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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1631 - Chapter 1640

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第1631話

孝浩はさすがにもう姿を見せなくなったが、代わりに望月が、私の前に度々現れるようになった。彼は何度か供の者を連れて、工房が営む店に顔を出した。この店は刺繍師たちの作品を専門に扱っていて、ここ数年で名家や高官の奥方たちが贔屓にしてくれるようになり、私も時折お付き合いで顔を出すようにしていた。実のところ、刺繍品そのものは引く手あまたなのだ。何しろ、都広しといえど、清原澄代という刺繍師の腕前に敵う者はそうそういない。ただ、より身分のあるお客様に買っていただくことで、品物の値も高くつけられるからだ。今では朝廷も女性が戸主となることを認めている。彼女たちは皆、十分なお金を稼いで、自分の小さな家を手に入れ、穏やかに暮らすことを夢見ているのだ。私は姫君であり、摂政王妃の従妹でもある。身分の高い奥方たちが、私と親しくなりたがってくれるのも当然のことだった。望月は最初、供の者を連れて店の前を通り過ぎるだけだった。何気ないふりをして、ちらりと店の中を覗いては、そのまま去っていく。それが何度も続いた後、ついに彼は店の中へ入ってきて、物を買うようになった。店には、衣や袍の他に、扇子や手巾、小さな屏風といった刺繍の小物も置いてあるが、そのほとんどは女性向けの品だ。彼は着物を仕立てるでもなく、ひたすら折扇ばかりを買っていった。実のところ、折扇の種類は少なく、団扇の方がずっと多い。上等な布地に様々な花鳥魚獣の図案を施した団扇は、両面に刺繍することもでき、その図案はまるで生きているかのようだ。折扇が少ないのは、錦の布地で作るのが骨の折れる作業だからだ。錦は柔らかく、紙張りのもののように簡単には折り畳めない。それでも、開いたときの見事な様を楽しむために、時折作られることもあった。彼はそれをたいそう気に入ったようで、来るたびに一本買って帰るのだった。ある日、私は店にはいたが、表には出ず、奥の部屋で帳簿を付けていた。すると、彼がやって来て、丁稚に尋ねる声が聞こえてきた。「今日は、姫君様がお作りになった刺繍品はあるかね」丁稚が彼に答える。「団扇が一つございます。ただ、出来はそこそこということで、お安くしておりますが」彼の声が、喜びに弾んだ。「本当か!すぐにそれを見せてくれ」少し間があってから、彼の感嘆する声が聞こえる。「どこがそこそこなもの
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第1632話

時折立った心のさざ波も、すぐに消え、私の日常は何事もなかったかのように流れていった。人生には、まるで陽だまりのような人がいる。束の間の温もりをくれたかと思うと、陽が落ちるように、ふっと消えてしまうものだ。あの出来事から数ヶ月が過ぎた頃、さくら姉さまが私を訪ねてきた。聞けば、孝浩が「何者かに常に見張られている」と京都奉行所に訴え出たらしい。京都奉行所が詳しく調べたところ、それは望月が遣わした者たちだということが判明したそうだ。そこでさくら姉さまが望月に直接問い質したところ、彼は、孝浩がまた私に面倒をかけるのではないかと案じ、人をつけていたのだと白状したらしい。もちろん、さくら姉さまはそれだけで終わらせるわけもなく、他の事情も聞き出したそうだ。話によれば、望月編修官、すなわち望月陽がまだ科挙に合格する前のこと。ある年、彼は病身の母上を伴って、科挙を受けるために都へ上ってきたそうだ。母上はもう長くないと悟り、死ぬ前に息子が合格する姿を一目見たいと願ったため、彼はやむなく病の母を連れて旅に出たという。しかし、都に着いた途端、長旅の疲れから母上の病状は悪化し、とうとう宿屋で倒れてしまったらしい。宿の主人は、部屋で死なれでもしたら縁起が悪いと、彼ら母子を無情にも追い出した。彼は母を背負い、泊めてくれる宿を必死に探したが、どこも受け入れてはくれず、二晩も道端で夜を明かすことになったそうだ。秋の冷え込む気候が、母上の体にさらに追い打ちをかけた。彼は母上を医館に担ぎ込んだが、病が重すぎると医者に見放されてしまった。その時、たまたま侍女を連れて通りかかった私が、ひざまずいて必死に頼み込む彼の姿を目にしたのだ。侍女に事情を尋ねさせ、全てを知った私は、母子が落ち着けるようにと小さな空き家を貸し与え、さらに人をやって薬王堂から青雀を呼んでくるよう手配した。だが、結局のところ、彼の母上の命は助からず、彼もまた、その年の科挙を受ける機会を逃してしまったのだった。それでも彼は、私が母子に救いの手を差し伸べたことを、ずっと忘れずにいてくれたのだ。さくら姉さまからその話を聞かされても、私はすぐには思い出せず、しばらく考え込んで、ようやく記憶の片隅からその出来事を引っ張り出した。確かに、そんな出来事はあった。けれど、この数年で行ってきた善行など数え
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第1633話

