All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1491 - Chapter 1500

1510 Chapters

第1491話

章真が動いたことで、その若手タレントの芸能人生は完全に終わった。ようやく少し名前が売れ始めた矢先、自らすべてを台無しにしたのだ。その夜、彼女はテレビカメラの前で涙ながらに窮状を訴えたが、世間もファンも同情しなかった。一方、結安のファンたちはようやく胸を撫で下ろし、次々とコメントを寄せた。【正直、葉山さんを義兄として受け入れるのは今でもかなり複雑。ずっと様子見だったし、スキャンダルが出たときは『結安ちゃん、男を見る目なかったんじゃない?』って本気で思った。でも今回を見る限り、葉山義兄、とりあえず誘惑には耐えたらしい】【まあ、もう少し様子見かな】【今のところ、まだ特に好きではない】【私はやっぱり藤堂駿派】【でも駿って結婚したんじゃなかった?】……そんなこんなで、また一日中ネットを賑わせる騒ぎとなった。結安だけは、その件について二度と口にしなかった。そうして、あっという間に週末がやってきた。本来なら、章真も結安と一緒に同窓会へ行くつもりだった。駿が帰国するというのに、自分が行かないわけにはいかない――少なくとも章真はそう思っていた。ところが急な問題が起きた。H市の支社でトラブルが発生し、しかも章真本人が出向かなければ収拾できないという。金曜の夕方、章真は一度楓ヶ丘邸へ戻ってきた。その表情には、珍しく憂いが滲んでいる。結安はリビングスペースで台本を読んでいた。出張のことなら、すでに桐生から聞いている。章真はH市へ行かなければならない。結安としては、むしろ好都合だった。同窓会に夫まで連れていくなんて、どう考えても気詰まりだ。それに、駿には会いたいと思っていた。結婚して、妻との間には子どもも生まれたと聞いている。きちんと「おめでとう」と伝えたかった。昔とは何もかも変わってしまったとしても、かつて大切だった人が今、幸せに暮らしている。それは素直に嬉しいことだった。ドアが開き、章真が入ってきた。結安は台本を置き、自然に立ち上がる。「もう出るの?荷物ならまとめてあるわ。クローゼットに置いてあるから、持ってくるね」章真はスーツのボタンを外しながら、片手で彼女の細い手首を掴んだ。そのままドアに鍵をかける。次の瞬間、結安の身体はソファへ押し倒されていた。
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第1492話

土曜の夜。章真はどうしても立都市へ戻れなかった。結安は一人で同窓会に顔を出した。ほかの同級生とはそれほど親しいわけではない。今回来たのも、主に駿に会うためだった。元気にしているのか、幸せに暮らしているのか、それを自分の目で確かめたかった。駿の妻のことも、結安は知っている。かつて入院していた駿を担当していた看護師で、とても感じのいい女性だった。二人が結婚したと聞いたとき、結安は心から嬉しかった。同窓会の会場は、ごく普通のレストランだった。一人あたり五、六千円ほどの店で、ワインだけは駿が持ち込んだものだった。結安は運転手付きの黒いベントレーでやってきた。車を降りたところで、ちょうど数人の女友達と鉢合わせた。彼女たちは話をしながら何度も入口のほうを気にしていたが、ベントレーから降りてきた結安を見ると、一瞬だけ何とも言えない表情を浮かべ、すぐに笑顔を作った。「結安、今日は葉山さん来てないの?」結安はディオールのロングコートを羽織り、アクセサリーは控えめなものだけ。手にはエルメスのバーキンを持っていた。運転手に二言ほど伝えてから、彼女たちを振り返って微笑む。「出張なの」すると、女たちは露骨に意地の悪いことを言い始めた。「まさか、女優と密会じゃないでしょうね?お金持ちの男なんて、みんな似たようなものよ」「そうそう。まして葉山さんみたいな男なら、寄ってくる女なんていくらでもいるでしょ。結安もあまり気にしないほうがいいよ。外に二、三人くらい女がいたって騒がないこと。せっかく子どもを二人産んで手に入れたセレブ生活なんだから、台無しにしたらもったいないじゃない」……言い終えると、口元を手で隠して笑う。けれど、手頃な値段の服も、型落ちのスマートフォンも、今日のためにわざわざ美容院で整えてきた髪も、かえって彼女たちの内側にある自信のなさを滲ませていた。結安は穏やかに笑った。「心配しないで。この暮らし、大事に守るから」ちょうどそこへ運転手が紙袋を手に戻ってきた。「奥様、こちらを。先ほど葉山様から連絡がありまして、ショールをお渡しするようにと。それから、お酒はほどほどにして、身体を冷やさないようにとのことです。戻られたらご自分で確認なさるそうです」結安は袋からディオールのショールを取り出した。
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第1493話

