(フェリクスさんのあの白銀色の火傷。焼けた研究室に残っていた触媒と、そっくりな色だった。それじゃあやはり、彼が犯人? でも、涙を流してまで先生の死を悼んでいたのに?)
ミリーは混乱した思考のまま、時計塔へ向かって町を歩いていく。ぼんやりとしていたせいで通行人にぶつかって、「何やってんだ!」と怒鳴られてしまう。そのたびに慌てて謝りながら、彼女はふらふらと歩き続けた。
時計塔までの距離が、いつもの何倍もあるように感じられた。やっとのことで時計塔に帰り着いて、扉を開ける。
アレックスはダリウスの研究資料を床一面に広げて、その中心で山のように積まれた論文を読んでいた。リンギが彼の肩にとまり、乾いた紙をめくる音を『パラ、パラ、パラ』と小さな声で模倣している。ミリーのただならぬ様子に気づいたのか、アレックスは億劫そうに顔を上げた。
「アレックスさん……私、見てしまいました。フェリクスさんの手首に、あの現場にあったのと同じ、白銀の火傷の痕がありました」
ミリーの声は、自分でも気づかないうちに震えていた。
アレックスは驚かなかった。ただ、論文をめくる手がわずかに止まる。「そうか。やはり、そちらにも歪みはあったか」
「驚いていませんね。何か見つけたんですか?」
アレックスは立ち上がると、ミリーを作業台の方へ手招きした。
作業台の上には、二種類の研究ノートが並べられていた。一方はインクが滲み、焦りや苛立ちが感じられる震えた筆跡。もう一方は美しく力強い筆跡で書かれた、革新的な理論のメモだった。
「これはどちらもダリウスの研究室にあった。だが、この研究資料は奇妙だ」
アレックスが言った。
「大部分はこの震えるような筆跡で書かれている。ダリウス本人のものだろう。だが時折、全く別の筆跡で、遥かに優れた考察が書き加えられている」
アレックスは、一枚のレポートを横に置いた。
「で、これはフェリクスの過去のレポートだ。衛兵隊に頼んで王立学院から取り寄せた」
「これって!」
ミリーは目を見
ミリーがフェリクスに取材をした翌日。 時計塔の書斎には、重い沈黙が流れていた。巨大な黒板に書かれた「ダリウス — フェリクス」という二つの名前が、事件の歪んだ核心を静かに示している。(あれから丸一日。アレックスさん、ほとんど眠らずにダリウスの論文を分析し続けている。でも、まだ何かが足りない。あの優しそうなフェリクスさんが、先生を殺すなんて。どうしても、信じきれない) ミリーは黒板を見上げ、ため息をついた。彼女の肩の上で、囁き鳥のリンギが心配そうに首を傾げている。『コーヒーブレイクにしよう』 リンギがアレックスそっくりの声で言ったので、ミリーは微笑んだ。「ふふっ。心配してくれているの? 大丈夫よ」 その時、時計塔の重い扉が遠慮がちに叩かれた。リンギが羽を逆立てて、小さく警戒の声を上げる。 ミリーが応対すると、そこに立っていたのはフェリクス・マイヤーその人だった。彼は昨日よりもさらに憔悴した様子で、手には古びた羊皮紙の巻物を固く抱えている。「フェリクスさん? どうしましたか?」 表面上はにこやかにしながらも、ミリーは疑念を抑えきれなかった。(彼が、どうしてここに? 何かの罠かもしれない。でもこの怯えたような目は、まるで何かに追われているみたいだ) 何気なさを装ってフェリクスの様子をよく見れば、彼はどこか焦っているように見える。「突然すみません……」 フェリクスの声は震えていた。「先生の遺品を整理していたら、未発表の研究資料が見つかりまして……。先生の汚名をそそぐ一助になるかと。どうか、調査の参考にしてください」 ミリーに案内されて、フェリクスは時計塔の中へおずおずと入ってくる。リンギはミリーの肩から飛び立つと、部屋の高い歯車の上からじっとフェリクスを見下ろしていた。 アレックスはフェリクスが差し出した資料を受け取ると、その場で猛烈な速度で目を通し始めた。 あまりの速さに、フェリクスがギョッとしている。 ミリーはお茶を淹れた。フェリクスを落ち着かせるためだ。 その間
