All Chapters of 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ: Chapter 391 - Chapter 400

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第391話

慎一はじっと私を見つめていた。瞬きひとつせず、まるで魂が抜けたように虚ろな目をしている。その声も、氷のように冷たく、感情の欠片もなかった。「今日は、大晦日だな」悪夢のせいでまだ心臓が激しく鼓動している私は、彼の視線を受けながら静かに頷いた。てっきり、帰国を急いでいるのだと思い、私は彼の意に沿うように言葉を続けた。「そっちの用事は片付いた?私はもうずいぶん良くなったし、いつでも帰国できるわ」慎一は私の目の前で中腰になっていたが、私の言葉が終わると、まるで空気が抜けた風船のようにその場に崩れ落ちた。両腕で膝を抱え、顔を膝の間に埋めて、呟く。「親父が、亡くなった」その言葉は、どこかで大きな手が私の心臓をぎゅっと掴んだように衝撃的で、息をするのも忘れてしまった。「え?前日は、まだ元気だったのに……」私が呆然と呟くと、慎一はほんの一瞬だけ弱さを見せたが、すぐに腕で体を支えて立ち上がった。二度もよろけて、やっとのことで。大きな体を揺らしながら、慎一は言った。「雲香が言ってた。医者が最期の輝きだって」無表情のまま、私を見下ろしてくる。「親父はずっと俺たちの帰りを待ってた。結局、最期まで会えなかった」彼はゆっくりとベッドの端に座り、私の頬をそっと撫でた。「康平のことがなきゃ、俺たちはこっちに来ることもなかったのに、な?」その声はどんどん冷たくなり、その目はまるで康平の死を願っているかのように憎しみに満ちていた。私は体を震わせながら、慎一に抱きしめられる。彼は私の肩を優しく叩きながら、慰めるように言った。「少し無理してくれ。明日、必ず帰国する」……やっとのことで本家の屋敷に戻ったのは、もう元日も夜になってからだった。長時間の移動に私の体はさらに弱っていて、慎一は私をそのまま寝室に抱き上げ、ベッドに横たえると、何も言わずに部屋を後にした。霍田家の屋敷は、白い布で覆われ、まるで静まり返った幽霊屋敷のようだった。人々は静かに動き回り、使用人たちが忙しく立ち働く音すらも聞こえない。一週間の間、慎一は霍田当主の葬儀を取り仕切り、私はずっと卓也に連絡を取り、康平をどうにか助けてほしいと頼み続けていた。慎一の心の中の憎しみが、康平に向けて爆発するのではないかと、不安で仕方なかった。だが、すべては私の予想を裏切った。
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第392話

年が明けてからというもの、私と慎一はずっと本家の屋敷で暮らしていた。霍田当主の書斎は、慎一の部屋よりもさらに重苦しい雰囲気が漂っていた。黒塗りの無垢材でまとめられた室内は、主の座にいる者の顔を一層厳しく、圧迫的に見せていた。慎一は以前よりも明らかに痩せて、眉間にしわを寄せると頬が深くこけて見えた。長らく控えていた煙草を、またもや口にくわえているが、火はついていない。いつにも増して、所在なさげな姿だ。彼は私をじっと見つめた後、ごく淡い笑みを浮かべて言った。「お前は安井グループの、すぐにでも動かせる資金、全部協力名目で康平のプロジェクトに注ぎ込んだんだってな。この話が外に漏れたら、俺が何かする前に、お前が真っ先に潰されるぞ?」彼はずっと分からなかったのだ。どうすれば自分の家族を持てるのかということが。かつて、彼は雲香さえいればそれで十分だと思っていた。彼女を誰よりも大切にして、彼女に失われた家族の温もりを求めていた。だが、現実は思い通りにはいかなかった。妻を娶ってから、彼の中で「家族」の概念は何度も揺れ動いた。妹だけでいいのか、それとも妻と子どもが必要なのか。結婚したばかりの頃は、雲香との絆のほうが明らかに深かった。結婚のせいで妹を失いかけたこともあった。そして全ての責任を佳奈に押し付けた。けれど、佳奈はとても優しい女性だった。自分を慎一の「家族」にふさわしい形に変え、無理やりその間に入り込んで、なんとか偽りの均衡を保ったのだ。その均衡のもと、慎一は数年の間、満たされたつもりでいた。だが、去年から佳奈は変わってしまった。突然、彼女はこの関係から抜け出そうとし始めた。それが彼にはどうしても受け入れられなかった。彼女がいなくなることで、心の中の「家族」は崩壊した。彼は次第に満たされなくなっていった。佳奈は、慎一に「私か妹か、どちらかを選んで」と迫った。それはまるで、世界一の難題のようだった。けれども、雲香はあくまで妹であり、彼女にも自分の人生がある。やがて恋人ができて、嫁いでいく日が来る。慎一はようやく気づいたのだ。自分が本当に欲しいのは、普通の夫婦の関係と、自分の子どもと共に過ごす家族だということに。彼は佳奈を愛していると思い、持てるもの全てを与えた。だが今になって分かった。全てがどんどん遠ざ
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第393話