章真の愛は、もちろん結安本人にしかわからない。世間が、子どもがいるからだとか、結安が若く美しいからだとか、彼女が名家に嫁いだことをどう評そうと、そんなことはどうでもよかった。大切なのは、結安自身が穏やかに暮らしていることだった。義母との確執もなければ、小姑との面倒な関係もない。何もかもが気楽で心地よく、章真も夫として十分すぎるほど気遣いを見せ、プロポーズしたときに約束したことを一つずつ守っていた。世間がどれだけ強がって悪く言おうと、結安が満ち足りた日々を送っているという事実までは変えられない。悠希が8か月になった頃、結安は女優業に復帰した。復帰とはいっても、林監督の顔を立てる意味合いが大きく、同時にこれを最後の作品にするつもりでもあった。作品は一本の文芸映画。結安が演じるのは、美術を学ぶ学生だった。すでに二人の子どもを産んでいるとはいえ、結安自身まだ若く、普段からきちんと身体を整えている。少女を演じても、まるで違和感はなかった。撮影地は立都市の隣にある寧城市。週末になると、結安が家へ戻ることもあれば、章真が子どもたちを連れて撮影現場まで会いに行くこともあった。章真という存在もあって、結安は芸能界では少し特殊な立ち位置にいた。くだらないスキャンダルとは無縁で、仕事を得るために不本意な要求をされることもなければ、現場で不躾に身体へ触れてくるような人間もいない。それほど恵まれた環境にいても、結安はやはり女優を辞めるつもりだった。家庭に入るためではない。もう一度、学び直したかったのだ。さすがに今から医学の道へ戻ることは難しい。けれど、立都美術大学にはまだ学籍が残されていた。ならば、芸術を学ぶのも悪くない。自分自身の感性を磨けるし、いつか子どもたちに教えてやることだってできる。その考えを章真に話すと、彼は妻のやりたいことに水を差すような夫ではなかった。むしろわざわざ一緒に調べ、いくつか候補まで考えてくれた。最終的に結安が選んだのは、油絵とヴァイオリンだった。すべて決めたあと、結安はふと思いついたように尋ねた。「これって、ちょっとカルチャースクールに通う老後みたいじゃない?」そのときの章真の表情は、何とも言えないものだった。それでも、ゴシップ誌は相変わらず二人の結婚生活を
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第1494話

