All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

「あんた、樹を引きつけながら、淳也ともいい感じでやってるつもり?明日香、心の底で何を考えてるのか、はっきり言ってみなよ」遥の目には、自分がそんな風に映っていたのか。明日香はふと、樹のことを思い出した。昨日、淳也と一緒にいたことを知った時、彼もまた同じように思ったのかもしれない。二股をかけている、と。明日香は静かな目で遥と見つめ合い、淡々と告げた。「聞かれたから、今日ははっきり言っておく。私が誰と付き合おうと、何をしようと、それは私の自由。他人が口を出すことじゃないわ」「樹が助けてくれたことは知ってるし、感謝もしてる。でも、だからといって......」一度言葉を切り、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。「好意を持ってくれてるからって、あなたたちの思い通りに淳也と距離を取らなきゃいけない理由なんてない。これはあなたたち家族の問題で、私には関係ない。もしも誰かに『選べ』って迫られても、私の答えは変わらない」それは、淳也に借りがあるからというだけではない。たとえ何の貸し借りがなくても、誰かが自分の人間関係に干渉する権利なんてなかった。過去の噂を除けば、淳也は決して悪い人ではなかった。校内の野良猫に餌をやり、食堂のおばさんには必ず「ありがとう」と言う。露店のおばあさんの台車が泥にはまった時は黙って押して助け、礼も求めずそのまま去っていく......そんな姿を何度も見てきた。噂ほど粗暴な人間じゃない。「この話、誰に伝えても構わないわ」明日香は落ち着いた声で言った。「私には私の人生設計があるの。誰にも邪魔させない。今の目標は、帝都大学に合格すること。それだけ。誰かを好きになるつもりもないし、恋愛に時間を費やす気もない。樹のことは、いずれ私から話す。今日の食事は、遼一さんと二人でどうぞ。私は遠慮するから」今回は、遥は彼女を引き止めようとはしなかった。階段を下りると、淳也が校舎の出入口のドア枠にもたれ、うつむき加減で足元の靴先を蹴っていた。「行こ」明日香が小さく声をかけると、彼は何も言わず、そのまま後ろについてきた。夜7時30分。遥はむっつりとした顔で遼一の車の助手席に座っていた。考えれば考えるほど、腹が立って仕方がなかった。気づけば、堰を切ったように口を開いていた。「本気で放っておくつもり?明日香があんな
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第242話

図書館で、明日香は自作の数学テスト用紙を淳也に差し出した。「本を見ちゃダメ。30分以内に解いて」用紙は片面印刷で、すべて基礎的な問題ばかりだった。その間、明日香は英単語を黙々と覚え、さらに読解問題を二つ解いた。淳也にプレッシャーを与えないよう、意識して彼の様子を見ないようにしていた。30分が経過すると、明日香は答案をさっと回収した。その答案には、基本中の基本の公式さえ間違って書かれており、採点結果は20点。「解答」という二文字が書いてくれたことと、用紙がきれいだったことを加味した「情け点」で、実質的にはもっと低かった。思わず、明日香はため息を漏らした。「淳也......この二年間、いったい何してたの?」「遊んでたよ」淳也はペンを投げ出し、椅子に深くもたれかかって笑った。足を組み、肩を揺らしている。「遊んでたって......授業くらいは多少聞いてたんじゃないの? この問題、数学の教科書の最初に出てくる例題そのままよ。まさか教科書すら開いてないなんてことは......」「二年間もクラスメートだったのに、まだ俺のこと理解してないんだ?」淳也はいたずらっぽく眉を上げた。明日香は彼の額を指でつつこうとしたが、ふと彼と目が合い、そのまま手を止めた。表情が一瞬、揺れる。淳也は笑みを和らげ、人差し指でそっと彼女の指先に触れた。「まだ半年ある。間に合うって。