All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

ヘリの上で、京介は眼下を見下ろしていた。抱き合う二人を見つめる視線は、かすかに潤んでいる。彼はなおも冷静に指示を飛ばした。「一号機、目標地点へ降下。二号機は待機。一号機が負傷者を収容したら降下せよ」そう告げて通信機を外し、琢真に微笑みかける。琢真は顔を仰ぎ、黒髪がローターの烈風に煽られて舞い上がった。昨夜の暴風とは違う、この風は——生還の希望をもたらす風だった。一号機がゆっくりと降下し、安全距離に入ると梯子が下ろされ、救助隊員が素早く降下してきた。琢真の体にロープを巻き付け、少しずつ引き上げていく。その後、二号機が位置につき、輝を収容して廃棄されたクレイドンのサッカー場を離れた。風に揺られながらも、琢真の視線は終始、輝に注がれていた。頭を大きな手が撫でる。穏やかな声が降りてきた。「安心しろ。死にやしない」太陽の光が鋭く降り注ぎ、海は黄金色に輝いていた。下方に広がるブライドンの町は、まるで地獄のようだった。濁流に浮かぶ無数の亡骸。名も知らぬ人々は一つひとつ丁寧に収容され、身元確認の時を待っていた。京介は目を伏せ、優しい声でつぶやく。「お前、強運だな」琢真は何も言わず、ただ輝を見つめ続けていた。……一時間後、ロンドン。ある名門私立病院の独立ヴィラ型VIPルーム。京介の計らいで、輝と琢真は同じ広い一室にベッドを並べた。八十平米の贅沢な空間に、さらに四つの専用バスルームが備わり、六つ星ホテルに匹敵する豪奢さだった。その代償もまた桁外れで、一泊一千万円。治療は万全に行われた。琢真は脚の負傷と絶食による衰弱程度で軽症だったが、輝は背に十センチの鉄片を受けていた。あと二寸深ければ心臓を貫いていた——まさに九死に一生。瑠璃はずっと二人のそばを離れず見守っていた。病室の外では、京介がきちんと着替え、家族との連絡に追われていた。どんな状況でも、彼の美意識は揺るがない。寛夫妻も心配のあまり、舞の手配で家族を呼び寄せることにした。瑠璃の母と夕梨を除き、茉莉と美羽は専用機で直行。深夜には到着する予定だった。電話を切った京介が病室の扉に手をかけた時、隙間から光が漏れ、琢真と輝が並んで話す姿が見えた。瑠璃は小さなキッチンで果物を切っているらしい。京介はそっと扉から離れ、庭に出て煙草に火を点けた。深
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第492話

夜も更け、周防家の人々と子どもたちが到着した。京介自ら空港へ迎えに行き、寛夫妻と随行の者たちを二台の車に分乗させ、一時間後、車列はVIPヴィラの前に滑り込んだ。車の扉が開き、京介は美羽を抱き上げ、片手で茉莉を引き連れながら二階の病室へと歩いていく。病室の扉を開けるなり、寛夫妻は息子の顔を確かめ、さらに琢真の様子を見てようやく胸を撫で下ろした。どちらも無事——命があってよかった。母は安堵と共に、息子の頬に触れて小言を漏らす。「見なさい、家族をどれだけ心配させたか。今回は京介のおかげよ。きちんと礼を言いなさい」輝は顔をしかめ、ふてくされた声を出した。「礼?ヘリで宙吊りにされたお礼かよ。母さん、死ぬほど痛かったんだぞ」その横で、京介はふっくらした小さな手を弄びながら、視線も上げずに鼻で笑った。「本当なら海に放り投げてやればよかったんだ。そしたら伯母さんに泣き言を言う暇もなかっただろ……なあ、琢真?」名を呼ばれた琢真は、照れくさそうに笑うしかなかった。美羽がふわりと声をあげる。「お兄ちゃん」鼻にかかった返事をした琢真に、彼女は京介の腕から抜け出して駆け寄り、力いっぱい抱きついた。幼い彼女は父の病床を思い出して怯えていたのだろう。兄も同じように消えてしまうのではないかと。琢真はその気持ちを汲み取り、片腕で妹を抱き寄せ、背を優しく撫でた。少年ならではの不器用な優しさだった。「大丈夫。俺は元気だから」その言葉を聞いて、ようやく美羽は涙を止めた。一同の胸がじんわりと熱くなる。輝はやや嫉妬を覚えたのか、茉莉を手招きしながら美羽に言った。「おいおい、ここに叔父さんもいるんだぞ。こっちに来て、傷口に息でも吹きかけてくれよ」二人の子どもはすぐに駆け寄り、一人は頬を摘み、一人は必死に息を吹きかける。寛夫妻は泣き笑い、瑠璃も微笑む。京介はソファに身を投げ、腕を組んで脚を組み替え、冷ややかに嗤った。「兄貴は毎日違う馬鹿をやってくれるな。見てて飽きない。まあ、一緒に暮らせば案外楽しいかもしれない」輝は睨み返して毒づく。「黙れ、この野郎」両親は叱るどころか、久々に交わす兄弟の舌戦を面白がっていた。——命を救ってくれたのは京介だ。そうでなければ、白髪の親が黒髪の子を見送る苦しみを味わうところだっ
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第493話

