All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

突然、ベッドの上の女性が、かすかな泣き声を漏らした。遼一は静かにベッドのそばに腰を下ろし、明日香の頬を指先でなぞる。この三ヶ月で、彼女はずいぶんと痩せたようだった。翌朝、海辺にはゆっくりと朝日が昇りはじめていた。明日香の喉は焼けつくように痛み、目が覚めるにつれて意識が少しずつ明瞭になっていく。鼻先に漂うのは、鼻をつくような消毒液のにおい。彼女はぼんやりと黄ばんだ天井を見つめた。私、死んでしまったのだろうか?一時的に記憶が曖昧になっていたが、昨夜の出来事はすぐに思い出された。指先をほんのわずかに動かすと、冷たさが指に伝わった。ベッドの横に吊るされた点滴が目に入り、自分がまだ生きているのだと理解した。「社長、会社の会議は延期しました。会長からは、いつ戻られるのかと問い合わせが来ています。高架橋の道路も、すでに復旧しました」「明日香が目を覚ましたら、俺たちは戻る。あいつらは捕まったのか?」「はい、地元のチンピラどもです。この地域は長らく管理が行き届いておらず、奴らは好き勝手やっていたようです。数名の政府関係者とも連絡を取り、地域の管理体制を強化しました。昨夜逃げた数人もすでに確保されています。処分をどうされますか?」「今、奴らはどこに?」「外に控えております」外での会話が不意に途切れたかと思うと、明日香の耳にドアの開く音が届いた。彼女は咄嗟に目を閉じた。遼一は室内の明日香に一瞥をくれたあと、すぐに振り返ってその場を離れた。診療所の入口には、ずらりと高級車が並んでいた。どれも地元では見かけないような、豪華絢爛な車ばかりだ。桃源村の住人たちは、こんな大掛かりな光景を見たことがなく、何が起こっているのかわからないまま集まり、ただただ眺めていた。診療所の外では、誰も中に入れず、村で唯一の医療施設の前で待たされていた人々が、口々に噂を交わしていた。「この車、一台何十万するんじゃないか?」「いやいや、それ以上だろう。俺なんかテレビでしか見たことねぇぞ」「何があったんだよ......俺の婆さん、薬もらいに来たのによ!」そのとき、バンの中から黒い頭巾を被った五人の男たちが引きずり出された。全員、口をガムテープでふさがれている。すぐに、誰かが彼らの正体に気づいた。「あれ、順子さんとこの息子じゃねぇか!なんで
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第102話

その気迫に気圧された中村はすぐさま頭を下げ、「とんでもございません」と声を震わせた。護衛たちは何人かの男たちを力任せに押さえつけていた。その場に立つ遼一は、まるで地獄から這い出てきた修羅のようだった。全身から放たれる殺気は、周囲の空気までも凍りつかせるほどだ。順子は息子が事件を起こしたと聞くやいなや駆けつけ、地面にねじ伏せられている男たちの姿を目にして叫んだ。「武志!」その声に反応するように、武志は涙を流しながら懇願した。「助けてよ、母ちゃん!助けて......!」順子は駆け寄ろうとしたが、誰かに腕をつかまれて動きを止められ、「やめて!やめてください!」と必死に叫んだ。遼一は、もとより善人などではない。地下の世界では、その冷酷さは悪名高く知れ渡っていた。今回の所業も、彼にとってはほんの軽いお灸に過ぎない。もし昔の彼であれば、あの男たちは今ごろ海に浮かんでいたことだろう。病室の中では、明日香が外から聞こえる悲鳴に、全身の毛が逆立つような恐怖を覚えていた。遼一が手を下している。そう直感でわかっていた。彼は、自分を連れ戻すためだけにここへ来たのだ。だが、明日香には、帰りたくないという強い思いがあった。手の甲に刺さった点滴の針を、自ら引き抜いた。布団をはねのけ、足を床に降ろした瞬間、全身の力が抜けて床に倒れ込み、手をつきながらどうにか立ち上がる。ちょうどその時だった。遼一が病室のドアを開けて、無言のまま入ってきた。明日香は目を大きく見開いた。驚愕と恐怖に支配されたその視線のまま、彼女は再び崩れ落ちた。