君が教えてくれたら、できるだけ覚えるから」二年前の記憶は、惨めだった断片を除けば、残りの楽しかった時間もすでに輪郭が曖昧になっていた。明日香は俯き、表情を隠した。今は過去を引きずっている場合じゃない。試験が終われば、もう二人の交わりは消えていくだろう。「そんな簡単なわけないでしょ」明日香は感情を押し殺し、冷たく言った。「こんな問題すら解けないんだから、帝都大学なんてとても無理。二流大学に入れたら御の字よ」淳也の勉強に付き合うため、趣味のクラスにも通えず、もし康生に知られればまた叱られる。この数年、康生は正月に帰ってきた試しがなく、来たとしても祖母を連れて二日か三日だけ顔を見せる程度だった。家の改装がまだ終わっていなければ、小言を免れるかもしれない。「そんなに俺のこと信用できない?」「当然でしょ?」明日香はペンを取り出し、手元のノート
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第243話

その冷たい空気は、遼一の体からじわじわと滲み出ていた。遥は淳也を軽蔑するように一瞥すると、悔しさを押し殺しながらも、怒りに任せて言い放った。「補習って言ってたけど、どう見てもデートじゃない。明日香、まさかこの野良猫みたいな男のこと、本気で好きになったの?私の言葉、どうして無視するの?」遥の視線が机の上の答案用紙に落ちた瞬間、嘲るような笑い声が漏れた。「20点?やっぱり無能ね。家でも学校でも、淳也、お前は一生お兄ちゃんの踏み台にしかなれない。ろくでなしのままよ」淳也はポケットに手を突っ込み、指先でライターを弄びながら、唇をゆがめて冷たく笑った。「少なくとも俺は、人の顔を伺って擦り寄ったり、媚を売るような真似はしない。そんな生き方に価値なんて感じないからな」「生意気言わないで!」遥は烈火のごとく淳也に詰め寄り、振り上げた手で思いきり頬を打ちつけた。パシッという乾いた音が図書館内に響き、静かに勉強していた数人が驚いて振り返った。遥は上から目線のまま、氷のような眼差しで淳也を見下ろした。「あんた、自分が誰だかわかってるの?私にそんな口を利ける立場じゃないのよ。下品な女が産んだ、身の程知らずの落とし子が!」「彼は誰かの代わりじゃない。ただの淳也なの!」明日香は迷いなく一歩前に出て、眉をひそめながら淳也の腕を引き、自分の後ろに庇った。「ここは図書館よ。あなたたちがどれだけ騒いでるか、自覚ある?私や周囲の迷惑になるから、今すぐ出て行って!」「そんなに彼のことが好きなの?守ってあげたいの?」遥は金切り声を上げた。「淳也、いったい何をしたの?明日香にどんな魔法をかけたのよ?」「私は自分の意志で彼を守りたいの!」明日香は彼の袖を握りしめ、手の震えを必死に堪えていた。それは、彼女が初めて「誰かのために」立ち上がった瞬間だった。「私や藤崎家全体を敵に回すことになるってわかってるの?月島家は遼一さんの支援がなければ、とうに潰れてたのよ!お嬢様でいられるのも、誰のおかげだと思ってるの?」しかし明日香の声は、静かに、そして恐ろしいほど冷静だった。「私が死にそうになったとき、助けてくれたのは淳也。それだけで十分な理由になるでしょ?」遥の表情が凍りついた。そのまま明日香は、無表情のまま口を開いた。皆の前で、あの血
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第244話

どれだけの人があの言葉を聞いていたのかは分からない。けれど、明日香にとってはどうでもいいことだった。淳也がどんな人生を歩んできたのか、すべてを理解しているわけではない。でも、今この瞬間、自分がどちらの側に立つべきかははっきりしていた。命を懸けて助けてくれた人が、目の前であんなふうに殴られた。それも、多くの人の前で。淳也は、いつだって誇り高い人だったのに。明日香は素早く本を鞄にしまい、淳也の手を取って図書館を出た。背後から遥の叫び声が響いていたが、二人とも振り返ることはなかった。「......騒ぎは、もう終わったか?」