All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

「あんたみたいなハイエナ女!獅子堂家の方が金持ちだからって、死んだ元夫をダシにして乗り換えようったって、そうはいかないわよ!本当に、恥知らずで気味が悪い!」これまでの人生で、これほどまでに罵られ、侮辱された経験はなかった。だが、どう反撃すればいいのか、一葉には分からなかった。この屈辱もまた、言吾がもたらした厄介事なのだと思うと、彼に対する苛立ちが募るばかりだった。女のあまりに自信に満ちた罵倒と、それに対して何一つ言い返せない一葉の姿に、周囲の人々の視線も徐々に変化していくのが分かった。その、時だった。紫苑が、気品と優雅さを漂わせながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。「綾乃(あやの)さん、やめてちょうだい。青山さんは愛人なんかじゃないわ。彼女はただ、ご主人を亡くしたショックで……悲しみのあまり、うちの烈さんをご主人と見間違えてしまっているだけなのよ」綾乃と呼ばれた女は、紫苑のその言葉を聞いて、いかにも歯がゆいといった表情を浮かべた。「紫苑、あなたは人が良すぎるのよ!愛人がここまで乗り込んできて、あなたをコケにしてるっていうのに、まだ彼女を庇うようなこと言うなんて!」「元夫の深水言吾とはもう離婚してるんでしょ?何が悲しいだの、辛いだのよ!要するに、獅子堂家の方が金持ちだから……」「綾乃さん、もうやめて。早く青山さんに謝って!」紫苑はそう言うと、一葉に視線を向けた。「青山さん、ごめんなさい。私の友人が、あなたに失礼なことを……あの子は裏表のない性格で、悪気はないの。どうか、あなたも大目に見てあげて」その寛大で、優雅な立ち居振る舞いに、周囲の人々の、彼女を見る目にありありと称賛の色が浮かんでいた。先ほどまで、彼女がわざと赤ちゃんを利用して一葉を陥れたのではないかと疑っていた者たちでさえ、今ではすっかり自分たちが考えすぎていたのだと思い始めている。こんなにも穏やかで気品のある女性が、そのような画策をするはずがない、と。それに加えて、獅子堂家は公式に「今の獅子堂烈は本人であり、深水言吾ではない」と発表しているのだ。ひょっとしたら、本当にこの青山一葉という女が、獅子堂家の富に目が眩んで、無理やり関係を持とうとしているのではないか。周囲からそんな囁きが聞こえ始めると、紫苑が一葉に向けた視線には、あからさまな挑発の色が宿って
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第362話

そして紫苑は一度目を伏せ、胸の奥で燃え盛る殺意に近い衝動を無理やり押し殺した。再び顔を上げた時には、その瞳には申し訳なさそうな色が浮かんでいる。「青山さん、本当にごめんなさい。やっぱり、この子の勘違いだったみたい。烈さんは、私を送りに来てくれていたの」そう言うと、彼女は友人の綾乃に向き直った。「綾乃さん、青山さんと烈さんは本当に何でもないのよ。烈さんは私を送ってきてくれたんだけど、私がちょうどお手洗いに行っている間に、元義妹の青山さんにご挨拶していただけなの。それをあなたが見て、誤解してしまったのね」「それに、青山さんは烈さんの脚を治してくださった、私たち獅子堂家にとって一番の恩人なのよ。愛人だなんて、とんでもないわ!もし、あなたが今後も彼女のことをそんな風に言うのなら……もう、お友達ではいられないわよ」綾乃は、紫苑の眼差しに込められた意図を汲み取ると、途端に真摯な表情を浮かべて一葉に頭を下げた。「申し訳ありません、青山さん!私、ネットの……その、面白おかしく書き立てるアカウントの情報を鵜呑みにしてしまって、とんでもない誤解を……!本当に、申し訳ありませんでした!」「あの、この謝罪だけではお許しいただけないのでしたら、もう一度殴っていただいても構いません。それとも、これをかけ返しますか?」そう言いながら、綾乃は近くのテーブルからジュースのグラスを手に取ると、自分にかけろとばかりに一葉に差し出した。