|全 思風《チュアン スーファン》の手に握られているのは剣だ。鞘は|黄金《おうごん》ではあるが、蒼白い|焔《ほのお》に包まれている。
「私は容赦というものを知らないのでね」|黄金《こんじき》に煌めく瞳を細め、鞘から剣を抜き出した。剣の中心には|焔《ほおの》の模様が刻まれている。焔はたった一つだけれど、強い存在感を放っていた。
鞘を腰にかけ、剣を握る。切っ先を村へと向け、一緒に屋根の上へと登っている|華 閻李《ホゥア イェンリー》を直視した。「君はここで待っていて」
空いた左手で、宙に紋を描いていく。やがてそれは小さな|蝙蝠《コウモリ》に変わっていった。
蝙蝠は円らで愛らしい瞳を瞬きさせながら、銀髪の頭上を陣取る。ふんすという鼻息が聞こえてきてしまいそうなほどに胸を張る蝙蝠を、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は軽くつついた。「わあ! この子、可愛い」
人懐っこさが目立つ蝙蝠を、ギュッと抱きしめる。蝙蝠と頬を合わせては、かわいいを連呼していた。──んんっ! |小猫《シャオマオ》の方が可愛い。蝙蝠、私と場所を変われ!
悶えたい気持ちを隠し、表情筋を強張らせる。どうしたのかと顔をのぞいてくる|華 閻李《ホゥア イェンリー》に悟られまいと、笑顔で誤魔化した。
「……遊びはこのぐらいにしよう。この村を解放してあげないと、ね?」
「解放?」
|華 閻李《ホゥア イェンリー》と蝙蝠は、息が合ったかのように小首を傾げる。
|全 思風《チュアン スーファン》は微笑し、顎をくいっとした。
視線の先には村がある。連れてきた|殭屍《キョンシー》たちまでもがおり、彼らは悲鳴にもならぬ雄叫びを静かに響かせていた。|全 思風《チュアン スーファン》は不敵に牙をのぞかせる。そして剣を持って地上へと足をつけた。
右足の軸に体重を乗せ、剣を持つ右肘を少しだけ下がらせる。ふっと、一瞬の息遣いを空気に溶けこませた。 直後、目にも止まらぬ速さで地を蹴る。柄の部分で|殭屍《キョンシー》たちの|全 思風《チュアン スーファン》が迅速を用いて剣を振るう姿は勇ましかった。それでいて、恐ろしいまでの*|絶佳《ぜっか》、虚ろうほどの舞いである。「私を殺せるのは愛しい|小猫《シャオマオ》だけ! お前たちのでは無理なのさ!」 |殭屍《キョンシー》の胴体へ剣を突き刺し、足蹴を食らわせた。爪をたてながら直走してくる者には鞘で腹を叩く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向かっていく|殭屍《キョンシー》には、倒した者を片手で持って投げつけていった。 数分後に残ったのは無傷の|全 思風《チュアン スーファン》と、五体のどこかしらがなくなっている|殭屍《キョンシー》だけである。「……すごい」 近くで傍観していた|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼の強さに脱帽した。かわいらしく両目を瞬かせる|蝙蝠《こうもり》を頭上に乗せ、|全 思風《チュアン スーファン》という男の振る舞いを凝望する。 ──まるで、|殭屍《キョンシー》を玩具にして遊んでいるかのようだ。 強いという次元を超えていた。それが|全 思風《チュアン スーファン》という人物を物語っているのだろう。誰にも負けぬ強さ、そして意思を持っていた。結果として今の状態が起こり、どちらが悪なのかすらわからなくなる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は足元に転がる|殭屍《キョンシー》を見下ろし、肩でため息をついた。 |全 思風《チュアン スーファン》の元まで寄り、不安を乗せた瞳で彼を見上げる。「掃除、終わったよ|小猫《シャオマオ》」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬に優しく触れた彼の手は、少しばかりの返り血で汚れていた。 「強いのはわかったけど、無茶しないでほし
どこからともなく吹き荒れる冷たい風が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体を打ちつける。それでも、同じ土俵に立つことすら|厭《いと》わしい白服の男を無言で睨みつけた。 「……最低」 大きな瞳に嫌悪感を乗せ、白服の男へ吐き捨てる。怒りで震える拳を|携《たずさ》え、顔を伏せた。 「ああ、なるほどね。それで気配はするけど、姿が見えなかったのか。|小猫《シャオマオ》の言葉を借りるわけじゃないけど、お前……」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を抱き寄せ、月を落とした瞳で白服の男を推し量る。