All Chapters of 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私: Chapter 1141 - Chapter 1150

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第1141話

若子の言葉に、修は静かにうなずいた。彼はすぐに病室の前にボディーガードを立たせ、しばらくしてから四人は病院の休憩スペースへ移動した。空いているソファ席に腰掛け、誰もが無言のまま朝食を口に運ぶ。修も若子も、沈んだ顔でパンをちぎり、口に運ぶだけ。そんなふたりを見ながら、侑子はふっと笑みを浮かべた。「おばあさんは、きっと大丈夫。あんなに素敵な人だもの、神様も守ってくれるわ」「そうそう、絶対そうです」安奈もすかさず同調した。「絶対、大丈夫ですよ!」修は小さく「......うん」とだけ返した。そして、少し間を置いて口を開く。「朝ご飯食べたら、帰っていい。これからの時間、俺はずっとここに残って、付き添うつもりだから。ふたりは自分のことをしてくれ」侑子は、慌てたように言った。「えっ、そんな......私たちもおばあさんの看病、手伝いたいわ。修、あんまり他人行儀にしないで」「そうですよ。今はおばあさんが一番大事なんですから。少しでも力になれたらと思って......」安奈まで口を挟んできた。だが修は、疲れたように目を伏せながら、ただ「......好きにすれば」とだけ返した。その冷たい反応に、侑子の心はチクリと痛んだ。またあの女―若子のせいで、彼の心が遠ざかっていく。ここぞとばかりに、距離を縮めようとしているのが目に見えて腹が立つ。そんな時―「修」―聞き覚えのある声が、ふいに背後から響いた。修が顔を上げると、そこにはスーツ姿で颯爽と歩いてくる雅子の姿があった。若子はその姿を見て、一瞬、時間が止まったような気がした。―彼女。彼女の存在こそが、修との結婚を壊した引き金だった。もう、何年も会っていなかったはずなのに―目の前に立っている雅子は、変わらず凛とした美しさと冷たいオーラを放っていた。パンプスの音を響かせながら近づいてきた彼女は、まず若子を見て、「松本、あんたもここにいたのね」と声をかけた。そしてすぐに視線を侑子に移す。「それに、あんたも」―前に一度、病院で会ったことがある。その印象は、決して「良いもの」ではなかった。「なんでここにいるんだ?」修が尋ねた。「父さんの健康診断に付き添って来ただけよ。あ、そういえば久しぶりね。最近どう?」「おば
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第1142話

「そう」若子の返事は冷たく、乾いていた。修が雅子と連絡を取っていようが、もうどうでもよかった。そんな彼女の態度に、修は一瞬口をつぐんだ。その様子を横で見ていた侑子は―膝の上で握った拳を、ギュッと力いっぱい握りしめていた。修の視線は明らかに、若子にばかり向いている。どれだけ悔しくても、どれだけ苛立っても、ここで感情を露わにするわけにはいかなかった。......病室では、華が未だ目を覚まさずにいた。若子の顔には、疲れが色濃く出ていた。家にはまだ幼い暁が待っている。「......送ってくる」修はそう言って、運転手に指示を出した。若子は最初、病院に残ろうとしたが、「今、自分が倒れたら誰が子どもを守るのか」―その思いが胸を過ぎり、やむなく帰宅を選んだ。修は彼女を車に乗せ、見送った。そのあと―再び病院のロビーで、彼女と鉢合わせになる。桜井雅子。「修」ハキハキとした声に、修は顔を上げた。「雅子。お父さん、どうだった?」「うん、最近ちょっと体調が悪くてね。まだ検査中だから、ここで少し待ってるの」彼女は相変わらずのスーツ姿で、気丈な笑みを浮かべていた。「ところで......松本は?」「帰ったよ。夜通し付き添ってて疲れてたし、何より子どもがいるから」「......子ども?」雅子の目が、一瞬だけ見開かれる。「......そっか」心のどこかで動揺しながら、平静を装った。「遠藤との子だ」修は苦笑しながら答えた。「そ、そうなんだ......」胸の奥がざわついたが、口にすることはしなかった。一瞬、修の子じゃないかと勘違いして焦った。「修、今はどうなの?この前病院で見た時は、あの女の子と一緒にいたよね?」このところ雅子はずっと仕事に打ち込んでいた。修への想いはまだ完全には消えていない。けれど、やるべきことが多すぎて、それどころじゃなかったのだ。「雅子......あの時のこと、本当にすまなかった。俺はお前を裏切った。でも、今のお前を見て、すごく安心したよ。元気そうで、何よりだ」修は話題をはぐらかした。自分の気持ちがあまりにもぐちゃぐちゃで、誰に対して何をどう感じているのか―自分でももう、わからなくなっていた。雅子は気まずそ
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第1143話

