昨日、クロ式が記録された。
ただの落第生だったはずの俺が、学院の演算記録に名を刻んだ。 その日から、すべてが変わった── 「おい、あれクロだろ……」 「マジで? あの異常演算の本人?」 「フィア様の防御をぶち抜いた奴だぞ。やべーだろ」 教室に足を踏み入れた瞬間、熱と冷気が混ざったみたいな空気に包まれる。 聞きたくもない声が、勝手に耳へ押し寄せてくる。 《クロ。心理的圧迫が急上昇中。深呼吸を推奨する》 (ゼロ……お前に深呼吸のありがたみがわかんのかよ) 《否。しかし、君の心拍数と魔素濃度に異常な上昇が見られる。呼吸による自律安定は効果的だ》 (……わかってるよ。やる) なるべく何も考えず、空いてる席に腰を下ろした。ノートを開いたフリをして、ただひたすら無になろうとする。 けど無理だ。全方向から飛んでくる「目」と「声」が、俺をじわじわと削っていく。 「なぁ、演算異常者って、どういう意味なんだろうな」 「分類不能な術式って話だぜ。記録にない、まったくの未知構造……って噂」 「下手したら、あいつ──実は人間じゃないとか」 (……うるせぇ) 《感情抑制を試みても効果が薄い。君の現状は、明確な排除対象化だ》 (だろうな……俺が何したってんだよ) その時。 ガンッと音を立てて、教室の扉が勢いよく開いた。 「おーい、どこだ⁉︎。超絶やべぇ魔術ぶっ放した落第生は!」 耳慣れた声に、思わず顔を上げる。 「……うっせぇよ、カイ。」 「黙ったらお前が潰れそうだったんでね? ってか、お前顔やべーぞ。死人か」 「その原因の半分はお前だ」 にやつきながら隣に座ったカイ・バルグレイヴは、相変わらず場の空気を気にしない。 背はでかいし声はでかいし拳もでかい。けど、頭はそんなによくない。魔術の知識はザルなのに、実技だけはなぜか高評価。 「で? 噂、だいたいホントだったんか?」 「どの噂だよ。俺が実は古代兵器の転生体とか、空間ごと爆発させたとか?」 「両方だったら胸アツだな。でもまあ……お前が一人でびびってたの、俺は見てたからな」 「…………」 「フィア様の防御抜いたとかどうでもいいんだよ。あそこで足すくませてるお前の方がよっぽど人間くさくて、俺は好きだぜ?」 (ほんと、お前ずりぃよ) 《この人物との会話は、君の精神安定に対し高い有効性を示している。推奨:今後も接触を継続せよ》 (……ゼロ、友達を接触継続対象とか言うな) 「……サンキュな、カイ」 「お、珍しく素直じゃん? 雪でも降るか?」 「……氷属性の前では自粛しろ」 そんなやり取りをしている間にも、教室の空気は確かに、ほんの少しだけ変わっていた。 少なくとも、俺の中の冷たさは。 ──放課後、俺は演習室の前に立っていた。 自分の演算を、もう一度だけ確かめたかった。 怖い。それでも、踏み出さないといけない気がした。 静かに扉を開けると、誰もいないはずの部屋に、ひとつの気配があった。 「……また会ったわね。クロ・アーカディア」 氷のような瞳が、俺をまっすぐに射抜く。 フィア・リュミエール。あの氷晶の才女が、演算台の前に立っていた。 氷のような瞳が、俺を射抜いた。 演算装置の前に立つその姿は、まるでこの空間ごと冷却しているかのようだった。 「……なんでお前がここにいんだよ」 「演算記録の検証よ。あなたの魔術、興味深いものだったから」 言葉の調子はいつもと変わらない。冷静で、淡々としていて、けれど──その奥にある熱だけは、俺にも伝わってきた。 「興味、ね。どうせ、お前も思ってんだろ。