「──|冥界《めいかい》に寝返ったのか?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》と語らう時の声とは真逆で、とても冷めていた。 木々に留まって体を休めている鳥たちが飛び去っていくのを知っても、彼の冷然たる姿勢は変わらない。むしろ、眼前にいる人間を羽虫としてしか見ていないかのよう。「冥界? ……っ!?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は頭上から降ってくる低い声に、体をびくりとさせた。見上げればそこには、いつもの|全 思風《チュアン スーファン》とは違う、濃い闇色を纏う青年がいる。 ふと、彼が|華 閻李《ホゥア イェンリー》の視線に気づいた。けれどいつもと同じ優しさに満ちた笑みを浮かべている。 それにホッとした|華 閻李《ホゥア イェンリー》は「何でもないよ」と、恐怖を我慢して首を振った。「め、冥界って何?」 恐る恐る聞いてみる。 |全 思風《チュアン スーファン》は|華 閻李《ホゥア イェンリー》が震えているのを知り、怖がらせてごめんねと、頭を撫でた。「|小猫《
ざっ、ざっ、と、|全 思風《チュアン スーファン》は森の中を疾走していた。右手には己が愛剣を、左手には枝から造り出した細長い剣を握っている。 ──あの男、この私から逃れられるとでも思っているのか? 走る|全 思風《チュアン スーファン》は息切れはおろか、汗一つすらかいていなかった。口角を軽く上げ、白い牙をちらつかせる。 そんな彼の前には、逃走する白服の男がいた。男からは時おり、ぜぇはぁという荒い息遣いが聞こえてくる。噎せて咳をしながらも、振り向くことなく前を走っていた。 |全 思風《チュアン スーファン》は男の背中を凝視しながら微笑む。右手に持つ金色の剣で空を十字に絶った。それは衝撃波となり、瞬きする暇すらないほどの速度で男の元へと飛んでいく。「……っ!?」 しかし運がよかったと言うのか……男は木の根に足を取られて転んでしまい、|全 思風《チュアン スーファン》からの攻撃の直撃は免れた。「くっ、そ……な、んだよ、あいつ!」 震えながら起き上がる男の額からは汗が溢れている。四つん這いになりながら、近づく|全 思風《チュアン スーファン》に恐怖していた。「あれ? もう終わりかい?」 つまらないなあと、無邪気に笑う。けれと金色の瞳は|嗤《わら》うどころか、深い闇に染まっていた。くつくつと談笑しながら左右の剣先を地へと突き刺す。 諸刃の剣は文字通り、二本の剣か。それとも|全 思風《チュアン スーファン》か。 |全 思風《チュアン スーファン》は見下ろしながら、そんなことを囁いた。 恐怖で身を縮こませるしかなくなった白服の男に、哀れみの眼差しを送る。同時に、白服
何がいけなかったのか。ふと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の脳裏にそんな考えが浮かんだ。 |殭屍《キョンシー》騒動に見舞われた村のその後を放置していたからか。 |殭屍《キョンシー》になった者は、もう人間には戻れない。それを知っていながら、無事だった人たちを村に置いてしまったからか──「……っ!?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は目頭を熱くし、村全体を悲痛な眼差しで見張った。 村全体に広がったのは血の池である。建物や村人だった者たち、木々ですら、血中へと埋まってしまっていた。そのなかには|華 閻李《ホゥア イェンリー》が気にしていた子供──|雨桐《ユートン》──も含まれている。「せめて、あの子だけでも助けられたら……」 大きな両目から一粒の雫が滴り落ちた。それは額の汗と混ざり、村の上空にある|彼岸花《ひがんばな》へと落下する。 すると|朱《あか》く、夕陽のように燃える大きな|彼岸花《ひがんばな》は恵みの水を受け、より一層の輝きを増していった。 しかし…… 彼岸花の輝きは弱まってしまう。バランスを崩し、斜めになってゆっくりと転落していった。花びらはもげ、雌しべと雄しべは抜け落ちていく。「……お願い、彼岸花。僕の気持ちに答えて! 村を救えなかった、小さな子供すら護れなかった僕に……」 両手を前に突き出した。手が汗ばむ。額にひっついた髪が気持ち悪い。 それでもやり遂げたかった。 瞳に映るのは、|殭屍《キョンシー》に成り果ててしまった子供。血の池に体半分以上を取られてしまっても、なおも動き続けている。けれど言葉は発しない。「少しでいいから、力を貸して!」 喉の奥から叫んだ。瞬間、彼岸花はのっそりとではあるが、元の位置へと戻っていく。 「……ありがとう、彼岸花」 負担が減ったのを見計らい、急いで宙に印を描いていった。 数秒後に出来上がったそれは六芒星の陣である。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は迷いなく陣を彼岸花へとぶつけた。陣を受けた彼岸花は一瞬だけ、さわさわと揺れる。それはすぐに止まり、大きさを感じさせない勢いで血の池へと沈下していった。 音すらしない落下を成功させ、村全体に広がっていた血を一気に吸い上げていく。 しばらくすると血の池が嘘だったかのように、村から鉄錆色《てつさびいろ》は消えてなくなっていた。 |
