ているのにまるで違っていた。けれど、確かに――彼だった。
その姿を目にした瞬間、浩人は心臓が強く跳ねるのを感じた。
呼吸が苦しいほどに止まり、肺の奥が冷たくしびれる。どうして。
どうしてそんな顔で立っていられる。あまりにも「遠い」。
隆寛は、控室の全員に軽く頭を下げる。
淡々とした所作なのに、滑らかで、視線の流し方ひとつにまで僧侶としての気配が宿っていた。そのあと、彼は数歩だけ浩人の方へ近づいた。
距離は、ほんの二、三メートル。
近いのに、遠すぎた。浩人は立ち上がることもできず、ただ座ったまま声を漏らした。
「……美原?」
名前を口にした瞬間、喉が詰まりそうになった。
呼び慣れた呼び名だったはずなのに、五年ぶりに出した声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。隆寛は、その声に反応してわずかに顔を向けた。
しかし目は合わない。 目線を合わせる寸前で避けられたような気配だけが残る。彼は、落ち着いた声で言った。
「……はい。お久しぶりです、野上さん」
その声音は驚くほど澄んでいた。
僧侶らしい穏やかさと、距離と、柔らかい膜のような防御が入り混じっている。 そして何より――完全な敬語。野上さん。
敬語。 まるで取引相手にするような、礼節の塊のような声。浩人の胸が、ぐっと痛んだ。
昔の呼び方で呼んでほしいわけじゃない。
今すぐに抱きしめたいわけでもない。 ただ、声の奥に自分を知っている温度が欲しかっただけだ。なのに。
隆寛は僧衣を持つ手を揃え、ほんの少し距離を取ったまま動かない。
膝の角度も背中の角度も崩れず、完璧に整えられた立ち姿。その美しさが、かえって冷たかった。
浩人は胸の奥に、得体の知れない冷たい水が流れ込んだような感覚を覚えた。
五年という時間の重みが、一気に肩へのしかかってくる。(“美原”じゃなくて、
その名を喉まで出しかけ、結局飲み込む。
なぜか、呼べなかった。
かつての関係が幻のように遠く感じられ、隆寛の纏う空気が近づくことを拒んでいるように思えたからだ。
隆寛は、まだ誰の目も見ず、部屋の空気全体に向けて淡々と挨拶を続けている。
それは僧侶としての仕事だ。 分かっている。 分かっているのに、胸が痛む。控室の隅で交わされる挨拶の声、椅子がこすれる音、茶器の当たる音が、すべて遠く聞こえた。
隆寛の声だけが、妙に鮮明に耳に刺さる。まるで、もう別の世界の人間になってしまったようだ。
浩人は一度深く息を吸い、胸の奥に沈んだ冷たさを押し込めようとしたが、うまくいかなかった。
視線は、どうしても隆寛の方に戻ってしまう。彼はもう、浩人の知っている“美原隆寛”ではなかった。
いや、本当は――同じなのだ。
同じなのに、触れられない。
同じなのに、名前すら呼べない。 同じなのに、距離が永遠に広がっていくように思える。その痛みが、ぞくりと全身を震わせた。
隆寛は、一礼すると他の親族たちに挨拶を続けていった。
浩人には背を向けたまま、僧侶としての役目を果たしていく。その背中は、どこまでも遠かった。
浩人は、静かに拳を握りしめる。
ほんのわずかに、指が震えた。
この距離のままでいられるわけがない。
このまま、終われるはずがない。だが――いまは、何も言えなかった。
声をかければ壊れてしまいそうで、何もかけなければ自分が壊れそうで。
薄暗い冬の光の中、二人の間にある距離だけが、鮮明に存在を主張していた。
夜の気配が、ゆっくりと天井から降りてくるようだった。部屋の灯りは弱く、ベッドの上には二人の乱れた呼吸だけが残されていた。掛け布団は半分ほど足元に落ち、体温だけが空気の隙間を満たしている。隆寛は仰向けのまま、深く息を吐いた。胸の上下がゆるやかで、全身の緊張が溶けていく。その横で浩人は、片腕を枕の下に差し込み、もう片方の手で隆寛の髪を指先で梳いていた。汗の残る髪は少し湿っていて、そのぬくもりが指先へゆっくり伝わる。窓の外ではわずかな風が木の枝を撫で、遠くで車が走る音が消えていく。それらのすべてが、二人の静けさを際立たせていた。興奮の余韻が完全には消えず、それでも身体の奥では安堵のような重さがじんわり沈んでいる。浩人は視線を横に落とし、布団の隙間から覗く隆寛の肩を見つめた。薄く汗を帯びた肌が、微かな光を受けて淡く光っている。そこに指を滑らせれば、どんな反応が返ってくるか分かっている。けれど今は、ただその存在を確かめるだけで胸が満ちるようだった。隆寛はゆっくり目を閉じ、呼吸を整えていた。少し開いた唇から漏れる熱が、夜の空気にやわらかく混ざる。まぶたの下で視線がわずかに揺れ、何かを言いかけるように唇が動く。沈黙が深まり、呼吸が揃いきったころ。「……浩人」囁いた声は、布の上に落ちるように弱く、しかし確実に響いた。音量は小さいのに、その名を呼ぶ声は、浩人の胸の奥に直接落ちた。浩人は一瞬、呼吸を忘れた。名前を呼ばれること。それ自体は日常の中でいくらでも起こり得るはずだったのに、この距離、この温度、この余韻の中では、まったく違う意味を持って響いた。名前という形をした熱が、胸の奥を内側から押し広げるようだった。「……もう一回呼んでみろ」冗談のように低い声で言ったが、その声の奥には期待が混じっていた。隆寛は戸惑うようにまつげを揺らし、ゆっくり視線を持ち上げた。「浩人」今度はさっきよりもはっきりした声だった。囁きというより、確かめるような呼び方。その響きが夜に広がり、浩人の喉の奥で息が詰まりそうになる。名前ひ