まさか望月が、再び宰相夫人を仲立ちに立てて来ようとは、思いもよらなかった。しかも今回は、彼自身も一緒だった。彼が持参した贈り物は、卓いっぱいを埋め尽くした。高価な品こそないものの、そのひとつひとつに、彼の真心が込められているのが見て取れた。彼の俸禄は決して高くない。聞けば、故郷の屋敷や店を売り払い、ようやく都に家を一軒手に入れたばかりだという。宰相夫人は言った。「姫君様。私も、彼にはもう何度も諦めるよう説いたのです。ですが、この方はどうにも諦めが悪くて……それで、これが最後と、一緒について参りました。こうしましょう、お二人で直接お話しなさいませ。もし本当にお気持ちがないのでしたら、きっぱりと断ってくださればよいのです。それで彼も、諦めがつくでしょう」確かに、はっきりさせるのも良いだろうと思った。そうでなければ、私の頭の中に、時折彼の面影が浮かぶのを止められそうにない。宰相夫人は庭を散策するという口実で席を外し、私と彼、望月が客間に残された。侍女たちは皆、扉の外で控えている。彼女たちの顔に浮かぶ、期待と喜びに満ちた表情が見えた。他の者はともかく、両星は長く私に仕え、一緒に承恩伯爵家へ嫁ぎ、そして共にそこを出て新しい屋敷で暮らしてきた。彼女は私が生涯を孤独に過ごすことを望んでいないのだ。彼女はいつも言う。「天の下の殿方が、皆心無い薄情者というわけではございません」と。私が口を開く前に、望月の緊張した、早口な声が響いた。「姫君様、先に私からお話ししてもよろしいでしょうか」彼に目をやると、顔は赤く、耳の付け根まで染まっている。もともと肌が白いせいか、その赤面した顔を見ていると、まるで羽で心臓をそっと撫でられるような、不思議な感覚に陥った。「望月殿、どうぞ」私は視線を逸らし、心の動揺を隠した。彼の視線が、私の顔に注がれているのを感じる。私は彼と目を合わせず、ただ茶碗を手に取り、茶を飲むふりをしながら、彼の話に耳を傾けた。「私が姫君様をお迎えしたいと願うのは、かつて母を救い、身を寄せる場を与えてくださった恩に報いるためではございません。私は……私は、あなた様を、お慕いしております」彼がそこまで言った時、私は素早く彼に目を向けた。その頬は、まるで夕焼けのように真っ赤に染まっていた。そして、私自身の頬も、燃えるように熱い。彼のこと
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第1634話

