All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 831 - Chapter 840

842 Chapters

第0831話

瑠璃の胸がドキリと跳ねた。——隼人は、眠っていなかったのか?寝たふり?さっきまでのあの言葉、全部聞かれてしまったのか?彼女は動揺しながらも彼の様子を注意深く観察した。だが、隼人はただ寝返りを打っただけで、どうやら本当に眠っているようだった。どうやら、さきほどの言葉は聞かれていなかったらしい。そう理解した瞬間、瑠璃はどこか少し安心したような、逆に少し寂しさも覚えた。——本当は、あなたに知ってほしかった。でも……あなたが真実を知ってしまえば、私たちの娘に災いが及ぶかもしれない。瑠璃はそっと隼人の腕の中から抜け出し、重い体で彼をベッドへと寝かせなおした。一連の動作を終えた頃には、彼女もすでに疲労困憊だった。彼の隣に横たわり、その寝顔を見つめながら、そっと彼の手を取り、自分の下腹部にあてた。「隼人……あの頃、君ちゃんを妊娠していたとき、どれだけあなたに信じてほしいと願ったか。お腹を撫でて、君ちゃんの存在を感じてほしかったのに……あなたは私の言葉を信じず、私を罵り、無視した。今、ようやく……感じられる?私たちの子どもは、今ここで、私のお腹の中で、育っているのよ」涙に濡れた目で、彼の顔にそっと顔を寄せ、微笑んだ。「どうか……今度こそ、あなた自身の目で、私たちの子が生まれる瞬間を見届けてほしいの」そう願いながら、瑠璃は静かに目を閉じた——昼と夜が交差し、夜が明けた。目を覚ましたとき、ベッドにいたのは自分ひとりだった。隼人の姿はどこにもなかった。瑠璃は寝起きの体で洗面をすませ、部屋のドアへ向かった。すると意外にも、ドアには鍵がかかっていなかった。下へ降りようとしたところで、勤が朝食を運びながら、足を引きずるように階段を上がってきた。「奥様、ちょうどよかった。朝食、できてますので」「隼人は?」「社長は用事で出かけました。すぐ戻るとのことです」「……瞬のところへ行ったの? 一体何をするつもりなの?あなた、彼の側に何年もいたんでしょう?なら、彼の考えが分かるはずよ。教えて、お願い!」瑠璃の声は切迫していた。彼女は、隼人が瞬に向かったことを本気で恐れていた。ここが景市なら、そこまで心配する必要はなかった。だが、ここはF国——瞬の支配圏。勤は困ったように眉を寄せた。「……すみません。本
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第0832話

「はい」勤は足を引きずりながら隼人のあとに続いた。瑠璃は一言も発する間もなく、完全に置き去りにされた。だが、彼女は朝食を口にすることなく、そっと二人の後を追って二階へと向かった。階段の踊り場に差しかかったとき、隼人の声が寝室から漏れ聞こえてきた。「今の証拠じゃまだ足りない。もう一度倉庫に行って、もっと確実な証拠を手に入れる必要がある」「社長、それは危険すぎます。いったん景市に戻って、仕切り直しましょう」「今の俺たちに、景市に戻れる余地があると思うか?」隼人は自分の状況を誰よりも理解していた。瞬はすでに彼の居場所を特定していたのだ。昨日、勤の頭を狙ったあの一発が何よりの証拠だった。——奴はすでに、こちらの動きを完全に把握している。それだけでなく、瑠璃が隼人と一緒にいることも、瞬は知っているはずだった。「社長、では……どうしましょう?俺はこの足じゃ、何の力にもなれません」「お前はここで療養してろ。あいつは急いでお前を始末しようとは思わない。俺の方が、奴にとって最大の障害だ」隼人の瞳は冷静そのものだった。彼は静かに決断を下した。「もし今夜七時までに俺が戻らなかったら、お前が碓氷千璃を連れて景市に戻れ。何があっても、彼女を瞬の元へ戻らせるな」「……分かりました」勤が頷き、振り返ろうとしたとき——ドア口に立っている瑠璃の姿が目に入った。その様子に気づいた隼人も、すぐに彼女を見やった。「部屋で休んでろ」勤に退出を命じると、隼人は瑠璃に向き直った。「朝食、もう食べ終わったのか?」彼の問いに、瑠璃は答えず、真剣な眼差しで彼を見つめた。「隼人、バカなことはやめて。瞬に手を出すなんて。これは元妻としての、あなたへの最後の忠告よ」「……フッ」隼人は小さく笑った。彼女のそばに歩み寄ると、ふいにその頬を包み込んだ。「碓氷……俺のことを心配してるのか?」低く落ち着いた声が、妙に優しく耳元に触れた。その瞳に沈むような光を宿して、彼は囁いた。「もし、俺が瞬の銃弾で死んだら……お前は悲しんでくれるのか?昔みたいに、俺がいないと胸が痛んで、寂しくなったあの頃みたいに……」「隼人、やめ——」忠告を続けようとしたその瞬間、彼の唇が彼女の唇を塞いだ。隼人は深く、惜しむように彼女
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第0833話