「でも......なんか落ち着かないの。誰かに見られてたんじゃないかって......」侑子はそわそわと不安げな様子だった。「侑子姉、しっかりして。今パニックになったらダメよ。今のところは大丈夫。あのばあさん、意識不明なんだから。誰にもバレるわけないって」華が階段から落ちたのは―決して、ただの事故ではなかった。八時間前の深夜。華は突然、眠りから目を覚ました。「思い出した......若子、妊娠してるんだ。修の子......そうだ、修に知らせなきゃ......絶対に、知らせなきゃ......」そう言って、華は布団をめくり、ベッドを降りた。電気も点けず、真っ暗な部屋をそっと出ていく。廊下は薄暗く、灯りはぼんやりとしかついていなかった。方向感覚が鈍り、どこへ行けばいいのか、すぐには分からなかった。しばらく彷徨った末、ある部屋の前に辿り着いた。左右を見渡しながら、ぶつぶつとつぶやく。「修は......どの部屋だっけ......?」記憶があやふやで、完全に混乱していた。そんな時だった。ふと、隣の部屋のドア越しから、誰かの声が漏れてきた。「まったく眠れない、なんであんな女が修と同じ部屋にいるの?離婚までしたくせに、よくもまあ面の皮厚くできるよね。ほんっと、下品でだらしない」「マジであり得ないって。女として終わってるよね」安奈が怒りに満ちた口調で続けた。「それに、あのクソばばあ、ボケてるって話だけど、私にはわかる。絶対わざとだよ。あのばばあ、あの女と修さまをくっつけようとしてるんだよ」「何考えてるか分かんないよね」侑子も憤りながら続けた。「前は私のこと、松本と勘違いしてたんだよ。それでも我慢して側にいたのにさ、今さら本物思い出して、こっちは放置?ありえないでしょ」「侑子姉、落ち着いて。ボケてるんだから、明日になったらまた忘れるかもよ?そしたらそのまま『若子』って言わせといて、修さまと結婚させてって頼めばいいじゃん。あの人が言えば、修さまだって逆らえないんだから」「でも、もし明日もちゃんと覚えてたらどうするの?あのクソババア、また松本の味方に戻るかもしれないじゃん!」侑子は机を叩かんばかりの勢いで怒鳴った。「私、あいつの一番つらいときにずっと支えてきたのに!修、ほんとひどすぎ
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第1144話