摂政王邸では、三月の菜種梅雨が降りやまず、すべてが湿り気を帯びていた。潤は修澈に付き添いながら姿を見せ、緊迫した声で尋ねた。「修澈、叔母さまの御容態は」青衣をまとった修澈は、白髪の混じる髪を揺らし、ひとつため息をついた。「叔母上は今年で八十八におなりだ。とてもではないが、墓参りにお出ましになるべきではなかった。雨に打たれてお体を冷やされたことが、臓腑に障ってしまったのだろう」太政大臣である潤も息を吐いた。「止めたのだが、聞き入れてくださらなくてな。叔母さまは、どうしても行かねばならぬと……ここ二年ほど物忘れがひどくなられて、目の前のことはお忘れになるのに、昔のことばかり覚えておいでなのだ。お止めすれば、癇癪を起されてしまう」「叔母上の心の病は、とうとう癒えませんでしたな。一族が滅びた悲劇は、叔母上にとって生涯忘れられぬ悪夢なのでしょう……」修澈は梅の館を出ると、処方箋を認めるべく控えの間へ向かった。「叔父上がつきっきりで看ておられるが、その叔父上御自身のお体も万全ではない。あまり無理をなさらねばよいのですが」「従妹の冴子や子らもおりますのに、叔父さまはご自分で世話をするとおっしゃって聞かないのです」潤は修澈のために紙を広げ、墨を磨った。「あの御夫婦は生涯、睦まじくあられた。今この時、片時も離れたくはないのでしょう。叔母さまに忘れられぬよう、毎日ご自身のことを語りかけておられる……幸い、叔母さまは叔父さまのことだけは、ずっと覚えておいでですが」老いた摂政王妃は多くの人のことを思い出せなくなっていた。娘や孫、甥のことさえ忘れてしまうことがある。それでも、夫のことだけは、ただの一度も忘れたことはなかった。今年の春の墓参りも、彼女は例年通り、両親や一族の墓を参ると言って聞かなかった。その日を彼女は覚えており、毎年必ず行かねばならぬと思っていたのだ。体調が優れず、雨も降り続いていたため、皆が止めたが聞き入れない。彼女は頑として行こうとした。結局、雨に打たれ、帰ってきては病に臥してしまった。修澈が処方箋を認め、老摂政王妃はそれを二日ほど服用すると、病状は次第に快方へ向かったが、咳だけが少し残っていた。容体が少し落ち着くと、摂政王はさくらの前に大勢の人が現れることを許さなくなった。人が多すぎると、一人一人を思い出そうと気力を使い、ひどく
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第1635話

玄武はその香箱を取り出すと、封を破った。蓋を開けてみると、中には落花生ほどの大きさの香が一粒、入っているだけだった。「たった一粒か」玄武は思った。箱があれほど大きいのだから、たくさん入っているものとばかり思っていたが、まさかこれだけとは。箱の底に、いくつか文字が書かれているのが見えた。少し掠れていたが、玄武の視力は今も衰えていない。『胡蝶の夢』の四文字がはっきりと読み取れた。胡蝶の夢、蝶夢ノ香か。なるほど、洒落た名付け方をするものだ。これならば、本当に良い夢を見せてくれるやもしれぬ。箱の蓋に目をやると、そこにも篆書体の文字が数行、蟻のように小さく刻まれている。さすがに何が書かれているかまでは読み取れず、玄武も深く探ろうとはしなかった。いずれにせよ、長年友好を築いてきた北森だ。害になるようなものを寄越すはずがない。その文字の傍らには、ひとつの円が描かれていた。いや、正確に言えばそれはひとつの円ではない。無数の円が集まって、ひとつの大きな円を形作っているのだ。大きな円の中に小さな円が、そのまた中にさらに小さな円が……一体いくつの円が、入れ子のように重なっているのか見当もつかない。香が焚かれた頃には、さくらはもう眠りに落ちていた。玄武はさくらの隣に横たわったが、香りは何も感じられなかった。長らく仕舞い込んでいたせいで、もう効力を失ってしまったのかもしれない。まあ、それでも構わなかった。妻のそばにいるだけで、彼の心は安らいだ。彼女が安らかに眠る顔を見ているだけで、満ち足りた気持ちになる。外は午後の日差しが心地よく、生い茂る枝葉が力いっぱい伸びている。小鳥たちがせわしなくさえずりながら飛び交い、すべてが活気に満ちていた。穏やかな風が、空の雲を様々な形に変えながら、速く押し流していく。もしこの時、誰かが見上げていたとしても、その雲が円を描いて流れていることには気づかなかっただろう。外側の雲は、現れては瞬く間に掻き消えていく。さくらはひと眠りして目覚めたが、頭が少しぼうっとしていた。隣に目をやったが、誰もいない。「玄武」彼女が声をかけると、足音がして、帳(がゆっくりと開けられた。そこから、若い顔が覗く。「お嬢様、ようやくお目覚めになられましたか」さくらはその顔を見て、一瞬、呆然とした。ここ二年ほど、彼女は
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第1636話