誰もが、あれほど殊勝な態度で謝罪されれば、さしもの一葉も矛を収めるだろうと思っていた。しかし一葉は、差し出されたグラスを受け取ると、ためらうことなくその中身を綾乃の顔めがけて浴びせかけた。周囲にいた人々は、皆、あっけにとられた。顔中をジュースまみれにされた綾乃は、反射的に怒りを爆発させ、罵声を浴びせようとしたが、一葉の凍てつくような視線とぶつかった瞬間、その言葉をぐっと呑み込んだ。「私が人生で何より嫌いなのは、根も葉もない噂で貶められること。今回はただの警告よ。次はないわ。もう一度、私を愛人だと口にするようなら、どうなるか覚えておきなさい」その言葉は、目の前の綾乃だけでなく、その背後にいる紫苑にも向けられた、紛れもない警告だった。もし、また誰かを差し向けたり、ネット上で愛人だのと騒ぎ立てるような真似をすれば、今度こそ証拠を公に
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第363話

時を同じくして、その映像は旭の祖父、ヘルマン翁の元にも届けられていた。「これが旭が惚れているという女か。この女のために、チャールズ家の令嬢との縁談を断ったと?」長年彼に仕える老執事が、恭しく頭を下げた。「左様でございます」ヘルマン翁は鼻で笑った。「あいつは、見る目がないにも程がある。道理で、叔父の慎也には遠く及ばんわけだ」旭も決して凡庸ではない。だが、叔父の慎也は、今の旭と同じ年頃には、すでに桐生家を本港市一の富豪にまでのし上げていた。その手腕、器量、どれを取っても、今の旭では足元にも及ばない。老執事は、何も言わず恭しく控えている。「他に駒さえあれば、あのような男、使うものか!」ヘルマン翁は、忌々しげに持っていた杖を床に叩きつけた。ヘルマン一族はカジノ経営で財を成した一族で、その出自には黒い噂が絶えない。当然、敵も多かった。ヘルマン翁には元々三人の息子と一人の娘がいたが、長年の間に息子たちは全員命を落とし、孫も一人として残らなかった。唯一の血筋は、亡くなった娘が遺したこの旭という外孫だけだ。幸い、資質は悪くない。その上、叔父である慎也という強力な後ろ盾もいる。一族を任せるには、まあ、及第点だろうとヘルマン翁は考えていた。だというのに、あの男は女にうつつを抜かし、一族のための政略結婚を拒んだのだ。しかも相手は、自分より三つも年上の、一度結婚に失敗した女だというではないか。もし自分にまだ子を成す力があれば、今すぐにでも新たな跡継ぎを作ってやるものを。老執事は、先ほどから一言も発さず、ただそこに佇んでいる。しばらく怒りを燻らせた後、ヘルマン翁はぽつりと言った。「その女、自分の会社を持っているそうだな」執事は答える。「はい、左様でございます」「人をやって、その会社に少し面倒事を起こさせてやれ。身の程を弁えさせるのだ」「御意」執事は命を受けると、静かにその場を辞した。空港……化粧室で服を着替え終えた一葉が出てくると、ちょうど搭乗開始時刻となっていた。国際線の長距離便であるため、ファーストクラスは個室仕様になっている。客室乗務員に案内され、自分の区画へ向かっていると、ちょうど目の前の個室から、慎也の秘書が報告を終えて出てくるところだった。彼は一葉の姿を認めると、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに丁
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第364話