天候は最悪だった。空も地上も灰色に塗り潰され、視界はほとんど利かない。章真は車に乗り込むとハイビームを点け、ほとんど迷うことなく発進した。この瞬間、彼はその先に待つ結果など何ひとつ考えていなかった。耀石グループから自分がいなくなればどうなるのか。両親が息子を失ったらどうなるのか。子どもたちから父親がいなくなったらどうなるのか。そんなことは、頭の片隅にすらなかった。考えていたのは、ただ一つ。――立花結安のことだけだった。暴風に砂塵や小石が巻き上げられる中、章真の車が先頭を走り、その後ろを警備スタッフの車が二台追っていた。だが、あまりにも天候が酷かった。後続の二台は章真ほど無茶な速度では走れず、いつしか完全に引き離されてしまった。章真は構わなかった。アクセルを踏み込み、そのまま突き進む。幸い、道路を走る車はほとんどなかった。それでも時折、風に飛ばされた何かがボンネットへ叩きつけられ、激しい音を立てる。章真は一度も速度を落とさなかった。アクセルを深く踏み込んだまま走り続けた。およそ40分後。ようやく例の廃倉庫へ辿り着いた。壊れかけた入口の前には、一台の古びた車が停まっている。ドアの一枚が無惨にもぎ取られていた。おそらく、飛んできた何かが激突したのだろう。倉庫の屋根を覆うトタン板も、荒れ狂う風と砂塵の中で今にも剥がれ落ちそうに軋み、耳を刺すような金属音を響かせていた。見るからに危険だった。だが章真は、そんなものに構っていられなかった。車を施錠すると、タオルで口元を覆い、そのまま倉庫の中へ駆け込んだ。「結安!結安!俺だ、章真だ!結安、どこにいる!」……必死に張り上げた声は、渦巻く砂塵の中へ消えていく。凄まじい風に、たちまち呑み込まれた。倉庫は途方もなく広かった。敷地だけでも20万平方メートル近くある。この暗闇の中、一人の人間を探し出すなどあまりにも困難だった。しかも今、章真には手を貸してくれる者すらいない。足元に転がる瓦礫を踏むたび、不気味な軋みが響く。いつ床が抜けてもおかしくなかった。それでも章真は、一度たりとも引き返そうとはしなかった。スマートフォンのライトだけを頼りに奥へ進み、声を張り上げ続ける。「結安!
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第1495話

これほどまでに、二人の距離が近づいた瞬間はなかった。――心までもが、近かった。この瞬間だけ、結安はあの頃の小さなアヒルに戻り、彼はまた、あの頃の葉山おじさんに戻っていた。章真は結安をきつく抱き締めていたが、いつまでも感情に浸っているわけにはいかなかった。ここはまだ危険な場所だ。3階建てのこの倉庫は、いつ崩れ落ちてもおかしくない。もしそうなれば、二人とも命を落とすかもしれない。章真は死にたくなかった。結安と一緒に死ぬことなど、なおさら望んでいない。二人は一緒に、生きて帰らなければならない。まだ一緒にしていないことが、あまりにもたくさんある。彼は結安と、この先何十年も生きていきたかった。いつか二人とも白髪になる、その日まで。下へ降りる道のりは、一歩一歩が綱渡りのようだった。今の章真は、これまでになく自分たちの命を惜しんでいた。結安を守りながら、慎重に階段を下りていく。ようやく地上へ辿り着き、泥水の中を進んで車のそばまで来ると、章真はたまらず彼女の顔を両手で包み、何度か口づけた。そして――涙をこぼした。その直後だった。結安の背後で、廃倉庫が轟音とともに崩れ落ちた。結安が振り返ろうとすると、章真が止める。「見るな。結安、見なくていい」……それでも結安は、一度だけ振り返った。そして、その場で息を呑んだ。巨大な建物が、跡形もなく崩れ落ちていた。もしまだ中に何か残っていたなら、すべて瓦礫の下で押し潰されているだろう。章真があと少し遅れていたら――自分は間違いなく死んでいた。目の前の男は、今も全身を震わせている。彼がどれほど「失うこと」を恐れていたのかが伝わってきて、結安の胸はますます締めつけられた。彼の口づけを拒まず、低い声で宥めるように言う。「章真、もう大丈夫よ。ちゃんとここにいるから」言わなければよかったのかもしれない。その言葉を聞いた途端、章真の口づけはかえって激しくなった。確かめるように、何度も何度も唇を重ねる。結安は顔を上げたまま、小さな声で訴えた。「寒い……先に帰ろう?」そこでようやく章真は動きを止めた。俯いて彼女を見つめる。それから、ゆっくりと自分の頬を彼女の頬へ重ねた。数秒の沈黙のあと、勢いよく車のドア
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第1496話

