Mag-log in景舟が眉根を寄せると、茜は泣きそうな顔になった。「この人たちが中に入れてくれなくて。景舟さん……お願い」景舟はわざと半歩横へ動き、彼女の進路を完全に塞ぎ込んだ。「俺ならなおさら、お前を入れるわけにはいかないな」「ただ渡兄さんに会いたいだけなのに……直接聞きたいことがあるの!」景舟は容赦なく切り捨てる。「あいつが会いたいのはお前じゃない。それに、今の状態ではお前の話を聞く余裕などない」茜はますます唇を噛み締めた。「渡兄さんが会いたいのは景凪さんだって、そんなの分かってる!でも、景凪さんを追い払うために私を利用したのは渡兄さんでしょう!?自分がボロボロになって、景凪さんに嫌われるのが怖いから……でも私は嫌いになったりしない!渡兄さんがすべてを失って、何もできない体になったとしても、私が一生養ってあげるって本気で思ってるのに!」景舟は冷ややかな目を伏せ、目の前で声を張り上げる茜を見下ろした。まだ若く、手厚く保護されて育ってきた彼女の顔には幼さが抜けず、その愛も憎しみも酷く子供じみていた。少しだけ身をかがめて視線を合わせると、景舟は彼女のおとぎ話を粉々に砕くような言葉を静かに突きつけた。「――もし、手術の副作用で渡の顔が醜く崩れてしまったとしてもか?お前はそれでもあいつの妻になりたいと言うのか」案の定、その言葉を聞いた瞬間、茜はハッとして言葉を失った。信じられないものを見るような目で景舟を見返す。「渡兄さんの……顔が、崩れる……?」茜が渡のどこに惹かれているかなど、彼女自身も、当の渡もよく分かっている。――渡があの容姿を持っている以上、どんな女に惚れられたところで不思議ではない。茜もまた、あの見目麗しい皮を被った男に心を奪われた一人に過ぎない。一目見て惹かれ、そこに甘い恋愛映画のような妄想をトッピングして膨らませただけの、薄っぺらい感情だ。その思いが浅いと分かっているからこそ、渡は彼女を『婚約者のふり』に利用したのだ。どうせ本当の意味で彼女が傷つくことなどないのだから。景舟の冷ややかな眼差しの奥にある皮肉など気づくはずもなく、茜は必死に食い下がった。「あんなに綺麗な顔が崩れるなんて嘘でしょ!?いったい何の病気なの!?景舟さん、私……お父様に頼んで、世界で一番の先生を呼んでもらって……」「世界で一番の腕を持つ医者なら
渡の冷ややかな拒絶にも景舟は一切動じることなく、足を組んだまま余裕たっぷりの視線をベッドへ向けている。レンズの奥にある瞳は、波一つ立てない古井戸のように静まり返り、いっさいの感情を読み取らせない。「周藤審議官の手の者が俺のところへ来た。三年前、お前が俺に落札を頼んだ嬰草を譲ってほしいそうだ」景舟は探るように見つめた。「渡、お前はいったい何を企んでいる?」世の中に景舟が本心を読めない人間などそういないが、目の前にいる男はその数少ない例外だった。渡は気怠げに視線をよこすだけだ。「俺の勝手だろうが」痛みで死にかけているというのに、相変わらず天上天下唯我独尊とでも言いたげな、ふてぶてしい態度を崩さない。景舟は目を細め、静かに観察するように口をつぐんだが、やがて独り言のように話し始めた。「推測させてもらおう。嬰草はすでに絶滅したとされる、極めて希少な薬草だ。俺が落札したあれが、おそらくこの世に残された最後のひとつだろう」そこでふと、意図的に声のトーンを落とす。「そういえば……周藤審議官が、景凪さんに接触したと聞いたが」狙い通りだった。『景凪』という名前が出た瞬間、渡の顔色に明らかな焦りが走ったのを景舟は見逃さなかった。人差し指で、もう一度静かに眼鏡の位置を直す。「なるほど。やはりあの薬草を欲しがっているのは景凪さんの方か。……渡、お前わざと仕向けたな?」渡は血の気を失った唇を動かし、何かを告げようとしたが、発作のような激しい咳き込みに遮られた。これまで他人の世話などまともにしたことのない景舟だったが、見かねて立ち上がり、コップに水を注いで差し出す。だが、渡がそれに口をつけるより早く、ごぽっと吐き出された血がコップの底へ落ち、透明な水は一瞬にしておぞましい赤に染まった。景舟は息を呑み、即座にナースコールへ手を伸ばす。しかしボタンに触れる寸前で、渡の手がその腕を制止した。「騒ぐな。手術までは……死なない」蒼白な顔が、血に染まった唇の赤を異様なほど際立たせている。「渡……」思わず眉をひそめた景舟の言葉を遮るように、渡は力なく目を閉じ、うわ言のように呟き始めた。「……あいつに、あの手掛かりを、簡単には渡すな。少しでも長く、希望を持たせてやってくれ。取引は直接会って行うと伝えて……お前は表に出るな。誰か代わりを立てろ。