深夜の空気は乾ききっていて、窓の外にはほとんど人の気配がなかった。街灯の光だけが細い筋となって部屋の壁を撫で、そこに散らばるプリントや参考書の影を淡く揺らしていた。試験前の追い込みでは、誰もが机にかじりつき、時間を惜しむように文字を追うはずだった。しかし浩人の部屋には、紙の音よりも、二人の呼吸のほうが濃く滞っていた。机の上にはノートが広がり、蛍光ペンのキャップがいくつも外されたまま転がっている。隆寛はページに視線を落としたまま、途切れるように文字を追い、鉛筆の先が紙の上を小さく震えていた。肩に落ちる影は疲れを隠しきれず、けれどその影の奥には、別の理由で乱れた呼吸が潜んでいた。浩人はソファ代わりのベッドに腰を下ろし、手元の教科書を開いていたが、ほとんど頭に入っていなかった。ページをめくる指先が紙を擦る音よりも、机に座る隆寛のかすかな息遣いのほうが気になって仕方がない。少しでも動けば、その気配は敏感に揺れる。まるで互いの呼吸が見えない糸で繋がれているようだった。「なあ、休憩しないか」浩人が低く声をかけると、隆寛は動きを止め、ゆっくり顔を上げた。目の下にうっすらと影が差し、集中していたはずなのに、そこには別の疲労が滲んでいた。「…いや、まだやらないと。今日は本当に時間がない」そう言いながらも、隆寛は筆を握る手に力を入れきれず、指先がわずかに震えていた。浩人はその揺れを見逃さない。「徹夜で乗り切る気か。お前、絶対途中で潰れるぞ」「潰れても、やるしかない」言葉は強いのに、声が弱かった。浩人は本を閉じ、ゆっくり立ち上がる。足音を立てぬよう隆寛の背後へ歩き、肩越しに覗き込むと、細かい文字が隙間なく並んだページに目が走っている。しかし、その目は活字ではなく、何か別のものに怯えるように揺れていた。そっと肩に触れると、隆寛は微かに震えた。「…今日はやめようって言っただろ」浩人が囁くと、隆寛は痛むように眉を寄せた。「言った。けど…」言葉は続かない。続けられない。肩に乗った浩人の手の熱が、隆寛の理性より先に
レポートの山が机の端に積まれ、浩人の部屋には紙の擦れる乾いた音と、夕方の光がゆっくりと伸びていた。窓の外では沈みかけた陽が淡い橙を散らし、街のざわめきが遠くに薄れていく。静けさはあるが、完全な無音ではない。冷蔵庫のモーターが低く唸り、エアコンが息を潜めるように風を送り出す。その些細な音の中に、二人の呼吸が混ざり合っていた。浩人は筆記用具を指先で転がしながらプリントに視線を落とし、隣に座る隆寛の横顔を盗み見る。光に透けた睫毛の影が頬に降り、長い指先が淡々と資料の行を追っている。口元は真面目な線を保っているのに、ほんの少しだけ、どこか緩んで見えた。さっき、玄関で軽く唇を触れた余韻が残っているのを、浩人は薄々感じていた。隆寛がページをめくる。紙が空気を切る小さな音とともに、沈黙がまた一段深くなる。喉を鳴らし、浩人は手元のペンを置く。「なあ」声をかけた瞬間、隆寛が横目でゆっくり振り向く。その動きだけで胸が軽く跳ねるような感覚が走る。光が揺れ、隆寛の瞳に夕日の欠片が映った。「ちょっとだけ、いいか」隆寛の眉が緩く動いた。問いの形をしているのに拒絶がまったくなく、むしろ待っていたと言わんばかりの柔らかさがあった。浩人はその反応に呆れるほど弱いと自覚しながら、指先でそっと隆寛の顎を持ち上げた。わずかに触れただけで、隆寛の呼吸が浅くなる。唇が触れ合うと、静かな部屋に微かな音が沈んだ。軽いキスのはずだった。だが触れた瞬間、隆寛がほんのわずかに目を閉じ、浩人の指に頬を預けてくる。その温度が、浩人の中の何かを簡単に壊す。唇を離した後も、隆寛はゆっくりと目を開けるだけで何の言葉も発さない。問いかけのようで、許しのようでもある沈黙。浩人は息を吐き、少し笑った。「すぐ触りたくなるんだよ、お前」隆寛は驚いたように瞬きし、それから視線を落とした。照れ隠しのように紙を整えようとするが、その指先がわずかに震えている。「……課題、終わらなくなるぞ」掠れた声が落ちる。責めているわけではない。むしろ、もっとしてもいいと言っているように聞こえてしまう。浩人の胸の奥がひどく熱くなる。