寝室で、二人は互いを求め合った。大きな窓の向こうには、街じゅうの灯りが広がっていた。大災害に見舞われた夜、その明かりは一晩中消えることがなかった。この街に暮らす人々には、これから長い復興の日々が待っている。そして、大切な人を失った者たちには、簡単には癒えることのない深い悲しみが残された。……翌朝、章真と結安は揃って報道陣の取材を受けた。メディアが最も聞きたがっていたのは、もちろん章真が危険を顧みず妻を救出した一件だった。だが、章真は片手を上げ、その話題を制した。結安と並んで座り、その隣には想乃が大人しく腰掛けている。想乃は先ほどからずっと、父親の顔を見上げていた。章真は娘の小さな頭を優しく撫で、それからカメラへ視線を向けた。「妻を助けるのは、夫である私の責任です。称賛されるようなことではありません。それよりも今回の災害で被害に遭われた方々、そして大切なご家族を亡くされた方々に、心よりお見舞いとお悔やみを申し上げます」少し間を置き、静かに続ける。「復旧と復興には長い時間がかかります。また、恐怖や喪失から立ち直るまでに、長い時間を必要とする方も大勢いらっしゃると思います。企業としてできることを考え、耀石グループは復興支援のために400億円を拠出することを決定しました。特に、ご家族を亡くされた方々への継続的な支援に力を入れていきます。そして今回、私と妻を助けてくださったすべての方々に、心から感謝申し上げます」言葉を終えると、章真は結安とともに立ち上がった。そして二人揃って、深々と頭を下げた。災害とは、本来これほどまでに重いものだ。決して、彼が妻への愛を世間に見せつけるための舞台ではない。自分と結安がともにいること。自分が彼女を愛していること。そして、どれほど深く愛しているのか。そんなことは結安一人が知っていれば、それでよかった。公共の関心を自分たちの私生活に向ける必要などない。そのため章真はすぐに、自分と結安に関するトレンドを取り下げるよう指示し、限られた情報発信の場を、本当に支援を必要としている人々のために使うよう求めた。この取材は生中継されていた。結安を応援し続けてきた何千万人ものファンは、その姿を見ながら涙を堪えられなかった。これまでには、あまりにもいろいろな
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第1497話

3か月後。秋。立都美術大学のキャンパスでは、金木犀がいっせいに花を咲かせ、甘い香りが辺り一面に漂っていた。結安は資料を何冊も胸に抱え、のんびりとキャンパスを歩いていた。その脇を黒いベントレーが通り過ぎる。ところが数メートル進んだところで、車はなぜかゆっくりとバックしてきた。窓が下がり、知的で端整な男の顔が覗く。――章真だった。章真は窓枠に片腕を預け、魅力的な笑みを浮かべた。「すみません、ちょっとお尋ねしてもいいですか?立花結安という学生を見かけませんでした?僕の妻なんです。迎えに来たんですが」結安も胸に本を抱えたまま、わざと真面目な顔で付き合った。「さっき、ここを通りましたよ」章真はまだ笑っている。「黒いワンピースにフラットシューズを履いてませんでした?黒髪で、腰が細くて、肌が白くて……すごく若くて綺麗な女性なんですが」結安の頬が赤くなった。周囲には学生が何人もいて、こちらを見ている。章真もそれ以上はからかわず、車から降りると後部座席のドアを開けた。中には二人の子どもがいた。想乃は可愛らしくお行儀よく座り、悠希は小さな指を口に入れている。章真は妻を見つめ、柔らかな声で言った。「前に二人で行った店で食事しよう。昔やり残したことを、今から叶えに行くんだ。あの店だって、若いカップルしか入れないわけじゃないだろ?」結安は悠希を抱き上げ、章真を見た。「意外と執念深いのね。やっぱり歳のせい?最近、宇佐美もあなたは扱いにくいって言ってたわよ」章真が眉を寄せる。「あいつ、いつも陰で俺の悪口を言ってるのか?」結安は笑った。「いつもじゃないわ」車に乗り込むと、そのまま例のレストランへ向かった。店に着き、結安が悠希を抱き、章真は想乃の手を引いて中へ入っていく。ごく普通のレストラン。ごく普通の家族の食事。何でもない、ありふれた1日。――それこそが、結安の欲しかった暮らしだった。……結安は静かに暮らしたかった。けれど、現実にはそうもいかなかった。彼女は女優で、それもトップクラスの人気を誇る国際的な映画賞の受賞女優だ。さらに章真の妻であり、周防本邸とも深い縁を持つ。そんな彼女が目立たず暮らすなど、そもそも無理な話だった。大学へ通い始めて間も
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第1498話