マスク姿の医療スタッフたちがストレッチャーを押して踏み込んできた。意識を失った渡は手際よく乗せられ、梧桐苑の屋上へと直行する。そこではすでにヘリコプターが待機していた。茜もその後を追うようにヘリに乗り込む。「影山さん、これっていったい……渡兄さん、どうなっちゃったの?」茜は完全に混乱していた。「もうすぐ目が見えなくなるかもしれないから、景凪さんの足手まといになりたくないって……だから私に、少しだけ手伝ってほしいって……そう言ってただけなのに……」茜の考えは単純だった。たとえ彼が視力を失ったとしても、自分の気持ちは変わらない。自分が彼の目になればいい。それくらいの覚悟はできていたつもりだ。だからこそ、あっさりと彼から離れようとする景凪の愛情の浅さを、心の底で軽蔑すらしていたのだ。だが、目の前で横たわる男の状況は、茜の想像をはるかに超えていた。顔にこびりついた血痕が、異常なまでの肌の蒼白さを際立たせている。呼吸も極端に弱く、今にも消え入りそうだ。その姿はまるで……このまま死んでしまうのではないかと思えるほどに。悠斗は沈痛な面持ちで茜を一瞥した。一から事情を説明してやる余裕などない。「茜お嬢様、このことはどうかご内密に」そう、短く告げるだけだった。ヘリコプターが降り立ったのは、国内トップクラスの設備を誇るプライベート病院の屋上だった。高度な医療機器を備えた特別病室は、すでに万全の態勢で整えられている。茜は渡の様子を見ようと病室へ向かおうとしたが、悠斗に立ち塞がられた。「茜お嬢様、ここであなたにできることはもうありません。お送りしますので、お帰りになって休んでください」その態度は丁寧だったが、有無を言わせない強硬さがあった。半分開いたままのドアの隙間から、ベッドに横たわる人物が突然激しく咳き込むのが見えた。顔は見えなかったが、吐き出された赤い血が真っ白なシーツにじわじわと広がっていくのがはっきりと分かる。茜はついに、事態の深刻さを痛感した。「影山さん、渡兄さんは……もしかして死んじゃうの?」悠斗はギリッと奥歯を噛み締めた。「渡様は……ご無事です。必ず生き抜かれます!穂坂さんと、ずっと一緒に生きていくと約束したんですから!」信じられないというように、茜は首を横に振って後ずさった。「本当にずっと生きられるな
電話を終えて部屋に戻ると、渡がソファに気だるげに寄りかかっていた。寝ぼけ眼のまま、じっとこちらを見つめている。その姿を見た瞬間、景凪はなぜかふと、猫みたいだとおかしくなった。思わず笑みをこぼしながら歩み寄る。だが近づききるよりも早く、待ちきれないとばかりにぐいっと腕を引かれ、そのまま胸の中へと抱き寄せられた。映画を観るため、リビングにはフロアランプが一つだけ灯されている。モニターから放たれる青白い光とランプの暖かな光が彼の顔の上で溶け合い、それがどうしようもなく美しく調和していた。「誰と電話してた?」低く呟く声は、まだ微かな眠気を含んでいる。「周藤審議官よ。明日の朝八時に、家の前に迎えの車が来るの」景凪はありのままを伝えた。愛おしげに両手でその頬を包み込み、真剣な顔つきで言い聞かせる。「あなたは家で大人しく私の帰りを待つこと。私が渡した薬は、毎日時間通りにちゃんと飲むのよ。自分の体を大事にしてね」彼は伏し目がちに見つめ返し、ゆっくりと瞬きをした。かすかに笑みを浮かべて問う。「うん。……他には?」「私を突き放そうなんて、二度と考えないこと」景凪はわざと厳しい表情を作ってみせた。「茜さんのことだって、次にまたあんな真似したら本当に怒るからね。私が本気で怒ったら恐いんだから」渡は目を閉じ、気だるげに笑った。