俺が異物だって」 「異物よ」 即答だった。 俺は思わず顔をしかめる。 だが、そのあとに続いた言葉が、意外すぎて返す言葉を失った。 「でも、それが面白いって言ったでしょ?」 「…………」 「あなたの魔術は、構造が規格外。既存の分類、既存の理論、すべてに当てはまらない。まるで、見たことのない形だった」 彼女はポーチから、一冊のノートを取り出す。表紙には細かい文字で「演算解析草稿」と書かれていた。 ページをめくると、そこには魔術構造の数式や図面が、びっしりと手書きで記されていた。 「……あの演算、私なりに検証してみたの。確かに分類外だった。けれど、わずかに法則性があるようにも見える。あなたの癖、意識の流れ、魔力の流れ方……全部を重ねた結果、部分的なパターンが見えたの」 「まるで俺が、式そのものって言いたげだな」 「たぶん、そう」 俺は言葉に詰まる。 それは、ゼロが言っていたこととまったく同じだったからだ。 《興味深い一致だな。彼女の演算解析は、私の予測アルゴリズムと約83%の一致率を示している》 《……この才女、マジでヤバいな》 「──協力して」 フィアはそう言って、ノートを俺の方に差し出した。 「私は、もっと知りたい。あなたという異常の、正体を」 その言葉に、俺はしばらく動けなかった。 目の前にいる彼女は、異物と断じたうえで、それでも理解したいと言ってくれた。 それが、どれほどのことか。 俺は──きっと、まだうまく言葉にできなかった。 「協力……って、具体的には?」 俺が問い返すと、フィアは演算装置を指さした。 「再現してほしいの。昨日と同じように、雷を。私は氷で合わせるから」 「同時演算ってことかよ……何の実験だ、それ」 「思考パターンの交差点を探すの。あなたの魔術が異常なら、その異常性は誰かと混ざったときに顕著になるかもしれない」 理屈は難しい。でも、直感的にはわかる。 フィアは、俺と噛み合う場所を探してる。 《クロ。構造上の危険は限定的。だが、干渉反応が生じる可能性あり。注意せよ》 《了解。ゼロ、必要になったらすぐ手を貸せ》 《最低限の補助は可能。君の演算癖に基づき調整する》 フィアと並んで立つ。向かい合った瞬間、彼女の瞳がかすかに光を帯びた気がした。 「……じゃあ、いくわよ」 「……ああ」 静かに魔力を流す。 雷。脈打つように、体内を巡る熱。 対するフィアは、静かに、しかし鋭く空気を凍らせていく。 ふたつの魔術が、空間の中で交錯した瞬間だった。 ビリッ──と音を立てて、空気が撓んだ。 氷の刃が雷を帯び、逆に雷の軌道に氷晶が混ざる。 まるで、燃える氷の花のような魔術が咲いた。 「なっ……」 俺の口から、思わず息が漏れる。 「これは……」 フィアの声も、わずかに震えていた。 氷と雷。交わるはずのない性質が、わずかに重なった。 奇跡のような、一瞬の混成。 《演算構造、異常干渉を検出。記録開始──仮称:干渉複合素体001》 《クロ式と氷晶式の混成か……?》 魔術は、すぐに消えた。けれど、その余韻だけが空間に残った。 フィアは、小さく息をつきながら呟いた。 「……美しい。魔術に、こんな感情を抱くなんて……久しぶり」 「……お前が?」 「私だって、人間よ。感動くらいするわ」 いつも通りの無表情なのに、どこか目の奥が柔らかくなっていた。 俺は思わず、ふっと笑う。 「……お前、ちょっとだけ人間らしいな」 「うるさい」 そう言って、彼女はノートを閉じた。 「今日の結果、記録しておく。