All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 831 - Chapter 840

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第831話

知里はもともとサバサバした性格で、人に対しても誠実だ。 颯太と付き合うつもりなら、誠健との関係についてもきちんと話しておくべきだと、彼女は思っていた。 二人はお酒を飲みながら、のんびりと会話を楽しんでいた。 気がつけば、テーブルの上には酒瓶がずらりと並んでいる。 颯太が心配そうに言った。 「もうやめとこう。送ってくよ」 知里は少し赤らんだ顔で彼を見て言った。 「トイレに行ってくる。それから帰ろう」 「一人で大丈夫?」 「うん、平気」 お酒はかなり飲んでいたものの、知里の意識はまだはっきりしていた。 彼女はトイレに向かい、用を足したあと、洗面台で手を洗い、簡単にメイクを直した。 ちょうど出ようとしたそのとき、突然、目の前に黒い影が現れた。 その人の顔を確認する間もなく、口を塞がれ―― そのまま意識が遠のいた。 再び目を覚ましたとき、知里はホテルの大きなベッドで横になっていた。 全身が火照って、まるで体中が焼けるように熱い。 それでも意識はしっかりしていた。 ――薬を盛られた。 知里はすぐに起き上がろうとしたが、体がまるで骨を抜かれたように力が入らない。 全身がだるくて、言うことをきかない。 嫌な予感がして、彼女は携帯を探そうとしたが、近くには見当たらなかった。 どうすればいいか分からずにいると、部屋のドアが開いた。 颯太がふらつきながら入ってきた。 シャツのボタンは何個も外れていて、白い鎖骨があらわになっている。 ベッドに横たわる知里を見つけた瞬間、彼は駆け寄ってきた。 目は真っ赤に染まり、切羽詰まったように彼女を見つめる。 「知里、ここにいたのか……ずっと探してたんだ」 大きな手を伸ばして知里を引き寄せようとしたその瞬間、 肌が触れ合ったことで、彼の中に潜んでいた獣が暴れ出した。 その目は、もはや理性を失っていた。 かすれた声で言う。 「知里……キスしたい……」 知里は怯えて身を引いた。 わずかに残った理性が告げていた――颯太も薬を盛られている。 「颯太……電話して……私たち、薬を盛られたみたい……」 けれど、颯太はまるで彼女の声が聞こえていないかのように、ネクタイを引きちぎり、ジャケットを脱ぎ捨てた。 そして知里に向
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第832話

たとえどれだけ意識が朦朧としていようとも、彼女にはこの人が誰なのか、はっきりとわかっていた。知里は冷たい眼差しで颯太を見つめた。「この人……あなたのお母さん?」突然部屋に飛び込んできた母親に、颯太の薬の効果も一気に薄れたようだった。彼はすぐにベッドから起き上がり、母親に向かって尋ねた。「母さん、どうしてここに……?」颯太の母は鼻で笑いながら言い放った。「来なかったら、あの女があんたのベッドに入り込むのを黙って見てるしかなかったでしょ?颯太、あの女はあなたにふさわしくない。あの子、あの誠健って男と寝たことがあるのよ?中古品よ、あなたはまだ未経験なのに」颯太は苛立ちを抑えきれずに頭を殴るように拳を落とし、叫んだ。「でも、そんなの関係ない!俺は彼女自身が好きなんだ!やっと好きな人に出会えたんだよ、お願いだから、口出ししないでくれよ!」「口出さなかったら、こんな汚い手使われてあなたの体まで奪われるとこだったのよ!?もう少し遅かったら……!薬なんか盛る女が、まともなわけないでしょ!」その言葉を聞いて、知里はすべてを理解した。彼女は冷たい視線を颯太に向けた。「あなたも、そう思ってるの?」颯太はすぐに答えた。「知里……君が俺を騙そうとしたって構わない。君の心に俺がいれば、それだけでいいんだ」そう言って、彼は知里の手を取ろうとした。だが、知里はその手を振り払った。彼女は思わず冷笑した。さっきまで誠健に「颯太を信じる」なんて言ってたのに、これが現実か。「つまり、全部私の策略だと……あなたと一緒になるための、そう思ってるのね?」「知里、どんな策略でもいい!君が俺を好きなら、それでいいんだ、俺は気にしない!」「もし、これが私の仕業じゃなかったら?あなた、信じる?」颯太はスマホを取り出し、画面を彼女に見せた。「君が俺に送ってきたメッセージだ。この部屋に来て、二人きりで飲もうって。酒に触れたのは俺と君だけだよ」「つまり、私が酒に薬を仕込んで、それからあなたを部屋に呼んだと?颯太、仮に私があなたと寝たいと思ってたとしても、そんな面倒なことする必要あると思う?」「これがあなたの言う信頼?そんな信頼、プラスチックよりも脆いわね」二人のやり取りを聞いて、颯太の母はあざ笑うように口を開いた。
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第833話

