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第834話

Author: 藤原 白乃介
「誠健、下ろして……自分で歩けるから」

知里は力のない声でそう言った。

誠健は目を伏せて彼女を見下ろし、口元にニヤッとした悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「火事場泥棒でもすると思ったか?安心しろよ、君今、生理中だろ。俺、そんな趣味ねぇよ。薬はもう君の部屋に送ってある。点滴すりゃ、すぐマシになるさ」

その言葉を聞いて、知里はようやくホッと息をついた。

十数分後、誠健は知里を抱きかかえたまま、自宅の扉を開けた。

すでに薬が届けられていた。

彼は慣れた手つきで点滴を準備し、知里に施した。

さらに、腫れた頬に消炎用の軟膏を丁寧に塗りながら、ぽつりと漏らす。

「知里……君のこと見てると、マジで胸が痛いよ。くそっ、俺は一度だって君に手をあげたことねぇのに、なんでこんな目に遭わされなきゃなんねぇんだ……あの女、ぶっ殺してぇくらいだ」

誠健の言葉に、知里の目からまた涙があふれた。

震える声で言う。

「誠健……薬、私じゃない」

「言わなくてもわかってるよ。俺、バカじゃねぇし」

「でも颯太でもない……たぶん、誰かが私たちをくっつけようとしてた。でも、あの人の母親が急に来たのは、完全に予定外だったと思う」

その瞬間、誠健の手が止まり、目つきが鋭く冷たくなった。

「……君、結衣を疑ってんのか?」

知里は少しも躊躇せずに頷いた。

「最初は颯太の母親だと思ってた。私に罪をなすりつけようとして。でも、あなたが突然現れた瞬間、おかしいって思ったの。どうして、私たちがどこにいるか分かったの?」

「匿名のメールが来た。颯太と君が一緒にいるって」

「……だったら、その人は私と颯太に何かあって、それをあなたに見せつけるつもりだった。そうすれば、あなたは私に愛想を尽かす。そんなこと考えつく人間、あなたの妹以外に思い当たらない」

その言葉に、誠健はギリッと歯を噛みしめた。

知里と自分が一緒になるのを望んでいない人間――思い当たるのは、結衣しかいなかった。

そう思った瞬間、誠健の目には明らかな怒りが宿る。

「この件、俺がちゃんと調べる。絶対に君に泣き寝入りさせねぇ……信じてくれるか?」

知里は弱々しく頷いた。

「信じてる。でも……考えたことある?結衣がどうして、私たちの仲を邪魔しようとするのか」

「ただ単に君が気に食わねぇだけだろ。君が俺を弄んでるって思ってるん
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