また協力して。次は、もっと深く踏み込みたい」 「……ああ」 別れ際、フィアがふと振り返った。 その横顔は、どこか満足そうだった。 演習室を出たあと、なぜか足は自然と屋上へ向かっていた。 空気は冷たくて、けど澄んでいた。 夕焼けが校舎を赤く染めている。 屋上には、やっぱりアイツがいた。 「おっそー。何してたんだよ、お前」 「……ちょっとな。変な氷女に絡まれてただけ」 「おお、フィア様か。やっぱし絡んでたか。で、殺されなかった?」 「ギリな。魔術的にちょっと……凍ったけど」 カイが笑い、俺も苦笑いで返す。 ただ、いつもと違うのは──その笑いが、ちゃんと楽だったってことだ。 「なあカイ」 「ん?」 「お前ってさ、もし俺がホントにヤバい存在だったら……どうする?」 「んー……マジで人類滅ぼす系だったら、ぶん殴る」 「容赦ねぇな」 「でも、それ以外なら。俺はお前の味方だよ。だって相棒だろ?」 ……なんなんだよ、ほんと。 そう言ってくれるヤツが一人でもいるなら、俺はまだ踏ん張れる。 《記録:精神状態に安定傾向。前日比で23%改善》 《……いいって、そういうのは》 「ま、心配すんなって。どうせ次は恋と戦争のバトル演習とか始まんだろ」 「ねーよ、そんなイベント」 「あるって信じて生きろよ。落第生」 風が、静かに吹き抜ける。 俺の中で何かが、少しだけ整った気がした。医務室で手当てを受けながら、クロは窓の外を眺めていた。破壊されたフィールド、避難する学生たち、そして慌ただしく動き回る教師陣。学院は騒然としていた。「痛っ……」「我慢しなさい」白衣の医務官が、クロの肩の傷に薬を塗る。「よくこれだけの傷で立ってられたわね」隣のベッドでは、ジンも同じように手当てを受けていた。しかし、彼はいつものように無表情だった。「……お前、全然痛がらないな」クロが呟くと、ジンがちらりと視線を向ける。「慣れているからな」「慣れてるって?」「こういう傷は、昔からよくある」ジンが淡々と答える。その言葉に、クロは何かを感じ取った。(こいつにも、何か過去があるのか……)「クロ!」扉が勢いよく開き、カイが飛び込んできた。「大丈夫か?怪我、ひどくないか?」「うるせぇよ。これくらい平気だ」「嘘つけ、顔真っ青じゃねぇか」カイの後から、サクラたちも入ってきた。「クロくん……」サクラが心配そうに近づく。「本当に大丈夫?」「ああ、心配すんな」ミナが腕を組みながら言う。「それより、あの黒ローブの連中、何だったのよ」「オブシディアン機関……」フィアが静かに答える。「聞いたことのない組織ね」レインも首を振る。「危険な匂いがした」その時、トウヤ先生が入ってきた。「よ、まだ生きてるか?」「先生……あの連中のこと、何か知ってるんですか?」クロの問いに、トウヤは複雑な表情を見せた。「……正直、よくわからん」「でも、何かは知ってるんでしょ?」「昔から、異常演算者を狙う組織がいるって噂はあった」トウヤが椅子に腰をかける。「でも、まさか本当に存在するとは思わなかった」「異常演算者を狙う……なんで?」「さあな。研究材料にするためか、それとも……」トウヤが言いかけて止まる。「それとも?」「……兵器にするためか」その言葉に、場の空気が重くなった。兵器。異常演算者を戦争の道具として使う。考えただけでも恐ろしい話だった。「でも、もう終わったんでしょ?」サクラが不安そうに聞く。「あの人たち、逃げてったし……」トウヤが首を振る。「甘いな。あいつらの目的が本当にデータ収集なら、まだ序の口だ」「序の口?」「異常演算者の力を解析して、人工的に再現する。それが奴らの最終目標だとしたら……」トウヤの