慎一が倒れた。彼の大きな体が、私の目の前で音を立てて崩れ落ちる。廊下を通りかかった使用人が、半開きの扉越しに中を覗き見て、悲鳴を上げながら駆け込んできた。そのまままた外へ駆け出し、次々と人が雪崩れ込んできた。私の手から離婚協議書がするりと落ち、床に散らばる。慌ただしく駆けつける人々の足跡で、紙はすっかり踏みしめられてしまった。誰もが口々に叫びながら、私の前で口をパクパクと動かしているけれど、私にはまるで無声映画のようにしか見えなかった。まさか、慎一に対してここまで冷淡になれる日が来るなんて、思いもしなかった。かつて彼を愛したこともあったし、憎んだこともあった。失望しきったこともあれば、希望を抱いたこともあった。だけど今、彼はまるで死人のように、何人もの手に抱えられて運ばれていく。私の記憶の中の、見上げるほど背が高く、頼りがいのあったあの人ではない。でも、あれだけの過ちを重ねてきた彼に、何の罰も与えられないのだとしたら、そっちのほうが不公平だ。私は、もう彼に同情なんてしない。誰かが振り返って私に声をかける。「奥様、早く!旦那様を病院へ!」霍田当主が亡くなったばかりで、皆ピリピリしている。仕事を失うことを恐れているのだ。そして今や慎一が彼らの新たな主人。私も後を追おうとしたが、足はまるで他人のもののように石のように固まって、一歩すら動かすことができない。その時、どこからともなく霍田夫人が顔を覗かせた。彼女の着物は豪奢だが、霍家の正妻の品格は感じられなかった。まるで全身に「寄生中」の札でも貼られているかのように、彼女の存在はどこまでも「よそ者」だった。そう、彼女がいまだにこの屋敷にいるのは、完全に「寄生」だけなのだ。霍田当主が亡くなった翌日、弁護士が慎一の帰宅を待って、遺言を読み上げに来た。慎一が遺産の九割を相続し、残りの一割は私に分け与えられた。その遺言には、彼女と雲香の名はまったく無く、むしろ念を押すように「即刻屋敷から退去すること」と明記されていた。とりわけ雲香については「今後霍田家の敷居に足を踏み入れてはならない」とまで。私はてっきり、慎一は霍田当主の遺志を守ると思っていた。もし彼女たち母子に情けをかけるにしても、別の場所に家を用意して密かに援助するものと。だが、彼女たちが涙を流す暇も
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第394話

