All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

もしかしたら、明日香はどこかに隠れているのかもしれない――そんな淡い希望が、ふと胸をよぎった。だが次の瞬間、珠子が大型トラックの前方に立つ人影を指さして声を上げた。「遼一さん、あれ......明日香じゃない?」遼一の手がハンドルを握る力を緩め、車は徐々に速度を落とした。そのときだった。明日香が、見覚えのない車に乗り込もうとしている姿が、彼の目に飛び込んできた。「えっ、明日香が知らない人と一緒にどこかへ行っちゃうの?何かあったんじゃない?遼一さん、警察に連絡した方がいいかも......」珠子の声には明らかな動揺が滲んでいた。だが、遼一は険しい顔をしたまま、そっと視線を逸らした。「構わない。放っておけ」「本当に......それでいいの?」珠子が不安げに尋ねても、遼一は一言も発さず、ただ黙って運転に集中した。その間にも大型トラックは猛スピードで走り去り、あっという間に彼らの視界から消えていった。アクセルを強く踏み込んだせいか、車のスピードが上がっていくのを珠子ははっきり感じ取った。心臓がざわつく。でも、彼があの車を追っているのだと信じたかった。我慢するしかなかった。やがて前方の信号が赤に変わる。到着した瞬間だった。遼一はその赤信号を無視し、強引に曲がり角を一つ越えたが、もうその車の姿はどこにもなかった。「遼一さん、見失っちゃった......どうしよう?」焦ったように問いかけた珠子が隣を見やると、遼一の瞳には冷たい闇が宿っていた。その目に射す陰の色に、思わず背筋が凍る。明日香、今度はどんな手を使ってくるつもりだ?一方、明日香は助手席からバックミラーをのぞき込み、遼一の車が遠ざかっていくのを確認してほっと息をついた。今回こそ、伝わってほしい。私が「離れる」と言ったのは、最初から嘘じゃなかった。珠子のこともあった。あれで十分思い知らされた。かつての縁を考えて、これ以上彼女を巻き込まないでほしい――遼一には。もう一度殴られたら、さすがに、痛いし......運転席には、長距離輸送を生業とするドライバーが座っていた。助手席にはその奥さんも同乗している。どちらも物腰柔らかで、親切な人たちだった。「お父さんとケンカしちゃって......お母さんを探しに行くんです」明日香がそう説明すると、二
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第82話

ここはウメが借りている部屋だった。月々たった三千円ちょっとという破格の安さ。それでいて南向きで陽当たりも悪くない。この場所がなかったら、今ごろ本当に行き場を失っていたかもしれない。来たのはこれが二度目だ。最初は、遼一が珠子のために内緒で可愛いドレスを買っていたときだった。でも、あの人は、決して自分のために何かを買ってくれることはなかった。それを見つけて思わず駄々をこねたら、遼一に怒鳴られた。あんなふうに怒鳴られたのは初めてだった。明日香は、屈辱に震えて家を飛び出した。あれが、最初の家出だった。けれども彼は、追いかけてもこなければ、慰めてもくれなかった。ただ、珠子のドレスを切ったから怒っていた。それだけのことだった。帰り道、膨れっ面のまま歩く彼女を、ウメがこの部屋へと連れてきてくれた。けれどもそのときは、この場所の薄汚れた雰囲気に耐えられず、結局、おとなしく家へ戻った。やはり、お嬢様育ちだったのだ。ウメが教えてくれなければ、この部屋の存在すら思い出せなかっただろう。でも今は、これで良かったのかもしれない。学歴なんてなくても、アルバイトでもすれば生きていける。ちゃんと、自分の足で立っていける。部屋の机にはうっすらと埃が積もっていた。明日香は水を汲んでくると、簡単に掃除を済ませ、シーツを替え、バルコニーの花に水をやった。ひと通り終えると、ウメの服を一着持ってトイレへ向かい、シャワーを浴びた。傷に水がかかると、「ひっ」と息を呑んだ。できるだけ傷に触れないように気をつけながら、冷たい水で我慢して身体を洗った。