あの公園での出来事から数日が経った。アリアは相変わらず元気で、昨日の出来事など忘れているかのように無邪気に過ごしている。「おはよう、アリア」リリスが娘を抱き上げると、アリアは満面の笑みを浮かべた。「ママ、おはよ」言葉もますます上達している。一歳半でこれほど明瞭に話せる子は珍しいが、アリアの場合は特別な能力の一部なのかもしれない。「今日は何をして遊ぼうか?」「おそと?」アリアが目を輝かせる。公園での出来事があったにも関わらず、外の世界への興味は変わらない。「そうね。でも、お約束は覚えてる?」「ひかり、ないしょ」「そう、とても良い子ね」リリスが頬にキスをすると、アリアがくすくすと笑った。その笑い声に反応して、部屋の隅に置いてあった花が少し明るく輝いた。「……また」カインが苦笑いを浮かべる。「魔力抑制のブレスレットをしていても、完全には抑えられないようだな」「仕方ないわ。この子の魔力は想像以上に強いもの」リリスもため息をつく。「でも、人を傷つける力じゃないから、それだけは救いね」朝食後、リリスは魔女協会からの連絡を受けた。「はい、リリスです」「リリス様、お疲れ様です。ティセです」通信の向こうから、ティセの緊張した声が聞こえてくる。「実は、お話ししたいことがあるのですが……」「どうしたの?」「昨日の件で、少し動きがありまして……」ティセの言葉に、リリスの表情が曇る。「詳しく聞かせて」「帝国の魔女・人間関係省の人間が、協会に問い合わせをしてきました。アリアちゃんのことを調査したいと」「やはり……」リリスは覚悟していたことだった。アリアの力が公に知られれば、政府が動くのは時間の問題だった。「どのような調査を?」「『特殊能力を持つ子供の実態調査』という名目です。表向きは善意のサポートということになっていますが……」「実際は監視と管理が目的ね」「おそらく。それで、協会としてはリリス様のご意向を伺いたく」リリスは少し考えてから答えた。「分かりました。一度、直接話し合いましょう。午後に協会に伺います」通信を切った後、カインが心配そうに声をかけた。「大丈夫か?」「ええ。でも、予想していたより早く動いてきたわね」「俺たちは、どうすればいい?」「まずは情報収集よ。相手が何を考えているのか、どの程度の脅威なのかを
アリアが一歳半になった頃、リリスは大きな決断を下した。「お散歩に行きましょうか、アリア」今まで、アリアを外の世界にほとんど連れ出していなかった。魔力の制御が難しく、一般の人々に影響を与える可能性があったからだ。しかし、娘の健全な成長のためには、外の世界を知ることも必要だった。「おそと?」アリアが目を輝かせる。窓から見える外の世界に、ずっと興味を持っていたのだ。「そう。でも、お約束があるの」リリスが娘に真剣に話しかける。「お外では、魔法は使わない。お約束できる?」「やくそく」アリアが小さく頷く。まだ完全には理解していないだろうが、母親の真剣さは伝わったようだ。念のため、リリスはアリアに魔力抑制のブレスレットをつけた。完全に魔力を封じるわけではないが、無意識の発現を防ぐ効果がある。「いってきます」カインに見送られ、母娘は初めての本格的な外出に向かった。帝都の街は、以前より明るい雰囲気になっていた。魔女と人間の共存が進み、街角では両者が自然に交流している光景も見られる。「ワンワン!」アリアが犬を見つけて指差す。飼い主の老人が微笑みかけてくれた。「可愛いお嬢ちゃんですね」「ありがとうございます」リリスが礼を返す。こんな普通の会話ができることが、とても新鮮だった。「お母さんも若くて美しい。幸せそうなご家族ですね」老人の言葉に、リリスは胸が温かくなった。特別な存在として見られるのではなく、普通の母娘として受け入れられることの喜び。市場では、アリアが色とりどりの果物に興味を示した。「あか、きいろ、みどり」色を覚えたばかりの娘が、嬉しそうに指差していく。「そうね、たくさんの色があるのね」リリスがいくつかの果物を買うと、商店主がアリアにリンゴを一つおまけしてくれた。「元気な子だ。将来が楽しみですね」「ありがとうございます」平和な午後のひとときが続いた——その時までは。公園で遊んでいる時、事件が起きた。アリアがブランコで遊んでいると、近くで男の子が転んで泣き出した。膝を擦りむいて、血が出ている。「いたいの?」アリアが心配そうに近づく。母親の制止も聞かず、転んだ男の子に手を伸ばした。その瞬間——アリアの手が淡く光り、男の子の傷が瞬時に治った。「あ……」リリスが息を呑む。魔力抑制のブレスレットをしていたのに、娘の強い