この家にいると、息が詰まりそうになる。私は外に出て、久しぶりに両親の墓参りに向かった。ゆっくりと語りかけるのも、どれだけぶりだろうか。墓地の空は厚い雲に覆われていて、まるで春が近づいているなんて信じられないような、重く沈んだ気配だった。分厚いコートを着てきたのに、冷たい地面に膝をつくと、体の芯まで凍えるようだった。「慎一の父親が亡くなって、彼もまた、行き場のない子になった。本来なら夫婦って、こういう時こそ寄り添うものなのに……ましてや、私と慎一は同じ運命にあるはずなのに……でも、私の後ろには、もう誰一人頼れる人はいない。慎一のことももう信じられない。彼は、私が人生を預けられる男じゃなかった……父さん、母さん、二人の間で、一番大きな嘘ってなんだった?」心に溜まった悔しさや悲しみがあふれて、涙が頬をつたう。冷たい風がその涙をさらに痛く感じさせる。墓地の管理人さんが私を見つけて、「ご愁傷様です」と声をかけてくれた。数日前、慎一は、丸一日書斎にこもった末に、誰もが驚く決断を下した。彼は、霍田当主と実の母親を一緒の墓に入れなかった。それどころか、私を伴って自ら霍田当主を、私の両親の隣に埋葬したのだ。慎一がなぜそんな選択をしたのか、正直、彼が一体誰を恨んでいるのか分からなくなった。理由を問うと、彼は何の感情もない顔でこう言った。「誰も、俺に家族というものを与えてくれなかった」彼の母は病で亡くなったはずだ、と言いかけて……けれど、私は何も言わなかった。全ては彼の執念なのだと分かっていたから。「あなた、まさか将来、霍田夫人をここに葬るつもりじゃないでしょうね?」慎一は私を抱きしめ、疲れたように私の匂いを深く吸い込んだ。「絶対に、そんなことはしない」彼の柔らかなまつ毛が私の頬に触れた瞬間だけ、私はほんの少しだけ彼を信じてみようと思った。墓地の管理人さんは、私が誰を弔いに来たのかよく分かっていなかったようで、「霍田当主は本当に幸せですね、こんな孝行な嫁さんがいて」と褒めてくれた。私は涙を拭き、微笑み返し、その言葉を無駄にしないよう、霍田当主の墓前に立ち写真を見つめた。写真の彼は、穏やかな笑みを浮かべ、どこか厳しくも優しい目をしている。こんな顔を見て、四年間「お義父さん」と呼び続けたのだ。だけど、結局、誰
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第395話

慎一の体調は、どうにも芳しくなかった。私が部屋に入ると、彼は真っ黒な瞳でこちらを見た。その目は静かに澄んでいて、まるで無機質なものでも眺めているよう。何の感情も湧いてこないようだった。ベッドの背に静かにもたれかかる慎一。世の中のすべてが彼には関係ないような、そんな静謐な美しさがあった。「慎一」私は彼の名を呼びながら、テーブルに保温ポットを置いた。「お義母さんが作ってくれたスープ。体にいいって」霍田当主が亡くなってからというもの、慎一の体はすっかり弱りきってしまった。分厚い健康診断の結果が、ベッド脇のテーブルに積まれている。細かい文字がびっしりと並び、私はざっと目を通しただけで、その上にポットを置いた。「お前は、見ないのか?」彼が口を開いた。かすれて弱々しい声だった。呼吸さえも震えている。「何を?」ポットの下で、紙がしわくちゃになっている。私はそれを一瞥して、気にせず言った。「あなたの体は、医者がちゃんと診てくれてるでしょ」私は少し間を置いて、にこやかに彼を見た。「それに……お義母さんもね」私は立ち上がり、いかにも良き妻のようにポットの蓋をひねり、慎一のためにスープを注ごうとした。その時、彼が突然、狂ったように暴れ出した。胸から喉へと絞り出すような叫び声を上げ、私の手からポットをはたき落としたのだ……金属が床に落ちて転がる音が、不気味なほど長く響いた。乳白色のスープが床一面にこぼれ、霍田夫人が特に加えた漢方薬も、まるでゴミのようにあちこちに飛び散った。私と慎一の間は、わずか一メートルほどしかないはずなのに、見えない深い谷が横たわっているようだった。ほんの少しでも踏み外せば、もう二度と戻れない。愛が足りなければ、憎しみだけが膨らんでいく。今となっては、慎一が私に残しているのは、きっと憎しみだけだろう。彼は私を見ていたが、その目に私は映っていなかった。汗だくになって、まるで耐え難い苦痛に苛まれているかのよう。歯茎まで噛みしめていた。私も彼も、手が震えていた。私は熱いスープで、彼は拳を握りしめて、何かを必死に抑えているようだった。「何怒ってるの?私に来てほしくないなら、もう帰る!」私は叫んだ。その瞬間、慎一の体がみるみる萎れていくように見えた。威厳も何もなく、ただ打ちひしがれている。
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第396話