広間では、上原夫人が椅子にまっすぐに座り、侍女や下女たちが傍らに控えている。両脇の椅子には、上原家の若奥様たちが座っていた。仲人と北條守は左側の末席に座っている。守は頰を赤らめ、ありったけの勇気を振り絞って言った。「奥様、ご安心ください。若輩ながら命に懸けて誓います。生涯、側室はめとらず、さくらお嬢様を裏切るようなことは決していたしません」上原夫人が口を開くより先に、慌ただしい足音が聞こえてきた。彼女はもう目がほとんど見えず、ぼんやりとした影しか捉えられない。その影は急いで駆け寄ってくると、彼女の胸に飛び込み、泣きじゃくるような声で「お母様」と叫んだ。上原夫人の胸に痛みが走った。守と仲人がいるのも構わず、彼女の髪を撫でながら優しく言った。「また、悪い夢でも見たのかい」父と兄たちが戦死したことは、初めはさくらに伏せられていた。彼女が梅月山から戻ってきて初めてその事実を知った時、何度気を失うほど泣きじゃくったことか。今もまだ、その悲しみから抜け出せずにいるのだ。さくらは床にひざまずき、母を抱きしめた。たとえこれが夢だとしても、決してこの手は離さない。「さくら様、もうお泣きにならないで」二番目の兄嫁・沖田真弓がそばに寄り、柔らかな声で言った。「お客様がいらっしゃいますよ」さくらは顔を上げた。生き生きとした二番目の兄嫁、そして他の兄嫁たちも皆そこにいる。誰もが、悲しげで、それでいて優しい眼差しで彼女を見つめていた。彼女の目から、涙がとめどなくこぼれ落ちる。震える声で言った。「みんないる……よかった。みんな、ここにいるのね」「お馬鹿さん。あなたの縁談なのだから、義姉たちが立ち会って見定めてあげないでどうするの」上原夫人は微笑み、彼女の手を引いて立たせた。「失礼なことをするものではありませんよ。さあ、お立ちなさい」さくらは立ち上がったが、母の手を離そうとはしなかった。その眼差しは変わらず悲しみを湛え、そこにいる全ての者の顔を順に見つめた。守はその様子を見て、ぎこちなく立ち上がると一礼した。「某、北條守と申します。さくらお嬢様には、これがお初のお目見えに」さくらはそちらへ顔を向け、若い守の姿を見て、一瞬、呆気に取られたような表情を浮かべた。彼女の記憶の中では、母や兄嫁たちの姿は昔のままだった。だが彼女の知る守は、五十を過
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第1637話

北平侯爵のお屋敷では、さくらは母の手を固く握ったまま離さず、母が身勝手だといくら叱っても、ただ泣きながら笑みを浮かべるだけで、一言も言い返さなかった。上原夫人は娘のその様子に言いようのない不安を覚え、その額に手を当てて言った。「もしや、病ではありますまいね。早う、丹治先生をお呼びしなさい」兄嫁たちも皆さくらの周りに集まり、口々に心配の言葉をかけた。下女が丹治先生を呼んできた。その顔を見て、さくらはまた涙を堪えきれなくなった。彼女は、丹治先生が亡くなった年のことをまだ覚えていた。ひどく悲しみ、自ら進んでその葬儀を取り仕切ったのだ。今、彼女は悟った。これは夢ではない。自分は本当に過去へ戻ったのだ、と。まだ嫁ぐ前の、あの頃に。変えられることが、たくさんある。そう思うと、彼女は泣き、そして笑った。上原夫人と兄嫁たちはそんな彼女を見て、本当に気が触れてしまったのではないかと顔を見合わせた。丹治先生は診察を終えると、上原夫人に告げた。「おそらくは、洋平様や若君たちの死を、まだ受け入れられずにおられるのでしょう。一時的に心が乱れてしまわれたのです。ご本人が嫁ぎたくないと申されるのでしたら、奥様もそのお心に従って差し上げるべきかと。さもなくば、病状が悪化するやもしれませぬ」上原夫人はさくらを抱きしめ、熱い涙をこぼした。自分の体が弱く、いつまで生きられるかわからない。だからこそ、早く娘のために良き縁談を見つけて、安心したいと思っていた。だが、今のこの状況で、無理に嫁がせることなど到底できなかった。さくら自身も一貫して嫁がないと言い張るため、上原夫人もついにその考えを認めることにした。さくらは「療養」という名目で、まるで美しい夢の中にいるかのような日々を過ごした。毎日母のそばに控え、甥や姪の顔を見ては、兄嫁たちと言葉を交わす。その時間だけが、彼女に幸福を実感させた。父や兄たちはもう戻らない。だが、彼らは国のために命を捧げ、誉れある死を遂げたのだ。しかし、上原家の滅亡は違う。あの時、自分が嫁いでさえいなければ、上原家が皆殺しに遭うこともなかったはずだ。それは、彼女にとって生涯消えることのない痛みと悔いであった。彼女は、何があろうと家族のそばにいて、あの災厄から皆を守り抜こうと決意した。そのためには、武芸に秀でた者たちを集
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第1638話