お湯はなかった。それから、少し黄ばんでいるけれど清潔なタオルで、濡れた髪を丁寧に拭いた。月島の家を出てから、明日香は初めてと言っていいほどの自由を感じていた。胸の奥がすうっと軽くなっていた。ベッドに身を投げるようにして横になると、知らぬ間に眠ってしまった。目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。半ば夢の中で、お腹がぐぅっと鳴った。それでようやく起き上がって、自分で麺を茹でることにした。他におかずはなかったので、醤油だけ垂らして食べた。こんな境遇にまで落ちぶれても、なぜか惨めさは感じなかった。食べられるだけで、まだ幸せだと思えた。前世では、遼一に帝都から追い出されたあと、すぐに末期がんと診断さ
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第83話

「やっぱりウメさんが一番!」明日香はそう言って、嬉しそうに駆け寄ると、勢いよくウメを抱きしめた。彼女が手にした保温弁当箱を、待ちきれないとばかりに受け取り、小さなテーブルへと腰を下ろした。「どうしてわざわざ来たんですか?旦那様も遼一様も心配してるわよ。今夜を越えたら、明日には帰りなさい」「何を言っても無駄よ。私は帰らない。どうせ、あの人たちにとって、私がいようがいまいが大して変わらないんだから。心配なんて、してるわけないじゃない」ウメはふと、ベランダのコンロに目を向けた。使い終わった鍋と、開け放しの醤油がそこに置かれている。明日香は、自分のいない間、こんなもので食事を済ませていたのだ。あのお嬢様が、こんな目に遭うなんて、胸が締めつけられた。小さい頃から見守ってきた、まるで我が子のような存在。放ってはおけなかった。「明日香さん、お昼ごはん......これだけだったんですか?」明日香は甘酢肉を大きく口に運びながら、もぐもぐと頷いた。「家に野菜がなかったから、適当に麺を茹でてさ。醤油を入れすぎて、ちょっとしょっぱくなっちゃった。それと......ねぇウメさん、この醤油、腐ってない?食べたとき、なんか変な味がした気がするんだけど」呆れてウメは近づくと、指先で明日香の額を軽く小突いた。「消費期限ぐらい確認してくださいよ。お腹壊したらどうするんですか。もう、食べちゃダメですよ。明日、家まで送ってあげますから、ちゃんと旦那様に謝って。この件は......水に流しましょう」明日香の手が、箸を持ったまま、ふと止まった。「帰らないって言ったでしょ?ウメさんまで私を追い出そうとするなら、今すぐここを出て行くから」そう言って箸を置くと、ご飯にも手をつけず、立ち上がって玄関の方へ向かおうとした。慌ててウメが腕を掴んだ。「この子ったら......家があるのに帰らないだなんて、このボロアパートに一生住むつもりですか?」「だめ?」「だって、ここはボロくて、汚いじゃないですか。明日香さん、お願い......一緒に帰りましょう?」「ボロアパートの何が悪いの?ウメさんまで私を追い出すなら、本当に行くところがなくなっちゃう。家に帰りたくないの。お母さんが亡くなってから、あそこはもう、私の家じゃないんだから......だから、ウ
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第84話

ウメが台所で料理をしている。その背後で、明日香は細めた目で壁の時計をちらりと見た。まだ朝の六時過ぎ。外はうっすらと明るくなってきたばかりだった。「こんなに早く起きてどうしたの?もう少し寝てなさいよ。ご飯、すぐできるから」ウメの腰に後ろからそっと抱きついて、明日香はその肩に顎をのせた。目元はまだ眠気が残っていて、まるで目覚めたばかりの怠け者の子猫のよう。ふわふわとしたその雰囲気がどこか愛らしく、額には一本だけ跳ねた髪がぴょこんと立っていた。「何作ってるの?」「油煙だらけですよ。早く出て行きなさい、汚れちゃいますよ。それに、洗面用具は全部買ってきたんだから、使ってちょうだい。