「お兄ちゃん!」雲香は不機嫌そうに眉をひそめた。「縁起でもないこと言わないでよ!」彼女は慎一の肩を揺すったが、慎一は微動だにしない。慎一と結婚したばかりの頃、私はまだ恋に夢見る少女で、彼と末永く連れ添う未来を本気で信じていた。たまに慎一と同じ布団で眠る夜、私はこっそり彼の胸に潜り込んだ。寝たふりがバレてしまった時は、甘えた声で言ったこともある。「ねえ、慎一、私たちって、どっちが先に死ぬんだろうね?」すると彼は面倒くさそうに寝返りを打ち、「くだらない」とだけ呟いたものだった。私は後ろから彼の腰にしがみつき、甘ったるい声で続けた。「年齢的には、たぶん、慎一が先だよね。でも、もしそうなったら……私、後を追うよ。この世界でひとりぼっちになるなんて、無理。会えなくなるなんて、つらすぎるから」慎一の視線はずっと私に注がれていた。もしかして、あの頃の答えを、もう一度聞きたがっているのかもしれない。でも、たぶん彼自身は、あの時の会話なんて、もう覚えてもいないんだ。彼は、ぽつりと呟いた。「もしそんな日が来たら、それも縁の尽きる時だ。無理にこだわる必要はないさ」あの頃の慎一は、いつも数珠を手首に巻いていて、触れるたびに何か悟ったような、達観した目をしていた。そんな彼を、私は密かに崇拝していた。今思えば、あの時の彼は私に特別な感情なんて注いでいなかった。だから執着なんて必要なかったのだろう。私は彼を見据え、はっきりと答えた。「後悔なんて、しない」慎一は力なく布団に沈み込み、まるで深い闇に飲まれるように、絶望的に目を閉じた。雲香は彼の前にしゃがみ込み、兄妹の絆を込めて言った。「お兄ちゃん、大丈夫だよ。雲香はずっとそばにいる。絶対に、絶対にお兄ちゃんを死なせたりなんかしない。早く元気になって……お願い」そして、私を睨みつけた。「あんた、もう病院に来なくていいから。お兄ちゃんのこと、あんたなんかに……」「雲香!」慎一が彼女の言葉を遮った。佳奈が自分のことなど気にもかけていないと、彼は知っていた。検査結果がテーブルに置いてあるのに、佳奈はそれを保温ポットの下敷きにして見ようともしない。そんな相手の前で弱さを見せる理由なんて、もうなかった。彼はもう、疲れ切っていた。「出ていけ」と、慎一は言い放った。「お兄ちゃん!」雲香は悔しそ
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第397話

自分の考えのあまりの馬鹿さ加減に、思わず苦笑いが漏れた。死んだ人が手紙なんて残すわけがないじゃないか……きっと慎一は、私と離婚したくないから、何かと理由をつけて逃げているだけだ。本当に、子供じみてる!私は病院を出て、本家の屋敷へと戻った。どうせ家には帰るだろう、彼の妹も母親もまだ家にいるのだから、どこに逃げられるはずもない。屋敷の中は広々として静まり返っていて、唯一一階の台所だけが微かに人の気配を感じさせた。霍田夫人は、まだ台所で煮込み料理を作っていた。私は気配を殺してそっと戸口まで歩み寄り、声を潜めて尋ねた。「それ、慎一のためのスープ?」彼女は肩を跳ねさせて、胸を押さえながら振り返った。「佳奈、もう、驚かさないでおくれよ」「慎一のために煮てるスープ、そうなの?」私の声は冷たく、霍田夫人は気まずそうに笑った。「そうよ、でもね、佳奈にも用意してあるのよ。最近、慎一の世話で大変だったでしょ?佳奈の分を先に持ってくるから、飲んでから病院に行きなさい」彼女は殊勝な態度を見せて、まるで本当に和解したいと思っているかのようだった。だけど、私は知っている。かつて彼女が私に向けた冷たい言葉の数々を。今さら優しくされても、ただ薄っぺらく感じるだけだ。「さっきまで、病院にいたの」「え?そうなの?」霍田夫人はお椀を持つ手を止め、私を見返してきた。「じゃあ、あとで私が病院に届けてあげるわ。佳奈はもう無理しなくていいよ」私はじっと彼女の目を見つめた。その表情は本当に素直で、嘘をついているようには見えなかった。もしかして、霍田夫人も慎一の居場所を知らないのだろうか?彼女は私にスープを渡し、テーブルに座らせた。私は断らずに席につき、ついでに雲香のことも聞いてみた。すると彼女は嬉しそうに語り始めた。「雲香ったら、やっと大人になってきたのよ。もうすぐ大学も卒業でね。お兄ちゃんに頼んで、霍田グループでインターン始めたの」なぜだろう。私は心の奥底でほっとすると同時に、妙に納得してしまった。慎一が自分勝手に死ぬはずがない。まだ妹を守らなきゃいけないのだから。私を避けて、雲香と一緒にいるのだ。私はぼんやりとスプーンでスープの中身をすくい上げ、霍田夫人を見上げた。「この薬草、なんだか見覚えがあるね」「ああ、それね。前に北原
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第398話