そうだ、関ヶ原へ行き、葉月琴音が村人を虐殺し、平安京の皇太子を殺めるという暴挙を阻止するのだ。一つは国のため、二つ目は家のため。あの時、平安京の皇太子が辱めを受け自害したことで、都に潜伏していた密偵たちが憤りを晴らすため、上原一族を皆殺しにしたのだ。護衛隊を組んだのは、あくまで家族を守り、些細な災いを避けるため。あの悲劇を根絶するには、その源を断たねばならない。両国の国境線を巡る争いは、いずれ大戦へと発展する。それは平安京内部のスーランキー一派による画策であり、さくらが平安京の決定に影響を及ぼすことはできない。だが、戦が避けられぬのならば、元々の戦況を覆すまでのこと。それに、守城の戦いで七番目の叔父上が亡くなり、三番目の叔父上も守を救うために片腕を失うことになる。できることなら、彼らも救いたい。故に、屋敷のことを万事手配し終えたら、さくらは関ヶ原へ向かうつもりだった。もちろん、外祖父の佐藤大将を見舞うという名目で。今や両国は国境の紛争を巡って互いに探りを入れており、大戦は目前に迫っている。しかし、関ヶ原の備えは万全ではなかった。それどころか、兵力の一部は邪馬台へと派遣されてしまっている。これも、大和国と平安京がここ数年、本格的な大戦を経験しておらず、小競り合いに終始していたためだ。一方で、邪馬台の奪還は差し迫った課題であり、一気に攻め落とす必要があった。平安京からの支援さえなければ、邪馬台奪還の戦は、玄武の指揮の下、破竹の勢いで進むはずだ。関ヶ原の問題を片付ければ、平安京の三十万の軍勢が邪馬台へ援軍として向かうこともなくなり、それは即ち、邪馬台攻略における後顧の憂いを断つことに繋がる。棒太郎は、なぜ関ヶ原へ行くのかとは聞かなかった。どうせ食事と寝床の心配がないなら、どこへでもついていくつもりらしかった。屋敷の采配に追われていたさくらは、外の噂がますます酷くなっていることを知らなかった。北平侯爵家が彼女の縁談をだしに求婚者たちを弄び、本気で縁組をする気などなく、ただ自分たちの威光がどれほどのものか試しているだけだ、と。大長公主・影森茨子が催した花見の宴では、そのことをからかう者も少なくなかった。北平侯爵家の名声に惹かれて縁談を申し込んだ者たちは、実におめでたい、と。本来、両家が顔を合わせる段階では、縁談が固まるま
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第1639話