ホーホーと、ふくろうの鳴き声が静寂の中を走る。 空には月明かりが妖しく輝き、数多もの星が浮いていた。星々は天の川を作り、終わりのない道を宵闇へと忍ばせていた。 そんな夜の※|戌《い》の|刻《こく》。 |殭屍《キョンシー》事件によって滅んだ枌洋(へきよう)の村から少し離れた場所に、誰も使っていない|廃屋《はいおく》があった。屋根や外壁はボロボロで、|蔦《つた》が絡みついている。 中には家具などはいっさなかった。代わりに|藁《わら》が山のように積まれている。 その藁の上に美しい銀髪を持つ端麗な顔立ちの子供、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が眠っていた。横向きになり身を縮め、苦しそうに唸っている。 隣では、|華 閻李《ホゥア イェンリー》より小さな子供が一緒に寝そべっていた。少年に包まれているかのように、小さな体を彼に預けている。 「…………」 眠る子供を抱きしめている|華 閻李《ホゥア イェンリー》の隣には三つ編みの男──|全 思風《チュアン スーファン》──がいた。彼は藁に寄りかかり、無表情で天井を見上げている。 ──|小猫《シャオマオ》が無事でよかった。怪我もしていないようだし、安心した。でも…… 両目を細めた。鋭い眼差しで凝視しているのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。一緒に寝ている子供だった。 身を起こし、うなされている少年の額に触れる。そして愛しい子が抱擁している子供へと目を向けた。 ──この子供は|殭屍《キョンシー》だったはず。だけど今は人間に戻っている。どういう事だ? 一度|殭屍《キョンシー》になってしまった者は、二度と人間へ戻ることはない。その方法すらなく、誰もが諦めるしかないのが現状であった。
寒さが際立つ十二月の夜。この國──|禿《とく》──では|閉《へい》とも呼ばれ、立冬となっていた。 そんな冬の空は暗い。されど、|全 思風《チュアン スーファン》は、凍える様子がなかった。それどころか、中衣一枚だけでも寒いとは感じない。「──あれ? |王様《・・》、上着は?」 |全 思風《チュアン スーファン》とともに夜を楽しんでいるのは、年端もいかぬ子供だ。こちらも布一枚のみという格好にも関わらず、冬の寒さをもろともしていない。 子供は|雨桐《ユートン》という名で、|殭屍《キョンシー》に変えられてしまっていた。生きたまま死を体験し、村では人知を越えた出来事にも見舞われた。最終的には|華 閻李《ホゥア イェンリー》の決死の術によって、|雨桐《ユートン》のみ救い出された。 しかし救い出された子供は、とても大人びている。言い方を変えるならば、本当に本人なのかという疑問すら沸くほどに屈託していた。「……お前、|小猫《シャオマオ》が助けたいって願った子供じゃないだろ?」 |全 思風《チュアン スーファン》は子供を見、あることを思い|做《な》す。 腰にかけてある剣の柄を握った。子供でしかない|雨桐《ユートン》を、冷めた眼差しで見下ろす。 |雨桐《ユートン》は肩で笑い、おお怖い怖いとおちょくってきた。「あー……|拙《せつ》は争いたくないんだ。というか、王様に逆らうほど愚かじゃないからねえ」 真意の掴めぬ笑顔を浮かべる。両手を挙げて参ったと伝えた。「じゃあ、正体を言ったらどうだい? 私の気が変わらぬ内に──」 怒気混じりの声は、|雨桐《ユートン》に軽い悲鳴をあげさせる。|雨桐《ユートン