遼一の声が低く響いた瞬間、図書館の空気が凍りついた。彼の目に宿る冷気が、辺りのぬるい空気を一瞬で締め上げていく。その気配に、遥は理由もなく恐怖を感じた。こんな遼一は、今まで見たことがなかった。「な、何......?どういう意味......?」返事はなかった。遼一は無言のまま、速足で図書館を後にした。遥は慌てて追いすがり、小走りでようやく彼の横に並んだ。車に乗り込むその姿を見て、置いていかれるのが怖くて、彼女も慌てて助手席に滑り込んだ。シートベルトを締めた後、遼一はしばらくエンジンもかけず、俯いたまま何かを考えていた。「私は...... あなたのために、明日香を連れ戻すために来たのよ。うまくいかなかったからって、私に当たらないでよ......」遥の声には苛立ちと悔しさが滲んでいた。こんなに低姿勢な物言いは、彼女にしては珍しい。それほどまでに、遼一の前では感情の制御がうまくできなくなるのだった。「ねえ......さっき明日香が言ってたこと、あれって......全部本当なの?」視線をそっと横にやると、遼一の整った横顔が、沈黙の中に浮かんでいた。「......答えが、欲しいのか?」突然、彼がこちらを見た。目が合った瞬間、遥の心臓が跳ねた。彼の低い声の響きに一瞬で呑まれ、鼓動が乱れるのを感じた。慌てて首を振り、目を逸らした。「ううん......知りたくない。あなたの家のことだし、私には関係ないわ。もう遅いし、送って。すごく眠いの......」そう言ってあくびを隠すように口元を手で覆ったが、その目には一瞬、複雑な色がよぎっていた。帰宅した明日香は、冷蔵庫から卵を取り出し、茹でてか
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第245話

荷物をまとめながら、ふと明日香は思い出した。「お風呂、入る?」すると、淳也は背筋を伸ばし、眉をひそめて彼女を見た。「......何、企んでるんだ?」「下心は捨ててよ。匂いが気になるの。こっちが迷惑」きつく睨みつけると、淳也は肩をすくめて笑った。この人の頭の中、どうなってるのよ。部屋に入って新品のバスローブを引っ張り出し、そのまま彼に放った。「使ってないやつ。まだタグもついてるから」「......おー、ピンクか。お前、こういう趣味?」淳也は受け取りながら、わざとらしく肩にかけてひらひらと揺らした。明日香は先にシャワーを済ませた。学校で軽くは流していたが、昨日は彼がいたせいで控えていたのだ。支度が終わると、洗面所を開けて彼に場所を譲った。ドアを閉めかけたそのとき、背後から声が届いた。「......俺、帝大を受ける」明日香は一瞬黙り、口元をわずかに緩めて言った。「わかった。じゃ、早く寝なさい」「おやすみ」翌朝、部屋を出た明日香は、キッチンの前に立つ長身の影に気づいた。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で鍋の中の麺をかき混ぜている。お坊ちゃんだから料理なんてしないと思ってたのに。案外、やるときはやるらしい。世の中には「料理は女の仕事」と思い込んでる男が腐るほどいるが、少なくとも遼一は一度だって明日香のために料理を作ったことはなかった。「麺、持っていけ」振り向きもせずにそう言う淳也に、明日香は鞄を置いて近づいた。彼の頬にはまだうっすらと赤みが残っていて、昨夜の手の跡が消えかけていた。「......これ、何作ってるの?」「ピーマンとトマト以外に何があったってんだよ」淳也は眉を上げながら、スープを掬って味を見ていた。鍋の中の麺は、トマトの赤いスープにピーマンが浮かび、酸味が食欲をそそる。ピーマンとトマトの炒め物を麺に絡めて食べるのは初めてだったが、意外と悪くない。「まあまあの味ね」一口すすって感想を漏らすと、淳也は涼しい顔で返した。「一万六千円だ」「......強盗でもする気?」器を置きかけた明日香に、淳也はエプロンを外しながら近寄ってきて、少しだけ柔らかい声で言った。「冗談だって。ほら、早く食べろ」そんなやりとりをしていると、突然淳也の携帯