(フェリクスさんのあの白銀色の火傷。焼けた研究室に残っていた触媒と、そっくりな色だった。それじゃあやはり、彼が犯人? でも、涙を流してまで先生の死を悼んでいたのに?) ミリーは混乱した思考のまま、時計塔へ向かって町を歩いていく。ぼんやりとしていたせいで通行人にぶつかって、「何やってんだ!」と怒鳴られてしまう。そのたびに慌てて謝りながら、彼女はふらふらと歩き続けた。 時計塔までの距離が、いつもの何倍もあるように感じられた。 やっとのことで時計塔に帰り着いて、扉を開ける。 アレックスはダリウスの研究資料を床一面に広げて、その中心で山のように積まれた論文を読んでいた。リンギが彼の肩にとまり、乾いた紙をめくる音を『パラ、パラ、パラ』と小さな声で模倣している。 ミリーのただならぬ様子に気づいたのか、アレックスは億劫そうに顔を上げた。「アレックスさん……私、見てしまいました。フェリクスさんの手首に、あの現場にあったのと同じ、白銀の火傷の痕がありました」 ミリーの声は、自分でも気づかないうちに震えていた。 アレックスは驚かなかった。ただ、論文をめくる手がわずかに止まる。「そうか。やはり、そちらにも歪みはあったか」「驚いていませんね。何か見つけたんですか?」 アレックスは立ち上がると、ミリーを作業台の方へ手招きした。 作業台の上には、二種類の研究ノートが並べられていた。一方はインクが滲み、焦りや苛立ちが感じられる震えた筆跡。もう一方は美しく力強い筆跡で書かれた、革新的な理論のメモだった。「これはどちらもダリウスの研究室にあった。だが、この研究資料は奇妙だ」 アレックスが言った。「大部分はこの震えるような筆跡で書かれている。ダリウス本人のものだろう。だが時折、全く別の筆跡で、遥かに優れた考察が書き加えられている」 アレックスは、一枚のレポートを横に置いた。「で、これはフェリクスの過去のレポートだ。衛兵隊に頼んで王立学院から取り寄せた」「これって!」 ミリーは目を見
捜査を終えて、アレックスとミリーはダリウスの研究室を後にした。潮の香りが、まだ鼻の奥に残る金属臭を少しだけ和らげてくれる。 衛兵隊はアレックスの指摘を受けて捜査方針の転換を余儀なくされて、現場は混乱していた。「僕は時計塔に戻り、この『残骸』の検分を続ける」 歩きながら、アレックスが言った。「ホルダスの論文(データ)を全て記憶した。天才がなぜ、そして、どのようにして凡庸へと墜落したのか、その構造を分解する」 彼はミリーに向き直る。「君は、関係者というノイズの多いデータ群にあたってくれ。特に、長年の助手だったという男……フェリクス・マイヤー。彼がこの事件の最重要の構成要素(パーツ)だ」「分かりました。取材ですね。彼が何か知っていると?」「さあな。だが、師の才能の盛衰を、最も近くで見ていた人間だ。何かしらの『歪み』を観測できるはずだ」(歪みを観測、ね……) ミリーは、人の心を機械部品のように語るアレックスの言葉に反発を覚えながらも、頷いた。◇ フェリクス・マイヤーの住まいは、王立学院の若手研究者用の宿舎にあった。 ダリウスの混沌とした私設研究室とは対照的に、フェリクスの部屋は簡素で、整然と片付いている。書棚には専門書が几帳面に並べられ、彼の誠実な人柄を物語っているようだった。 出迎えたフェリクス本人は、ミリーの訪問に少し驚きながらも、丁寧に応対してくれた。 師ダリウスの死がフェリクスに衝撃を与えたのだろう。彼はすっかりやつれ果てて、泣き腫らしたであろう目は赤くなっていた。(私には、誠実な人に見えるわ。恩師を尊敬して、死を悼んでいる。アレックスさんは『歪み』と言っていたけれど、私にはただ深い悲しみしか見えない。もちろん、詳しく話を聞かなければならないけど。彼が犯人とは思えない) ミリーは、憔悴しきった目の前の青年に、心からの同情を寄せた。 彼女が身分を明かして師の死について尋ねると、フェリクスは堰を切ったように想いを語り始める。
アレックスとミリーは現場に到着した。 潮の香りと薬品の匂いが混じり合う、無骨な倉庫街の一角。前回の事件で調査をした場所なので、道に迷うこともない。 ダリウス・ホルダスの私設研究室は、以前の調査時には非常に堅牢な造りをしていた。が、扉は衛兵隊によって物理的・魔術的に切断され、無残な姿を晒していた。 扉には焼け焦げた金属がこびりついている。歪んだ銀色の金属だ。扉と壁の間を塞いで、内側から完全に密封されていたことが見て取れた。「開けてください、アレックス殿がお見えだ」 衛兵の呼びかけに応じて、別の衛兵が内側からかんぬきを外す。 研究室の中は凄惨な状況だった。壁は高熱で黒く焼け焦げ、実験器具は熱で溶けてガラスのオブジェのように変形している。空気中には、鼻を突く金属の焼けた匂いと、微かなオゾン臭が満ちていた。床には、衛兵隊が描いた人型の白線だけが生々しく残っている。(ひどい。錬金術が暴走すると、ここまでの有り様になるのね。王立学院のような華やかな場所ではなく、こんな薄暗い倉庫街で、ダリウス・ホルダスは一人で死んでいったんだわ……) ミリーは、異様な様子に心を痛めた。 現場を仕切る衛兵隊長が、尊大な態度で説明を始める。 エレオノーラの事件の時は、衛兵たちはアレックスに丁寧な態度で接していた。