誠健は知里を抱きしめたまま、背中から勢いよくローテーブルにぶつかった。さっき部屋に飛び込んできた勢いに、二人の体の衝突が加わり、鈍い音が部屋に響いた。誠健の背中に鋭い痛みが走る。だが彼は知里をしっかりと抱きしめたまま、彼女に衝撃がいかないように守っていた。二人はローテーブルにぶつかり、そのまま床に転がった。知里は意識が少し朦朧としていたが、それでも誠健の声が聞こえた。彼女は涙で赤く染まった目で、下にいる誠健を見つめ、かすれた声で言った。「誠健……」彼に何かを聞きたかった。無事かどうか、痛くないか……でもその言葉は喉の奥で詰まり、どうしても出てこなかった。そして、涙がその瞬間に頬を伝って流れ落ちた。さっきまで我慢していた悔しさと苦しさが、一気に胸に込み上げてきた。誠健は背中の激痛に耐えながら、そっと知里の頬に手を添えた。優しく諭すように言った。「もう泣くなよ。俺がいる。絶対に、誰にもお前を傷つけさせないから」その一言を聞いた瞬間、知里は堰を切ったように泣き出した。彼の名前を呼ぶ以外、何も言えなかった。誠健は彼女をそっと抱き上げ、顔に残る真っ赤な掌打の跡を見て、目の奥に鋭い怒りが宿った。そして冷たい視線で颯太の母を睨みつけた。声はまるで氷水に沈められたように冷たく、静かだった。「お前がやったのか?」颯太の母はまったく悪びれる様子もなく、むしろ軽蔑するように鼻で笑った。「そうよ。あの女、うちの息子を誘惑して薬まで盛って、ベッドに連れ込もうとしたのよ?こんな尻軽女、うちは要らないわ!」「もう一回言ってみろ!」誠健の唇には怒りの笑みが浮かび、颯太の母に向かって一気に詰め寄った。その迫力に、颯太の母は顔を青ざめさせ、何歩も後ずさった。彼の名前を聞いたことがあった。素行が悪く、家族も手を焼くならず者――それが誠健だ。彼女は怯えながら、口ごもるように言った。「な、なに……?あんた、私に手を出すつもり?」誠健は一歩一歩近づきながら、血走った目で彼女を睨みつけた。「俺の女に手ぇ出したんだ。ぶん殴るぐらいで済むと思うなよ」「じゃ、じゃあ……何する気よ?」誠健は奥歯を噛みしめながら言った。「お前の大事な息子がぶっ飛ばされるのを、目開いて見とけよ」そう言うと、颯
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第834話