だが今、思慕はようやく彼女が誰だったのかを知った。――氷室黛衣だった。どうりで、彼女の首元にある小さな赤いほくろに、妙な見覚えがあったはずだ。あの夜、記憶の片隅に焼きついたものだった。あの夜の若く華奢な身体と、普段の黛衣の保守的な装いはあまりにも印象が違い、簡単に結びつくものではなかった。だから彼女が6年間も自分の秘書を務めていたというのに、思慕はまるで気づかなかったのだ。6年。子どもが二人や三人いてもおかしくないほどの年月だ。――6年も無駄にした。思慕の女性関係は、驚くほど潔白だった。男女の情を知らないわけではない。ただ、あの夜の出来事がずっと心に引っかかっていた。だからこそ、あの女性を見つけたかったのだ。確かに惹かれるものがあった。せめて相手が自分の好きになれる女性なのか確かめ、付き合えるかどうか試してから、それでも駄目ならほかの相手を考えようと思っていた。ところが10年が過ぎても、何の手掛かりもなかった。当時、大学でそれなりに知られた存在だった思慕のことを、相手が知らなかったとは考えにくい。その後は栄光グループを継いだ。探そうと思えば、いくらでも探せたはずだ。それなのに、彼女は一度も現れなかった。そのことが長年、思慕の胸に引っかかっていた。最近ではさすがに諦め、普通に結婚して家庭を持つことも考え始めていた。――その矢先に、突然正体がわかった。よりによって、氷室黛衣だったとは。夜はすっかり更けていた。華やかだったパーティーも、そろそろお開きの空気になりつつある。周防家の次期当主である思慕は、10億円の小切手に署名した。結安への応援という意味も込めた寄付だった。それを済ませると、彼は腰を屈め、酔いつぶれていた自分の秘書を抱き上げた。そのまま会場の外へ向かって歩き出す。周囲は一斉に目を見張った。中でも驚いたのは、両親だった。慕美が思わず声を上げる。「思慕?」思慕は振り返り、穏やかに微笑んだ。「母さん、黛衣が飲みすぎたみたいだから、先に休ませてくるよ」――黛衣。「氷室秘書」ではなかった。慕美は、そのわずかな違いを聞き逃さなかった。隣にいる夫とそっと視線を交わす。黛衣は、よく見ればかなり綺麗な娘だ。ただ、普段
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第1499話