瞬の顔に浮かぶ意味深な笑みに対し、隼人は冷静に答えた。「俺にとって、最高の贈り物はもう受け取った」ここへ来る前、最愛の女性に別れを告げた——それだけで、彼にはもう十分だった。「そうか?」瞬は目を細め、嘲るような光を浮かべた。「君が千璃をどれだけ愛していようと、もう彼女は俺の女だ」この挑発的な言葉が隼人の怒りを掻き立てた。彼は認めたくなかった。瑠璃が瞬を愛しているなんて事実も、彼女が他の男の子を身ごもっているという現実も——。「どうした?悔しいか?だが自業自得だろう。あの時君が千璃を大切にしていれば、こうはならなかった」そう言って、瞬はテーブルの上の拳銃を取り上げ、ゆっくりと弾倉を装填し、銃口を整えた。「昔、俺の両親は君の立派な祖父に殺された。俺は孤児になった」一番支えが欲しかった時に、あの男は俺をF国に放り出した。口では最上級の教育を受けさせると言いながら、実際は見捨てたんだ。そのくせ、君には全てのリソースを与えた。俺は一人で這い上がってきた。血と汗で築いたこの帝国を、君に壊されるわけにはいかない。目黒家のすべては、俺が取り戻す。そして千璃も、俺の女にする」瞬はそう言い終えると、拳銃をしっかりと握りしめ、隼人の心臓を狙った。距離はわずか五メートルもない。もし引き金を引けば、弾丸は一瞬で彼の心臓を貫くだろう。しかし隼人は、微塵の恐れも見せずに笑みを浮かべた。「俺が生きている限り、目黒家の財産をお前のような男に触らせはしない。千璃をお前のもとへ戻すことも、絶対にない」瞬は嘲笑を浮かべた。ここは自分の縄張り。自分の世界。この場所で、逃げ切れる人間などいない。隼人も、例外ではない。「隼人……今の立場で、まだ俺に敵うと思ってるのか?」隼人は淡々と口を開いた。「ならば——やってみろ」その堂々とした態度に、瞬は苛立ちを覚えた。以前、隼人は一度、彼の放った銃弾をかわしていた。瞬は、まさかもう一度避けられるとは思っていなかった。瞬は、自分と隼人の因縁に他人が口出しすることを許さず、次の瞬間には迷いもなく、冷酷に引き金を引いた。だが――そのわずか数コンマ秒の間に、隼人は再び奇跡を起こした。彼は驚異的な反応速度で、飛び出した弾丸を見事に回避したのだった。側にいた護衛たちは、一様に目を見
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第0834話