一瞬、体が硬直し、動くこともできず、その場に座り込んでしまった。ふたりの視線が交差する。その瞬間、明日香は思った。遼一がこれほど恐ろしい姿を見せたのは、これが初めてだと。彼の首元や指には血がこびりついていた。指先から滴った鮮血が床に落ち、まるで赤い花が咲いたように広がっていく。その光景が脳裏に焼き付き、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。凶暴さ、残酷さ、そして冷徹さ。遼一はまるで地獄から這い上がってきた悪鬼のようだった。遼一が一歩、また一歩と近づいてくると、明日香は思わず身を縮こませ、後ずさった。「自分で起きられる......」そう言った明日香の手の甲に遼一の視線が落ちた。無理やり抜いた
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第103話

明日香はそれ以上何も言わず、話題を変えるように、やわらかな声で呟いた。「財布を落としちゃったの」「発車しろ」遼一の短い一言が、明日香の胸を強く締めつけた。できることなら、彼にだけは頼りたくなかった。それでも、口に出さずにはいられなかった。「中にお母さんの写真が入ってて......私にとって、すごく大事なの」「わかった」たったそれだけの返答だったが、明日香にはそれで十分だった。遼一なら、必ず見つけ出してくれる。そう、確信できた。一方その頃、順子は車を追いかけながら、しゃくりあげるように号泣していた。ついさっき、武志たちが警察に連行されていったのだ。周囲の人々は皆、遼一のやり口に戦慄していた。あの男には、ほんとうに血も涙もない。武志など、わずかな時間で半殺しのような有様にされた。地面に広がった血は、何度洗っても完全には落ちないほどだった。騒ぎの中、誰ひとり口を挟もうとする者はいなかった。ろくでなしのために巻き込まれてはたまらない。武志たちのような連中は、どう見ても関わらないほうが賢明な類だった。その場から少し離れたトラクターの陰に、明乃は身を潜めていた。まだ震えが止まらず、膝がガクガクと震えている。そんな彼女の耳に、男たちの声が届いた。緑髪の男が言った。「淳也、あの小娘、いったい何者なんだ?あの連中も......すげえのか?」悠真も続けた。「あの車、どれも何千万はするだろ?淳也、お前何か知ってるんだろ?」淳也は片手をポケットに突っ込んだまま、金属製のライターをくるくると弄び、スイッチを押すと、青と赤の炎が小さく揺れた。「これからは、あの娘には近づくな。特に佐倉遼一って男には、絶対に見つかるな」明日香は一見おとなしく見えるが、月島家に軽々しく手を出すのは、命知らずのすることだ。佐倉遼一――あいつのやり口は、昔から何ひとつ変わってない。「マジで鬼だぜ。骨が折れる音、ここにいても聞こえたもん......うわ、痛そう!」と、緑髪の男が顔をしかめながら歯を剥き出しにした。淳也はライターをぱちんと閉じ、細めた目で震えている人影を見つめながら、一歩、また一歩と近づいていった。明乃はその影に気づき、逃げ出したい衝動に駆られたが、足は鉛のように重く、まったく動かなかった。やがて淳也が手を差し出して言った。
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第104話

揺れ動く車内で、明日香の腹部の傷が再び裂けた。痛い......!明日香は倒れぬよう、必死に堪えていた。意識は朧げに霞み、視界も次第に曇っていく。けれど、彼女は歯を食いしばり、一言も発しなかった。これ以上、遼一に迷惑をかけたくなかったのだ。ふいに、明日香の身体が前のめりに傾いた。目を閉じて休んでいた遼一は、まるでそれを感知したかのように瞬時に目を開き、素早く手を伸ばして明日香を抱きとめた。その瞬間、明日香の身体から異様な熱が伝わってきた。遼一は彼女をしっかりと抱き寄せ、眉根を寄せながら尋ねた。「病院まで、あとどれくらいかかる?」「復旧したばかりの道で、今は渋滞しています。少なくとも......あと一時間はかかるでしょう」珠子が振り返り、目を見開いた。