危険な状況に見舞われ始めているのは、どこも同じ。例外はない。 |雨桐《ユートン》の姿をした|麒麟《キリン》は、そう告げた。『詳しくは調査とかしてみないとわからないけど。どうにも、各勢力で怪しい動きをしている連中がいるようだよ』 人間の住む、この地上。麒麟が暮らす世界、そして|全 思風《チュアン スーファン》が治めていると言われている冥界。これらの世界で、それぞれが不穏な動きをしていた。なかには、別勢力で手を組んでいる者もある。 『今まで、よく気づかれずにやってたって思うよ』 だってそうだろと、ぶっきらぼうに口を尖らせた。『|拙《せつ》みたいな、考えるのが苦手な奴はともかく、あんたのような王様ですら騙せてるんだ』 麒麟は|全 思風《チュアン スーファン》を王様と呼んでいる。それは、彼が冥界の長であるという事実でもあった。 |全 思風《チュアン スーファン》は強い。普通の人間はおろか、仙術を持つ者たちですら立ち向かうこと敵わず。剣術も、体術すらも、敵う者を見つける方が難しいのだろう。 何者にも怯まない精神。美しく、それでいて人目をひく出で立ちの彼は、聡明な頭脳すらも合わせ持っていた。冥界という、名前以外は不明な場所においても、彼は絶対強者のまま。 その強さは麒麟の住まう地にまで届いていた。 そんな彼を、唯一谷底へ落とせる存在は|全 思風《チュアン スーファン》が敬愛してやまない少年、|華 閻李《ホゥア イェンリー》だけ。誰もが口を酸っぱくして、そう答えるはずだ。 『よーく考えてみなよ。そんなあんたを出し抜こうって奴が、冥界のどこかにいるんだ』 面白いよなと、他人事として爆笑する。 |全 思風《チュアン スーファン》は麒麟の言動にイラつき、大きな手で子供の両頬を挟んだ。麒麟はひたすら謝り続け、解放されたときには涙目になっていた。『せ、|拙《せつ》の事よりも! ……人間側は、この村を|血命陣《けつめいじん》で滅ぼした連中が|暗躍《あんやく》してるのは間違いないよ』 この言葉を聞き、|
|麒麟《きりん》はとりあえず戻ろうかと提案した。|全 思風《チュアン スーファン》は腰をあげる。子供の姿を形どる麒麟とともに|華 閻李《ホゥア イェンリー》が眠る廃屋へと向かった。 廃屋の中へ入れば、|藁《わら》の山に埋もれるようにして眠る美しい少年がいる。すやすやと、気持ちよさそうな寝息をたててもいた。 |全 思風《チュアン スーファン》が普段着ている上着にくるまれながら、丸くなっている。「|小猫《シャオマオ》、ゆっくりとお休み」 愛し子の顔にかかる銀の髪を退かし、優しい笑みを落とした。 一緒に廃屋へと入ってきた麒麟は、彼の溶けるような笑みに驚く。両腕を首の後ろに回しながら、大きな目をぱちくりと。まるで、あり得ないものでも見ているかのようだ。 首を伸ばして安らかな寝息をたてている|華 閻李《ホゥア イェンリー》を見、次に彼を注視する。交互に見張った結果、なにかを察したように目尻が下がった。「……おい、麒麟。何だ? 言いたい事があるならハッキリと言え」 そんな麒麟を睨みつける|全 思風《チュアン スーファン》だったが、羞恥心が耳の先を真っ赤に染めていく。普段は冷静沈着を背負っている彼だが、今だけは表情筋がおかしなほどに激しく変化していた。『ぶっ! あはははっ! ひぃーー!』 お腹を抱えながらのたうち回る。しまいには床をドンドンと叩き、爆笑のしすぎで噎せてしまった。『じ、じぬうーー! あの、冷酷無比で、何者にも|臆《おく》さないって言われてる冥界の王様が! 子供一人の前では、ただの甘いおじさんになるとか!』 信じられないと大声で笑い飛ばす。 けれど、当然それは|全 思風
|全 思風《チュアン スーファン》の心は不安で押し|潰《つぶ》されていった。大切な存在である子供が危険に|曝《さら》されているからだ。 そう思うだけで、死んでしまいたい。精神がバラバラになりそうだと、|唇《くちびる》を強く|噛《か》みしめる。「──|小猫《シャオマオ》、無事でいて!」 屋根の上を飛び続け、目的地の屋敷へと到着した。危険を|省《かえり》みず、扉を|豪快《ごうかい》に壊す。 中に入ればそこは玄関口だった。 一階は入り口近くに左右の扉、奧にもふたつある。部屋の中央には|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》を|敷《し》いた階段があり、天井には異国からの輸入品だろうか。大きな|枝形吊灯《シャンデリア》がぶらさがっていた。「……最初に|侵入《しんにゅう》したときは地下からだったからわからなかったけど、もしかしてここは、元|妓楼《ぎろう》なのか?」 心を落ち着かせようと、両目を閉じる。 ──ああ、聞こえる。|視《み》える。ここで何が起きたのか…… |全 思風《チュアン スーファン》が目を開けた瞬間、彼の瞳は|朱《あか》く染まっていた。そして映し出されるのは、今ではなく過去の映像である。 建物の|構造《こうぞう》、中の物の配置などは同じだ。違いを見つけるとすれば、人の姿があるかないかである。 そして過去の映像には、きらびやかで美しい衣装を|纏《まと》う女たちが行き交いする姿が視えていた。 数えきれぬほどの美女、そんな彼女たちと金と引き|換《か》えに遊ぶ男たち。仲良く腕組みしている男女もいれば、女性に言いよっては出禁を食らう者。年配の|妓女《ぎじょ》の言いつけで|掃除《そうじ》をする若い女など。 当時、この|妓楼《ぎろう》で暮らしていた女性たちの姿が、ありありと映っていた。