朝の光は、カーテンの隙間から細くこぼれ、床に淡い帯をつくっていた。冬に向かう前の、まだやわらかい陽射しだった。ワンルームの狭さは、その光を窮屈に跳ね返しながらも、どこか安心できる密度を持っている。隆寛は、シーツに頬を押しつけたまま、ゆっくりと目を開けた。枕に残った微かな匂いは、何度も嗅いだことのあるものだ。洗剤の残り香と、乾いた空気と、浩人の肌の匂いが混ざった、ここにしかない匂い。天井が見える。見慣れた白い板と、蛍光灯の細長い影。ここは自分の部屋じゃない、という認識はある。けれど、その事実に焦ることもなくなっていた。視線を横に向けると、空になったマグカップが机の端に置かれているのが見えた。昨日の夜、課題をやりながら飲んだコーヒーの名残りだ。その隣には、自分の教科書とノートが積み上がっている。ページの端には、浩人の字で書き込まれたメモが混ざっていた。布団の隙間から腕を伸ばし、枕元を探る。指先に、柔らかい布の感触が触れた。昨夜脱いだ自分のパーカーだった。タグの部分が、こちら側に向いている。袖をつまんだまま、隆寛はぼんやりと考える。これも、何日目か分からない「置きっぱなし」の一つだ。最初に置いていったのは、替えのシャツだった。徹夜明けにそのまま大学へ行くのがしんどくて、一枚だけ「忘れて」行った。翌週、取りに来るつもりだったのに、結局そのままになった。その次は、スウェットの下。それから、靴下の予備が一足。歯ブラシは二本立てておくほうが自然になった。机の端には、自分用のマグカップが増えた。一つ一つは些細なものだ。ここが自分の部屋ではないという前提を崩すほどの重さはない。けれど、気づけばこの空間のどこを見ても、自分のものが視界に入るようになっていた。忘れていった、というより、置いていかれてたものたち。布団から上半身を起こすと、肩にかけた毛布がずり落ちた。ひやりとした空気が肌に触れ、隆寛は無意識に腕をさする。キッチンのほうから、音がした。湯を沸かす
夜明け前の気配は、窓の隙間からゆっくりと部屋に滲み込んでいた。薄いカーテン越しの光にはまだ色がなく、青とも灰ともつかない淡さで、乱れたベッドの縁をかろうじて縁取っているだけだった。卓上灯は消されていて、しばらく前まで二人の肌を照らしていた光はもうない。残っているのは、熱と、浅い呼吸と、夜の余韻だけだった。シーツはぐしゃぐしゃに寄れている。その皺の中に、さっきまでの動きが刻み込まれているように見えた。隆寛は、仰向けになりきれず、浩人の胸にもたれるような体勢になっていた。片方の頬が、浩人の裸の胸板に触れている。肌の下でゆっくりと刻まれる鼓動を、耳の奥で聞いていた。耳たぶが、じくじくと痛んだ。そこだけ異様に鮮明で、そこだけが夜の中で覚醒している。新しく通されたシルバーのリングが微かに触れ合うたび、チリ、と小さな電流みたいな痛みが走る。その痛みが、先ほどの選択を何度でも思い出させた。刻まれた証。その言葉が、頭の奥で静かに浮かんでは沈んだ。胸の奥は、満たされていた。自分の輪郭がやっとどこかに定着したような、そんな感覚。見失いそうだったものに、今夜、はっきりと境界線が引かれた。その境界が、浩人の腕の中にある。それが、怖かった。満たされているのに、怖い。失うことを考えた瞬間、呼吸が苦しくなる。浩人の腕が、隆寛の背中にしっかりと回っていた。逃がすつもりのない、拒絶を許さない、そんな強さ。けれど締めつけるほどではない。むしろ、ここから落ちていかないように支えるみたいな力加減だった。汗のにじんだ肌と肌が、ところどころまだ離れずにくっついている。胸のあたり、脇腹、太ももの側面。触れている部分すべてに、ぬるい熱が残っている。どこまでが自分の体温で、どこからが浩人の体温なのか、もう分からなかった。隆寛は、浅く息を吸った。空気が冷たくて、喉の奥だけ少しひやりとする。吐く息は、浩人の胸元に当たって、跳
新しく通されたリングが軽く揺れた。耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」声にならない吐息が漏れる。肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。浩人は、短く息を吸う。「痛むか」問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。「痛い……けど」そこで言葉が途切れる。途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。指先が勝手に動いた。リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね







