All Chapters of 植物人間の社長がパパになった: Chapter 961 - Chapter 970

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第961話

その場が凍りついた。雅彦は険しい表情を浮かべたまま、長いこと口を開かなかった。二人の男が沈黙を保ったまま立ち尽くす。だが、そこには嵐が来そうな緊張感が立ちこめていた。その張りつめた空気を破ったのは、ベッドの上の莉子だった。彼女の指がぴくりと動いたのを見て、雨織はすぐにそれに気づき、二人の対立どころではなくなった。「お姉ちゃん、目が覚めたの!?」彼女は慌てて駆け寄る。莉子はゆっくりと目を開け、心配そうな雨織の顔を見て、少し戸惑ったように口を開いた。「私……これは……」「今はICUにいるの。気分はどう?」海もすぐにそばに寄ってきて、様子をうかがう。莉子の頭はまだぼんやりとしていたが、しばらくしてから、ようやく言葉を発した。「もう……大丈夫だと思う」その返事に、海はほっと息をつき、次いで雅彦に目を向ける。「雅彦様、莉子はこちらでちゃんと見てます。桃さんのことがそんなに心配なら、どうぞ行ってあげてください。私たちで十分対応できます。さっき言ったことも、ぜひご検討を。早めに後任者を見つけていただかないと、会社にも支障が出ますので」状況がつかめず、莉子は困惑したように雅彦の方を見た。険しい顔をしている彼を見て、そっと尋ねる。「何があったの?後任者って……どこかへ行くつもりなの?」「彼は菊池グループを離れるつもりらしい。もう俺の部下じゃなくなるって」雅彦の声には、どこか冷え切ったものが混ざっていた。長年、自分の傍にいた海が、こうもあっさりと離れていくとは。「そんなの……ダメよ!」莉子は驚いて声を上げた。「いったい何があったの?どうして急に……」「お姉ちゃん、もう止めないで。雅彦さんは、自分の奥さんに少しも罰を与えようとしないの。つらい思いなんてさせたくないから、今すぐにも連れ戻そうとしてるのよ。海さんはあなたのために怒ってるの。菊池グループに、お姉さんや海さんみたいな人材が必要ないって言うなら、どこでだってやっていけるんだから」「何を言ってるの、雨織。私も海も、小さい頃から菊池グループに育てられたのよ。簡単に『辞めます』なんて言える立場じゃないでしょ」莉子は雨織を叱りつけ、海に向き直って、経緯を聞いた。桃が彼女に自殺をそそのかした容疑で警察に拘束されていると知ると、莉子の瞳からは光が失われていった。「ごめんなさい、雅彦。雨織はま
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第962話

雅彦の表情はとても真剣で、口調にも誠意がこもっていた。そんなふうに見つめられて、莉子は一瞬、錯覚しそうになった。まるで、この男の目には自分しか映っていないかのように。もしできることなら、これからずっと、彼の視線が自分だけに注がれていて欲しい。一生一緒にいられたら、どんなにいいだろう。けれど、莉子はすぐに気持ちを切り替えた。今は一番大事な場面、ここで雅彦への想いを見せるわけにはいかない。嫌われるわけにはいかないのだ。「……私は、何も望んでいない。ただ、雅彦がまだ私を必要としてくれるなら、私はこれからも、菊池グループのために全てを捧げるわ」莉子は首を振り、結局、何の要求も口にしなかった。それがむしろ、雅彦の罪悪感を強くした。彼女は自分のために傷つき、今もなお苦しみを抱えている。そんな彼女に報いることもせずに済ませていいわけがない。「今すぐ思いつかないなら、また後ででもいい。俺の約束はずっと有効だから……」彼の瞳に浮かぶ謝意を見て、莉子はもう十分だと思った。少しして、ようやく口を開いた。「それなら……桃さんに来てもらって、ちゃんと話をさせてほしい。もし何か誤解があるなら、はっきりさせたい。それで、桃さんが謝ってくれるなら、今回のことは水に流すわ」「えっ、そんな簡単に許すの?それってあまりにも――」「私は、ただ筋を通したいの。間違った人は誠意をもって謝れば、それだけでいいと思ってる」莉子は静かに雅彦を見た。彼はしっかりとうなずいた。この要求は、まったく無理なものではない。むしろ寛大と言えるだろう。彼にとっても拒む理由などなかった。本当に誤解だったのなら、それを解けばいい。桃が間違ったことを言ったのだとしたら、素直に謝らせれば済むこと。それでこの件が片付くなら、むしろありがたいことだった。少なくとも、今夜、桃が警察署に泊まる必要はなくなる。雅彦が同意したのを見て、莉子はすぐに雨織に電話をかけさせた。被害者側から和解の意志があり、告訴を取り下げると知った警察もほっとした。この件の処理には皆、頭を悩ませていたのだ。こうして、ようやく丸く収まりそうだった。警察は留置室に向かい、扉を開けた。そこには桃が呆然と座っていた。「桃さん、出ていいですよ」長時間、誰とも話さずにここに座っていた桃は、この状況をどう切り抜けるかひたす
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第963話

警察はそう言い終えると、桃を外へ送り出し、それきり関わろうとはしなかった。さきほどの言葉と、あの隠しきれない軽蔑のまなざしを思い返しながら、桃の心の中には冷たい風が吹いていた。きっと、外から見れば、私は嫌な女に見えるんだろうな。そう思うと、たとえ無事に解放されたとしても、気持ちが晴れることはなかった。数歩歩いてから、彼女はタクシーを止めて乗り込み、自宅へと向かった。車内で桃は、窓の外に広がる夜の風景をじっと見つめていた。今は深夜。街灯がちらほらと灯っているだけで、人通りも車もほとんどなかった。ふとした瞬間、胸の奥にわびしさが広がる。けれど、幸いにも道中で何ごともなく、すぐに家にたどり着いた。家に着いた桃は、そっと玄関のドアを開けた。音を立てないように気を配り、家族を起こさないようにと気を張っていた。ところが、ドアを開けた瞬間――ほの暗い灯りの中、香蘭がナイトライトの明かりだけを頼りに、そこに座って彼女の帰りを待っていた。その姿を見た途端、桃は鼻の奥がツンとして、思わず胸が詰まった。どんなときも、自分のことを一番に案じてくれるのは、やっぱり母親だった。「帰ってきたのね?」香蘭は、桃が警察に連れて行かれてから、ずっと眠らずに帰りを待っていた。娘の無事な姿を見て、香蘭はようやくほっとした。それから、彼女の後ろをのぞき込みながら尋ねる。「ひとりで帰ってきたの?」香蘭は雅彦に電話もかけていたのに、それでもこんなに遅い時間に桃を一人で帰らせるなんて……桃はこくりとうなずき、母の目に浮かぶ不安を見て、慌てて理由を作った。「彼、会社でまだ仕事があって……だから、運転手さんが送ってくれたの。」「そう……分かったわ。」香蘭はその説明に納得したようで、それ以上は何も言わなかった。彼女は身体が弱く、普段はこんな時間まで起きていることもめったにない。桃は、そんな母を心配して、すぐに寝るように促した。部屋に戻った桃は、留置室の不快なにおいが全身に染みついているように感じ、まずシャワーを浴びに行った。身体を洗いながら、今日起きたことをどうしても思い出してしまう。もし、以前だったら、雅彦は絶対に迎えに来てくれたはず。ちゃんと家まで送り届けるまで、安心しなかった。けど、今は……あの人、私が外で危ない目に遭ってるかもしれな
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第964話

翔吾がそう言うと、香蘭と太郎も一緒に桃の顔を見つめた。桃は首を横に振り、翔吾の頭をくしゃっと撫でた。「なんでもないわ。昨日の夜、ちょっと眠れなかっただけ。変な想像しないの。いちいち驚かせないで」「本当に?」翔吾は目を大きく見開いて、じっと桃の顔を見つめた。何かしらの手がかりを見つけようとしているようだった。桃はそんなふうに見つめられて、少し気まずくなった。この子の目は雅彦にそっくりで、人の心を見透かすような鋭さがあった。桃は慌ててキッチンへ行き、冷えた飲み物を一本取ってきて、翔吾の問いに答えなかった。気持ちが少し落ち着いたところで、桃は外に出て、先手を打つように言った。「さっさとご飯食べなさい。あとで学校まで送ってから、そのまま会社に行くわ。遅刻したくないから、無駄な時間を使わないで」桃の真剣な様子を見て、翔吾は肩をすくめ、口を閉じた。四人家族で静かに朝食をとっていると、外から車が停まる音が聞こえてきた。桃が顔を向けると、そこには雅彦がいた。彼の顔には一晩中眠っていない痕跡がはっきりと見える。目の下にはクマができ、あごには青いひげが生えていた。きっと昨日の夜は、ずっと病院で莉子の看病をしていたのだろう。本当に「情が深い」ことだ。桃は無表情のまま視線を戻し、朝食を食べ続けた。ただ、さっきまでおいしかったはずの食事が、急に味のないもののように感じられた。雅彦は戻ってきて、桃が家で朝食を食べているのを見ると、ようやく胸のつかえが下りた。彼は警察に釈放の手続きをさせたあと、都合がつかず、自分では迎えに行けなかったので、運転手に代わりに向かわせた。ところが、運転手が到着したときには、桃はすでに自分で帰宅していた。雅彦は桃に何度も電話をかけたが、すべて電源オフ。連絡が取れなかった。香蘭に電話して無事を確認しようかとも思ったが、事情がバレて騒ぎになるのを恐れて、それもできなかった。もし桃が何の容疑で連行されたか知られてしまえば、ただで済まないだろう。仕方なく、雅彦は莉子が朝になってようやく眠ったのを見てから、時間を作って戻ってきたのだった。桃が無事でいるのを確認できて、ようやく安心した。雅彦が帰ってくると、香蘭はすぐに彼を朝食に誘った。雅彦もちょうど何も食べておらず、断ることなく席についた。香蘭は桃に声をかけ
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第965話

ようやく朝食が終わり、香蘭は二人の子供に向かって言った。「今日はおばあちゃんが学校に送るわ」香蘭にもわかっていた。今、桃と雅彦の間には何か問題がある。自分たちがいると、二人もきっと話しにくいのだろう。翔吾と太郎は気がかりそうに二人を見たが、結局おとなしく香蘭について行った。ダイニングには、桃と雅彦の二人だけが残された。桃はふと居心地の悪さを覚え、席を立った。着替えてそのまま仕事に行こうと思ったのだ。雅彦はすぐにそれに気づき、彼女の手首をつかんだ。「待って。携帯どうしたんだ?昨日の夜、帰ってきたのにどうして電話の一本もくれなかった?」「壊れたの。」桃は冷たい口調で答えた。「壊れた?」雅彦は眉をひそめた。「じゃああとで新しいのを買いに行こう。突然連絡が取れなくなったら、俺だって心配する。」桃は言いたくてたまらなかった。本当に心配してる?あなたの心はもう全部莉子に向いてるんじゃないの?私に割ける余地なんて、最初からなかったんでしょ?しかし結局、そんな辛辣な言葉は口にできなかった。「いいわよ。あなたも一晩中看病して疲れてるでしょうし、わざわざ付き合ってもらう必要はないわ。出勤途中で自分で買うから。」せっかく与えられた和解の機会を、桃はあえて無視した。加えて雅彦も一睡もしておらず、莉子のことでもまだやるべきことが山積みだった。元々不機嫌だった雅彦のイライラはさらに募った。「……いったいどうしたんだ?俺が戻ってきたときからずっと様子がおかしい。」雅彦の声は明らかに暗くて、今の彼の気持ちがそのままこもっている。「私は普通よ。もしあなたがそんなに暇なら、その余計な心配は、もっと必要としている人にでも向けてあげれば?」桃は、自分でも説明できないような悔しさを抱えていた。昨日からずっと、何を言っても空回りしているようで、まるで拳を振るっても綿に当たるような感覚に陥っていた。どうしても思いが届かなくて、ただただ無力さを感じるばかりだった。そんな桃の態度が、とうとう雅彦を怒らせた。彼は彼女の手首をつかむ力を、無意識のうちに強めていた。「一体どういうつもりなんだ?昨夜俺が莉子のところにいたのは確かにそうだ。でもあいつは自殺未遂で命を落としかけたんだぞ。それに……この件は君だって──」そこまで言って、雅彦は口をつぐんだ。けれど、桃
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第966話