霍田グループの株は、正直言って本当に欲しいわけじゃない。でも霍田夫人を誘い出すための餌としては、十分だった。大きな誘惑を前にして、彼女は「少し考えて」と言った私の提案を断り、すぐに応じてきた。彼女が断れないことは分かっていた。卓也にも前もって根回ししておいたので、株は少しずつ彼女のところに移る手はず。でも、わざとあと一歩足りない状態で止めてある。焦ってる人間ほど、簡単に操れるのよ。私は微笑みながら、彼女が去るのを見送った。霍田夫人には、慎一の居場所を探すようにとは言わなかった。彼のことは、私より彼女のほうがよく知っているはずだから。私は寝室に戻り、遠く海外にいる親友の星乃に電話をかけた。向こうの声には、疲れと興奮が混ざっていた。少し世間話をしたあと、私は核心を突く。「国内に、今でも信頼できる知り合いはいる?ちょっと漢方薬の成分を調べたいんだけど」星乃の声が急に医者らしい冷静さを帯びた。「私が国にいれば、すぐにでも調べてあげるのに。何かあったの?」実は、私にもはっきりしたことは分からない。ただ、さっきの霍田夫人の様子がどうも引っかかっていた。表情は誠意たっぷりで嘘はなさそう。でも、やたらと口数が多く、手元も落ち着かない。昔の私なら、霍田夫人が笑いながら毒を持ってきても、疑わずに飲んでしまっただろう。でも今なら、たとえそれが砂糖水でも、口をつける気にはなれなかった。「最近、体調がよくなくてさ。誰かが持ってきた漢方薬があるんだけど、本当に効果があるか見てもらいたくて……」夜、私は夢の中で目を覚ました。夢の中で、慎一が高層ビルから飛び降りてしまうのを見てしまったのだ……目覚めても、あの鮮やかな血飛沫の光景が脳裏に焼き付いていた。しばらくベッドでぼんやりしていた。隣のシーツも冷え切っている。慎一はもう退院しているはずなのに、家には戻ってこない。この家で彼を待つ理由もないし、父が遺してくれた家に帰ってもいいはずだ。服を着替え、最低限の荷物をまとめて、雲香の部屋の前でふと足を止めた。少し前までは、彼女の部屋には慎一との秘密がある気がして、こっそり覗いてみようとしたこともあった。それを霍田夫人に見咎められたことも。でも今、この古い屋敷のどこだって、私は自由に歩いていい。慎一は家にいないし、霍田夫
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第399話