この家はあなたのところと違って、中古品ばっかりだけど......我慢してくださいね。今夜には必要なもの、全部揃えて持ってきますから」「中古品だって何が悪いの?ウメが買ってくれたものなら、なんでも好きだよ」「もう、おしゃべりはいいから。支度しなさい。ご飯はこの料理が終わったらすぐよ」「はーい」明日香が着ていたのは、ウメのお古のパジャマだった。デザインはずいぶん古くて、ひと目で年配向けだとわかる。けれど、彼女が身にまとうと、なぜか違った趣が生まれていた。足元には透明なサンダルをつっかけて、ペタペタと音を立てながら洗面所へ向かった。洗顔を終えたころ、ウメは朝食を済ませる間もなく、そそくさと出かけていった。部屋には明日香ひとりだけが残され、静かな食卓でぽつんと食事をとった。出かける前、ウメは明日香に「ちゃんと学校に行くように」と何度も念を押し、遅刻しないよう釘を刺していった。だが、明日香には学校に戻るつもりなどなかった。たとえ退学になったとしても、気にする気はなかった。朝食は少しだけ口にして、残りは冷蔵庫にしまっておいた。あとで近所を歩いて回って、何か必要なものがないか見ておこう。ウメが出がけに六千円を手渡してくれたのだ。「これで必要なものを買いなさい」と。このお金、無駄にはしない。外出の支度を終え、明日香は肩にキャンバスバッグを背負い、長い髪をクリップで留めた。その手には一本のキュウリ。着ている服も、やはりウメのお古だった。これでは、かつてのお嬢様らしさなど微塵もなかった。「おや、明日香ちゃん、どこへ行くの?」階段を降りようとして
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第85話

このあたりは、確かに少しばかり雑然としていると言わざるを得ない。とはいえ、混雑というほどではなく、単に帝都の中心部ほど衛生環境が整っていないだけだ。周囲の建物もどこか手つかずのままで、目に入るのは古びた団地ばかり。通り沿いには屋台がずらりと並び、どこか懐かしい空気が漂っていた。一通り歩き回ってみて、まず驚いたのは物価の安さだった。そして、細い路地を抜けたその先には、突然ひらけたように広大な海が姿を現す。ここは帝都の最果てにあたり、隣町の海市までは車でおよそ一時間ほどの距離にある。「わぁ......!」明日香は弾かれるように砂浜へと駆け出し、目を閉じて大きく深呼吸をした。サンダルを脱ぎ捨てて素足で砂の感触を楽しむ。海水は少し冷たかったが、頭上から降り注ぐ陽射しが心地よく、それだけで心が軽くなった気がした。裸足のまま浜辺を歩きながら、途中で色とりどりのきれいな貝殻をいくつも拾った。そのとき、不意に頭上から荒々しい声が飛んできた。「おい、てめぇ誰だよ?ここが誰のシマか知らねぇのか?」体を起こして声の主を見ると、編み込みヘアにスモーキーメイクの女が、こちらに威圧的な足取りで近づいてくる。腕には大胆な刺青。どう見てもただ者ではない、手強そうな姐御だった。明日香が戸惑って言葉を探していると、女はすぐさま距離を詰めてきて、彼女の手から持ち物を乱暴に奪い取った。「どこの田舎もんだ?見たことねぇ顔だな。カバンの中、見せてみろ。全部出しな!」「私......」「『私』じゃねぇよ!」女は明日香の布製バッグを力ずくでひったくり、中身を地面にぶちまけた。「チッ、使えねぇもんばっかじゃねぇか。やっぱ田舎もんは田舎もんだな」この女の名は、葉月真帆(はつき まほ)。さっきまでトランプで負けて、男どもに海産物を拾ってこいと命じられたところだった。女ひとりにそんな雑用を押しつけるとは、まったくもって恥知らずな連中だ。そもそも機嫌が悪かったところに、ちょうど目の前にストレス発散できそうな相手が現れた。それが明日香だった。明日香は感情の読めない表情で地面に散らばったバッグを拾い集めると、争うつもりもなくその場を立ち去ろうとする。だが、真帆はそれを許そうとはしなかった。「おい、誰が行っていいっつったよ?」この口調