階段から転げ落ちていく華の姿を見て、侑子と安奈は息を呑んだ。思わず声を上げそうになったが、すぐに口を押えた。手を伸ばして引き止めようとしたものの、もう間に合わなかった。階段の上に立ち尽くしたまま、ふたりはどうしていいか分からず、顔を見合わせた。「な、なんで押したのよ......!」侑子が震える声で問い詰める。「はあ!?私が!?押したのはそっちでしょ!」安奈がすかさず反論した。「私は助けようとしただけ!勝手に罪をなすりつけないでよ!」険悪な空気が一気に高まり、今にも言い合いが始まりそうだった。だが、侑子はすぐに事の重大さに気づいた。この場で安奈と揉めても、何の得にもならない。それどころか、互いに傷を広げるだけだ。「......安奈」侑子は彼女の手を掴んで、真剣な目で見つめた。「今はそんなこと言ってる場合じゃない。とにかく、このことは絶対にバレちゃダメ。私たち、もう運命共同体なんだから。分かってるよね?」安奈は額の汗を拭いながら、こくりと頷いた。「じゃ、どうすんのよ......?」侑子は必死で頭を回し、作り話をひねり出した。「こう言うの。『物音がして見に来たら、ちょうど階段から落ちるとこだった』って。私たちは何もしてないって、そういうことにするの。分かった?」「う、うん......!分かった!」安奈は何度も頷きながら、必死に答えた。こうしてふたりの口裏合わせは完了した。華が転落したのが誰のせいなのか、今やそれは問題ではない。どちらが手をかけたにせよ、ふたりとも関わっていることに変わりはなかった。だから今、ふたりは沈む船の上に一緒に乗った仲間―沈めば共に終わりだった。しかし、安奈の胸中にはまだ不安が渦巻いていた。「ねえ、侑子姉......でもさ、もしおばあさんが死んでたらそれで済んだかもだけど、あいにく生きてるし、しかも意識が戻ったら......どうするの?」その言葉に、侑子の顔にも不安の色が浮かぶ。「それなんだよね。ほんと、こんな年で階段から落ちたくせに、なんでまだ生きてるのよ。さっさと死ねばよかったのに」「何か対策を考えないと......」安奈が声を潜めて言った。「もし彼女が目を覚まして、全部しゃべったらどうする?私たちは絶対に認めちゃダメ。ボケたせいで幻覚を見たってこ
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第1145話

ノラはまったく慌てた様子も見せず、手にしたハサミで花の枝を丁寧に整えながら、ゆっくりと口を開いた。「自分でやったことなのに、助けを求めてくるなんて。君、それくらいのことも処理できないのですか?」その反応に、侑子は目を見開いた。「もしかして......何があったか知ってるの?」「君と君の従姉妹が、おばあさんを階段から突き落としたんでしょう?」ノラは楽しげに笑いながら、切り落とした枝をぽいっと脇に捨てた。「何でも知ってるのね......」侑子は震えながら呟いた。ノラがどれだけの情報網を持っているのか見当もつかない。けれど、すべて見透かしていることだけは確かだった。「当然です。僕は全部知ってますから」そう言って、ノラはふと振り返り、にこやかに訊ねた。「それで、山田さん。今度は僕に何をしてほしいのですか?」「あの人が目を覚ましたら、全部ばらされるかもしれないの......認知症とはいえ、修が信じたら終わりよ。お願い、助けて」「僕がどうして君を助けないといけないんですか?それは君が自分で撒いた種でしょう」ノラは冷たく言い放つと、すれ違いざまに通り過ぎようとした。「でも、あんたが私を引き込んだんじゃない!」侑子は後を追って言い返す。「全部あんたの計画だったんでしょう?私を修のそばに仕向けて、恋に落ちさせて。あんたの目的なんて分からないけど、私を利用する気なんでしょ?だったら修のそばにいさせてよ、そこでしか私は価値がないんだから」「君、そんなに藤沢さんのことが好きなんですか?」ノラはふっと笑い、「じゃあ、僕が君を利用した末に、彼を殺すかもしれないって言ったら?それでもいいのですか?」と、にこやかに言った。「もう......そんなこと気にしてる余裕ないのよ!」侑子はノラの腕をぐっと掴んで懇願する。「お願い、助けて。あんたならできるはずでしょ?心臓でもなんでも探してこれる人なんだから、半死半生のおばあさんをなんとかするくらい、朝飯前でしょ?お願いよ......」その懇願に、ノラの瞳が一瞬だけ冷たく細められた。「君、どうしてそんなに自分が使えると思ってるのですか?」その声音には、氷のような冷淡さがにじんでいた。「藤沢さんと同じベッドに寝かせておいたって、結局、彼は君を捨てた。もう君に
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第1146話