黒いローブを纏った男たちが、破壊されたフィールドを取り囲んでいた。その数、約20名。全員が高度な魔術装備を身につけ、統制の取れた動きを見せている。「オブシディアン機関……」クロが歯を食いしばる。聞いたことのない組織だったが、その殺気と装備から、ただ者ではないことがわかった。「研究所って何だよ……俺たちを実験動物にするつもりか」「そう理解してもらって構わない」先頭の男――指揮官らしき人物が冷静に答える。「異常演算者は貴重なサンプルだ。特に君たち二人は、対照的なタイプで研究価値が高い」ジンが低く呟く。「……僕たちを観察していたというのは本当か」「もちろんだ。君たちの戦闘データは、すべて記録済み」男が不敵に笑う。「『完全制御型』と『感情直結型』……興味深い対比だったよ」その時、クロの脳内でゼロの声が響いた。《外部観測波を多数検出。長期間の監視を確認》(やっぱり見られてたのか……)《さらに問題がある。彼らの装備、異常演算抑制装置を確認》(抑制装置?)《異常演算を封じる技術。包囲されれば、君の力は使えなくなる》クロは冷や汗を流した。満身創痍の上に、異常演算まで封じられたら勝ち目はない。「さあ、大人しく――」男が手を上げかけた時、ジンが口を開いた。「待て」「何だ?」「一つ聞きたい。なぜ今なのか?」ジンの目が鋭くなる。「僕たちが消耗した今を狙ったということは、正面から戦う自信がないということか?」男の表情が一瞬、強張った。「……余計なことを」「やはりそうか」ジンが冷笑する。「異常演算者を研究したいなら、まず僕たちに勝ってからにしろ」「勝負を挑むというのか?満身創痍で?」「満身創痍だろうと、僕は僕だ」ジンが構えを取る。その姿に、クロは少し見直した。(やっぱり、こいつは強いな……プライドの部分で)クロも構えを取った。「俺も同感だ。研究されるくらいなら、戦って散る」「ほう……」男が面白そうに呟く。「では、君たちの実力とやらを確認させてもらおう」男が手を振ると、部下たちが一斉に魔術を発動した。「制圧術式・展開!」「拘束魔法・起動!」「演算封印・発動!」様々な魔術がクロとジンに向かって飛んでくる。「やるぞ、クロ」「ああ、ジン」二人が背中合わせに立った瞬間――「雷閃式・雷帝領域!」「
両者が荒い息を吐きながら睨み合う中、会場の空気が変わり始めていた。クロとジンの周囲で、空間そのものが歪んでいる。「……何だあれ」「空気が震えてる……」観客席から困惑の声が上がる。特別席では、トウヤ先生が深刻な表情を浮かべていた。「まずいな……」「どういうことですか?」アルヴェン生徒会長の問いに、トウヤが答える。「あの二人、異常演算の領域に入り始めてる」「異常演算……?」「通常の魔術演算を超えた、規格外の力だ」セラ副会長も顔を青くしている。「このままでは、結界システムが……」その時、警告音が学院全体に響き渡った。『警告:演算異常値検出。結界システム負荷限界接近』『全観客は速やかに避難準備を』会場がざわめく中、フィールドではクロとジンが最後の力を振り絞ろうとしていた。「……やっとだな」ジンが呟く。「やっと何が?」「君が本当の異常演算に目覚める時だ」ジンの周囲に、これまでとは次元の違う雷が渦巻き始めた。それはもはや雷ではなく、純粋なエネルギーの塊だった。「これが僕の異常演算――『完全制御型』」空間が歪み、重力が変化する。