優花への憎しみは骨の髄まで達している。それでも、旭の妹が一日でも早く回復することの方が、今の彼女にとっては重要だった。黙り込んだ一葉に、慎也はシャンパンを一杯注いで差し出した。「ラウンジで紫苑にまた絡まれたそうだな」「うん」紫苑の名前が出たことで、ふと、一葉はあることを思い出した。慎也の顔を見つめる。「慎也さんたちの事業って、獅子堂家とは競合するものが多いよね」一葉は研究にほとんどの時間を費やしているが、自身も会社の経営者であるため、ビジネスの世界の動向にはそれなりに詳しかった。「そうだが?それがどうかしたか」慎也は面白そうに眉を上げる。「慎也さんたちが本格的に本土市場へ参入するなら、獅子堂家が最大の障壁になるんじゃない?」その言葉を聞いた瞬間、慎也の漆黒の瞳に宿る興味の色が一層濃くなった。「フッ……面白いことを言う。俺と手を組んで獅子堂家を潰したい、とでも言いたいのか」この程度の考えなど、目の前の男にはお見通しだろう。一葉はそう分かっていたから、変に取り繕うことなく、素直に頷いた。「ただの根回しみたいなもの。慎也さんにその気があるなら、いつか協力できるかもしれないと思って」自分ひとりが獅子堂家に立ち向かうなど、あまりに無謀な挑戦だ。だが、この男と手を組むのなら話は別。決して、無駄な足掻きにはならないはずだった。「元夫のことが忘れられないんじゃなかったのか?獅子堂家を敵に回すってことは、あいつを敵に回すってことだぞ。お前にその覚悟があるのか?」「誰かをどうこうしたいわけじゃない。ただ、自分の身を守りたいだけ。紫苑の性格を考えたら、絶対に私を放っておかないはず。もし、彼女と再起不能になるまでやり合うようなことになった時、少しでも逃げ道が欲しいの」心理学を学んだ一葉には、紫苑の瞳の奥に宿る殺意がはっきりと見えていた。彼女は今、爪を研ぎながら息を潜めているだけ。チャンスさえあれば、躊躇なく自分を殺しに来るだろう。だからこそ、いくつも生き残るための道筋を考えておかなければならないのだ。「それは、深水言吾を信用していないということか?あいつが獅子堂家を掌握できないとでも?」慎也は面白そうに眉を上げた。「それとも……彼がいずれ紫苑と本当の夫婦になるのが怖いのか?」一葉は目を伏せた。「昔から言うでしょ、『人に
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第365話

客室乗務員がドアをノックし、食事を運んでくると、すぐに静かに退出していった。一葉と慎也は、自分たちが関わるスマートチップ工場の件について話しながら、食事を進める。会話が弾む中、突然、慎也の顔が赤く上気したかと思うと、その端正な顔立ちは見る見るうちに土気色に変わり、言葉を発することもできなくなってしまった。その様子に、一葉は瞬時に事態を察し、急いで彼のそばへ駆け寄った。背後から慎也の体を抱きかかえると、両手を固く握り、彼の腹部に当てる。拳の内側を上に向け、一気に腕を締め上げた。左の拳の親指と人差し指の付け根で、みぞおちの内側上方に向かって強く圧迫する。それを何度も繰り返すと、やがて「カハッ」という音と共に、慎也の口から果物の種が飛び出した。先ほど彼が口にしたドライフルーツの種を、誤って飲み込んで喉に詰まらせてしまったらしい。吐き出された種を見つめ、慎也はしばし、どんな顔をすればいいのか分からないといった体で固まっていた。これほどの男が。常に冷静沈着で、威風堂々としたこの男が。食べ物を喉に詰まらせるなど!……詰まらせる、だと?信じられない、という思いが彼の全身を駆け巡る。まさか、自分が、こんな……しかも、よりにもよって、一葉の前で!目の前で山が崩れようとも眉一つ動かさないであろう慎也の顔が、赤、青、白とめまぐるしく色を変えていく。生まれて初めて、どうしていいか分からない、という感覚に襲われていた。「慎也さん?慎也さん、大丈夫?」吐き出したのを確認したのに、彼が何も言わないので、一葉はまだ何か喉に詰まっているのではないかと不安になった。慌てて再び彼の背後に回り込むと、先ほどと同じように体を抱きかかえ、両手の拳を腹部に押し当てる。そして、もう一度、強く圧迫を加えた。慎也は、本当はもう何ともなかった。しかし、彼女にこうして背後から強く抱きしめられると、その柔らかさと温もりに、思わず「もう大丈夫だ」と言うタイミングを逸してしまったのだ。一葉がそうしてしばらく圧迫を繰り返しても、慎也からの反応はまったくない。彼女は眉をひそめ、不安でたまらなくなった。呼び出しボタンで客室乗務員を呼ぼうとした、その時だった。慎也が不意に彼女の手を掴んだ。「もう大丈夫だ」一葉が反応する間もなく、彼はくるりと振り返り