若子は静かに言った。「......これからも時々、暁を連れておばあさんに会いに来るよ。もしおばあさんが目を覚まして、私のことを覚えてくれてたら......そばにいてあげたいから」修は子どもを抱いたまま立ち上がり、口を開いた。「若子、もう遅い。俺が送ってく、お前も休まないと。子どもも疲れてるだろうし、ずっと病院にいるのは良くない。まだ小さいから、免疫力も弱いしな」若子はこくりと頷いた。「うん、分かった」彼女ひとりなら気にしない。でも今は子どもがいる、ちゃんと守らなきゃいけない。修は若子を連れて病室を出る前に、病室の前に立っていたボディーガードに向かってしっかりと指示を出した。「絶対におばあさんの安全を守ってくれ」「修、私ひとりで帰れるよ。送らなくても大丈夫、早く休んで」「気にすんな」修はきっぱりと答えた。「お前を送ったあと、俺もホテルに戻って休むよ。病院の近くに部屋取ってるから」若子が何か言おうとしたそのとき、修が先に口を開いた。「いいから、遠慮すんな。こんな夜遅くにお前をひとりで帰すのは心配なんだ」「......うん、分かった」若子が子どもを抱き上げようとしたとき、修がすっと手を出した。「俺が抱くよ。車に乗ったら渡すから」彼の目には疲れが見える若子の様子が映っていた。赤ん坊は軽くないし、長く抱いているのも大変だ。男である自分がやるべきだと、修は自然に思った。出産してからというもの、若子の体はまだ完全に戻っていない。赤ん坊の世話もして、きっと相当無理をしているはずだ。若子は黙って頷いた。「じゃあ、お願い」ふたりは並んで歩き出した。その道すがら、若子がぽつりと尋ねた。「山田さんと安奈さん、あのふたりはどうなったの?」「呼んでない。今はそれどころじゃないし、ほっといてる」「修」若子の声が少しだけ低くなる。「おばあさんが階段から落ちたって話......なんか、変じゃない?」その一言に、修の眉がわずかに寄った。「どうして、そう思うんだ?」「なんで、あの二人だけが『物音を聞いた』って言ってるのか......そこが気になるの」若子の疑念に、修は少し考えてから口を開いた。「若子......お前、ふたりを疑ってるのか?」「分かんない。でも....
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第1147話

ふたりは、人気のない場所へと足早に移動した。「安奈、私たちって......今は同じ船に乗ってるんだよね?」侑子の問いに、安奈は即座に頷いた。「うん......」「だったら......一緒に沈むわけにはいかない。だから、あんたに手伝ってほしいことがあるの。これがうまくいけば、例の件も、誰にもバレない」「......何するの?」安奈は不安そうに侑子の表情を読み取ろうとする。その目には、何か「大ごと」の気配があった。侑子はそっと耳打ちした。その内容を聞いた瞬間、安奈の顔がみるみる青ざめていく。「えっ!?な、なにそれ......侑子姉がやればいいじゃん!」侑子は彼女の手をぐっと掴んで言った。「あんたの方が頭もいいし、機転も利く。誰か他の子に頼むくらいなら、あんたに任せた方が安心なの」「でも、こんなの、成功するかどうか分かんないし......」「絶対、安奈ならできる」そう言って、侑子は微笑みながら、安奈の目をまっすぐ見つめた。「私、絶対に修の妻になるから。そのときには、あんたは私の従妹よ。欲しいものはなんでもあげる。修はSKグループの社長。お金だって、好きなだけ使えるし......もし、あんたが修のこと好きなら、会えるように手配だってしてあげる」その言葉に、安奈の心はぐらりと揺れた。「本当に......いいの?」「なにを今さら。修みたいな完璧な男が、女ひとりに縛られるわけないじゃん?どうせ浮気するなら、知らない女に取られるより、私たち姉妹で支える方がマシじゃない?」その「姉妹の絆」に、安奈の心は一気に傾いた。ごくりと唾を飲み込みながら、もうすでに頭の中で修との未来を描き始めていた。安奈は―本気で修に憧れていた。いや、もう「憧れ」なんて軽い言葉じゃ足りない。彼女にとって、修はただの男じゃなかった。物語の主役。唯一無二の主人公だった。その存在に心酔するのは、もはや習慣だった。彼女の中で、修は絶対的な味方であり、夢の人であり、すべてだった。その目がわずかに揺らいだのを見て、侑子は確信する。―落ちた。......三十分後。白いナース服を身にまとった安奈は、手に医療用トレイを持って病室前に現れた。この時間帯は、病棟の巡回がある。だから、誰も不審には思わない。警備の
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第1148話