さくらは関ヶ原へ発つ前に、まず宮中に参内し、太后にご挨拶を申し上げたいと考えた。彼女はずっと、宮中に参内して太后や恵子皇太妃にお目にかかりたいと、あるいは天皇に拝謁したいと願っていた。前の生涯で、太后と皇太妃が崩御された時、ご高齢であったとはいえ、死という別れは容易に受け入れられるものではなく、彼女は長いこと悲しみに沈んでいた。もう二度と会えぬ、永遠の別れだと思っていた。まさか再びお会いできる時が来ようとは。今の彼女はまだ未婚の娘であり、宮中に参内するには、母に付き添ってもらい、母の手で拝謁の願い状を差し出してもらい、太后のお許しを得ねばならない。父と兄たちが戦死して以来、母は一度も屋敷の門から出たことがなかった。この機に母を外へ連れ出し、太后に慰めていただければ、母の病にも良い影響があるかもしれない。上原夫人は初め、気乗りしなかったが、娘に何度もせがまれては、ついに頷くしかなかった。目が不自由で歩くのもままならぬため、宮中に入ってからもずっと、さくらが傍らで支えていた。そうして一行は、慈安殿へとたどり着いた。内藤勘解由が出迎え、上原夫人の姿を見ると、その目尻を微かに潤ませた。彼は懐から取り出した払子をさっと払い、肘の内側にかける。「奥様、お変わりなくお過ごしで」「内藤様もお元気そうで何よりですわ。おかげさまで」上原夫人は微笑んで言った。内藤は小さく頷くと、すぐに笑顔に戻った。「太后様は、すでにお待ちかねでございます。さあ、奥様、こちらへ」慈安殿に入ると、さくらはすぐに、椅子にまっすぐに座る太后の姿を目にした。太后はわずかに身を乗り出し、その目元は赤く潤んでいた。恵子皇太妃もその傍らに座っていたが、太后の目配せを受けて、自ら立ち上がった。そして、礼をしようとする上原夫人の腕をそっと支える。「あなたがこうして顔を見せてくれて、私は嬉しいわ」太后は、奥方が席に着くのを待って言った。その眼差しは、変わらず涙に濡れていた。「太后様にご心配をおかけし、申し訳ございません」上原夫人は懸命に笑おうとした。だが、太后とは幼い頃からの知り合いであるせいか、その御前ではどうしても感情を隠しきれない。笑みはこわばり、声も震えていた。太后は深くため息をつき、さくらへと視線を移した。さくらもまた、夢うつつのように自分を見つめ、その瞳
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第1640話

宮中を退出する際、太后は内藤勘解由に命じて母娘を慈安殿の門まで見送らせた。さくらはその機を逃さず、内藤にそっと書状を一つ手渡す。「恐れ入ります、内藤殿。これを太后様へお渡しいただけますでしょうか」内藤は一瞬きょとんとした。「上原お嬢様、どうして先ほど直接お渡しにならなかったのでございます」さくらは母の腕を支えながら、穏やかに答える。「太后様への感謝の言葉なのですが、私、口下手でうまくお伝えすることができず……それで、筆をとった次第にございます」内藤は納得したように微笑んだ。「なるほど、さようなことでございましたか。承知いたしました。この私が、確かにお取次ぎいたします」その日の午後、さくらは棒太郎とお珠を伴い、すぐに関ヶ原へと旅立った。出立に先駆け、紫乃と饅頭たちにも書状を送り、同じく関ヶ原へ向かうよう指示してある。関ヶ原での守城の戦いが始まる前に、かの地へ到着せねばならないのだ。彼女が太后に託した書状は、感謝の言葉などではなかった。そこには、諸国を旅する姉弟子の水無月清湖が、平安京で激しい内紛が起きていることを突き止め、敵方がこの大和国との戦に乗じて策を弄しようとしている、と記されていた。太后は普段、政に関わることはない。しかし、ことの重大さを鑑み、もしこの情報を信じてくだされば、必ずや天皇のもとを訪れて相談されるはずだ。天皇は太后を深く敬い、信頼しておられる。そうなればきっと、平安京に潜ませた密偵に伝書鳩を飛ばし、真相を確かめさせるだろう。前の人生よりも僅かでも早く関ヶ原へ援軍を差し向けることができたなら、あれほどの苦戦を強いられることも、あれほど多くの将兵が命を落とすこともなくなるはずだ。さくらたち三人が関ヶ原へ到着した頃には、両国の小競り合いはすでに始まっていた。だが、まだ大規模な合戦には至っていない。佐藤家の人々はさくらの来訪を喜んだものの、彼女の父兄の犠牲を思い起こし、胸を痛めずにはいられなかった。実家の様子を尋ねられ、さくらが万事変わりないと答えるのを聞いても、皆、本当にそうであろうか、と内心では思っていた。さくらは幾度となく涙をこぼした。一つには、父と兄の話が出たから。もう一つには、七番目と三番目の叔父が無事な姿で目の前にいるのを見たからだった。外祖父母もまた、健在であった。夜の会食の後、さくらは
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