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第246話

そこには、確かにスレッドが立っていた。しかも、あの夜のことが画像付きで拡散されていた。写真には、土砂降りの中、明日香が四、五人の男に囲まれ、服は無惨にも引き裂かれ、ほとんど肌が露わになった姿が映っていた。画像はややぼやけていたが、顔の輪郭や髪型から、明らかに明日香本人だとわかる。間違いなかった。写っているのは、紛れもなく自分だった。けれど、明日香にはまったく見当がつかなかった。誰が、どこで、何のために、こんな写真を――?それからの展開は、まるで洪水のように早かった。学校中に噂が広まり、もはや知らない生徒はいないというほどだった。トイレから戻る途中、すれ違う生徒たちは一様に視線をそらし、無言のまま距離をとった。まるで明日香に、触れてはいけない何かが宿っているかのように。「三ヶ月も学校休んでたのって、やっぱそれが理由だったんだ......見てよ、あれ」「汚らわしい」そんな言葉が耳元をかすめた。けれど、明日香は立ち止まることなく教室へ戻り、席に着いた。まもなく、担任の渡辺に呼び出され、職員室へと向かった。部屋に入った瞬間、他の教師たちの視線が、一斉に突き刺さった。その空気は異様で、ぬるく、息苦しい。個室に通された明日香を前に、渡辺は遠回しな言葉など使わなかった。「学校中で噂になってること、君ももう耳にしているだろう。何か説明できるか?」明日香は、ゆっくりと首を振った。「つまり、否定はしないということか?」「私が『違う』と言ったところで、意味なんてないでしょう」その声は、驚くほど静かで冷静だった。「人は、自分が信じたいことだけを信じる。私が何を言ったって、無駄ですよ」渡辺は黙りこみ、しばらくの沈黙の後、重く口を開いた。「......君は最近、騒動が続いている。学校としても対応が必要だと判断した。世論が落ち着くまで、しばらく休学という形を取ってもらう」渡辺は書類を机に置き、眼鏡を指で押し上げながら続けた。「オリンピック数学チームについては、新メンバーを募集することになった。異議はあるか?」「ありません」明日香は、一切感情を見せずに答えた。「わかった。じゃあ、保護者に迎えに来てもらって......」「結構です。自分で帰りますから」そう言って席を立ち、教室に戻っ
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第247話

「忘れないで。私は月島家の人間よ」明日香は手にした銀行カードを軽く振ると、そのまま相手の頬にパシリと当てた。声のトーンが、氷のように冷たく変わった。「あなたたちが口を揃えて汚いって言う、表に出られない月島のことよ。お父さんに聞いてみなさい?月島の名を持つ人間を敵に回す覚悟があるかどうか」一拍置いて、明日香は言葉を強く、はっきりと続けた。「......私に逆らった、あの三人のこと、覚えてる?今どんな末路を辿ってるか、想像してみなさい」その瞬間、まるで金槌で頭を打ち据えられたような衝撃が、その場にいた全員の心に響いた。大谷家は、すでに破産寸前。真由子は過去のスキャンダルが暴かれ、懲役5年の実刑判決。美雪は音信不通、消息不明。山田家と田崎家は数億の負債を抱え、家族ごと国外逃亡。同じ業界に身を置く人間なら、どの家が倒れ、誰が刑務所に入ったか、知らぬはずがない。むしろ、取引や関係を通じて、何らかの形で巻き込まれていたはずだ。さっきまでふざけていた男子は、途端に顔色を変えた。「冗談だよ、なにもそんな本気で受け取らなくたって......な? みんなクラスメートだし、そんな意地悪しないでさ」典型的だった。金さえあれば、何をしても許されると勘違いしているタイプ。けれど、いざ本物の力を前にすると、こんなにも脆い。その時、人垣の向こうから鋭く冷えた声が響いた。「......それで、月島の名前を名乗ってるのが、そんなに誇らしいのか?」人々をかき分けて現れたのは、哲だった。