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第3話

Penulis: かぜわら
静かな朝の空気を切り裂くように、けたたましい着信音が鳴り響いた。

電話に出た朔也の表情が、見る見るうちに険しく引き締まっていく。

通話を終えると、彼は私の手をそっと握り、どこか言い訳がましい口調で言った。

「杏、今アシスタントから連絡があったんだ。大事な取引先の方が交通事故に遭って、かなり危険な状態らしい。俺、今すぐ病院に駆けつけないといけない」

顔を上げた私の目に、彼の顔に一瞬だけ走った「期待」と「興奋」の色がはっきりと映り込んだ。

心臓が重く冷たく沈んでいくのを感じながら、私は心の中で冷笑した。

取引先が交通事故で危篤だなんて、そんな雑な嘘までついて。そんなにも早く、あの女に会いに行きたいのね。

もう問い詰める気力すら湧かず、私はただ短く「そう」とだけ頷き、二階へと向かう階段を上り始めた。

寝室の大きな窓際まで来たとき、ふと足が止まった。

窓から見下ろす邸宅のゲート前には、見覚えのあるピンク色のベンツが停まっていた。

二階からでは表情までは見えない。しかし、運転席の窓から乗り込んだ朔也に、車内の女が艶めかしく絡みついている下品なシルエットは、はっきりと確認できた。

その時、私のスマートフォンが短く震えた。

また栞奈からだ。送られてきた短い動画をタップすると、信じられないほど生々しい会話が流れ出した。

「朔也、これ……あなたのために穿いてきたの。こういうの、好きでしょ?」

動画の中の栞奈は、黒いストッキングに包まれた脚を艶めかしく見せつけ、朔也を誘惑している。

それを前にした朔也の、狂わんばかりの欲望に満ちた声が続いた。

「場所を変えよう。お前、海辺が好きだろ」

「ふふっ……」

動画の再生が終わると同時に、眼下のピンクのベンツが静かに発進し、あっという間に私の視界から姿を消した。

直後、再びスマートフォンが短く震える。

どういう意図か、続いて送られてきたのは『マリン・ビーチ』のGPS位置情報だった。

わずかに震える指を見つめながら、私は迷うことなく踵を返し、タクシーを拾ってその後を追った。

三十分後。

私はタクシーの車内から、少し離れた場所に停まっているあのピンク色のベンツを見つめていた。

サンルーフは全開になり、車内からは生々しい音が漏れ聞こえ、車体自体もリズムに合わせて不自然に揺れている。

近くを通りかかったサーファーや海辺を散歩している人たちが足を止め、呆れたようにひそひそと笑い合っていた。

「おいおい、どこの金持ちか知らないけど派手な遊び方をするもんだ。海辺に停めたベンツでずいぶんお盛んなこって、刺激的だねぇ」

頬を伝う涙はもう音すら立てなかった。スマートフォンを握る指先は、感覚がないほどに冷え切っている。

私は震える手で、そのおぞましい光景を五分間きっちりと動画に収めた。

そして、あらかじめ手配していた信頼できる秘書に電話をかけ、掠れきった、しかし冷たく決然とした声で命じた。

「……結婚披露宴の当日、招待客が一番集まっているタイミングで、この動画を会場の巨大スクリーンで大々的に流して」

皆が寝静まった深夜、朔也はようやく泥酔状態で帰宅した。

ドタバタと無遠慮な物音を立てて寝室に入ってきた彼は、眠っていた私を強引に起こした。

「……杏、愛してるよ……」

朔也は私の顔を両手で包み込み、酷い酒の匂いをさせながら何度も何度もキスを落とした。そして、呂律の回らない口で縋るように呟いた。

「俺に怒ってもいい、罵っても殴ってもいい……でも、一生俺から離れないでくれ……いいだろう……?」

彼を見つめ返す私の目は、少しの同情も熱も持っていなかった。

至近距離にある彼の首筋に、血のように赤く生々しいキスマークがべったりと付けられているのを見て、私の心はすでに氷のように冷え切っていた。

翌朝。

昨日のことでよほど機嫌を取りたいのか、朔也の過剰な優しさはさらにエスカレートしていた。

昨朝に引き続き、家政婦任せにせず自ら朝食のテーブルを整えたばかりか、私が今日着るための服まで甲斐甲斐しく選んで見せたのだ。

しかし、向かい合って朝の食卓についている最中、彼のスマートフォンがまた短く震えた。

チラリとメッセージの画面を一瞥した朔也は、今度はほんの少し申し訳なさそうな顔を作って私を見た。