雅彦はしばらくの間、桃のことをただのわがままだと感じていた。真相がどうであれ、本人同士がきちんと話し合うのが一番いい解決法のはずだ。仮に非があるとしても、桃が謝罪すれば、それで責任を問われることもなく済む——それって、むしろありがたい話じゃないか?桃も、彼の本音に気づいていた。胸の奥にずっと押し込めていた感情が、彼の目に浮かぶ疑いの色を見た瞬間、ついに爆発してしまった。「私のこと、完全に理不尽だと思ってるでしょ?でも、あなたたちは誰も私の言うことを信じてくれない。私は言ったよね?私からあの人に連絡したんじゃない、あっちが先にメッセージを送ってきたの。だから私は、どういうつもりなのか聞いただけ。それに、私のスマホも突然壊れた……偶然だとは思えない」雅彦は深く眉をひそめる。「つまり君は、すべては莉子が仕組んだことで、彼女がこんなくだらないことで、一日に二度も自殺未遂を演じたっていうのか?」桃は心の中で叫びたかった。――くだらない、だって?莉子の二度の自殺未遂によって、目的は十分果たされた。雅彦の同情を一身に集めることができたし、同時に、自分の評判を落とすことにも成功した。「信じたくないなら、別にいいわ。彼女に伝えて。私は会いに行かないし、謝る気もない。私は間違ったことなんてしてないもの。だから……好きにすればいいわ」桃は拳を握りしめた。理性では謝る方が得策だとわかっていても、どうしてもそれはできなかった。一つは、やってもいないことのために謝るなんて、納得できなかったから。自分は何も悪くない。だから謝罪の気持ちなんて、どこにもない。もう一つは、莉子のような人間と真正面で対峙するのは危険すぎる。今の自分は、いつ爆発してもおかしくない。悔しさも怒りも行き場がなくて、それでも抑えこまなきゃいけない。そんな中で、もし莉子に挑発されて、感情的になって言ってはいけないことを口走ったり、軽はずみな行動をとってしまったら――そのときこそ、本当に取り返しがつかなくなるかもしれない。そう思った彼女は、それ以上、雅彦と話す気もなくなり、立ち上がってドアを開け、職場に向かった。雅彦は、彼女の繊細な背中が視界から消えていくのを見つめながら、拳を固く握り、ソファに叩きつけた。どうしてこんな単純なことが、こんなにややこしくなってしまったんだ?それ
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第967話

桃は、今はこの件を考えても仕方ないと気持ちを切り替え、店員に新しいスマホを用意してもらうことにした。機種変更を終え、動作が問題ないことを確認すると、そのまま会社へと向かった。会社に着くと、桃は自分のオフィスに入り、パソコンの前に座って、どうすれば莉子の本性を暴けるかを考え始めた。今の莉子は、少しでも都合が悪くなると自殺未遂という手を使ってくる。桃には、彼女が本当に命を絶つつもりなどないと思えてならなかった。もしそうなれば、彼女がこれまで仕組んできたすべての計画が無駄になってしまうからだ。とはいえ、これが続けば、さすがに雅彦の心も揺らいでしまうかもしれない。男は、弱っている女に弱いものだ。ましてや、莉子は雅彦の命の恩人。その二重の肩書きを前にしては、自分にできることなど限られている。考えれば考えるほど頭が痛くなり、桃はもう諦めて、とりあえず水でも飲んで気分を変えようと席を立った。そう思って席を立ち、オフィスを出たところですぐに、背中に突き刺さるような視線をいくつも感じた。「ねえ知ってる? あの人さ、社長が莉子さんの看病してるのが気に食わなくて、嫉妬に狂って電話で嫌味言ったんだって。それで莉子さん、自殺未遂したんでしょ?」「えっ!?そんなひどい話ある?だって莉子さんって、社長をかばってケガしたんじゃなかったっけ?それなら、付きっきりで看病するのが当たり前じゃない? 彼女、心が狭すぎじゃない?」「ほんとほんと。今後は気をつけた方がいいよ。社長に報告しに行くときも、距離しっかり取ってね。あの人に枕元で悪口吹き込まれて、職失うかもよ?」まるで見世物のように、周囲がひそひそと、しかし確かに自分を中傷しているのを、桃は無表情のまま聞き流していた。だが、その手に持っていたコップを握り締める力が、次第に強くなっていく。気づけば、手の甲には浮き上がった血管が見えていた。さすが莉子、やり方がえげつない。表立って攻撃することなく、周囲の評価を巧みに操作して、私を完全に嫌われ者に仕立て上げるなんて。もし、もっと打たれ弱い人間だったら、きっと耐えきれずに、辞職していたかもしれない。気持ちを抑えながら、桃は何事もなかったかのように、自分の用事を続けようとした。だが、下を向いたまま歩いていたせいで、前をよく見ておらず、人とぶつかってしまった。「す
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第968話