「遼一さん......明日香、すごい出血ですわ!」遼一が彼女に掛けていたスーツの上着を外すと、その下の淡い色の服はすでに血で真紅に染まっていた。けれど、明日香はそれでも、ただの一言すら発していなかった。「路肩に停めろ。中村、救急箱を持ってこい」中村は素早く車を路肩に停車させ、トランクから救急箱を取り出した。中には常備薬が揃っている。遼一は明日香の服のボタンを外し、裾をめくって腹部を覆っていたガーゼを剥がし、血に染まったそれを迷いなく捨てた。そして止血の処置を施した。だが、処置が終わる頃には、明日香はすでに意識を失っていた。このままでは、失血によるショック死すらあり得る。珠子はバックミラーに映るその光景を見つめ、スカートの裾を強く握りしめた。俯いたその目には、言葉にできない感情が揺れていた。高速道路が再開してから、わずか三十分あまり。中村は車を走らせ、静水病院へと急いだ。明日香はそのまま手術室へと運び込まれた。中村は病院に残って、明日香の付き添いをすることになった。一方、遼一は珠子を自宅へ送り届け、会議用の資料を取りに立ち寄った後、会社に戻って会議に出席する予定だった。珠子は部屋の中に立っていた。ちょうど遼一が書斎の休憩室から入浴を終えて現れたところで、濡れた髪の先から水滴がしたたり落ちていた。彼は乾いたタオルで髪を拭いている。黒いシャツに黒のスラックスといういつもの装い。冷ややかで禁欲的な雰囲気を纏い、鋭い眼差しは深い淵のように底が知れず、見る
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第105話

明日香が、ためらいもなく海に飛び込んだ光景。それは確かに、遼一の予想を大きく裏切る出来事だった。まるで別人のように変わってしまった明日香。一体、彼女に何があったのか。何が、彼女をここまで変えてしまったのか。あるいは、彼女は何かを知っているのだろうか?明日香が大谷家に反撃したあの日から、遼一の中に妙な違和感が芽生えていた。もし、明日香が本当に何かを掴んでいるのだとしたら、このまま生かしておくわけにはいかない。ましてや、藤崎家に接触する機会を与えるなど、決して許されることではない。遼一が資料を手にして部屋を出ていくのを見つめながら、珠子は内心で落胆していた。この数日、自分が桃源村で何をしていたのか、遼一は一言も尋ねてくれなかった。まるで、自分の存在など初めからどうでもよかったかのように。そう思わずにはいられなかった。そして、遼一の書斎の机の上に無造作に積まれた数枚の写真を目にした瞬間、珠子の頭は真っ白になった。明日香が月島家を出てから、遼一は彼女を無視していたのではなかった。むしろ、ずっと明日香の行動を監視させていたのだ。もし今回、明日香が事故に遭っていなければ、遼一が自ら桃源村に足を運ぶこともなかったはず。自分は、遼一と幼い頃から共に育ち、数えきれないほどの苦労を共に乗り越えてきた。ふたりは、お互いにとって唯一無二の、家族同然の存在だった。だが、海外で過ごしたこの数年、珠子には、遼一が少しずつ自分から遠ざかっていくように感じられてならなかった。かつてのような温もりは、もうどこにもなかった。遼一を失うことが、怖かった。本当に、怖かった。会社に戻った遼一が会議を終え、会議室を出ると、中村からの電話が入った。中村は、ちょうど費用の精算を終えたところだった。伝票を手にしたまま、報告を始めた。「明日香さんは、すでに輸血を終えており、腹部の傷も無事に縫合されました。他に深刻な内臓損傷はありません。ただ......現在、39.8度の高熱が続いており、最低でも一週間は入院が必要です」報告をしながら、中村は内心、ひたすら願っていた。どうか、自分に明日香の看病をさせることだけはやめてくれ、と。あんな女の世話をするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ。遼一はエレベーターに乗り込み、時計を確認した。午後4時30分。「介護人を手配し