「ちょっとしたトラブルがあってな、処理に時間かかっちまった......悪い、この前ドタキャンして」若子はまだ言いたいことがありそうだったけど、今は玄関先。すぐに切り替えて言った。「とりあえず中に入りましょ」彼女はすぐにパスコードを入力し、ドアを開けた。千景は無言のまま、あとに続く。寝息を立てている子どもを、若子はそっとベッドに寝かせると、ドアを閉めてリビングへ戻った。「冴島さん、なんで来るなら一言くれなかったの?」引っ越したあとで住所は連絡していた。でもまさか、何の前触れもなく来るなんて思ってもなかった。「......悪い、ちゃんと知らせるべきだったな。俺、もう帰るよ」千景は少しバツの悪そうな顔をして、立ち上がろうとする。慌てて、若子が腕を引き止めた。「違う、そういう意味じゃない。来てくれて嬉しかったよ......ずっと心配してたんだから」その言葉に、千景の白い頬にほんのり陰が落ちた。「若子、もし......もし俺に、何かあったとしても......全部、自業自得だから。君は悲しまなくていい」「......何それ」若子の胸に、ひどく嫌な予感が広がった。「なんでそんなこと言うの?体、ほんとに大丈夫?顔色悪すぎ......とにかく、座って」彼女は千景をソファに座らせ、すぐにキッチンへ向かった。コップにぬるめのお湯を注ぎ、彼の隣に戻って差し出す。「ほら、水飲んで。それで......ねえ、いったい何があったの?こないだ一緒に家を見に行けなかったのも、B国で何かあったって......何?」千景は黙って彼女の顔を見つめる。言いたいことはあるようだった。でも、口を開きかけたそのとき―彼の眉がぎゅっと寄り、額にじわりと汗がにじんできた。「どうしたの?......顔色悪すぎ。ほんとに大丈夫なの?病院行きましょ」若子はソファに座る千景の様子を見て、心配そうに身を乗り出した。その顔にはただの疲れじゃなく、明らかに「異変」があった。病気か、それとも―「大丈夫だよ」千景は若子の手首をそっと握りながら、低い声で言った。「......俺、君に聞きたいことがあるんだ」けれど、その額にはどんどん汗が滲んでいく。若子は手を伸ばして彼の肩を掴んだ。「ダメ、それよりもまず説明して。どう
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第1149話