「分かった」再びきつく抱き寄せられる。ソファは二人で横になっても十分なほどの広さと柔らかさがあった。強く抱き込まれ、清廉で心地よい香りに包まれると、不思議と心が安らいでいく。景凪はそっと目を閉じた。心地よい眠気がじわじわと押し寄せてくる。「ねえ、渡」「ん?」「今年は、絶対にお正月までに帰ってくるから。大晦日のごはんは私が作るね!私の腕前、楽しみにしてて」渡は優しく微笑んで応えた。「ああ」景凪はその胸の温もりにすり寄るように顔を埋めると、ゆっくりと手を伸ばし、骨ばった大きな指に自分の指をしっかりと絡ませた。「渡……私、本当にあなたのことが好きなの。すごく好き。……この前お寺で、神様にお願いしてきたんだ。あなたがずっと健康で、長生きできるようにって。神様も、きっと叶えてくれるわ」普段なら合理的に考える景凪だ。人の運命は天が定めるものであり、人がどう足掻いても避けられない過酷な試練があることくらい分かって
裏切られることを何よりも嫌う彼女の性格を、彼はよく知っている。信じて差し出した真心を雑に扱われ、傷つけられる痛みを恐れていることも。かつて深雲から受けた傷があまりにも深かったからだ。だからこそ、そういった行為を絶対に許さない。渡の読みは確かに鋭かった。……だが、たった一つだけ決定的な間違いを犯している。それは、彼自身がどれほど景凪にとって大きな存在になっているか、ということ。渡の喉仏が小さく上下した。何か言葉を選ぶようにして、結局は諦めたように口角を上げる。「君がそんなに勘がいいと、俺はどうしたらいいか分からなくなるな……」気だるげな響きの中に、どうしようもない甘さが滲んでいた。景凪はたまらず手を伸ばし、彼の胸をぽかっと叩いた。「馬鹿じゃないの?こんなつまらないお芝居して!私があなたを長生きさせるって言ったでしょう?どうして……どうして私を信じてくれないの?私は絶対に、あなたを助け出してみせるから!」言い終える頃には目尻が赤く染まり、感情が抑えきれずに震えていた。渡は静かに手を伸ばし、目尻から溢れそうになっていた雫を指の腹で優しく拭うと、そのまま彼女を強く抱き寄せた。彼女の頭頂部に顎を乗せ、ひどく静かなため息をこぼす。刺すような寒さの中、吐き出された息は白い霧となり、冷たい風にさらわれて一瞬で消え去った。彼の声は、その白い霧よりもさらに儚い。「景凪。俺はただ……君のこれからの人生が、幸せで満ち足りたものであってほしいだけなんだ」そこに、俺自身がいなくても構わないから。「私がこんなにあなたを好きになってしまったのに……途中で見捨てるなんて絶対許さない」景凪の両手が彼の胸元の服をきつく握りしめる。渡は、まるで自分の心臓ごと鷲掴みにされているような深い痛みを感じた。掠れた声が、小刻みに震えている。「渡……私があなたを救うから。今度こそ、絶対に私が救ってみせる!」なんて、馬鹿な人なんだろう。深雲のような男に酷く騙され、あれほどズタズタに傷つけられたというのに。それでも彼女は、一切の打算もなく真っ直ぐに人を愛そうとする。渡は景凪の柔らかい長い髪を静かに撫でた。ひらひらと舞い落ちてきた雪の結晶が、二人に触れてふっと溶けて消える。深い慈しみと共に、彼は優しく応えた。「……分かったよ」景凪は顔を
景凪がそう言うと、渡はあっさりと立ち上がった。「ああ。じゃあ、俺と景凪は先に出るよ」そして、ドアのそばに控えていた悠斗に指示を出す。「悠斗、お前は茜の世話をしろ。今日は俺に付いてこなくていい」その一言に、悠斗本人を含めたその場にいる数人の顔色が微妙に変わった。悠斗は珍しく戸惑ったように動きを止め、聞き返す。「渡様、それは……僕が茜お嬢様にお供する、ということでしょうか」悠斗といえば、渡の右腕として常に影のように付き従っている存在だ。もし護衛の対象が景凪だというならごく自然だが、茜を任せるとなると……景凪はうつむいたまま、表情には一切出さなかった。だが、バッグの持ち手を握る指先は、無意識のうちに白く強張っていた。普段はお調子物の昭野だが、こういう空気には誰よりも敏感だ。すぐに割って入り、場を取り繕おうとする。「もう、渡さんってば。