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第106話

遼一の目は、まるで明日香をその場で喰らい尽くしてしまいそうなほど、鋭く熱を帯びていた。明日香はその視線から逃れるように目をそらし、ベッドの端に腰を下ろしてうつむいた。遼一の顔を見る勇気さえ持てず、弱々しい声で口を開いた。「小さい頃から、みんなに守られてばかりだったから......外の世界を見てみたかったの。お兄ちゃん......ごめんなさい......もう二度と勝手に出かけたり、わがまま言ったりしないから」今、遼一と争うことは、もっとも愚かな選択だった。遼一はもう二十六歳。康生も早期の引退を考えており、いずれ会社を本格的に任せる日が来る。そのときこそ、遼一がすべての実権を握るのだ。そうなれば、自分はまさに俎上の魚。逃げ場など、どこにもない。結局のところ、自分が遼一に勝てないことくらい、最初から気づいているべきだった。月島家からは逃れられないのなら、運命を受け入れるしかない。ただ、最後に遼一と結婚さえしなければ、前世のような悲劇は繰り返さずに済む。そう信じたかった。「お父さんは、私に大学を卒業したら結婚してほしいって......そう言ってる。私、承諾するわ。結婚してもいいけど、相手は......自分で決めたいの。お兄ちゃん、私の気持ち......お父さんに伝えてくれない?自分の人生を、不幸にしたくないの」遼一の目に、陰鬱な色が浮かんだ。そしてふっと笑みを漏らし、そっと明日香の頭を撫でる。「明日香、お前はまだ幼い。そんなこと、今は考えなくていい。まずはしっかり怪我を治しなさい。後のことは......後で考えよう」できることなら、本当は遼一の頬を思い切り叩きつけて、「これ、全部あなたのせいじゃない!いい加減私の前でいい人ぶらないで。私の計画、全部台無しにしたくせに!」と叫びたかった。ようやく羽ばたけるようになった雛鳥の羽が、一枚残らずむしり取られてしまったかのような、そんな痛みと喪失感が胸を締めつけていた。そのとき、ドアがノックされた。「遼一様、検査は終わりました。珠子さんは大丈夫です。お支払いいただければ、お帰りいただけます」看護師の横に立つ、青ざめた顔の珠子が目に入った。彼女は眉をひそめ、腹部を押さえながら、苦しげな表情を浮かべていた。明日香は一瞥をくれてすぐに視線をそらした。遼一が病院まで来たのは、珠子の診察に
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第107話

翌日、明日香の体温は下がるどころか、さらに上昇し、危険なほどの高熱に見舞われた。烏の羽のように長く美しいまつ毛には、透き通った涙の雫がかかり、苦しげに揺れていた。熱にうなされる中で彼女は支離滅裂な言葉を口走り、もし介護士が早めに異変に気づいていなければ、そのまま意識を失っていたかもしれなかった。中村が手配した介護士は、ようやくその日の昼過ぎになって到着した。ウメはというと、明日香の世話には慣れており、早朝から着替えを持って駆けつけていた。そして、苦悶に顔を歪める明日香の姿を見て、そっと目元を拭った。あんな場所に行かせなければよかった。ウメの胸には後悔が深く根を下ろしていた。明日香は、幼い頃から苦労を知らずに育った子だ。そんな子にこんな思いをさせてしまった自責の念は、計り知れなかった。解熱の注射が効いたのか、体温はしばらくしてようやく落ち着きを見せた。しかし、それでも明日香に目覚める気配はなかった。ウメは仕事の都合で病院に常駐することができず、やむなく帰宅することに。明日香の食事内容や注意点、口にしてよいもの・悪いものなどを、細かく介護士に伝え残していった。明日香は丸一日と一晩を眠り続け、ようやく薄く目を開けた。30代の女性介護士・圭子(けいこ)が、あっさりとした薬膳粥を用意し、スプーンで一口ずつ、慎重に明日香の口元に運んだ。ところが、数口ほど食べたところで、明日香は突然、胃がひっくり返るような感覚に襲われ、食べたものすべてを嘔吐してしまった。粥は作りたてではあったが、食材にしっかりと火が通っておらず、生煮えのままだった。