「ごめん杏。会社の財務関係で少しトラブルがあったみたいで、今から急いで確認に行かなきゃならなくなった。でも昼には必ず戻ってきて君と一緒に過ごすから、いいかい?」

私はただ静かに頷き、慌ただしく家を出て行く彼の背中を見送った。

朔也の車が完全に見えなくなったのを確認してから、私も外出の準備を整えた。

向かったのは法務局や関係各所だ。例の、会社を譲り受けるための名義変更書類をすべて提出し終えた。

帰宅後は、自分の荷物をひとつひとつ整理し始めた。

朔也から過去にもらったブランド品や高価なプレゼントの数々を写真に撮り、フリマアプリで安値で出品し、すべて売り払うことにした。

夜の八時。案の定、朔也は昼になっても夜になっても帰ってこなかった。

代わりに私の電話を鳴らしたのは、地元の警察署だった。

朔也が他人と諍いを起こして乱闘騒ぎになり、どうしても家族が身元引受人として迎えに来る必要があるというのだ。

私が急いで警察署のロビーに駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。

パイプ椅子に座る朔也の胸に、栞奈がすがりつくようにして泣きじゃくっているではないか。

私が入ってきたことに気づいた瞬間、朔也の顔に明らかなパニックが走った。

彼は慌てて栞奈を乱暴に突き飛ばすと、血相を変えて私に駆け寄ってきた。

「あ、杏!?どうして君がここに来るんだ!俺はボディーガードに、顧問弁護士を呼べと指示したはずなのに!」

朔也の背後に立っていたボディーガードが、恐縮したように頭を下げて説明した。

「申し訳ありません、社長。警察の方から、身元引受人はどうしてもご家族の方でなければならないと言われまして……」

私は朔也の顔にできた痛々しい青痣に目をやり、短く問いかけた。

「どういうこと?」

朔也が弁明の口を開くより早く、そばにいた女性警官が事務的に説明してくれた。

「ホテルで蝶野さんが柄の悪い男たちに絡まれていたところを、通りかかった瀬崎さんが助けに入って乱闘騒ぎになったんです。双方、事情聴取のためにこちらへ同行していただきました」

すると朔也は、慌てふためいた様子で私に言い訳を並べ立てた。

「あ、杏、聞いてくれ!蝶野さんは大事な取引先のご令嬢でね、どうしても見過ごすわけにはいかなかったんだ。ホテルへは商談で行っていて、本当にたまたま出くわしただけで――」

私は女性警官に向かって軽く微笑み、必死に取り繕う朔也の手をそっと押さえて遮った。

「事情は分かりました。大した問題じゃありません」

その私の言葉に、朔也は目に見えて安堵の息を吐いた。しかし、私があまりにもあっさりと引き下がったことに拍子抜けしたのか、どこか釈然としない表情を浮かべていた。

保釈の手続きを終えて署のロビーを歩き出したとき、栞奈が小走りで追いかけてきた。

「瀬崎さん……あの、私、怖くて一人じゃ帰れません。送っていただけませんか?」

さもか弱い被害者を装うような、甘ったるい声だった。

朔也はためらいがちに、私の顔色をうかがう。

「杏、とりあえず三人で蝶野さんを家まで送ってから、一緒に帰ろうか?」

私は彼を真っ直ぐに見つめ返し、静かに首を振った。

「ボディーガードか、誰か他の人に送らせればいいじゃない」

「でも杏、蝶野さんは怖い思いをしたばかりでショックを受けているんだ。関係ない他人に任せるのはちょっと……」

「だったら、あなたが送ってあげればいいわ。私は疲れたから、一人で帰って休む」

私は感情の読めない平坦な声で、きっぱりと彼の言葉を遮った。

朔也は一瞬呆然とし、まだ何かを言い募ろうと口を開きかけた。だがそのとき、横から栞奈がこっそりと彼の袖を引っ張った。

結局、彼は小さく頷き、妥協した。

「わかった。じゃあ……君は先に帰って休んでてくれ。俺が彼女を送っていくよ」

私は何も言わずに踵を返し、迷うことなく警察署の出口へ向かった。

後ろ髪を引かれることもなく、冷酷なまでに決然と背中を向けて。

朔也はその遠ざかる背中を見つめながら、胸の奥底に言い知れぬ焦燥と不安を覚えていたが……それが一体何に対する危機感なのか、今の彼には微塵も理解できていなかった。

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