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第366話

死の淵から、一瞬にして生還したのだ。まさに、天国と地獄。恐怖が過ぎたのだろうか。機体が安定してしばらく経っても、一葉は全身から力が抜けたままで、先ほどの恐怖からまだ完全に抜け出せずにいた。慎也もまた、一葉を抱きしめたまま離そうとはしなかった。腕の中にある柔らかな感触が、彼の胸に名状しがたい感情を呼び起こす。ただ、本能がこのままでいたいと告げていた。客室乗務員が安否を気遣ってドアをノックする音で、一葉ははっと我に返った。慎也もまた、その音を合図にしたかのように、腕の力を緩めた。腕の中から温もりが消え、ふいに訪れた空虚感が、慎也の心までをも侵食していくようだった。何かに気づいたように、彼の瞳——常でさえ底知れぬ光を宿すその黒い瞳が、今はさらに深い、感情の読めない色を湛えていた。客室乗務員が個室を片付け、静かに去っていく。その直後だった。さっきまでの穏やかな態度はどこへやら、慎也は突然、氷のように冷たい表情になった。「まだ仕事が残っている。席に戻れ」一葉は一瞬、言葉を失った。なぜ彼が突然これほど冷淡になったのか理解できなかったが、我に返ると、それ以上問い詰めることはしなかった。自分と慎也との関係は、あくまでも旭の叔父だからという理由で、彼が少し気にかけてくれているに過ぎない。それ以上の特別な繋がりなど、二人の間には存在しなかった。九死に一生を得たというのに、その感慨を分かち合うでもなく、恐ろしいほど冷え切った態度を見せる彼の真意がどうであれ、今の彼女にはどうでもいいことだった。……あれほどの激しい乱気流。死の淵を何度も彷徨い、もう少しで命を落とすところだった。だからだろう、飛行機が着陸するやいなや、多くの人々が堰を切ったように家族に電話をかけ始めた。一葉も、その中の一人だった。生死の境を経験した人間は、誰しもが命の尊さを噛み締め、心の底から愛する人に会いたくなるものだ。彼女は祖母の紗江子に、そして恩師である桐山教授に電話をかけた。大切な人々の声を聞き、ようやく心が落ち着いたところで、荷物を持って飛行機を降りた。出口へ向かう途中、慎也の個室に目をやったが、彼の姿はすでになかった。一葉もまた、足を速めてその場を後にした。今回の学会では、主催者側が手配した送迎車とホテルが
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第367話

空港から市内へ向かう道は一本道。慎也の車は、ちょうど一葉たちの車の後方を走っていた。運転席の小瀬木が、前方の車の異常な暴走に気づく。「慎也様!青山さんの車が!」書類に目を落としていた慎也は、猛然と顔を上げた。前方の車が狂ったように疾走するのを目にした瞬間、彼の表情が険しくなる。「追え!」その時、携帯が鳴った。旭からだった。電話の向こうの甥の声は、焦りに満ちていた。「叔父さん!今、一葉姉さんと一緒か!?たった今情報が入ったんだ、あのチャールズ家の女が一葉姉さんの命を狙ってる!」「詳しい計画までは分からないけど、空港から市内へ向かう途中で手出ししてくるはずだ!頼む、気をつけてくれ!オレも今、そっちに向かってる!」旭の言葉に、慎也の眼差しは、さらに恐ろしいほど冷たく沈んでいった。……アシスタントが「まるで死神にでも取り憑かれたみたい……」と呟く中、一葉は運転手の様子に違和感を覚えていた。本当にブレーキが故障したのなら、もっと焦り、狼狽するはずだ。なのに、今の彼はどこか覚悟を決めたような……まるで、我々と心中するつもりであるかのような顔をしている!以前、ネットニュースで見た記事が脳裏をよぎる。F国では最近、凶悪な犯罪組織の流入により、自爆テロが多発している、と。次の瞬間、一葉はバッグから、かつて言吾から護身用にと渡されたスプレー状の薬品を取り出し、運転手に向かって噴射した。