「全然大丈夫じゃないじゃん。その顔見て言う?座って、じっとしてて。救急セット取ってくる」若子はさっと立ち上がって棚の前へ向かい、扉を開けて中から薬包を取り出した。この部屋には、万が一のために常備してある応急処置セットがあったのだ。「横になって。私が手当てするから」以前にも一度、彼の傷を処置した経験があった。だからこそ、今回はもっと冷静に動けた。千景ももう抵抗しなかった。若子に任せるように、静かに身を預けた。包帯を外した瞬間―若子の目の前に現れた傷口は、言葉を失うほどのひどさだった。赤黒く変色した血の跡が、時間の経過と共に悪化しているのが一目でわかった。「これ......ひどすぎる。やっぱり病院行こう」「平気だ。大丈夫、心配することじゃない」千景は薬箱を開け、中から必要なものを取り出した。消毒液を染み込ませたコットンを手に取り、自分で処置を始めようとする。「ちょっと、冴島さん。やめて、私がやるから」若子は彼の手からピンセットを取り上げ、優しく言った。「寝てなよ。動かないで」彼が病院を避ける理由は分かっている。強引に連れて行っても、かえって混乱を招くだけかもしれない。だから、今はまず傷を抑えることが先決だ。若子はそっと彼の肩に身を寄せ、丁寧に傷の手当てをしていった。薬を塗り終えると、新しい清潔なガーゼでしっかりと包み直す。それが終わると、彼の額に浮かぶ汗をタオルで優しく拭った。「......何があったの?ちゃんと話して。なんで銃で撃たれるようなことになったの?誰にやられたの?」少しの沈黙のあと、千景が口を開いた。「......若子、あの夜......ホテルまで君を送ったあと、車に戻ったら、ひとりの男が乗り込んでた」彼の声は低く、しかしはっきりとしていた。「そいつが俺を殺そうとしてきて......なんとか逃げようとしたけど、結局......海に飛び込んで命は拾った。でも、そのとき撃たれた」「どんな男?顔は見たの?」若子の声は、明らかに動揺していた。まさか千景がそんな目に遭っていたなんて。もし知っていたら、あの時、絶対にひとりで帰らせたりしなかった。「顔は見えなかった。マスクで隠してたし、車内も暗くてな......はっきり分かったのは、背が高くて痩せてたってことく
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第1150話

若子は千景をベッドに横たえさせると、毛布を引っ張って優しくかけてやった。「しっかり休んで。ここにどれだけいても大丈夫だから、とにかくまずは傷を治して」彼女の声は、どこか安心してほしいという思いに満ちていた。「冴島さん、さっき玄関前で会ったとき、どのくらい待ってたの?」千景はふっと笑った。「......そんなに長くないよ」けど―実際には何時間も、ずっと待ち続けていた。それでも、彼女の邪魔になりたくなかった。ただ、それだけだった。「でも、なんで来る前に連絡くれなかったの?一言くれたら、もっと早く帰ってこれたのに」「......本当は、ちゃんと傷が治ってから来ようと思ってた。でも時間がかかりそうでさ。どうしてもこの話だけは早く伝えたくて......心配だったんだ。君のそばに、変な奴がいるんじゃないかって」その言葉に、若子は一瞬黙り込んだ。「......でも、誰かなんて全然心当たりない。そうだ、前に修が私に『胃がんになった』って嘘ついてきたことがあって......でもそれを証明する検査結果の画像がメールで送られてきたんだ。誰が送ってきたのか、未だに分からなくて」「そのメール、まだある?」千景の目が鋭くなった。「あるよ。ちょっと待ってて」若子は立ち上がり、テーブルの上のスマホを手に取って画面を操作した。しばらくして戻ってくると、そのメールを開いて千景にスマホを渡した。千景は数秒間、じっと画面を見つめた後、眉をわずかに寄せた。「......この発信者、俺が調べてみるよ。もしかしたら、何か手がかりが見つかるかもしれない」「うん、お願い。私も気になってたの。あのメールが誰から送られてきたのか、どうして私のスマホに届いたのか......今、冴島さんの話を聞いてて思ったんだけど、あのメール、もしかしたらその人と関係あるのかも」もしそれが事実なら、少なくとも修の疑いは晴れるかもしれない。千景は「ああ」と短く答えた。「若子、誰のことも簡単に信じるな。どんな相手でも、少しは疑う気持ちを持っててほしい。俺のことも、だ。いいな?」「わかった。そうする」若子はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。そのとき、スマホの着信音が室内に響いた。千景が画面をちらりと見やると、表示された名前は「藤沢修」だっ
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