|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は重たい口を開いていく。 |友中関《ゆうちゅうかん》は|黒《くろ》と|黄《き》、互いの領土の中間にある。そこで働く兵たちはふたつの勢力から選ばれた者たちだった。どちらか一方が多くならぬよう、均等に両族から|派遣《はけん》させる。それが、この國が始まりし頃からの決まりごとであった。 しかし、互いの勢力がそれで手を取り合うというわけではない。度々いざこざが起き、そのたびに|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》や|爛 春犂《ばく しゅんれい》などが出向いて|仲裁《ちゅうさい》していた。「……うん? 何であんたや、あの|爛 春犂《ばく しゅんれい》なんだ? |黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》とか、親玉が出向く方が早くない?」 腰かけられそうなところへ適当に座り、|全 思風《チュアン スーファン》は三つ編みを後ろへとはたく。穴が開くほどに|眼前《がんぜん》にいる男を|注視《ちゅうし》した。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|瓦礫《がれき》の上に座りながら、空を見上げる。いつの間にか灰を被った色になった雲と、遠くから聞こえてくる雷の音。それらにため息をつき、首を左右にふった。「いや、あの場所は互いの族で二番目に|偉《えら》い者が|視察《しさつ》しに行くという決まりになっていた。兄上はおろか、|黄《き》族の|長《おさ》である|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》ですら|関与《かんよ》してはならないとされているんだ」 |皮肉《ひにく》にも、昔作られた決まりごとが今回の事件を引き起こす切っかけにもなってしまう。そして|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男を暴走させる原因にもなってしまった。 男は両手を|太股《ふともも》の上に置き、これでもかというほどに彼を睨む。「……私を睨んだって、しょうがないじゃないか」 今にも殺しにかかる。そんな
|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|鞘《さや》に収め、ふっと美しく|笑《え》む。 |眼前《がんぜん》にいるのは先ほどまで場を独占していた男、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを|顕《あらわ》にしている。「……な、んだ。何だこれはーー!?」 その場を支配していた直後、|焔《ほのお》が消化されていったからだ。 何の|前触《まえぶ》れもなく現れた|全 思風《チュアン スーファン》だけでも手に|負《お》えないというのに、上空から降る|蓮《はす》の花。その花から雨のように水滴が降り|注《そそ》いでいるからである。 花は|仄《ほの》かに甘い香りをさせながら|焔《ほのお》を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に|焦《こ》げた匂いだけが充満し、|蓮《はす》の花は泡となって天へと昇っていく。「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」 まるで、腹から声をだしているかのような|怒号《どごう》だ。 大剣を強く握り、勢いをつけて地を|蹴《け》る。風のように|疾走《しっそう》し、剣で空を斬った。「|朱雀《すざく》の|焔《ほのお》を消せる者など、この世にありはしないはず!」 |全 思風《チュアン スーファン》を斬りつけようと、|空《くう》に|豪快《ごうかい》な一|閃《せん》を放つ。重みのある大剣が|瓦礫《がれき》を|削《けず》り、|蹴散《けち》らしていった。 しかし、それでも、|全 思風《チュアン スーファン》は何の|痛手《いたで》も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。 互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」&nbs