「隼人、お前が生きてここから出られると思ってるのか?」瞬の口元には、勝者の余裕が滲む笑みが広がっていた。だが隼人は落ち着き払ったまま、ゆっくりと口を開いた。「じゃあ、一つ勝負するか。俺とお前、どっちが速いか」その言葉に、瞬の目がほんのわずかに揺れた。瞬は、自分の命を危険に晒すような賭けには出ない。ましてや、隼人のような男を相手にしては——。その一瞬の隙を、隼人は逃さなかった。彼はすばやく瞬の手から銃を叩き落とし、落ちてくる銃をそのままキャッチ。一瞬のうちに、瞬の心臓へと銃口を向けた。形勢は一変し、瞬の笑みは消え失せた。「全員、外に出ろ」隼人の命令に、瞬は渋々ながらも応じた。「出て行け」「でも目黒様……」「うるさい、出ろ」護衛たちは不満げだったが、命令には逆らえず外へと下がった。もし隼人が動けば、俺たちで一斉に撃てばいい。さすがに全部は避けられないだろう。そう考えながら——。倉庫の中に残ったのは、隼人と瞬、二人だけ。「意外だったか?叔父さん、まさか立場が逆転するとは思わなかったんじゃないか?」「フン……」瞬は鼻で笑った。「俺に手を出したら、お前も無事じゃ済まない」「最初から、無事で帰る気なんてない」隼人の目は冷たく、全身からは張りつめた殺気があふれ出ていた。「瞬、お前の言う通り、俺たちは今日で決着をつけるべきだ。この一年、お前は祖父を半ば植物人間にし、千璃の俺への憎しみを利用して、目黒家の全てを奪おうとした。俺はそれを忘れていない。昔、俺と千璃がまだ夫婦だった頃から、お前は千璃に近づいて信頼を得て、依存させた。彼女を地獄から引き戻してくれたことには感謝する。だが、それが彼女を利用し続け、所有する理由にはならない」隼人は引き金に指をかけたまま、鋭い光を放つ視線を瞬に突き刺した。「瞬、もし今日どちらかが死ななきゃいけないなら——それは俺じゃない。千璃を一人にさせるわけにはいかない。彼女は俺の妻だ。体も、心も、すべて俺だけのものだ」その言葉に、瞬の目がこれまでにないほど動揺を見せた。こいつ、本当に俺を殺すつもりか?だがその瞬間、隼人の耳に聞き覚えのある足音が響いた。「やめてっ!!」叫び声とともに、瑠璃が走り込んできた。隼人の指先がかすかに緩んだ、そ
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第0835話

隼人は引き金にかけた指を、ぎゅっと硬直させた。目の前の瑠璃が見せる、決して屈しない強い眼差しが、冷たい潮のように彼の心を一瞬で凍らせていく。彼女は……瞬のために、命を捨てようとしている。それを理解した瞬間、隼人の眉間には深い皺が刻まれた。「そこまで……本気で、あいつを愛してるのか?」彼の問いかけに、瑠璃はまっすぐに彼の悲しい目を見つめ返し、揺るぎない声で答えた。「ええ。私は、私のお腹にいる子の父親を、心から愛してる」その一言が、隼人の胸を一気に引き裂いた。怒りと失望が一気に込み上げ、彼は突然、引き金を引いた——「バンッ!」銃声が響き渡り、近くの窓ガラスが粉々に砕け散る。その音と共に、隼人の心も砕け散っていた。呆然とその場に立ち尽くす瑠璃。心臓が跳ね、乱れる。男の目は怒りと殺意で染まり、その全身からは恐ろしい冷気が立ち昇っていた。今にも世界を壊しそうなほど、彼は怒っていた。だが、隼人はすべての怒りと悲しみを押し殺し、ただ一度、瑠璃を深く見つめ——そのまま背を向け、無言で歩き出した。その背中が去っていくと同時に、瑠璃の目からはポロポロと涙が零れ落ちた。静寂が戻ったはずの空間なのに、彼女の心はざわめき続けていた。その光景を見ていた瞬は、心の奥で満足そうに微笑んだ。「千璃……まさか、あそこまでして俺を守ってくれるなんてな」瞬が近づき、彼女を抱きしめようと手を伸ばしたが——瑠璃は冷たくその腕をかわした。「瞬。あなたが私の命を救ってくれた。今の行動は、その恩を返しただけよ」その言葉に、瞬はようやく理解した。——彼女の行動は、愛情ではなかった。ただの「借り」を返したに過ぎない。もし彼女が来なければ、あの時、隼人の銃弾は自分を撃ち抜いていただろう。……やはり、隼人は簡単には倒せない相手だ。だが、彼の心に深く突き刺さったあの一言一言は、たとえ銃弾でなくても、十分に破壊力がある。その頃——瑠璃は瞬の別荘に戻っていた。陽菜の姿を見るや否や、彼女はその小さな体をぎゅっと抱きしめた。胸の奥に広がる痛みに耐えながら、ただ静かに、その温もりを感じていた。「ママ、どうして綿あめを買いに行ったのに、急にいなくなったの?」小さな陽菜は、あの日突然瑠璃が姿を消したことに、まだ首をかしげ
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第0836話