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第86話

「葉月真帆、田中雄大(たなかゆうだい)......お前たち、また騒ぎを起こしてるのか?」遠くから、どこか愛嬌のある小太りの中年男が現れた。足元はビーチサンダル、手には一本の棒を持っている。その男は真っ直ぐ明日香のもとへと歩み寄り、頭からつま先まで彼女を一瞥し、心配そうな面持ちで尋ねた。「お嬢ちゃん、あいつらに、何かされたか?」明日香は小さく首を振った。「......いいえ」その傍らで、真帆は露骨に不快そうな顔を浮かべた。男はどうやら明日香のことを知っているようだった。「君が......ウメさんが連れてきた子だな?名前は......あやか、だったか?」「明日香です」「ああ、そうだそうだ......明日香ちゃん。今日な、ウメさんが出かける時に頼まれてたんだよ。君のこと、しっかり見ててくれってな。さっきまで忙しくて、すっかり忘れてたよ。まあ安心しな、俺がいる限り、こいつらみたいなガキは手出しできやしない」男はくるりと真帆たちのほうを向き直り、声を張り上げた。「おい真帆ちゃん、お前みたいな女の子が、毎日そんな格好でどうする!それにな、お前ら、学校サボってばっかじゃねえか。とっとと帰れ、ぶっ飛ばされたいのか」真帆はげんなりしたようにため息をつき、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。「はぁ?デブおやじ、人が話してんのに割って入ってくんじゃねーよ。余計なお世話だしさ、いい年してババアに惚れてんじゃねーよ、ったく」「なんだと?もう一度言ってみろ。今すぐお前の親父に連絡して、しっかり躾けてもらうからな!」「ふん、私が何しようが、お前には関係ねーだろ。クソジジイ......ほんと運が悪いったらないわ」真帆は苛立ちを隠そうともせず、きっと明日香を睨みつけた。「このガキが......!」「やってらんねぇ。雄大、物拾って、場所変えよう」雄大は地面に投げ捨てられていた荷物を拾い上げ、七、八人の手下を引き連れて、姉貴分の真帆とともにその場を後にした。「ありがとうございました!」明日香はぺこりと頭を下げた。「おじさん、あなたがいなかったら、どうなってたか......本当に助かりました」「いやいや、大したことじゃないさ。遠慮するなよ。俺とウメさんとは長い付き合いでな。お嬢ちゃん、ここにはもう来ちゃいかん。あ
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第87話

けれど、彼らもまた、この居酒屋に現れた。やっぱり、そういうことか。それから三十秒も経たぬうちに、個室の扉が勢いよく開き、一団がぞろぞろと入り込んできた。「おっ、なにいいもん食ってんだよ!俺たちにはこんな贅沢、普段ねえっつーのに。デブオヤジのくせに、えこひいきしやがって」「腹減って死にそうだわ。なあ、大石、箸と茶碗持ってこい」「......自分の手は飾りか?」「お嬢さん、ちょっと詰めてくれよ。狭くて入れねえんだわ」「......」明日香は黙って椅子を引き、静かに道を譲った。真帆は彼女の正面にドカッと腰を下ろすと、行儀悪く片足を椅子に乗せて、目の前の酢豚をぐるりと回して見定め、そのままがつがつと食べ始めた。「ビール来たぞ」痩せた男がビールケースを抱えて入ってきて、足で器用に扉を閉めた。もともと広々としていたはずの個室は、一瞬で窮屈な空間へと変貌した。「このクソ野郎、普段は私に料理なんか作りやがらねえくせに、こいつには作るのかよ!どんだけ面の皮厚いんだ!」真帆がふいに明日香を見据えた。「なあ、田舎もん。まだ聞いてなかったな、どこから来た?よその土地か?」金髪の男が割って入った。「真帆さん、その子、なんかおとなしい感じだし......脅すのやめとけよ」「気に入ったのか?かわいくたって、お前なんかにゃ見向きもしねえよ。かばってんじゃねえ、黙ってろ」明日香は水差しに手を伸ばし、自分で水を注いでからひと口含み、音も立てずにグラスを置いた。