一方その頃――雅彦は桃の家を出たあと、本当は会社に向かうつもりだった。ところが、海からまた電話がかかってきて、「用事があって会社に戻らなきゃいけないから、しばらく病院の方を頼む」と言われた。ちょうど莉子が二度も自殺未遂をした直後だったこともあり、もう他人に任せるのは不安だった。雅彦はその申し出を受けて、再び病院へ向かった。病室に入ると、莉子は彼のやつれた顔を見て、胸が痛んだ。「雅彦、疲れてない?無理しないで、もう休んで……私のことなんて、こんなにたくさんの人にみてもらう必要もない……」だが、雅彦は首を振った。「平気だ」ついさっきまであんな大ごとがあったばかりなのだ。人としても、立場的にも、ここで何の行動もしないわけにはいかない。莉子は胸の奥で喜びを噛み締めながらも、表には出さなかった。そこで初めて、桃がここにいないことに気づいた。やっぱり、まだ納得できずに怒ってるのね。莉子は内心で冷笑した。あの女、ほんとバカね。こういうときに折れなきゃ、みんなから心が狭い女って思われるだけなのに。今回の一手は、完全に彼女の勝ちだった。そして、ここぞとばかりに、わざとらしく聞いてみせた。「雅彦、桃さんは今日来ない?」その瞬間、雅彦の表情が一瞬固まった。桃は、莉子に会いたくないと言っていたし、この件で大喧嘩にもなった。桃の性格は、雅彦が誰よりも分かっている。普段は物わかりがいいが、いったん意地を張ったら、どんなに説得しても聞かない。だから彼女がここに来て莉子に謝るなんて、まず無理な話だった。「彼女が来たくないのなら、仕方ないね。大したことじゃないし……」莉子は自嘲気味に笑ってみせた。「もしかしたら、私の方が気にしすぎて、彼女の真意を誤解したのかも。結局のところ、私がもう少し強ければ、こんなことにはならないはず。誰のせいでもないわ」それを聞いた雨織がすぐに反論した。「お姉さん、そんなこと言わないでよ!あんな人に、何度も顔を立てる必要なんてないんですよ!」「もういいわ、黙ってて。なんだかんだ言っても、彼女は雅彦の奥さんよ。あなたがとやかく言っていい立場じゃないの」莉子はすぐさま雨織を制した。雅彦は桃をかばいたい気持ちがあったが、どう言葉にすればいいのか分からず、少し間を置いて、ようやく口を開いた。「彼女が来なかったのは、君を刺
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第969話