アリアが生まれてから一年が経った。「ママ、ママ」小さな声で呼びかけながら、アリアがリリスに向かってよちよち歩きをしている。普通の子供より少し早い成長だが、それも彼女の特別さの現れなのだろう。「はい、ここよ、アリア」リリスが腕を広げて娘を迎える。アリアが母親に抱きつくと、周囲の花々がふわりと光った。もう家族にとっては見慣れた光景だが、初めて見る人は必ず驚く。「今日も元気ね」リリスがアリアの頬にキスをする。娘の肌は人間の子供と変わらず柔らかいが、時々魔力の温もりを感じることがある。「パパは?」アリアが片言で尋ねる。言葉を覚えるのも早く、もう簡単な会話ができるようになっていた。「お仕事よ。夕方には帰ってくるわ」カインは自由騎士団での指導の他に、最近は「魔女・人間融合教育プログラム」の開発にも携わっている。アリアのような子供たちが増えることを想定した、新しい教育システムの構築だった。「あーちゃん、ちょうちょ」アリアが庭を指差す。確かに蝶々が飛んでいるが、それは普通の蝶々ではない。虹色に光る、魔法の蝶々だった。「アリアが作ったのね」リリスが感心する。娘は意識せずに魔法を使う。それも、常に美しく、害のない魔法ばかりだった。「きれい」アリアが手を伸ばすと、蝶々が手のひらに止まった。そして、さらに美しく光り輝く。「本当にきれいね」リリスも一緒に蝶々を見つめる。娘の魔力は日に日に強くなっているが、制御不能になることはない。まるで生まれながらにして、魔力との調和を知っているかのようだった。午後、ティセが遊びに来た。彼女は今、魔女協会で子育て支援の仕事をしており、アリアのことも定期的にチェックしている。「アリアちゃん、こんにちは」「ティせ!」アリアが嬉しそうに駆け寄る。ティセのことが大好きで、会うといつも抱きついてくる。「今日も元気ね。何か新しいことできるようになった?」ティセがアリアと同じ目線にしゃがんで話しかける。「えーっと……」アリアが考え込んで、突然手をひらひらと振った。すると、空中に小さな光の玉がいくつも現れ、まるでダンスをするように舞い踊る。「すごい!」ティセが感嘆する。「これは新しい魔法ね」「あーちゃんの、ひかり」アリアが誇らしげに言う。自分の魔力を「ひかり」と呼んでいるのだ。「とても美しい光よ、アリア」リ
陣痛が始まったのは、春分の日の夜明け前だった。「カイン……」リリスがベッドで身を起こし、彼の名前を呼ぶ。「どうした?」眠りから覚めたカインが、慌てて起き上がる。「始まったみたい……」リリスの声は平静だったが、その目には興奮と不安が混じっていた。ついに、この日が来たのだ。「分かった。すぐにエルミナ先生を呼ぶ」カインが慌てて魔導通信器を手に取る。幸い、エルミナは事前に待機してくれていた。「もうすぐ着きます。落ち着いて」エルミナの声が通信器から聞こえる。「リリス様の状態は?」「まだ余裕があります」実際、リリスは魔女の体力で痛みに耐えていた。しかし、普通の出産とは違う異変も起きていた。「部屋が……光ってる?」カインが驚く。リリスの周囲から、淡い光が漏れ出している。お腹の中のアリアの魔力が、出産と共に強まっているのだ。「大丈夫……痛くない光よ」リリスが微笑む。確かに、その光は温かく、見ているだけで心が安らぐ。間もなく、エルミナが到着した。彼女は一目で状況を把握する。「これは……普通の出産ではありませんね」「何か問題が?」カインが心配そうに尋ねる。「いえ、むしろ神秘的です」エルミナが感嘆する。「この光は、新しい生命を祝福している。まるで世界全体が、この子の誕生を待ち望んでいるかのよう」実際、家の外でも異変が起きていた。庭の花々が季節外れの美しい花を咲かせ、空には虹がかかっている。「ご近所の方々も、外に出て見ていますね」ティセが窓から外を覗く。彼女も急いで駆けつけてくれた一人だった。「みんな、不思議そうにしてるけど、怖がってはいません」時間が経つにつれ、陣痛は強くなっていった。しかし、リリスは気丈に耐えている。「もう少しです」エルミナが励ます。「赤ちゃんの頭が見えてきました」「頑張れ、リリス」カインがリリスの手を握る。「俺たちの子に、もうすぐ会える」そして、運命の瞬間が訪れた。「はい、頭が出ました。もう一息です」「うっ……あああああ!」リリスが最後の力を振り絞る。その瞬間——部屋全体が虹色の光に包まれた。「おぎゃあああああ!」元気な産声が響く。と同時に、光は一層強くなり、家全体を包み込む。「生まれました!」エルミナが赤ちゃんを抱き上げる。「元気な女の子です」光の中で、新しい生命が誕生した