ジンの足元から半径10メートルの範囲が、完全に彼の支配下に置かれた。「この領域内では、すべての物理法則が僕の意志に従う」クロは身震いした。これが、真の異常演算の力。常識を超越した、神の領域。《警告:相手の演算値、測定不能。これ以上は危険》「危険って言われてもな……」クロが苦笑いする。「ここで引くわけにはいかないだろ」観客席では、カイたちが心配そうに見守っていた。「大丈夫かよ、クロ……」「あの空間の歪み、ヤバすぎる……」カイが拳を握りしめる。「クロ!無理すんな!」しかし、クロはカイの声援に応えるように構えを取った。「みんな……見ててくれ」クロの左手に、これまでで最も強い雷が集まり始める。「俺の本当の力を」その瞬間、クロの周囲でも空間が歪み始めた。青白い雷と金色の雷が混じり合い、まるで生き物のように蠢いている。「君も……異常演算に目覚めるか」ジンが初めて、感嘆の表情を見せた。「君の異常演算は『感情直結型』……感情の高まりと共に無限に出力が上がる」クロの雷が、さらに強くなっていく。しかし、ジンのそれとは質が違った。ジンの異常演算が「支配」なら、クロのそれは「共
フィールド中央で、クロとジンが向かい合っていた。先ほどまでの一方的な展開とは、明らかに空気が変わっている。クロの雷は安定し、ジンも初めて真剣な表情を見せていた。「……感情制御ができるようになったか」ジンが静かに呟く。「なら、僕も少し本気を出そう」ジンの周囲に、これまでとは比べ物にならない雷が渦巻き始めた。青白い光が空間を歪ませ、観客席にまで電流が走る。「うわあああ」「何だあの魔力……」「次元が違う……」観客席がざわめく中、クロは冷静にその雷を見つめていた。《出力レベル、従来比400%以上。これが本気の演算》「やっぱり、桁が違うな」クロが苦笑いを浮かべる。「でも――」クロも左手に雷を集中させた。安定した青白い光が、静かに輝く。「俺にも、見せるもんがある」その瞬間、二人が同時に動いた。「雷式・閃雷撃!」「雷閃式・迅雷斬!」二つの雷が空中で激突する。バチバチと火花が散り、衝撃波が観客席まで届いた。「互角……?」「クロの雷が、ジンと拮抗してる……」観客席から驚きの声が上がる。しかし、ジンは冷静だった。「一撃が通った程度で、勝った気になるな」次の瞬間、ジンの姿が消えた。「雷閃式・神速移動」高速移動でクロの周囲を駆け回るジン。残像が複数見える中、どれが本物かわからない。「どこだ……」クロが警戒している時、背後から声がした。「ここだ」振り返った瞬間、ジンの雷拳が迫っていた。「雷閃式・雷神拳」クロは咄嗟に雷で防御したが、衝撃で前方に押し出される。着地と同時に、今度は右側から攻撃が来た。「雷閃式・連続雷撃」ジンが高速移動しながら、連続で雷撃を放ってくる。クロは必死に回避と防御を繰り返すが、徐々に追い詰められていく。「くそっ……速すぎる」《相手の移動パターン、解析困難。不規則性が高い》(パターンがないってことか……)その時、観客席からカイの声が響いた。「クロ!慌てるな!相手をよく見ろ!」カイの声に、クロは少し冷静になった。(そうだ……慌てちゃダメだ)クロは目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ませた。風の流れ、魔力の残響、わずかな気配の変化。(……見えた)クロが突然動いた。ジンの攻撃が来る直前に、最小限の動きで回避する。「なっ……」ジンが初めて、驚いた表情を見せた。「予測したのか?