影山みたいな真面目な奴をからかうのはやめてくださいよ。茜ちゃんみたいなお騒がせなお姫様は、僕が相手するのにぴったりなんだから!」しかし渡の表情は淡々としたままで、そのフォローすらもあっさりとスルーした。景舟にちらりと視線を向ける。「じゃあな」言葉短くそう告げると、景凪の手を引いて部屋を出て行った。悠斗はその場に残されたまま、後を追うこともできずに立ち尽くしている。昭野は眉を寄せ、珍しく真剣な顔つきで呟いた。「渡さん、どうしちゃったんすか?景凪ちゃんが怒ってるの、気付いてないはずないのに……」これまではあんなに景凪を溺愛していたというのに。せっかく自分が助け舟を出したのにも関わらず、見事に蹴り飛ばされてしまった。景舟は眼鏡の位置を直し、静かに立ち上がった。「俺はこの後まだ用がある。お先に失礼するよ」そして茜に視線を移す。「君のお父上から落札を頼まれていた古画は、君の滞在先に届くよう手配しておいた。引き揚げる時に忘れないように」「はい」茜は素直に頷いた。墨田家の兄弟とは幼い頃からの付き合いだが、昭野には好き放題に振る舞えても、景舟の前ではさすがに大人しい。景舟は部屋を出ようと足を踏み出した。その時、視界の隅に茜の姿が映り込む。彼女は、先ほど渡に遠ざけられたはずの冷たいデザートを再び自分の手元に引き寄せると、大きなスプーンで乱暴にすくい、怒ったように口に放り込ん
姿月からの伝言を受け取った真菜は、すっかり舞い上がっていた。スマホを置くなり、すぐにその朗報を周囲に広める。「姿月が今から鷹野社長を連れてここに来るって!」やっぱり、社長にとって一番大事なのは姿月なのね、と真菜はほくそ笑む。真菜はぴたりと閉まった大扉を一瞥し、目の奥に勝ち誇った光を浮かべた。もうすぐ鷹野社長が来る。今度こそ、景凪のやつ、どんな目に遭うか見ものだわ。……研究室の中で、景凪は朝からずっと忙しく働き通しだった。ようやくメガネを外し、こわばった首筋を揉みほぐす。何気なくスマホを手に取ると、深雲からの不在着信が4件――一番新しいものは、たった三分前についていた
車内に残ったのは渡ひとり。彼はスマホを耳にあて、音声メッセージを再生する。柔らかくて、微笑みを含んだ声。その声は、生まれたばかりの仔猫の肉球のように、そっと心の一番柔らかい場所を掻き撫でる。ずっと消えていた想いが、また静かに蘇るような感覚だった。三分後。渡は車の窓をコンコンと叩き、悠斗を呼び寄せる。悠斗は戸惑いながら、もう一度後ろを振り返る。「社長、何かいいことでもあったんですか?」口元が勝手に上がっている。渡は余裕たっぷりに眉をひとつ上げて、「お前に関係ない」と言う。その言葉すら、笑いながらだった。「……」さらに不思議なのは、渡の耳の先が赤くなっている
例外なく、どの部署も多少なりとも赤字を出していた。幹部たちは息を殺し、首筋には冷たい汗が滲んでいる。コトン――蝶がひらりと舞い降り、会議テーブルの上にとまった。渡は目を細め、落ち着いた声で言う。「これは昨年度、みんな各部署の収益状況だ。説明しろ」場の空気は凍りつき、しばらく沈黙が流れる。数秒後、渡の右隣に座る営業部長が、恐る恐る口を開いた。「黒瀬社長、業務目標はきちんと部下に伝えておりますが、その……現場の人間が……」「ふっ……」渡は眉を上げて笑った。その端正な顔立ちに、ぞくりとするような妖しさが宿る。彼が立ち上がった瞬間、空気が一変した。圧倒的な存在感が会議室を支
伊雲の脳裏に、電光のようにひとつの名前がよぎった。千代!その間隙をついて、ジョンはすでに素早く身を翻し、エレベーターの中へと消えていた。伊雲が慌てて追いかけた時には、エレベーターの扉は無情にも閉ざされ、まるで疫病神を避けるように彼女を遠ざけた。伊雲は苛立ちを隠せず、足早に身を翻すとスマホを取り出し、中間人へ電話をかけて事情を確認する。「前に言ってたけど、ジョン・チョウって国内のある女優の熱狂的なファンなんでしょ?その女優って、最近国際映画賞を獲った千代のこと?」相手が肯定すると、伊雲はすべてを悟った。その美しい顔には暗雲が立ちこめる。きっと、景凪のあの女がどこからか