「誠健、下ろして……自分で歩けるから」知里は力のない声でそう言った。誠健は目を伏せて彼女を見下ろし、口元にニヤッとした悪戯っぽい笑みを浮かべた。「火事場泥棒でもすると思ったか?安心しろよ、君今、生理中だろ。俺、そんな趣味ねぇよ。薬はもう君の部屋に送ってある。点滴すりゃ、すぐマシになるさ」その言葉を聞いて、知里はようやくホッと息をついた。十数分後、誠健は知里を抱きかかえたまま、自宅の扉を開けた。すでに薬が届けられていた。彼は慣れた手つきで点滴を準備し、知里に施した。さらに、腫れた頬に消炎用の軟膏を丁寧に塗りながら、ぽつりと漏らす。「知里……君のこと見てると、マジで胸が痛いよ。くそっ、俺は一度だって君に手をあげたことねぇのに、なんでこんな目に遭わされなきゃなんねぇんだ……あの女、ぶっ殺してぇくらいだ」誠健の言葉に、知里の目からまた涙があふれた。震える声で言う。「誠健……薬、私じゃない」「言わなくてもわかってるよ。俺、バカじゃねぇし」「でも颯太でもない……たぶん、誰かが私たちをくっつけようとしてた。でも、あの人の母親が急に来たのは、完全に予定外だったと思う」その瞬間、誠健の手が止まり、目つきが鋭く冷たくなった。「……君、結衣を疑ってんのか?」知里は少しも躊躇せずに頷いた。「最初は颯太の母親だと思ってた。私に罪をなすりつけようとして。でも、あなたが突然現れた瞬間、おかしいって思ったの。どうして、私たちがどこにいるか分かったの?」「匿名のメールが来た。颯太と君が一緒にいるって」「……だったら、その人は私と颯太に何かあって、それをあなたに見せつけるつもりだった。そうすれば、あなたは私に愛想を尽かす。そんなこと考えつく人間、あなたの妹以外に思い当たらない」その言葉に、誠健はギリッと歯を噛みしめた。知里と自分が一緒になるのを望んでいない人間――思い当たるのは、結衣しかいなかった。そう思った瞬間、誠健の目には明らかな怒りが宿る。「この件、俺がちゃんと調べる。絶対に君に泣き寝入りさせねぇ……信じてくれるか?」知里は弱々しく頷いた。「信じてる。でも……考えたことある?結衣がどうして、私たちの仲を邪魔しようとするのか」「ただ単に君が気に食わねぇだけだろ。君が俺を弄んでるって思ってるん
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第835話

誠健はその画面を見た瞬間、拳をぎゅっと強く握りしめた。以前は、結衣のことをただのわがままだと思っていた。少し騒げば、すぐに落ち着くものだと――だがまさか、こんな一石二鳥の卑劣な罠を仕掛けてくるなんて、想像すらしていなかった。その時、彼のスマートフォンが鳴り出した。着信表示を見た誠健は、唇の端を冷たく吊り上げる。迷いなく通話を受けた。電話の向こうからは、結衣の甘ったるい声が聞こえてきた。「お兄ちゃん、どこにいるの?なんでまだ帰ってこないの?」誠健は感情を抑え、わざと声を低くして答えた。「知里のところにいる。ちょっとしたことがあってな。もう待たなくていい」結衣はすぐに反応した。「えっ?知里姉に何かあったの?大丈夫なの?」「かなりまずい。帰ってから話す」その一言で、結衣の声が一気に高くなった。「お兄ちゃん、それって知里姉が、お兄ちゃんにひどいことしたってこと?私、聞いたよ。彼女、あの颯太って人と付き合ってるって……お兄ちゃん、まだ諦めてないの?」誠健は冷やかな声で問い返した。「もし、本当にそうだったらどうする?」その瞬間、結衣の脳内には衝撃が走り、興奮で叫び出しそうになった。だが、必死にその感情を押さえ込み、甘えるような声で言った。「お兄ちゃんはすっごく素敵な人だから、そんな女なんて必要ないよ。これからは私がずっとそばにいるから、悲しまないで」その言葉を聞いた誠健は、知里の言っていたことが真実だと確信した。歯を食いしばりながら、厳しい口調で問いかけた。「だから、お前は彼女に薬を盛って、颯太と何かあるように仕向けたんだな?それで俺にメッセージを送って、現場を見せつけようとしたのか?」さっきまで興奮していた結衣は、その言葉を聞いて一瞬で固まった。頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。十数秒経ってようやく反応し、泣き声まじりに叫んだ。「お兄ちゃん……私のこと嫌いでも、そんなひどいこと言わないでよ。私、一応あなたの妹なんだよ」「結衣、俺はお前に言ってなかったけど、医者の他にももう一つ専門がある。ハッカーだ……意味、分かるよな?」その声は、まるで北極から吹き付ける氷の風のように冷たかった。結衣はその一言で、体をビクッと震わせた。危うくベッドから転げ落ちそうにな
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第836話