準決勝当日。学院講堂には、これまでで最も多くの観客が詰めかけていた。廊下にまで人があふれ、立ち見席も満席。教師陣も全員が特別席に集まっている。「ついに来たな……」「ジン vs クロ……」「学年最強と落第生の戦い」ざわめきが会場全体を包む中、フィールド中央には一人の男が立っていた。ジン・カグラ。完璧に整えられた制服、乱れ一つない髪、そして氷のように冷たい瞳。その佇まいだけで、会場の空気が変わった。静寂。まるで、王が降臨したかのような圧倒的な存在感。観客席の誰もが息を詰め、その姿を見つめていた。そして、対戦相手の入場を待つ。「……クロ、大丈夫?」控室で、カイが心配そうに声をかけた。クロは椅子に座ったまま、じっと手を見つめている。「大丈夫だ」「でも、顔色悪いぞ」「……緊張してるんだよ。当たり前だろ」クロが苦笑いを浮かべる。確かに、緊張していた。ジンとの戦い。学年最強との宿命の対決。これまでで最も大きな壁が、目の前に立ちはだかっている。「クロくん」サクラが静かに近づいてきた。「私たち、みんなクロくんを応援してるよ」「ああ」「だから……自分らしく戦って」その言葉に、クロは少し表情を緩めた。「ありがとう、サクラ」「絶対勝てよ、クロ」ミナが拳を握りしめる。「あんたなら、やれる」「クロ・アーカディア選手、入場準備をお願いします」スタッフの声が控室に響いた。クロは立ち上がり、深く息を吸う。「行ってくる」「おう!」「頑張って!」仲間たちの声援を背に、クロは控室を出た。廊下を歩きながら、ゼロの声が響く。《心拍数上昇。緊張状態》「当たり前だ」《相手は格上。勝率は……》「数字はいらない」クロが歩みを止めずに答える。「今日は、数字じゃ測れない戦いになる」《理解不能》「わからなくていい。俺にもわからないから」入場ゲートが目の前に見えてきた。向こう側からは、観客席のざわめきが聞こえる。(行くぞ……)クロは最後に深呼吸をして、ゲートを潜った。「そして、対戦相手――クロ・アーカディア選手!」アナウンサーの声が響くと同時に、会場が一気に沸いた。「クロ!」「頑張れ!」「落第生の意地を見せろ!」声援と同時に、野次も飛んでくる。「ジンに勝てるわけない」「格が違いすぎる」「瞬殺だろ」ク
準々決勝から三日が経った。学院の医務室で、クロは包帯を巻いた左腕を動かしながら、窓の外を眺めていた。「まだ少し痛みますか?」白衣を着た医務官の女性が、クロの腕の状態を確認する。「いえ、もう大丈夫です」クロは軽く腕を回してみせる。カイとの戦いで負った傷は軽いものだったが、念のため経過観察をしていたのだ。「それでは、明日からの練習も問題ないでしょう。ただし、無理は禁物ですよ」「ありがとうございました」医務室を出ると、廊下でカイが待っていた。右手に包帯を巻き、頬にも小さな絆創膏を貼っている。「よ、クロ。調子はどうだ?」「お前こそ、その手は大丈夫か?」「これくらい、かすり傷だよ」カイが笑いながら手を振る。その表情は、三日前と何も変わらない、いつものカイだった。「準決勝、頑張れよ」「ああ。お前も、観に来てくれるんだろ?」「当たり前だ。一番前の席で応援してやる」二人は並んで廊下を歩く。窓の外では、他の生徒たちが訓練に励んでいるのが見えた。「なあ、クロ」「何だ?」「あの戦い、後悔してないか?」カイが突然、真剣な表情になる。「後悔って?」「俺と本気で戦ったこと。もしかしたら、怪我がもっとひどくて、準決勝に出られなくなってたかもしれないだろ?」その言葉に、クロは立ち止まった。「……後悔なんて、あるわけないだろ」クロは振り返って、カイをまっすぐ見つめる。「あの戦いがあったから、俺は本当の意味で強くなれた。技術じゃない、心の部分で」「心の部分……か」「ああ。お前が俺を認めてくれて、俺もお前を認められた。それが一番大切なことだったんだ」カイの表情が、ほっとしたように緩む。「そっか。なら良かった」「それに」クロが小さく笑う。「お前が怪我させた分は、ジンにお返しするつもりだからな」「はは、それは楽しみだ。でも、無茶するなよ」「わかってる」二人は再び歩き始めた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――食堂では、いつものメンバーが昼食を取っていた。「クロくん、腕の調子はどう?」サクラが心配そうに尋ねる。「もう全然平気だよ。ありがとう」クロが席に着くと、ミナが呆れたような顔をする。「本当に、男って馬鹿よね。あんなボロボロになるまで戦って」「でも、すごかったです