翌朝。黛衣はいつもの時間にきっちり目を覚ました。目を開けた瞬間、すぐ目の前にあったのは、上司である思慕の端整な顔だった。一瞬、固まる。まだ頭がぼんやりしていて、状況がまるで飲み込めない。すると男がさらに顔を寄せてきた。高い鼻先が彼女の鼻に触れ、ひどく掠れた声が耳元に落ちる。「黛衣、俺たち昨日、したんだ。俺は初めてだった。どうしてくれる?責任、取ってくれるんだろ?いつうちへ挨拶に来る?結婚の支度にはどれくらい出せそうか、それも先に教えてくれ。俺も両親に話を通しておきたいから。実家はJ市だったよな?車で4時間なら大した距離じゃない。親戚が多いなら、結婚式のときは貸切列車を手配してもいい。ホテルは立光でどうだ?叔母のところの売上にもなるし、身内なら多少は融通も利くだろ。今は景気もよくないし、節約できるところは節約したほうがいい。そう思わないか?」黛衣はぼんやりと最後まで聞いていた。しばらく経っても、何を言われたのか頭の中で整理できない。たぶん、目の前の顔があまりにも綺麗だから。たぶん、距離が近すぎるから。それに、布団の下では思慕の手が彼女の腰をしっかり抱いていて、ほとんど身動きも取れなかった。その掌はひどく熱い。――あの夜と、同じくらい。けれど彼は今、「初めてだった」と言った。思慕は、全部忘れているの?黛衣は彼を見上げたまま、口ごもって何も言えなかった。すると思慕は身体を翻し、彼女をベッドへ押しつけるようにして上から見下ろした。距離がさらに近くなる。これではもう、何もわからないふりなどできない。しかも黛衣には、10年前のあの一度しか経験がなかった。昨夜、本当に何かあったのかどうかさえ判断できず、まんまと彼の言葉を信じ込んでしまう。「べ、別に……責任なんて取らなくても……」思慕は片手で彼女の顎を支えた。赤く染まった小さな顔を、じっくり眺める。いつもの生真面目で隙のない姿とは、あまりにも違っていた。それに――思っていた以上に、彼女は女性らしく綺麗だった。こうして近くにいるだけで、思慕の中にもはっきりと熱が生まれる。今すぐにでも抱き締めたくなるほどだったが、もう少し彼女をからかいたくて、どうにか堪えた。そして、いかにも真面目な顔で言う。「黛
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第1500話

思慕は、ずいぶん長いこと黛衣に口づけていた。実のところ、彼はあまりにも長く禁欲生活を送っていた。30を過ぎているというのに、女性経験はたった一度。それもまだ若く、何もかもが曖昧なまま勢いに任せた一夜だった。味わう余裕などまるでなく、何がどうだったのかさえ、今となっては朧げな記憶しか残っていない。もちろん、黛衣を求める気持ちはある。けれど、それ以上に思慕は、彼女とこれから少しずつ恋をしていきたかった。一時の欲に急ぐ必要はない。それに――こうして彼女をからかうのも、思いのほか楽しかった。長いキスのあと、思慕はわざと尋ねた。「俺、キス上手かった?昔の彼氏より上手い?」……黛衣が答えられるはずもない。彼女にとって、男は思慕しかいなかった。しかも思慕が思っているような「一度」ではない。二人が関係を持ったのは、10年前を含めれば二度だ。10年前のあの夜はひどく痛かったのに、今回はまったくそんな感覚がなかった。どうしてなのか訊いてみたかったが、そんなことを口にできるほど黛衣は慣れていない。結局、恥ずかしそうに首を振った。「い、いない……彼氏なんて、いたことない」思慕は思いがけない事実を知ったように、ぱっと目を輝かせた。「じゃあ、お前も初めてだったのか?それなら、お互い責任を取らないとな」そして、いかにももっともらしい顔で続ける。「こうしよう、黛衣。お前の実家へ行く前に、まず俺の両親と食事をしよう。お前がどうやって俺をその気にさせたのか、きちんと説明して両親を安心させてくれ。そのあと俺がお前の家へ挨拶に行く。それでどうだ?もちろん結納金は十分に用意するし、結婚式も盛大にする。お前のほうから積極的だったからって、扱いを悪くしたりはしない」思慕は寛大そのものといった口調で付け加えた。「黛衣、俺は心が広いから」黛衣は、自分を見下ろす男をじっと見つめた。その瞳には柔らかな笑みが宿っている。こんなにも綺麗な顔をしていて、気前もよく、こんなにも寛大で――自分に「初めて」を奪われたというのに、それすら気にしていない。なら、自分にできることは、やはり責任を取ることくらいなのかもしれない。黛衣が真剣に考え込んでいる間、思慕もまた、こっそり彼女の表情を観察していた。顔だけは至って真面
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