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第9話

作者: かぜわら
翌日。私がここから去るまで、残り三日。

朝早くに、朔也が保温ジャーを持って病室を訪れた。

「松本さんに頼んで作ってもらったんだ。君の好きな、かぼちゃのポタージュだよ。熱いうちに飲んで」

「ありがとう」

私は拒むこともなく受け取り、スプーンで少しずつポタージュを口に運んだ。

朔也が満足げに帰っていった後、今度は木村弁護士が病室を訪ねてきた。

「葉山さん、会社名義の譲渡契約が正式に発効いたしました。これで手続きはすべて完了となります」

「ありがとうございます」

手渡された書類を見つめながら、私はぽつりと呟いた。

「七年続いた身を切るような腐れ縁も……これでようやく終わりね」

タイムリミットまで、あと二日。

朔也は小さな花束と、安っぽいパワーストーンのブレスレットを持って病室へやってきた。

順調に回復している私を見て、彼は嬉しそうにそのブレスレットを私の手首に着けた。

「明日には退院できるね。昨日の夜、有名な神社でご祈祷してもらったんだ。厄除けのお守り代わりになるから」

手首の石を見つめ、私は微かに目を伏せた。

昨夜、栞奈が急な腹痛を訴え、朔也は慌てて彼女を病院へ連れて行ったはずだ。そしてその足で、わざわざ彼女のために「安産祈願のお守り」を買いに走ったのである。

このブレスレットは、そのついでに買われた適当な代物にすぎないのだ。

それを渡すと、彼はそそくさと病室を後にした。

タイムリミット最終日。

朔也が退院の迎えに来た。

車に乗り込むと、彼は甲斐甲斐しく私のシートベルトを締め、甘い声で囁いた。

「杏、今日が終われば、君は正式に俺の妻になるんだ。披露宴の準備はもう完璧だよ。今日の夕方六時から、時間通りに開くからね」

「ええ」

黒いセダンが高級住宅街へと入っていく。

三日ぶりに自分の家へと帰ってきた。家の中は私が入院した日と何一つ変わっておらず、栞奈が入り浸っていた痕跡など微塵も残っていない。

だが、寝室に入ると、ドレッサーの上に一本のリップが置かれているのが見えた。

何気なく視線を落とす。高級ブランドのそのリップは、すでに誰かが使用した形跡があった。わざとらしく置き忘れられたそれは、私に対する無言の宣戦布告のようなものだ。

寝室に長居する気にもなれず、使用人に食事の準備ができたと声をかけられて一階へ降りた。

ダイニングテーブルに着くと、朔也は自分の皿のステーキを細かく切り分け、フォークに刺して私の口元へと運んできた。

その所作はひどく甘く、優しさに満ちている。二日前に、栞奈の口に食事を運んでやった時のように。

私は自嘲気味に笑った。そして、深い愛情をたたえた朔也の瞳を見つめ、唐突に尋ねた。

「もしも……ただの、もしもの話だけど。私があなたの元から去っていく夢を見たら、悲しい?」

朔也はピタリと動きを止め、ひどく焦った様子で私の手を握りしめた。

「杏、悲しいどころの話じゃない。俺は生きていけなくなる。だから……絶対に俺から離れないでくれ」

私が口を開きかけた時、テーブルに置かれていた朔也のスマホが震えた。

ふと視線をやると、ポップアップ画面には栞奈からのメッセージが表示されていた。

【どうしよう、流産しちゃうかも……お腹がすごく痛い、赤ちゃんに何かあったら……】

朔也の目に明らかな焦りの色が走り、彼は慌てて席を立った。

「杏、ごめん。式場の設営でちょっとトラブルがあったみたいで、今すぐ行かなきゃならなくなった。後で必ず迎えに来るから!」

背を向けて立ち去ろうとする彼の手を、私はふいに引き留めた。

そして、真っ直ぐに彼を見つめ、静かに微笑みかけた。

「……さようなら」

朔也はビクッと体を震わせ、勢いよく振り返った。

かつての私なら、彼を見つめる瞳にはあふれんばかりの熱い愛が宿っていたはずだ。だが今の私の目は、ただ荒涼とした冷たさだけを映している。

その静けさに、彼は何か嫌な予感を感じ取ったようだった。

「杏、君……」

朔也が言いかけた瞬間、ポケットに突っ込んだスマホが再びけたたましく震え始めた。

彼は一瞬だけ迷ったものの、焦燥感に勝てなかったのか、急き立てられるように足早に家を出ていった。その後ろ姿はひどく狼狽していた。

私は寝室に戻り、用意しておいたパスポートと必要な書類をすべてバッグに詰め込んだ。あの安っぽいブレスレットは迷うことなく外し、ゴミ箱へ放り捨てる。

そして、秘書に電話をかけた。

「朔也は蝶野さんのところへ行ったわ。夜は予定通りに決行して。……ああ、それから。必ず蝶野さんにも『彼女のための結婚式』の招待状を送ること、忘れないでね」

「はい、承知いたしました」

一時間後。私は移動中のタクシーの中から、朔也にメッセージを送った。

【迎えには来なくていいわ。私一人で式場に向かうから】

もちろん、行くはずなどない。

だが、私が式場に向かっていると朔也に思い込ませ、彼を祭壇の前で待たせておかなければならない。そうしてはじめて、秘書が栞奈を呼び出し、予定通りあの『不倫暴露パーティー』を幕開けさせることができるからだ。

それから三十分後。

私は、伯母の会社を引き継ぐため、海外へと向かう飛行機の搭乗待合室にいた。

搭乗ゲートへ向かう前、私はスマホからSIMカードを抜き取り、ゴミ箱へと落とした。

「永遠にさようなら、朔也」

今日から私の新しい人生が始まる。そして――あなたが私を見つけることは、もう二度とない。

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