いつでもハンドルを奪えるように身構えながら。この薬は即効性がある。運転手が意識を失った隙にハンドルを奪い、そのまま川へ突っ込めば、助かるはずだ!だが、一葉が行動を起こすよりも早く、運転手は自らハンドルを切り、一直線に川へと向かって車を突っ込ませた。一葉は息を呑んだ。自分の勘違いだったのだろうか。これは自爆テロなどではなく、本当にブレーキが故障しただけだったのか……?車が水中に没していく、その時だった。路上では、多くの車が次々と停車した。「車が川に落ちたぞ!早く助けに行くんだ!」誰かの叫び声を皮切りに、六、七人の人影が、次々と橋から川へ飛び込み、こちらへ向かって泳いでくるのが見えた。口では救助を叫んでいる。だが、なぜだろう。一葉の胸には、拭いきれない不気味な違和感が渦巻いていた。自分の心が捻くれている
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第368話

聡明な後輩は、すぐに落ち着きを取り戻し、一葉の意図を瞬時に察したようだ。彼女が何かを言いかけた。だが、その言葉を遮るように、一葉は車のドアをこじ開け、彼女の背中を強く押した!すでに数人の人影がこちらに向かって泳いでくるのが見える。一葉はもう一度アシスタントの背中を押し、早く行くようにと目で促した!生死の境にあっては、誰もが生を渇望するものだ。一葉を見捨てたくない、一人にしたくないという想いはあっても、アシスタントは涙を浮かべながら、必死にその場を泳ぎ去った。アシスタントが泳ぎ去って間もなく、救助を叫びながら飛び込んできた男たちが、一葉を取り囲むように迫ってきた。誰かが逃げるのを見て取ると、彼らは水中で合図を交わし、二手に分かれようとした。数名がアシスタントを追い、残りが一葉を捕らえようという算段だ。それを見た一葉は、とっさに自分自身を指差し、彼らの狙いは自分だと知らせようとした。そしてすぐさま向きを変えると、アシスタントに逃げる時間を与えるため、彼らを引きつけるように反対方向へと泳ぎ出した。だが、彼らは一葉の意図を理解しながらも、それを信じることはなかった。計画通り、数人をアシスタントの追跡へと向かわせたのだ。彼らの動きは驚くほど素早かった。一葉が必死に水を掻いて進んでも、あっという間に追いつかれてしまう。男たちに頭を強く水中に押さえつけられ、身動き一つ取れなくなった。彼らのようなプロの殺し屋を前にしては、一葉が身につけた護身術など、物の数にも入らない。抵抗する隙さえ、与えられなかったのだ!彼らは、あくまでも事故に見せかけて彼女を溺死させたいのだろう。直接手を下すことはせず、ただひたすら、その頭を水中に押さえつけ、窒息させようとしてくる。絶え間なく流れ込んでくる水が気管に入り、息ができない。死が迫る窒息の苦しみの中、朦朧とする一葉の意識に、ふと過去の記憶が蘇った。——両親の気を引きたくて、自ら海へと歩みを進めた日。本当に溺れ、死の淵を彷徨ったあの時。もう駄目だと思った瞬間。天から舞い降りた神のように、言吾が現れ、自分をこの窒息の苦しみから救い出してくれた。あの時の彼は、一葉にとって。本当に。神様そのものだった。彼への想いは、きっとあの瞬間から始まったのだろう。
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第369話

一葉たちを乗せた車が完全に走り去ったのを待って、慎也はようやく視線を戻した。「一葉さんのところのアシスタントは?」小瀬木は即座に答えた。「はい、無事救助し、病院へ搬送済みです。命に別状はないとのことです」「そうか」 慎也は淡々とそれだけ相槌を打つと、自らも車に乗り込み、その場を後にした。病院……一葉が目を覚ました時、すでに夜の帳が下りていた。ぼんやりとした視界に映ったのは、ベッドの傍らで自分を見守る旭の姿だった。その事実に、一葉はひどく驚かされる。自分がまだ生きていること。そして、まさか旭が助けに来てくれたなんて……!一葉が意識を取り戻したことに気づくと、旭は勢いよく立ち上がった。「姉さん、気分はどう?