妊娠六ヶ月を迎えた頃、リリスのお腹に異変が起きた。「あら……?」庭で花の手入れをしていたリリスが、驚きの声を上げる。お腹の赤ちゃんが動いた瞬間、周囲の花々が一斉に美しく咲き誇ったのだ。「これは……」リリスが手をお腹に当てると、再び胎動があった。今度は、近くにいた蝶々たちが虹色に光り始める。「カイン! 来て!」慌ててカインを呼ぶと、彼が家から飛び出してきた。「どうした?」「お腹の子が……魔力を使ってるみたい」「まさか」カインが目を丸くする。胎児が魔力を使うなど、聞いたことがない。「でも、確かに反応してる」実際、リリスがお腹を撫でるたびに、周囲の自然が美しく変化していく。それは攻撃的な魔力ではなく、生命を祝福するような温かな力だった。「これは、すぐにエルミナ先生に相談した方がいい」翌日、二人は急いで診療所を訪れた。「やはり……」エルミナが診察を終えて、感慨深げに呟く。「この子は、予想以上に特別な存在ですね」「どういうことですか?」「通常、魔力は生後数年経ってから発現します。しかし、この子は胎内にいる段階で既に強力な魔力を持っている」エルミナの説明に、リリスとカインは驚愕した。「それは……危険なことなのでしょうか?」「いえ、むしろ祝福すべきことです」エルミナが微笑む。「この子の魔力は、破壊ではなく創造に向かっている。生命を育み、美しさを生み出す力です」「でも、なぜそんなことが?」「あなたたちの愛が特別だからでしょう」エルミナが二人を見つめる。「真の愛で結ばれた魔女と人間の子供だからこそ、このような奇跡が起きるのです」帰宅後、リリスは庭のベンチに座って空を見上げていた。お腹の中の子供が、どんな未来を歩むのか。期待と同時に、不安も感じていた。「考えすぎだぞ」カインが隣に座る。「心配しても仕方ない」「でも、この子にはきっと大きな期待がかけられる」リリスがお腹を撫でる。「普通の子供として育てたいのに」「普通じゃなくても構わないさ」カインが優しく言う。「俺たちが愛情を注いで育てれば、きっと良い子に育つ」その時、お腹の子が動いた。まるで両親の会話を聞いているかのように。「この子も、私たちの愛を感じ取ってるのかしら」「きっとそうだ」カインがリリスの肩を抱く。「俺たちの子だからな」数日後、予想外の来
結婚から三ヶ月が経ったある朝、リリスは体調の変化に気づいた。「また、気分が悪い……」洗面所で顔を洗いながら、彼女は眉をひそめた。ここ数日、朝になると軽い吐き気を催すことが続いている。「リリス、大丈夫か?」心配したカインが駆け寄ってくる。「ええ、大丈夫。少し疲れてるだけよ」しかし、リリスの心の奥では、ある可能性がよぎっていた。魔女の知識として、妊娠の初期症状について知っていたのだ。「今日は休んだ方がいいんじゃないか?」「いえ、今日は大切な会議があるの。行かなければ」リリスは体調不良を押して、魔女協会の会議に出席した。しかし、会議中にも吐き気が襲い、途中で席を外すことになってしまった。「リリス様、本当に大丈夫ですか?」ティセが心配そうに声をかける。「顔色が悪いです」「少し、疲れがたまってるのかもしれないわね」「一度、きちんと診てもらった方がいいのでは?」セラが提案する。「魔女専門の治療師がいますから」「そうね……お願いするわ」翌日、リリスは魔女協会付属の診療所を訪れた。治療師のエルミナは、ベテランの魔女で、長年多くの魔女たちの健康管理を行ってきた人物だった。「では、診察させていただきますね」エルミナがリリスに魔法をかける。淡い光がリリスの体を包み、内部の状態を調べていく。しばらくして、エルミナの顔に驚きの表情が浮かんだ。「これは……」「何か問題が?」リリスが不安そうに尋ねる。「問題どころか、素晴らしいニュースです」エルミナが微笑む。「おめでとうございます、リリス様。あなたは妊娠されています」「妊娠……」リリスは言葉を失った。予想はしていたが、実際に告げられると現実感がない。「しかも、とても珍しいケースです」エルミナが続ける。「魔女と人間の間の子供は、特別な力を持つ可能性があります」「特別な力?」「魔女の魔力と人間の意志力、両方を受け継ぐのです。非常に稀なことですが、新しい時代を象徴する存在となるでしょう」リリスの心は、喜びと不安で満たされた。自分が母親になる……その事実は、まだ実感が湧かない。「カインには、いつ話すつもりですか?」「今日の夜に……」家に帰ったリリスは、どうやってカインに報告しようか迷っていた。彼はどんな反応をするだろうか。喜んでくれるだろうか。夕食の準備をしながら、リリスは