執事は安堵したように微笑んだ。 「お嬢様が幸せなら、ちょっとくらい苦労しても構わないさ」一方その頃――知里が目を覚ました時、窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。 どれくらい眠っていたのかはわからない。 手に刺さっていた点滴はすでに外されていて、誠健の姿も部屋にはなかった。 ゆっくりと体を起こすと、もうほとんど回復しているような感覚があった。 部屋を出た瞬間、ふわっと鼻をくすぐる香ばしい匂い――知里の好きなワンタンの香りだった。 音に気づいた誠健はすぐにキッチンから飛び出してきて、足早に彼女の元へと歩み寄った。 顔を覗き込むようにして、優しい声で言った。 「具合はどうだ?」知里は小さく頷いた。 「もう大丈夫。ありがとう」誠健はチャラそうに口元を歪めて笑った。 「君が本気でありがとうなんて言うの、めっちゃレアだな。昨日、俺が間一髪で駆けつけなかったら、あのクソババアにどんな目に遭わされてたか……で、あいつらどうするつもり?」知里は視線を少し落として、淡々と答えた。 「自分でケリをつけるよ。あなたは手出ししなくていい」「まさか颯太とまだ続ける気じゃないよな。昨日、ちょっと調べてみたんだ。颯太って、ガキの頃から父親いなくて、母親に育てられたらしい。それであんなマザコンになったってわけ。女が近づくたびに、あの母親がしゃしゃり出てきて邪魔してくる。今回が初めてじゃないんだぜ」その言葉を聞いた知里は、どこか自嘲気味に笑った。 今回ばかりは完全に見誤っていた。 颯太がずっと恋愛を避けてきたのは、ただ仕事一筋だからだと思っていた。 まさか、そんな理由だったなんて――彼女の表情に陰りが見えたのを察して、誠健はそっと知里の頭を撫でた。 にやっと笑いながら言った。 「だから言ったろ?この世で君に一番優しいのは俺なんだって。知里、そろそろ俺のこと大事にしなよ」知里はじっと誠健を見上げた。 その目――深い水面のような艶のある瞳の奥に、いつもの遊び人らしさだけじゃない、別の感情が見えた気がした。 思わず拳を握りしめ、ぽつりと聞いた。 「背中、薬……塗った?」その一言で、誠健はようやく自分の背中の傷を思い出した。 昨日の夜は痛みで一睡もできなかったのだ。 「背中に
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第837話

知里は誠健を睨みつけると、彼の手からスプーンを奪い取り、冷たい声で言った。「もう二度としないから」「二度とって何が?俺のこともう好きじゃないってこと?じゃあ、前は好きだったって認めるんだな?」誠健は身を乗り出し、その整った顔を知里にぐっと近づけた。その深くて艶っぽい目には笑みが浮かび、どこか軽薄で色気のある雰囲気をまとっていた。知里は眉をひそめて彼を一瞥し、淡々とした口調で答えた。「もうあなたに食べさせてもらうことはないって言ってるの。前に好きだったかどうかなんて、今さら掘り返す価値ある?今は好きじゃない、それで十分でしょ」彼女はスプーンのワンタンをふーっと吹き冷まし、口に運ぼうとした――が、その瞬間、誠健がサッと横取りした。わざとやったのは明らかだったが、知里は無視した。うつむいて目を伏せ、もう一つワンタンをすくい唇の前で軽く吹いてから、口の中へ運んだ。まだ飲み込む前に、耳元で誠健の低くかすれた声が響いた。「知里、俺のこと好きじゃないのに、同じ食器で食べるわけ?口では否定して、ほんとは違うんじゃないの?」知里はあきれたように彼を横目で見て、淡々と返した。「佑くんが使った食器も気にしないわよ。それは義理の息子への愛情ってだけ」その言葉を聞いた誠健は、ぷすっと怒ったように彼女の頭を軽く叩いた。「俺のこと、バカにしてんのか」「自業自得よ」誠健は少し笑って言った。「まあいいさ、俺を無視しないでくれるなら、義理のお母さんどころか、ご先祖様のように敬ってあげてもいいよ」そう言いながら彼はゆっくりと身をかがめ、知里の耳元にふっと息を吹きかけた。口元にはいたずらっぽい笑みが浮かび、ささやくように囁いた。「ご先祖様、俺が作った朝ごはん、お気に召しましたか?」彼の吐息が耳の縁にかかり、湿った熱気が知里の耳をくすぐった。唇が意図的に耳たぶをかすめる。その感触に、知里はぞくっと背筋が震えた。スプーンを握る手に、思わず力が入る。知里はわずかに身を引き、何事もなかったかのように答えた。「まあまあね」誠健は彼女が食事をしている小さな口元を見つめながら、今にも奪いたそうなほどの視線を投げていた。だが、冷静さが彼に囁いた――このご先祖様をもう一度惚れさせるには、もっと忍耐が必要だと。
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第838話