先生を呼んでくるよ!」大丈夫、と伝えたかった。だが、いざ口を開いてみると、酷く掠れた声しか出なかった。その瞬間、ふとあることに思い至り、一葉は医者を呼びに行こうとする旭の腕を慌てて掴んだ。彼女が何かを言うより先に、旭は尋ねたいことを察したようだった。「姉さんのアシスタントなら無事だよ。姉さんより先に目を覚ましてた」その言葉を聞いて、一葉は安堵のため息を漏らす。目の前でふっと笑みを浮かべる旭を見つめながら、やはりこの子は頼れる弟だと、一葉は改めて思う。視線を交わしただけで、心の内をすべて読み取られてしまうのだから。旭が呼んだ医師による診察が再び行われ、一葉は水を少し飲んだことを除けば、他にどこにも異常はないと診断された。その結果に、彼は心の底から安堵したようだった。温かい飲み物で喉を潤すと、声はずいぶん楽になった。一葉は不思議そうに旭を見つめた。「旭くん、今日はX国にいるはずじゃなかった?どうしてここに?それに、私を助けてくれたなんて……」「急にこっちで会議が入ってさ。だから、姉さんより数時間早く着いてたんだ」旭は叔父の言葉を思い出していた。姉を救うよう叔父に頼んだのは自分だ。ならば、自分が救ったと言っても嘘にはならないだろう。それに、これは命の恩などと大袈裟に語れるものではない。すべての元凶は、自分なのだから。原因を伝えるべきだと覚悟を決め、彼は続けた。「……姉さんを助けに来れたのは、偶然じゃないんだ。この事件は、オレのせいで起きた。姉さんの命を狙った連中は、オレが原因
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第370話

一葉の固い決意を前に、後輩はそれ以上何も言わなかった。一葉と後輩が車に乗り込み、出発しようとした、その時だった。一台の車が、すぐ隣に滑るように停車した。車から降りてきた人物の姿を認め、一葉は思わず目を見開く。後輩もその人物に気づき、驚いた様子で一葉の腕を引いた。「一葉さん、あれって……あなたの元旦那さんのお兄さんと、その奥様では?」一葉が頷きかけた、その瞬間。それまで何ともなかったはずの紫苑の身体がぐらりと傾き、言吾の胸へと倒れ込んだ。言吾はためらうことなく彼女を抱きかかえると、慌てて病院の中へと駆け込んでいく。その光景を見つめながら、一葉は思い出していた。水の中で意識が遠のいていく、あの極限の状況で……自分が心の底で願っていたのは、奇跡のように言吾が現れて、自分を救い出してくれることだったのだ。思わず、自嘲の笑みが唇から漏れた。一葉の様子の変化に気づいたのか、後輩が振り返った。「一葉さん、どうかなさいましたか?」一葉は視線を二人から引き剥がし、「何でもないわ」と短く答えた。そして、運転手に車を出すよう、静かに告げた。病院を出て車が走り出すと、後輩はしばらく一葉の様子を窺っていたが、やがて堪えきれなくなったように口を開いた。「一葉さん……さっきの様子を見て思ったんですけど、やっぱりあの人、獅子堂烈じゃなくて、あなたの元旦那さんなんじゃないですか?」彼女は一葉のアシスタントになって日が浅いわけではない。そのため、一葉の些細な感情の揺れ動きには敏感だった。言吾の姿を目にした途端に翳りを帯びた一葉の表情を見て、ネットで囁かれているあの噂を思い出さずにはいられなかったのだ。亡くなったのは獅子堂烈本人で、今生きているのは深水言吾なのではないか、と。この世には、知れば知るほど危険が増すこともある。一葉は静かに首を振った。「……あの人は、私の元夫じゃないわ」そう言うと、彼女は手元に広げたばかりの資料に視線を落とした。何か言いかけた後輩を遮るように、もう一部の資料を彼女に手渡す。「あなたもこれ、目を通しておいて。会場に着いたら、しっかり勉強するのよ」このような国際学会に参加できる機会がいかに貴重なものか。それを思い出した後輩は、すぐにゴシップへの興味を失い、真剣な眼差しで資料に没頭し始めた。
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