瞬のその一言に、瑠璃は一瞬で全身が冷たくなった。彼女はくるりと振り返り、緊張に満ちた声で問い詰めた。「瞬、あなた何をするつもり?隼人に一体なにを——!」瞬は眉をひそめた。「俺の帝国を壊そうとする人間を、生かしてF国から出すつもりはない」その冷たい一言に、瑠璃の心臓が沈むような痛みに襲われた。「瞬、隼人は……あなたの実の甥でしょう!?本当に殺すつもりなの?」瞬は皮肉めいた笑みを浮かべた。「甥?だったら聞くが……あのジジイは、俺の両親を殺した時、俺の父親が自分の弟だってことを考えていたか?」「お祖父様がそんなことをするはずがない!何かの誤解よ!」瑠璃は強く否定したが、瞬にはまるで届かなかった。彼は彼女の焦燥を見て、ふっと笑みを浮かべた。「真実がどうであれ、隼人が今後どうなるかは変わらない」「瞬、お願い……やめて!」「もう遅い」瞬は淡々と言い放ち、目を細めた。瑠璃の視界が一気に暗くなる。胸を締めつけられるような不安が彼女の心を襲った。「瞬……あなたが隼人を傷つけるなら、私は絶対に——止めてみせる!」彼女はそう叫ぶと、すぐに扉の方へと駆け出した。だがその前に、二人の護衛が立ちはだかった。「どいて!」瑠璃の目には、鋭い怒気と揺るがぬ決意が宿っていた。瞬が軽く目配せすると、護衛たちは彼女の前から下がった。だが彼はすぐに、静かに言葉を落とした。「千璃、君が今どうしても隼人のもとに行くって言うなら……陽菜のことはどうでもいいのか?」「……」彼女の足が、ぴたりと止まった。一歩も進めない。どこにも行けない——冷たい雨粒が肌を打ち、身も心も冷えきっていく。そんな彼女のもとへ、瞬が傘を差して近づき、そっと手首を掴んだ。「妊娠してるんだ、無理をするな。君が隼人に連れて行かれた時、本当に心配したんだ」「……心配?」瑠璃はかすかに笑い、冷ややかに言った。「あなた……わざと私を隼人に渡したわよね? 私を餌にした。愛してるって言いながら……自分しか愛してない!」彼女は彼の手を振りほどき、雨の中へと走り去っていった。瞬はその場で呆然と立ち尽くす。彼女が車に乗り込もうとするのを見て、すぐさま電話を取り出した。「千璃が向かった。隼人をすぐに始末しろ。ただし、彼女に血の光景は見
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第0837話

瑠璃はその場に立ち尽くしたまま、銃を向けてくる男をじっと見つめていた。心は怯えていたはずなのに、不思議と少し落ち着いてくる。目の前にいる隼人の手には、まだ乾ききっていない血の跡。革のジャケットには、乾きかけた血飛沫が点々と付いていた。彼の目は、まるで深い夜の闇のように沈み、そこには強烈な殺気と陰鬱さが宿っていた。真紅に燃えるような視線で、突然現れた瑠璃をじっと見つめていた。まるで、今まさに殺戮を終えたばかりの悪魔――。全身から放たれる圧倒的な殺気。だが、その凄まじい怒気をまとった姿でさえ、彼の眉目は相変わらず凛々しく、見る者を惹きつけるほどに美しかった。そして、部屋に入ってきた相手が瑠璃だと分かった瞬間、隼人の目に宿っていた殺意は少しだけ消え、代わりに浮かんできたのは皮肉めいた笑みだった。「俺が死んだかどうか見にきたのか?」彼は嘲るように言いながら、一歩一歩瑠璃に近づいてきた。「さすが瞬のいい嫁だな。殺し屋を何人も送り込んだだけじゃ飽き足らず、今度は自分で確認しに来たってわけか。……残念だったな、俺はまだ死んでない」その言葉の裏にある誤解は、瑠璃にも痛いほど伝わった。だが、今はそれを一つ一つ説明している時間なんてない。「隼人、死にたくないなら今すぐここを出て」彼女は冷静にそう告げた。「これ以上遅れたら、本当に出られなくなる」「ハッ……」隼人は自嘲気味に笑い、銃を下ろすと、血のついた手で瑠璃の顎をそっとつまんだ。「どうせ今日ここで死ぬなら、せめて一番愛した女と一緒ってのも悪くない」彼の瞳には、すでに覚悟が宿っていた。「……本当に死ぬ気なの?」瑠璃は焦りを隠せなかった。「あなた、景市に息子がいるでしょう?その子のこと忘れたの?ここで死ぬつもり?」「息子?ああ、覚えてるとも」隼人の声が一気に怒りを孕む。「千璃、お前も覚えてるだろ?俺達の息子を守るために、自分の命まで捨てようとしただろうが!」その言葉に、瑠璃の目には涙が滲んだ。彼の赤く潤んだ目を見つめながら、唇を震わせて言った。「……忘れるわけない。私が、忘れるはずない」でも隼人は、もはや聞く耳を持っていなかった。彼の頭には、瑠璃が瞬を庇っていたあの瞬間しか残っていなかった。彼女は、もう彼を愛していない。そう信じて疑っていない。
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第0838話