目は鋭く、まっすぐに明日香を射抜いた。「いつか必ずこの手で、月島家を潰してやる」その声には怒りと憎悪が滲んでいた。康生が背後で行ってきたことを、哲はすべて知っていた。どれだけの命が奪われたのか。どれだけの人が人生を壊されたのか......死刑になったところで、十度撃ち殺されたとしても、足りないほどの罪だった。「......待ってるわ」明日香は、何の感情も乗せず、淡々とそう返した。それは、誰よりもこの日が来るのを待ち望んでいた者の声だった。康生が帝都の癌なら、長谷川家はその癌を駆逐する免疫細胞。明日香は哲の横をすり抜けながら、ふいに手に持っていた銀行カードを掲げた。そして、そのまま何の躊躇もなく、道端のゴミ箱に放り投げた。
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第248話

「帰れって言うなら、無駄よ......ここで一人でいるのが、案外気に入ってるの」明日香の筆の先には、陽光に揺れるひまわり畑が広がっていた。空は抜けるように青く、金色の花々が太陽の方へと首を傾けている。茎の隙間を縫って射し込む光が、野原の上にやわらかな模様を描いていた。絵には、その人の心が映し出される。心に陰を抱く人は、陰鬱な街並みを描く。けれど明日香が描くのは、いつも光が差す風景だった。たとえ自分の中にその光がなかったとしても、せめて絵の中にだけは希望を。彼女の絵の腕前は相当なもので、望めば有名美術大学に合格できるほどの実力があった。けれど、康生は、彼女に絵筆を握ることすら禁じていた。遼一は、それを思い出すたびに不思議だった。厳しい監視と命令の下で、どうやってこの才能を隠し続けていたのかと。いや、そもそも明日香は、生まれつき規則に縛られない人間だった。「今すぐ一緒に帰るか、それとも......誰か呼んで『迎え』に来させるか」遼一はソファに腰を下ろし、目の前のテーブルに視線を落とした。そこには、保護者会の通知と冬期講習の申込書が広げられていた。名前や連絡先はすでに書き込まれている。だが、保護者欄の署名だけが空白のままだ。その様子に、遼一の眉間がわずかに険しくなった。「私が戻ったら、珠子を『いじめる』んじゃないかって心配じゃないの?」明日香は絵から視線を離さず、イーゼルの向こうに完成を待つ風景を見つめていた。なにかが、まだ足りない気がしていた。返事はなかった。けれど顔を見なくてもわかる。遼一はきっと今、冷たい目でこっちを見ている。「......あなたがいない日々の方が、私、自由に生きられてるの」それは、紛れもない本音だった。遼一の存在はいつも矛盾していた。明日香を憎みながら、彼女が距離を取ろうとすると、なぜか頻繁に姿を現す。学校で拡散されたあの写真だって、彼以外に誰が掘り起こせるというのだろう?今や明日香は、教師や生徒から汚れた存在として見られ、停学処分を受け、オリンピック数学チームからも外された。時折、思うことがある。もしあの時、6組に入っていなければ、こんな結末にはならなかったのではないかと。学校を離れたあの日、自分がどこへ向かえばいいのかもわからなかった。けれど、ふと、思い出し
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第249話

その言葉を聞いた瞬間、油を注いでいた淳也の手が、ぴくりと大きく震えた。明日香の指先は、割れたガラスの欠片で切れていた。赤い血がじわりと滲み出ている。それでも彼女は眉一つ動かさず、ティッシュでぬぐっただけで、淡々と口を開いた。「でも......彼はもう、代償を払ったじゃない。あなたがしてきたことに比べたら、淳也の悪さなんて、ただの短気とクラスメートとの喧嘩でしかないわ」あの時、淳也は手足を骨折され、三か月近くも病院のベッドにいた。けれど、この世界には、どれだけ人を傷つけても、決して裁かれることのない人間がいる。明日香は、それ以上この話を続けたくなかった。ふいに口角を上げて、遼一の方を見た。「お兄さん、ご飯食べてく?