ついこの間まで、私は慎一に抱きかかえられてこの屋敷に戻った。深夜だろうと、誰かが私たちのために灯りをつけ、道を示してくれたものだ。けれど今は、私は一人で、まるで身軽になったみたいに静かに家を出る。誰も私の行動に気を留めることはなかった。でも、胸の奥がなんだか妙にざわついていた。夜の空気は少し冷たくて、私は何度も深呼吸をした。けれど、それは決して自由の味なんかじゃなかった。私は本当は、彼と長い戦いを覚悟していた。どれだけ時間がかかろうと、人生の半分を費やしてもいいと思っていた。でも、こんなにもあっけなく終わってしまうなんて。それでも、これまでの努力は無駄じゃなかったのかもしれない。慎一はとうとう私に愛想を尽かしたのだから。それはまるで、固く閉ざされたと思っていた扉を力いっぱい開けようとしたら、実は鍵なんてかかってなくて、そのまま勢い余って壁にぶつかってしまったみたいな感覚だった。痛みで目の前が眩んだ。私の小さなマンションには、すでに埃が積もっていた。玄関に立った私は、どこに足を置いていいのかさえ分からなくなっていた。家を出ても、行く宛なんてない。私はただ、ぼんやりと床を見つめることしかできなかった。どれくらいそうしていたのかわからない。気がつけば、体中の血が冷たくなっていた…………都心から少し離れた郊外、空き地の中にぽつんと建つ白いビルがある。夜の闇がその建物を黒く包み込んでいた。その中の一室、カーテンはぴったりと閉じられ、月明かりさえも差し込まない。けれど、男の苦しげなうめき声と、女のすすり泣きだけがはっきりと聞こえる。きちんと整えられた部屋の中で、床だけが異様に生々しい。割れた花瓶が一つ、無造作に転がっていた。花瓶を割ったのは彼だ。電話を切ったあと、気持ちを抑えきれず、割れた破片を手に取り、それを深く腕に押し当てていた。これまでなら、こうして自分を傷つけることで、どうしようもない心の荒れを少しは落ち着けることができた。でも今は、腕が血と肉でぐちゃぐちゃになっても、何の意味もなかった。彼は、病んでいた。佳奈が見舞いに来るたび、彼女の冷たい言葉が頭の中にこだまして、まるで屋上から身を投げ出したい衝動に駆られる。もう自分は、重症なんだと分かった。本当は彼女を自由にしてやりたかった。ま
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第400話

私はしばらく時間をかけて、自分を仕事へと引き戻した。また以前のように、飛び回る日々が戻ってきた。この一ヶ月、白核市にまともに足を踏み入れた日は数えるほどしかない。いくつかの案件が順調に裁判に進み、私の個人ブランドも見事に確立された。再び世間の注目を浴びるようになり、「美人公益弁護士」という新たな肩書きまでネットで与えられていた。もちろん、そんな中でも別の声も聞こえてくる。「慎一がいたから、今の成功があるんだろ」とか。でも、そんな人たちは知らない。私は慎一ともう一ヶ月も顔を合わせていないことを。高橋によると、慎一も出張中らしい。世間の人たちが心の中で思い描くコネで美人公益弁護士になった私は、その「大物」とまた離婚しようとしているのだ。私はずっと慎一からの電話を待っていた。彼の「そのうち連絡する」という一言だけで、おとなしく待つしかなかった。冬が過ぎて、春になっても。一つは、本当に彼が消えてしまったように、まったく連絡が来ないこと。もう一つは、彼の携帯から雲香の声を聞きたくなかったから。今、私が霍田家と唯一繋がりを持っているのは、霍田夫人だけだ。以前、卓也に頼んで密かに買わせた霍田グループの株を、ただで彼女に渡す気は毛頭ないし、霍田当主の遺産だって、堂々と渡すわけにもいかない。彼女がこの株を守り切れるかどうかは別として、そもそも雲香が霍田グループにインターンとして入ってからというもの、ろくに落ち着いたことがないし、株主たちだって霍田夫人にこれ以上関わらせたくないはずだ。この理屈は、彼女が霍田当主の傍に何年も付き添ってきた中で、十分に分かっているはず。だからこそ、私には特別に親切にしてくるのだろう。この期間、私もずっと考えていた。霍田夫人に対して、私はどこまで関わるべきなのかと。深い恨みと言えば大げさだが、彼女に傷つけられたことがないかと言われれば、そんなこともない。私は卓也に言った。「せめて一度は彼女に痛い目を見せてやりたい。彼女が大事にしている資産の一部を、罰として吐き出させたい」と。卓也から電話がかかってきた。「霍田夫人、どうしても投資の話に乗ってこないんです。なんか詐欺でも仕掛けられてると思ってるみたいで、警戒心が強すぎます。飼ってから喰うって言いますし、丸め込むにはもう少し時間が必要かもしれません」
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