町のあちこちは火の海になっていた。|避難《ひなん》民がいる河|沿《ぞ》いも、町の入り口や広場すら、|焔《ほのお》に|埋《う》もれてしまっている。 必死に火を消す兵たち、逃げ遅れて|瓦礫《がれき》の|下敷《したじ》きになっている市民など。町のいたるところでは|紅《くれない》色の|焔《ほのお》とともに、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交っていた。 そんな事態を引き起こしたのは、黒い|漢服《かんふく》を着た男である。 彼は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》、|獅夕趙《シシーチャオ》というふたつ名を持つ男だ。 右手に大剣を、左手には|鳥籠《とりかご》を持っている。「俺は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》。|黒《こく》族の|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》の弟だ。このたび|黄《き》族の連中が条約を破り、我が|黒族《こくぞく》の|領民《りょうみん》を、|友中関《ゆうちゅうかん》にて|虐殺《ぎゃくさつ》した!」 大柄な体格どおり、とても声が大きい。 |焔《ほのお》が火の|粉《こ》を飛ばす音すら、かき消えるほどだ。 怒りを|携《たずさ》えた瞳で、町の入り口を陣取っている。後ろに控えている兵たちを見ることなく、ただ、言いたいことだけを叫んだ。「──|友中関《ゆうちゅうかん》には俺の心の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》がいた。しかし彼は|黄《き》族の罠にかかり、命を落としたのだ!」 大剣の先端を地面に刺し、|豪快《ごうかい》な|仁王立《におうだ》ちをする。片手で持つ|鳥籠《とりかご》を顔の前まで上げ、瞳を細めた。「|卑怯《ひきょう》者の|黄《き》族が町を支配するなど、|笑止千万《しょうしせんばん》! 俺の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》の|怨《うら》みを受け取るがいい!」 彼の|声音《こわね》が合図となり、後ろ
狭い廊下に|襲《おそ》い来る灰色の|渦《うず》を目の前に、三人はそれぞれのやり方で|蹴散《けち》らしていった。 |全 思風《チュアン スーファン》は指先から黒い砂のようなものを出し、それを器用に動かす。|迫《せま》る灰の|渦《うず》を弾き、床へと|叩《たた》きつけていた。 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はそんな彼の腰にある剣を抜く。腰を大きく曲げ、|全 思風《チュアン スーファン》の腕下から剣を突き刺し、切り刻んでいった。 |前衛《ぜんえい》で戦うふたりの後ろでは、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が花を意のままに|操《あやつ》る。ふたりが|捌《さば》き|損《そこ》ねた灰の|渦《うず》。これが彼ら目がけて|突貫《とっかん》する。それをふたりに近づけさせまいと、花で|防御壁《ぼうぎょへき》を張った。 それぞれの持ち場を理解している彼らは、互いに|死角《しかく》を|補《おぎな》っている──「|小猫《シャオマオ》、あまり私から離れないでね?」 子供の細腰を抱き、楽しそうに話しかけた。戦闘中であることを忘れてしまいそうな笑顔を浮かべながら、余裕然と灰の|渦《うず》を|消滅《しょうめつ》させていく。 その強さたるや。すぐそばには、剣を使って灰の|渦《うず》を|薙《な》ぎ払っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいた。そんな彼の攻撃が赤子と思えてしまうほど、|全 思風《チュアン スーファン》の動きや強さは別格と|謂《い》える。「……うーん、単純でつまらないね」 切っても切っても|沸《わ》いてくる灰の|渦《うず》を見て、飽きたと呟いた。 瞬間、彼の周囲を|漆黒《しっこく》の|砂塵《さじん》が包む。かと思えば『|潰《つぶ》せ』と、低く口にした。 すると彼の命令に従うように、漆黒のそれは廊下全体を押し|潰《つぶ》していく。この場にいる彼らをのぞき、灰の|渦《うず》だけが|犠牲《ぎせい》となっていった。 しばらくすると灰の|渦《うず》は|塵《ちり》と化し、砂粒のようになって消えていく。「終わったよ|小猫《シャオマオ》、怪我はないかい?」 何ごともなかったかのように、腕の中にいる少年の頬を撫でる。子供は慣れた様子で|頷《うなず》き、お疲れ様と、彼を|労《ねぎら》った。 彼はふふっと優しい笑みとともに、子供の|額《ひたい》に|軽《かろ》やかな口づけを落とす。「
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス
|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を説得した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼とともに広場の裏手へと向かった。 そこは野良猫や|鼠《ねずみ》などが|徘徊《はいかい》し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。「──|爸爸《パパ》たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、広場の先にある大きな建物を指差す。 柱や壁は|朱《あか》い、二階建ての建造物だ。屋根の角は|尖《とが》っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。 「あの変わった形の屋根の建物、あそこに|爸爸《パパ》たちが住んでるって話だ」 ただなあと、困った様子で肩を落とす。「建物の|警備《けいび》が|厳重《げんじゅう》で、中には入れねーんだ」「……屋根の上からとか、窓から|侵入《しんにゅう》は?」 子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を|濁《にご》し、口を|尖《とが》らせている。「──|小猫《シャオマオ》、それは無理だよ」 ドスンっと、突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。 するとこそには三つ編みの美しい男、|全 思風《チュアン スーファン》がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に|退《ど》く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、|薫《かお》りを|堪能《たんのう》している。 そんな彼の|唐突《とうとつ》すぎる登場に、|黄 沐阳《
突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口を|塞《ふさ》がれ、薄暗い場所へと引きずりこまれてしまった。 子供は何が起きたのかわからず、ひたすら|踠《もが》く。口を押さえている誰かの手にガブッと噛みついた。「いってぇ! こいつ、噛みやがった!」 かん高くはない声を聞き振り返る。そこにはある男の姿が目に映り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の目は大きく見開かれた。「な、何であんたがここに……!? |黄 沐阳《コウ ムーヤン》!」 |外壁《がいへき》に背をつけ、男から距離をとる。 ──さっきまで|櫓《やぐら》のところにいたはずなのに。何でここに……というか、何で僕がいることに気づいたんだ!? ガタガタと全身が震えた。 かつて|黄 沐阳《コウ ムーヤン》に|襲《おそ》われ、|黄《コウ》家を追い出されてしまった。その際、子供は恐怖を味わった。追い出されたことへの恐怖ではない。|襲《おそ》われ、全てを|喪《うしな》うということへの恐れである。 そのことが|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心の中にずっと|棘《とげ》を刺していた。 原因は全て、|眼前《がんぜん》にいる男──|黄 沐阳《コウ ムーヤン》──である。「……ふんっ!」 彼は反省をしているのか、それともいないのか。どちらともとれる姿勢でそっぽを向いた。しかしすぐに|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|注視《ちゅうし》し、盛大なため息をつく。 めんどくさそうに頭を|搔《か》き、軽く舌打ちをした。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は|警戒《けいかい》を緩めない。ジリジリと彼から離れ、大きな目で|睨《にら》んだ。 「何で、何で戦争なんかに参加して……」「俺はしてねぇーよ!」 |怒号《どごう》ではあったが、声は大きくない。むしろ控えめで、何かから隠れているような。そんな雰囲気があった。顔を下へと向かせ、両手を震わせていた。 「|爸爸《パパ》がこんな戦争に参加するなんて、おかしいんだ。俺は止めようとしたのに、|爸爸《パパ》は聞いてくれねえー」 顔を上げる。泣いてはいないが、瞳が|潤《うる》む様子が見てとれた。|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと視線を向けたまま、指先だけを広場へと走らせる。 そこには笑顔を振り|撒《ま》く|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》がいた。そして隣には……