「もう食べ終わりました。ごゆっくりどうぞ」立ち上がろうとしたそのとき、片手が肩を押さえた。「急ぐなって。まだ俺たちは食ってねえんだからさ。少し話そうぜ?」不思議と、明日香はこの人たちに恐怖を覚えなかった。真帆たちは本当に悪い人たちなのだろうか?いや、違う。ただ、近づきにくそうに見えるだけ。本当の悪というのは、こういうものじゃない。真帆たちは、確かに粗野ではあるが、明日香の心を震わせるほどの存在ではなかった。むしろ、今までに感じたことのない、得体の知れない感覚だけが心に残った。「......いいよ。話したいことって、なに?」明日香の両隣には、金髪と緑髪の男が座り、遠慮の欠片もなく彼女を見つめながら、にやにやと笑っていた。「真帆さん、こ
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第88話

「すみません。ごゆっくりどうぞ。私はちょっと用事があるので、先に失礼します」明日香は、ひとりで行動することがすっかり身についていた。そもそも、いわゆる「友達」という存在を、心から信じたことがない。彼女が立ち上がっても、今度は誰も引き留めようとはしなかった。個室を出ると、光宏がちょうどエプロンの紐を巻きながら、料理の皿を運んできた。「お嬢ちゃん、もう食べ終わったのか? あの連中、また何かちょっかい出してなかったか?」「いいえ」「悪気があるわけじゃないんだ、あいつら。ちょっとふざけてるだけさ」「わかってます、東さん。これから買い物があるので、先に帰りますね」「ああ、明日も食べにおいで。俺のおごりだ、腹いっぱい食えよ」明日香は小さく微笑んで、こくりと頷いた。「はい」彼女はその足で、下着や着替え、靴をいくつか買いそろえた。思ったほど物価も高くない。この場所で、しばらく暮らしていくための準備を、淡々と整えたのだった。そして、あっという間に三ヶ月が過ぎた。今、明日香は光宏の食堂でウェイトレスとして働いている。日給は五千円、まかない付き。待遇としては、悪くない。昼間の客はまばらだが、夜になればちょっとした宵夜目当ての客で忙しくなる。最初は立ち仕事で足が痛み、何度も膝に手をつきそうになったが、やがて慣れてきた。仕事は主にテーブルを片付ける程度で、特別な技術が求められるわけでもない。それらの日々は、彼女にとってはめずらしく、穏やかで、どこか自由を感じられる時間だった。誰からも管理されず、束縛されず、ふかふかのベッドもなければ、高級な服もない。けれど、不思議と心が落ち着いていた。明日香は、次第に普通の人間の生活を手にしつつあった。もともと白く細かった手にはタコができ、長時間、水に浸して皿を洗ったせいで皮が剥け、見た目も荒れてきた。けれど、それを気に病むことはなかった。ウメは、明日香がこの食堂で働いていることを知らない。ここしばらく帰ってこないのは、おそらく珠子の世話に手を取られているのだろう。それでよかった。もしウメがいたら、きっとこんな仕事はさせてくれなかったはずだ。今のうちに少しでもお金を貯めて、将来に備えたい。それが今の明日香の願いだった。夜、八時半。客足も一段落し、明日香はテーブ
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第89話

その男──山口武志(やまぐち たけし)は、大声で明日香に声をかけた。「おい、明日香ちゃん!こっち来て注文取れよ!」明日香は洗い物をしながらも、聞こえなかったふりをした。ふと視線を向けると、自分と同じくらいの年頃の少女が、薄笑いを浮かべているのが目に入った。彼女の名は佐藤明乃(さとう あきの)。ここで同じくアルバイトをしている。あからさまに他人の不幸を楽しんでいるあの様子を見て、明日香はそっと背を向け、その場を離れようとした。「おい、注文取れって言ってんだろ!聞こえねえのか!」声がさらに荒々しくなった。明日香はため息をつくように皿を置き、丁寧に手を洗ってから、メニューを手に持って席へと向かった。