知里が誠健を罵る声を聞いて、颯太はようやく自分の誤解に気づいた。彼は静かに扉を数回ノックした。中から知里の声が聞こえた。「うつ伏せのまま動かないで」知里は軟膏を置いて、急いでドアを開けに行った。颯太の姿を見ても、知里は特に驚く様子はなく、むしろ落ち着いていた。「来たのね」颯太は手に持っていた花束を知里に差し出し、申し訳なさそうに彼女を見つめた。「知里、ごめん。この花は謝罪の気持ちだと思って受け取ってほしい。母のことは本当にすまない。あの人、口が悪くて、しかも手まで出して……でも、これからは絶対に君と母が関わることのないようにするから」その言葉を聞いて、そして手にした花を見つめながら、知里はふんわりと微笑んだ。「花はもらっておくわ。謝罪も受け入れる。でも、私たちにこれからはないの。私には過去がある。それはもう、誰もが知ってること。隠すこともできないわ。でも、そのことで差別される理由にはならないと思ってる。あなたのお母さんとは価値観が合わないし、私のことも受け入れられない。だから、西村社長、ここまでにしましょう。正確に言えば、私たちは始まってもいない。今後はもう連絡しないで。投資の件は、後で担当にお金を返してもらうわ。じゃあ、お引き取りを」知里の言葉には誠実さがあり、はっきりとしていた。それが颯太の胸を少し締め付けた。彼は切なげな目で知里を見つめた。「知里、今回のことは俺が悪かった。でも、もう一度だけチャンスをくれないかな?本気で君のことが好きなんだ。初めて会ったその時からずっと。だから綾乃に紹介を頼んだんだ。君の過去のことなんて、俺は全然気にしない」知里はまた穏やかに笑った。「でも、あなたのお母さんは気にするわ。それに、そのことが彼女に『私は価値のない女』って思わせる原因になる。あなた、それでどうするつもり?」「国外に行こう。ずっと海外で暮らせば、母とも関わらずに済む。そうすれば、何も問題ないはずだ」「西村社長、私はこっちでやっと仕事が軌道に乗り始めたところなの。誰のためでも、今の全てを捨てるつもりはない。それに、私は誰かに見下されてまで一緒にいたいとは思わない。あなたじゃなきゃダメってほど、私は依存してないの。現実を見て」その言葉に、颯太は無意識に拳を強く握りしめた。瞳の奥にはど
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第839話