バイクは殺し屋たちの間を鋭くすり抜け、大きくカーブを描くと、そのまま夜の闇に紛れて姿を消した。瞬の元に、隼人が瑠璃を連れて逃げたとの報せが届くと、彼はすぐに全ての手下に捜索を命じた。だが、一日が過ぎても、隼人の行方はつかめなかった。「隼人……」瞬はその名を歯噛みしながら吐き捨てるように言った。「F国にいる限り、俺の掌からは逃れられない」……郊外のひっそりとした小さな宿。六畳にも満たないような部屋に、隼人は瑠璃を匿っていた。窓を打つ雨音が重く響き、彼女は不安な気持ちのまま、急に出ていった隼人の帰りを待っていた。隼人がどこに行ったのかは分からない。だが、もう30分は戻ってきていない。彼女は段々と心配になってきた。外に出て探しに行きたかったが、部屋の扉は内側から鍵がかかっていた。ようやく、ドアの開く音が聞こえる。瑠璃が顔を上げると、隼人が冷たい表情のまま入ってきた。手には持ち帰りの食事が入ったビニール袋を提げている。「食え」ぶっきらぼうにそう言って、袋をテーブルの上に置くと、彼はもう片方の手に持っていた何かの袋を持ってバスルームへ入っていった。中で何をしているのかは分からないが——またしても血の匂いが鼻をついた。……怪我してるの?その可能性が頭をよぎり、瑠璃は思わず心配になる。ほどなくして、隼人が出てくる。顔にはいつものような冷静さが戻っており、何事もなかったような様子だった。沈黙の後、瑠璃は思いきって言った。「私をここに閉じ込めて、何の意味があるの?隼人、今なら景市に戻れるチャンスがある。私を連れていったら、あなたの足を引っ張るだけよ」「……碓氷。そう言えば俺がお前を瞬の元へ返すとでも思ったか?」彼の目がギラリと光る。その視線には、嫉妬と諦めきれない執着が滲んでいた。「前はお前を取り逃がして後悔した。だからこそ、今度こそ絶対に逃がさない」彼は袋から弁当を取り出し、容器を開けた。「瞬のガキを守るために死ぬって言ったんだろ?じゃあまずは腹を満たせ」「……」確かに空腹だった。けれど、隼人に見張られながら食べるのは、あまりにも落ち着かない。食べ終わった後、隼人は彼女の手を取ってバスルームに連れて行った。そして、瑠璃の手首にしっかりとロープを巻き、そのロープのもう一方を
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第0839話