「ご注文をお伺いいたします」ペンとメモ帳を手に、静かに頭を下げた。五人の男たちの視線が一斉に彼女へと集まった。その目は飢えた獣のようにギラつき、彼女の身体を舐めまわすように品定めしていた。下卑た欲望がむき出しで、空気までも汚染しているかのような不快さが漂う。その中の一人がニヤリと笑った。「明日香ちゃん、金に困ってんのか?困ってたら言えよ、兄ちゃん、金ならたんまりあるからさ」そう言って、男はポケットから財布を取り出し、テーブルの上にドサリと置いた。そして中から六千円の札束を抜き出すと、無遠慮に彼女の前に差し出した。「今日、兄ちゃんと遊びに行けば、この六千円はお前のもんだぞ」とたんに、甲高い笑い声が店内に響き渡った。笑ったのは明乃だった。明日香はわずかに眉を動かしたが、声色は変えず、淡々と口を開いた。「申し訳ありません。私は臨時のアルバイトですので、そのようなサービスは提供しておりません。ご注文はございますか?なければ他の作業に戻ります」「急ぐなよ。今、店には俺たちしか客いねえんだしさ。こっちに座って、兄ちゃんたちとゆっくり話そうや。酒でも飲みながらさ」もう一人の太った男が、椅子をずずっと引き寄せ、明日香の隣にそれを置いた。無言のまま、明日香は背を向け、足早にその場を離れようとした。すると突然、テーブルを激しく叩く音が響いた。「このクソビッチが!何偉そうにしてやがんだよ!本当に真面目な学生なら、こんなとこで働いてねえだろ!」背後に怒声が響く中、明日香はふいに足を止めた。ゆっくりとポケット
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第90話

男はためらうことなく明日香の胸元に手を伸ばし、シャツのボタンが弾け飛ぶ音とともに、白いタンクトップが露わになった。刹那、周囲の視線が一斉に彼女に注がれ、その光に一瞬、場の空気が凍りついた。明日香は必死に胸元をかき抱くと、目の前の男の手の甲に、全力で噛みついた。「っ......!」男は痛みに顔をしかめ、思わず手を引っ込めた。その隙に明日香は駆け出した。街灯が頼りなく照らす薄暗い路地に飛び出すと、前方から歩いてくる人物の姿が目に飛び込んできた。黒のTシャツに銀のペンダント、ポケットに手を突っ込んで煙草を咥えている。それは、淳也だった。そしてその隣には、珠子と悠真の姿もあった。どうして珠子が......?疑問が脳裏をかすめたが、それ以上に「見られたくない」という思いが勝った。幸いにも、淳也は珠子と話していて、こちらには気づいていないようだった。明日香はそのまま彼らとは反対方向、自宅へ向かって走り去った。「クソ女、逃げ足だけは速ぇな......」背後から聞こえた罵声に足を止める余裕などなく、全力で家へと駆け込んだ。玄関のドアにもたれかかると、心臓が口から飛び出しそうなほど激しく鼓動していた。膝が震え、全身が小刻みに震えていた。そのまま床に崩れ落ち、どれほどの時間が過ぎたのかもわからぬまま、ようやく気持ちが落ち着いた頃、明日香は立ち上がってシャワーを浴びた。深夜、時計の針が12時を回った頃、ベッドに横たわった明日香は、浅い眠りの中で目を覚ました。夢を見た。あの路地裏で、不良たちに弄ばれていた悪夢を。必死に忘れようとしてきたはずの記憶が、波のように押し寄せ、脳裏に何度も繰り返し浮かび上がる。蘇る映像は、あまりに鮮明だった。部屋の明かりは消えていて、明日香は布団に身を丸め、毛布を胸に抱きしめる。その胸が締めつけられるような感覚に、息が詰まる。あのときの恐怖が、また追ってくる。明日香は、ウメが届けてくれた携帯電話を初めて手に取り、電源を入れた。画面には次々とメッセージが表示されていく。すべて、樹からのものだった。13日間で、実に100通以上。その大半が「何してる?」「どこにいるの?」「返事がないけど大丈夫?」といった、彼の日常と彼女への心配を綴った短い文面だった。最後の一通には、こう書かれて
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