彼、意外と料理上手なのよ」遼一は、そんな彼女の笑顔に目を向けた。その穏やかな目元の奥に、彼ははっきりと距離を感じ取っていた。笑っているのに、どこか他人行儀で、見知らぬ誰かのような雰囲気。むしろ怒鳴り返してくれた方が、まだましだった。こんなふうに、取り繕った平静を見せられることが、何より腹立たしかった。「でもうち、お椀が一個しかないの。あれは淳也が自分で買ってきたものだから......お兄さんはお皿で我慢してね」遼一は黙って立ち上がり、黒いスーツのボタンを留めた。輪郭の鋭さが、部屋の光と影の中でさらに際立った。「三日以内に荷物をまとめろ。迎えに来る」「帰らないわ」明日香は、一拍の迷いもなくきっぱりと返した。「お前の意思なんか関係ない。お父さんは、俺ほど甘くないぞ」それだけ言い残し、遼一は部屋を後にした。その背を見送りながら、淳也が振り返った。「......ボーッとしてないで、手伝えよ」彼はジャガイモを洗っていた。肉じゃがを作るつもりなのだろう。明日香は考えるのをやめ、キッチンへ足を運んだ。そう、いずれは戻らなければならない。彼女の一挙手一投足は、すでに誰かの目に捉えられている。これから待ち受ける現実がどんなものか、明日香はよくわかっていた。やがて、料理がテーブルに並んだ。食卓には静かな空気が流れていた。明日香が一口食べて、「明日――」と口を開いた瞬間、淳也がわざと話を逸らした。「今日の分もまだ食べ終わってないのに、もう明日の話?ずいぶん先のことまで考えるんだな」
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第250話

食事のあと、明日香は淳也に英語を教えていた。ここ数日での彼の成長は目覚ましく、先日の地理の試験では、彼女のノートを丸暗記しただけで89点を叩き出した。減点されたのは、最後の二問の記述解説だけだった。文系科目は暗記が中心だから、淳也にとってはさほど難しくない。以前の成績が悪かったのは、ただ勉強が嫌いだったからだ。本気を出せば、誰よりも優秀な成績を取れる。それが彼の本来の姿だった。午後三時、明日香は趣味のクラスへと出かけ、淳也も荷物をまとめて学校へ戻った。彼は昼休みの時間を使って、明日香に会いに来ていたのだ。だが、教室に戻ると、その態度は一変した。椅子を引きずって席に着き、鞄を机の上に無造作に放り投げる。長い脚を机に乗せ、制服のズボンはふくらはぎまでずり落ち、全身から反抗と冷たさが滲み出ていた。「明日香は?」哲が近づいてくる。「あんたがそんなにいじくり回してたら、彼女だっておかしくなるって!もうやめろよ、彼女はもう平気だろ?学校の休校だって、彼女のせいじゃないんだし」その瞬間、淳也は肩にかけられた手を、ばしっと振り払った。哲の顔がぴくりと強張り、悠真が慌てて彼を脇へ引き寄せ、静かに首を振って、それ以上言うなと目で合図を送った。「人間のくせに、人間らしい言葉もろくに言えねえのかよ」淳也はイラついたように立ち上がり、机を勢いよく蹴飛ばすと、クラス全体を見回した。みんな、黙って目を伏せていた。「いいか。明日香をいじめていいのは、俺だけだ。また誰かが、陰で彼女の噂流したりしたら......学校の湖で目を覚まさせてやる!」それは、かつて明日香に「金で買える」と言って銀行カードを差し出した、中野正和(なかの まさかず)のことを指していた。当時、淳也はその場にはいなかった。けれど、明日香に関わることなら、彼はいつだってすぐに嗅ぎつけてきた。そしてあの日、淳也は教室に入るなり、まるで手綱の外れた野馬のように正和を引きずり出し、授業中であろうと構わず、容赦なく蹴り飛ばした。哲や悠真たちが止めなければ、あのまま正和はどうなっていたかわからない。校医の診断では、軽い打撲と脳震盪。だが、誰もがそれが表向きの診断に過ぎないと理解していた。以来、正和は休み時間でもうつむいたまま歩き、かつての威張った姿は、影すら
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