その半生の味が、彼女の全身に不快感を走らせたのだった。圭子は慌ててゴミ箱を差し出し、背中を軽く叩きながら吐き出させた。その表情には明らかな嫌悪の色が浮かんでいた。明日香が吐き終えると、圭子は水を渡してうがいをさせた。「このお粥、まだ食べますか?」吐き気で胃が痙攣し、顔面蒼白になった明日香は、力なく首を横に振った。「......いいえ。捨ててください」ウメの作る料理以外は、どれだけ高級なものでも結局、口に合わなかった。もしかしたら、胃が贅沢になりすぎてしまったのかもしれない。ふと、ウメの作る羊羹のことが思い浮かんだが、今どこで何をしているのかもわからず、しばらく顔を見ていないことに
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第108話

この知らせは、明日香にとって耐え難い衝撃だった。子宮の奇形が原因で、妊娠できないというのか?前世の明日香は、遼一との間に子どもを授かることを切に願っていた。子どもさえいれば、遼一はもう他の女のもとへは行かないと、そう信じていた。けれど、ようやく授かったあの命を、遼一は手術台に押さえつけてまで、無理やり堕ろさせたのだった。あの頃の明日香は、何も知らなかった。あの交通事故に遭ったことも、その後半月以上も意識が戻らなかったことも。ようやく回復したとき、全身検査を受けた。だが、その検査報告書は、すでに遼一の手に渡っていた。それなのに、なぜ遼一は「健康に異常はなかった」と嘘をついたのか?もし本当のことを話し、治療を受けさせてくれていれば、あの子を失うことはなかったかもしれない。遼一の狙いに気づいた瞬間、明日香の手足から血の気が引き、全身がわなわなと震えだした。葵との結婚は、ただの後継者問題なんかじゃなかった。遼一が本当に欲していたのは、葵との間に子どもをもうけることだったのだ。そして、明日香が胃がんになった原因も、子宮がんの転移によるものだった。それが判明した時点では、すでに末期。手の施しようもなかった。全てが、つじつまを合わせるように繋がっていく。遼一は、最初から何もかも知っていたのだ。明日香ががんに侵され、病院で孤独に苦しみながら死ぬ未来を。そして、その遺体すら引き取る者がいないという最期をも。遼一はただ、明日香が苦しむ姿を、見たかっただけなのだ。だからこそ、前世の結婚記念日だったバレンタインデーに、彼は葵との婚約と、子どもがいることを世間に発表した。すべては、明日香への見せしめ――残酷な復讐だったのだ。遼一、あなたは鬼か......前世の記憶が蘇るたび、明日香の心は、三千もの刃で切り裂かれるような痛みに襲われた。その苦しみは、今生においてさえ癒えることはない。前世の記憶を抱えたまま生きることは、死ぬことよりもはるかに過酷な拷問だった。ふと、廊下を通りかかった看護師が、胸を押さえて苦悶する明日香の異変に気づいた。「明日香さん、大丈夫ですか?どこか、痛みますか?」ひとりきりで呆然とし、涙を流すのは、これで何度目になるだろう。何を聞かれても、明日香はただ首を横に振り、ぽろぽろと涙をこぼすしかなかった。この
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第109話

明日香は、本当にこのまま悲しみに沈んで死んでしまいたいとさえ思った。前世の彼女は愚かだった。遼一の本心を見抜くこともできなかった。だが今は......物事を細かく考えようとするたびに、心には癒えることのない傷がひとつ、またひとつと増えてゆく。涙は絶えることなく頬を伝い落ちるが、明日香は一声も上げて泣かない。無表情のまま、明日香は静かに涙をぬぐった。「大丈夫。さっき、虫が目に入っただけ」看護師は訝しげに明日香を見つめた。病院の病室に虫なんているはずがない。この人、もしかして......もう正気ではないのでは?しかし看護師はそれ以上言葉をかけず、点滴スタンドに目を向けると、まだ半分以上残っていた栄養剤の速度をゆっくりと落とした。そしてドアを閉めるとすぐ、主治医のもとへ向かい、明日香の精神状態について報告した。