もし桃が耐えきれなくなったら、きっと菊池グループを辞めてしまうだろう。そしたら、今後はあの嫌な顔を職場で見なくて済むし、それに、もっと多くの時間を雅彦と過ごせるかもしれない。そう思うと、雅彦がぼんやりしているのも、莉子はさほど気にならなくなった。彼の心がどこにあろうと、少なくとも今この瞬間、彼の体は自分のそばにある——それだけで十分だった。雅彦はしばらく部屋にいたが、いつのまにかまぶたが重くなってきた。昨夜は一睡もできず、今日も休む暇すらなかった。どれだけ体力に自信があっても、さすがに限界がくる。気がつけば、彼はベッドの端にもたれかかりながら、目を閉じてうたた寝を始めていた。その寝顔を、莉子はじっと見つめていた。すぐ目の前にある彼の完璧な寝顔――その姿に、彼女は思わず手を伸ばしたくなった。彼の頬を撫でて、眉間のしわをそっとなぞりたくなった。指先が触れた瞬間、雅彦の体が小さく動いたが、目は覚まさなかった。まるで魔法にかけられたかのように、莉子はゆっくりと彼の唇に顔を近づけていった。その薄く整った唇が、本当に見た目どおり柔らかいのか、確かめたくてたまらなかった。けれど、そのとき。電話の音で雅彦がぱっと目を覚ました。驚いた莉子は、体を起こし、咄嗟に背筋を伸ばして座り直した。「……さっき、何をしてた?」雅彦は、他人が自分の近くにいるのが苦手だった。さっきの距離感は、彼にとっては明らかに許容範囲を超えていた。「えっと……顔にゴミがついてて、それを取ろうとしただけ」莉子はとっさに言い訳をしながら、心の中では電話をかけてきた相手を恨んでいた。こんなタイミングでかけてくるなんて、本当に余計なことを!雅彦は眉をしかめながらも、それ以上は追及せず、着信音に気を取られて、そちらに注意を向けた。電話の相手は海だった。かなり慌てた様子で、深刻な状況を報告してきた。「雅彦様、今回の入札案件ですが……どうも問題が発生したようです。金庭(きんてい)グループが我々の提案内容を把握していたようで、それに合わせた対抗策を打ってきました。社内の情報が漏れていた可能性があります」雅彦は顔をしかめ、すぐに立ち上がって、詳しい事情を聞くために部屋の外へ向かった。莉子はその内容を聞いて青ざめた。金庭グループとの競合案件——あの提案書は、もともと自分が
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第970話

雅彦が出て行ったのを見届けると、莉子はすぐに雨織に外で見張るよう命じ、誰も部屋に入れないようにさせた。誰にも邪魔されないと確信すると、莉子はすぐさま麗子に連絡を取り、いったい何をしたのかと問いただした。電話を受けた麗子は、まったく動じる様子もなく、「どうしたの、うまくいってるんじゃないの?会社では私の方でも人を使って桃の噂を流したわよ。今の彼女、かなり肩身が狭いみたいね」と言った。「私が言いたいのはそのことじゃない。前にあなたが欲しがった資料、誰かに渡したんじゃないの?」莉子は焦りを隠せなかった。今のところ、雅彦はまだ自分に疑いを向けていないが、いずれバレるかもしれないという不安があった。それに、自分に私心があったとはいえ、菊池グループは両親が命を賭けて守った場所であり、彼女自身も菊池グループに忠誠を誓ってきた。そんな自分が裏切りなんて、心の中に引っかかりが残るのは当然だった。「まさか、私があの資料を欲しがったのは、ただ目を通すためだけだったとでも思ってるの?あなた、ちょっとお人好しすぎない?それとも、自分が菊池グループの利益を損なうようなことをしたって、まだ認めたくないだけ?」麗子にとって、今や菊池グループの命運などどうでもよかった。唯一の息子はすでに亡くなり、夫もどうしようもない状態で、薬漬けにならないと生きていけない。そんな彼女に、もはや菊池グループを手に入れる力など残っていなかった。ましてや、これ以上雅彦と張り合うことも不可能だった。だからこそ、菊池グループの機密を売って金に換えることが、彼女にとっては最も合理的な選択肢だった。どうせ手に入らないのなら、いっそ皆で一緒に沈むしかないと。「そんなことして、あなたに何の得があるの?あなたの今の贅沢な暮らしだって、結局……」「ふふ、贅沢?そんなもの何の意味があるの?私が今、生きてるのはただ、息子の仇を討つため、それだけよ!くだらないことは言わないで。もし私を裏切ろうとするなら、あなたがやったことの数々、全部雅彦にばらしてやるから。忘れないで、私たちはもう運命共同体なの。世間に責められたくないなら、おとなしく協力してちょうだい……」麗子はもう、莉子に取り繕う気などなかった。かつての彼女の態度がずっと気に食わなかった。今となっては、莉子の裏切りの証拠を握っている以上、逆らうこ
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