知里の潤んだ黒い瞳が、無言のまま誠健を見つめていた。彼女は、この件が誠健の仕業だと疑ったことは一度もなかった。彼がそんな人間じゃないと、信じていたからだ。確かに二人はよく喧嘩をするが、それでも彼という人間を理解していた。 女遊びが激しくて軽薄なところはあるけど、こういう卑劣な真似をする人じゃない。下を向いて黙り込む知里を見て、誠健はふいに笑い出した。 冷たい指先で、ぷにぷにと知里の頬をつつく。「なんで黙ってんの?俺を信じてるって認めるの、そんなに恥ずかしい?知里、本気の愛って、こういう時に信じることを言うんだぜ。わかってんの?」知里は彼を横目で睨んだ。「なんで私が疑ってないって言い切れるのよ」「君が俺を疑ってたら、自分から俺に連れ戻されることなんてなかっただろ? あの時メッセージを見た瞬間、俺の心臓は飛び出すかと思ったんだぜ。 もし颯太が本当に君に手を出してたら……俺、奴を殺してたかもしれない。君は俺の女だ。一生俺のもんだ。絶対に誰にも触らせねぇ。俺が守る。絶対に、逃さねぇからな」その言葉を聞いて、知里の心にわずかな波が立った。ちょうどその時、誠健のスマホが鳴った。着信表示を見た知里の心は、さっきの揺らぎが嘘のように静まり返った。彼女は軟膏をしまい、救急箱を持って寝室へと戻っていった。誠健は着信を見て、不機嫌そうに顔をしかめ、そのまま通話を取った。電話の向こうから、結衣のすすり泣く声が響いてきた。「お兄ちゃん……帰ってきてくれない?源さんが、あの件は自分がやったって…… おじいちゃんが家法で罰するって言ってて、あの人もう五十過ぎてるのに、そんなの耐えられないよ。お願い、早く戻ってきて」それを聞いた瞬間、誠健はすべてを悟った。冷たい声で問いかける。「君が源さんに、罪をかぶれって言ったのか?」「ち、違うよ!源さんが自分からおじいちゃんに言ったの!」「じゃあ教えてくれ。源さんは知里のこと知らないはずだ。なんでそんな人間が、わざわざ彼女を狙う?」結衣は鼻をすすりながら答えた。「……彼が言ってたの。お兄ちゃんが知里姉に振り回されるの見てられないって。 誰かが知里姉とくっつけば、お兄ちゃんも諦めがつくって……」誠健は歯をぎりっと噛みしめた。「結衣…
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第840話

執事はその一言に言葉を失った。結衣も一瞬パニックに陥り、慌てて弁解した。「私、ただお兄ちゃんが恋愛で傷ついてるんじゃないかって心配で、ご飯が喉を通らなかっただけなの」誠健は冷ややかに鼻で笑った。「本当にそれだけか?」「本当にそれだけ。お願い、お兄ちゃん、私を信じて」執事もすぐに口を挟んだ。「お嬢様は坊ちゃんのことを大切に思っておられるのです。坊ちゃんが幼い頃にお嬢様を助けてくださって以来、一生かけて恩返しするとおっしゃっておりました。私がこうしたのも、坊ちゃんが一日も早く恋の苦しみから立ち直り、この家に戻られることを願ってのことです。知里さんが来る前、坊ちゃんとお嬢様の仲は本当に良かったのですから」誠健は冷たい目で彼を睨みつけた。「つまり、知里が悪いと?」「い、いえ、そんなこと言うつもりは……恐れ多いです。ただ……正直な気持ちを申し上げただけで……坊ちゃんがどんな処罰を与えようと、私は構いません。すべては石井家のためを思ってのことです。たとえ坊ちゃんの怒りの矛先が私に向いても、甘んじて受け入れます」その言葉に、誠健はふっと悪びれたように笑った。「つまり、俺が罰を与えたら、俺が悪者ってことか?」「そ、そんなことありません!とんでもないです!」「源さん、お前は俺のガキの頃から見てきたよな?俺の性格、知ってるだろ。俺の大事な人に手出しした奴は、絶対に許さない。結衣をかばう気なら、それ相応の覚悟はしてもらうぜ。あんたの息子、石井メディアに勤めてて、今は総務の主任だって聞いたが……明日から出社しなくていい。あんたもこの家から出ていけ。石井家があんたら一家にかけてた保険も全部打ち切る。これから先、お前ら一家がどうなろうが、俺たちには関係ない」その言葉に、執事は顔面蒼白になり、泣きながら土下座した。「坊ちゃん、どうかお情けを……わたしたち家族は、私の稼ぎでなんとか生活しているんです。私と恭介を辞めさせられたら、もう生きていけません……!」誠健の顔には一切の同情の色がなかった。「生きてけない?それがどうした。俺を怒らせたお前が悪いんだろ?」執事は誠健がまったく折れる気配がないのを感じ取り、今度は石井お爺さんに向かって土下座した。「旦那様、私は何十年も石井家に仕えてきました。坊ちゃんもお嬢
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