クラブ・銀ノ蝶――この店は二、三十年前にオープンした老舗のクラブで、元は戦前のカフェーを改装したものだ。今なお、当時の面影を色濃く残すレトロな空間が広がっている。その二階、ボックス席から、一人の長身の男が一階のフロアを見下ろしていた。ステージには、一人の歌姫が懐かしい演歌『夜桜』をしっとりと歌い上げている。紅梅色の正絹の着物に白狐の羽織、波打つ黒髪には真珠の簪がきらりと光る。柔らかなライトに照らされたその姿は、白磁のような滑らかな肌に艶やかな瞳。まるで浮世絵から抜け出したかのような、粋で妖艶な風情だった。その歌い手は、ほかならぬ江口だった。同じボックス席のソファでは、新垣哲朗(あらがきてつろう)が、派手な化粧と艶やかな着物を纏った二人のキャバ嬢を左右に抱き、ピンクのシャツのボタンを数個外して胸元をあらわにしていた。そこには意味深な口紅の跡――女たちとの戯れの証が残っていた。「俺が手を下さなくても、あんたの彼女、もうすぐ壊れそうだぞ。ははっ......お前、本当に少しも心が痛まないのか?病院では俺の部下がずっと張り付いてるが、あの子、一人きりで病室に籠っては、こっそり涙を拭いてるんだぜ。見てるだけで、こっちの胸まで張り裂けそうになるってのに......無関心でいられるのは、お前くらいだろう!」哲朗は、美女の手から差し出された葡萄をひと粒口に運び、唇の端を吊り上げて笑った。「ああ、そうか。忘れてたよ。お前には最
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第110話

「あの薬は、お前が渡せと言ったんだろう?目的はもう果たしたじゃないか。なのに、なぜそんな悲しい顔をしている?明日香を打ちのめし、康生が自分の娘を地獄に突き落とすさまを見届ける......それはお前の計画の一環だったはずだろう?もし、あの子とやりたいなら......先に譲ってやってもいいぞ」哲は唇を尖らせながら、ふざけた口調でそう言い放った。「気にならないなら、いっそ二人で一緒にいただくのも悪くない。長年の兄弟だろ?女一人、共有するくらい、どうってことはない。こうも長い間、お前が女に手を出さないのを見てるとさ、本気で不能なんじゃないかって疑いたくもなるよ!」その言葉に、遼一の瞳が凍てつくように冷たく光った。底知れぬ闇が、瞳の奥に静かに広がっていた。「......もう一言でも口にしてみろ。お前の口を永遠に閉ざしてやっても構わない」哲の切れ長の目にほんのり赤みが差し、血のように濃い唇が妖しく歪んだ。彼は肩を震わせて笑い声を上げた。「焦ってるのか?珍しいな、遼一。こんなお前を見るのは初めてだ」「......」明日香のことを思うと、遼一の胸に、手のひらから砂が零れ落ちるような虚無感が広がった。どれだけ手を伸ばしても、決して掴めない。心のどこかにぽっかりと空いた穴。その埋め方さえも、もうわからなかった。何かが、決定的に足りない気がしていた。「もう十年も経ってるんだ。少しくらい愛着が湧いてきても、おかしくないよな?なあ、賭けをしようじゃないか。お前が明日香を愛しているかどうかって賭けだ。賭け金は――銀ノ蝶の株式10%。お前が勝てば、俺はお前の部下になってやる。好きに使えばいい」遼一はソファの上に脱ぎ置かれたスーツジャケットを手に取り、骨ばった指で丁寧に襟元のボタンを留めた。「......お前、随分と暇らしいな」「どうした?怖気づいたか?」上着を着終えた遼一は、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで哲を睨みつけた。「お前と明日香......どちらに生きる価値があると思う?明日香に手を出したいなら、止めはしない。ただし、足をすくうような真似はするな。康生に嗅ぎつけられたら、俺とお前、どちらが先に地獄を見ることになるか、よく考えろ」そう言い残し、遼一は背を向けて去っていった。遼一にとって、踏み出す一歩一
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