瑠璃はまったく油断していた。鼻先が彼の硬い胸筋にぶつかった。彼女はぱっと目を見開き、目の前に広がる美男子の入浴シーンに呆然とした。あまりの光景に、一瞬、鼻先がじんわりと熱くなるのを感じた。濡れた髪から滴る水で視界がぼやけ、反射的にまつ毛の水を払おうと手を上げた——その瞬間、隼人が彼女の手首を掴み、後頭部を押さえつけ、何の前触れもなく唇を奪った。瑠璃はその場で呆然と立ち尽くした。全身がずぶ濡れになるまでようやく我に返り、彼を押しのけようとした。だが、触れた瞬間、指先に伝わったのは熱を帯びた彼の肌――まるで火傷しそうなほどだった。彼が理性を失って暴走するのではと不安になり、瑠璃は力いっぱい彼の手首をこじ開けようとした。しかし、その抵抗がかえって彼の征服欲に火をつけてしまった。もうどうにもならず、瑠璃は咄嗟に彼の肩に噛みついた。隼人は一瞬眉をしかめて動きを止めた。濡れたままの目で瑠璃をじっと見つめる彼は、少し怒ったような彼女の表情を見て、苦笑いを浮かべる。「お前、前はこんなんじゃなかったろ?目も心も、俺しか映ってなかったくせに。碓氷千璃、俺はお前の心の中に何年も住み着いていた。なのに、そんなにもあっさりと、俺の存在を完全に切り捨てたのか?」彼は濡れた手で瑠璃の頬を包み込み、逃げられないように視線を絡めた。「碓氷千璃……俺のこと、まだ愛してるって言ってくれ。お前の心には、まだ俺がいるって……」その瞳は必死で、痛々しいほどに期待が滲んでいた。瑠璃は拳を握りしめ、気持ちを抑えて静かに言った。「隼人、お願いだから、私を行かせて。あなたは景市に戻って」だが、その返答は彼の求めるものではなかった。彼の表情は一瞬で冷たくなり、彼女を壁に押しつけ、再び唇を奪った。激しさを増す彼のキスに、瑠璃は思わずその腕を掴んで制止する。「隼人……だめ、やめて……」「なんでだ?なあ?お前は俺のこと、拒んだことなんてなかったろ?俺に逆らうこともなかった。今さらなんでだ?……瞬に心奪われたからか?命を救ってくれた男だから?それで俺を拒むのか?」彼の声には嫉妬と苦しさが混じっていた。顔を彼女に近づけ、濡れたままの瞳が愛しさと後悔で揺れていた。「お前が俺の腕の中で力なく倒れたあの日、俺の世界は真っ暗になった。……あのときほど、自分の
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第0840話

彼女は隼人の目をまっすぐに見つめ、もう拒まなかった。ただ、そっと彼の手を握り、瞼を伏せた。「……隼人……」瑠璃が彼の名を呼んだその瞬間、隼人はもう抑えきれなかった。三文字目を聞く前に、彼の唇が彼女の唇を塞いでいた。瑠璃の胸はたちまち乱れ、頭の中が真っ白になった。どうして彼とベッドまでいったのか、記憶が飛んでいるくらいだった。隼人のキスはやさしくて、触れるたびに過去の温もりを思い出させた。彼が彼女のブラウスのボタンを外そうとしたとき——ふと、彼の視線が止まった。瑠璃の首元にかけられていたネックレス——そのペンダントが、かつて彼が返した七色の貝殻だったのだ。その瞬間、隼人の心臓が高鳴った。喜びに満ちたその表情で、彼はそっとその貝殻に口づけした。たとえ豪華なベッドやロマンチックな演出がなくとも、この狭くて古びた旅館の一室が、彼にとっては人生で一番美しい夜となった——翌朝、隼人の腕の中で目覚めた瑠璃は、思わず頬を染めた。昨夜のことがフラッシュバックのようによみがえり、心臓の鼓動が速くなった。どうしてあんなことに……自分でも、隼人の言葉や仕草に翻弄されたことが信じられなかった。彼女は反射的にお腹に手を当てた。妊娠して三ヶ月——安定期にはまだ早い。そして、それは気のせいなのか、なんとなく下腹部に違和感を感じた。ちょうどそのとき、隼人が目を覚ました。隣に彼女の姿がないことに気づくと、彼は少し慌てて起き上がった。傷口に新しい包帯が巻かれているのを見て、彼は微笑んだ。「……千璃ちゃん」その名を呼んだ瞬間、瑠璃が洗面所から出てきた。だが、彼女の顔色は良くなかった。隼人はすぐに彼女に駆け寄った。「大丈夫か?千璃ちゃん、顔色が悪い」「……少し、お腹が……病院に行きたい」隼人は、昨夜のことを思い出し、わずかに罪悪感を覚えた。けれど彼女を傷つけないように気をつけたはずだ——とはいえ、彼女の体調が最優先だ。彼はすぐに病院に連れていく決意をした。瞬の手の者に見つからないよう、彼は彼女と自分の顔にマスクをつけた。診察を受けた後、二人は待合室で結果を待っていた。瑠璃の不安げな表情を見て、隼人はまたも嫉妬心を覚える。「そんなに心配か?……あいつの子どもだからか?」瑠璃は何も言わなかった。た
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