天才分解学者の威光も、衛兵隊の全てに届いているわけではないらしい。「アレックス殿。見ての通り、凄まじい熱量です。我々は、被害者の研究を狙った外部の者による、高度な炎の魔術による犯行と見ています。前回の密輸団による襲撃は防ぎましたが、他にもダリウス氏の研究を狙う者がいたのでしょう。彼を殺して、研究成果を奪おうとした」 アレックスは衛兵隊長を完全に無視した。床に膝をつくと、手袋をはめた指で床に残る白銀の燃えかすを少量つまみ上げる。それを鼻先に近づけて、匂いを嗅いだ。 そして立ち上がると、わかりきった事実を語るかのように、平坦な声で告げた。「いや、これは炎の魔術ではない」 アレックスは続ける。「空気中に漂うこの金属臭、床に残った白
時計塔の高い天窓から、朝の光が埃を照らしながら差し込んでいる。 ミリーは、アレックスの書斎の隅に設けた自分の小さなデスクで、淹れたての珈琲の湯気を楽しんでいた。彼女の傍らでは、淡い金色の羽根をした囁き鳥のリンギが、巨大な歯車のひとつにとまっている。『コーヒー……角砂糖は、たっぷり入れてくれ……』 リンギが、アレックスの寝ぼけたような声を完璧に模倣する。その声に、ミリーはくすくすと笑いながら立ち上がった。(全く、この鳥は誰に似たんだか) 前回の密輸団事件で『九つの尾』に顔を知られてしまったミリーは、身の安全を確保するため、アパートを引き払い、アレックスの時計塔に住み込みを始めた。(『君の身の安全のためだ。僕の監視下にいれば、九つの尾も迂闊には手出しできまい』なんて、それらしいことを言っていたけど。結局、身の回りの世話をさせる人間が欲しかっただけなんじゃないの?) 階段を降りてキッチンに向かい、コーヒーメーカーをセットする。(でも。『君一人ぐらい、僕が守ってみせる』。そう言ってくれたよね) ミリーはアレックスのカップに、角砂糖をきっかり五つ入れた。 コーヒーを持っていくと、部屋の主であるアレックスは寝癖のついた黒髪のまま、書斎の中央で複雑なパズルボックスと格闘している。ミリーの存在にすら気づいていないようだった。「アレックスさん、また夕食を抜きましたね? 机のパンが手付かずでしたよ。これでは体が持ちません」「……ああ。思考に最適な糖分さえ摂取できれば、他の栄養素は些末な問題だ」「駄目に決まっているでしょ。今日の朝ご飯は絶対に食べてもらいますから」 アレックスはパズルボックスから目を離さない。ミリーはもう一度ため息をついた。 ミリーは自分のコーヒーカップを片手に、デイリー・ピープルの朝刊を広げる。社会面の小さな記事が、彼女の目に留まった。「引退ですって。一時代を築いた大魔術師が、魔力の衰えを理由に……。天才の栄
時計塔の中は侵入者が捕縛された後も、張り詰めた空気が漂っていた。 アレックスが仕掛けた罠の魔力的な残滓が、焼けた空気の匂いとなって微かに香る。巨大な歯車の刻む音が、やけに重々しく響いていた。「九つ尾の狐というのは、何なんですか?」 ミリーの問いかけに、アレックスは侵入者たちを縛り上げながら答えた。「この魔術都市の裏社会を取り仕切る、巨大な犯罪ギルド……だと言われている。僕もその名を知っているだけで、実際にどういう組織なのかは知らない」 ミリーは改めて恐怖に震える。自分が引き起こしてしまった事態の大きさを思って、呆然とした。「私のせいだわ。ただの密輸事件だと思って、アレックスさんを危険なことに巻き込んでしまった。『九つの尾』だなんて、私たちにどうこうできる相手じゃない!」 その声は、罪悪感で揺れていた。アレックスは、縛り上げた侵入者の体を無感情に見下ろしていたが、やがて静かに口を開いた。「責任の所在を今論じるのは、非合理的だ」 彼の声は、慰めも励ましも含まない。いつもの平坦な響きだった。「君が来なければ、このパズルは始まらなかった。だが、僕がこのパズルを解くと決めたんだ。責任は僕にもある。僕たちはもう、この構造の一部だ」(『僕たち』って言った? 私を仲間だと認めてくれたの?) 何気なく言われたその言葉は、ミリーの凍てついた心をほんの少しだけ溶かした。「私一人だけでは、ただ殺されて終わっていたと思います」 ミリーが言うと、アレックスは肩をすくめる。「まあ、そうだろうな」「でも、アレックスさんと二人でなら。これからも戦っていけると、思って……」 アレックスは答えない。さすがに出過ぎたかとミリーがしょんぼりしていると、肩に何かが触れた。アレックスの手だった。「心配するな。君一人ぐらい、僕が守ってみせる」「えっ」 予想外の言葉に、ミリーは目をまんまるにした。みるみるうちに頬が赤くなる。 アレ