一週間後、輝と琢真の傷は大方癒えた。京介の手配で専用機に乗り、立都市へ戻る。輝の行き先は、瑠璃のもとだった。寛夫妻は厚かましく居座るわけにもいかず、周防家へ戻った。ただし心配のあまり、毎日のように顔を出す。すっぽんのスープや鳩肉——滋養のつく料理を欠かさず用意させ、二人のもとへ届ける。その甲斐あってか、一か月も経たぬうちに、どちらもふっくらしてきた。琢真はまだ若い。動けばすぐに元へ戻る。だが輝は中年の不安に苛まれ、庭の縁台で西瓜をかじりながら、遠くに立つすらりとした女の姿をじっと見つめ、母に愚痴をこぼす。「母さん、これ以上食わせないでくれよ。俺も琢真も豚になっちまう。太ったら、どうやって瑠璃を取り戻すんだ。昔は外見に惹かれてたんだぞ。身体を鍛えてなきゃ、また夢中にさせられないだろ」母は呆れたように言う。「二人の気持ちが通じ合っていれば、中身が大事でしょう?」輝は真顔で返した。「中身……俺にあったか?」母は笑いながら、今度は琢真に西瓜を勧める。「食べておきなさい。今が旬よ。英国に戻ったら、こんな味にはなかなか出会えないから」琢真は素直に笑って「はい」と答えた。ちょうどその時、茉莉が塾から帰ってきた。潤んだ頬、小さな二つ結び、可憐なワンピース。きちんと挨拶をしてから、琢真のそばへ呼ばれる。差し出された西瓜を一口かじると、甘い汁が溢れ出た。「甘い?」と琢真。「うん、甘い」と少女は頷く。二人の距離は近く、琢真の鼻先をくすぐるのは西瓜の香りと、少女の透き通るような匂いだった。「もう少し食べなよ」「うん」夢中で西瓜を頬張る少女を見つめる横顔——輝はその光景に釘付けになり、母の言葉も耳に入らなかった。「輝、お前も瑠璃とのことを急がなきゃ。女の青春は限りがあるんだから」「わかってるよ」心ここにあらずの返事。……夜更け、岸本家。輝は寝返りを打っても眠れなかった。胸の奥に重いものが沈んでいるのに、言葉にならない。諦めて身を起こし、枕元の煙草を取り出す。青白い煙が静かに立ちのぼった。脳裏には、夕暮れの光景が甦る。考えれば考えるほど、胸がざわつく。半分ほど吸ったころ、寝室の扉が月明かりに照らされて開いた。薄衣に包まれた女の体が、しなやかに歩み寄ってくる。輝はまっす
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第494話

月末、輝の傷は癒え、再び仕事に戻れるほどになった。彼は瑠璃に執拗に迫った——二人きりの正式なデートを。瑠璃の心はすでに決まっていた。共に生きていくのだと。大人の男女に、これ以上の駆け引きや矜持は要らない。残業のない週末、それは絶好の時機だった。金曜、彼女は輝から電話を受けた。甘やかな声で誘いをかけてくる。そのとき瑠璃の手には、以前彼から渡されたカードキー受話器越しの低い囁きに、彼女は小さく「ええ」と答え、それから長い沈黙が二人を包んだ。その沈黙さえ、抑えきれぬ想いを物語っていた。やがて輝が言う。「俺が先に行って準備する。整ったら迎えに行く」「いいえ。私が自分で行くわ」……それが今宵、二人の正式な逢瀬となった。瑠璃は少しだけ身支度を整えた。仕事用のスーツを脱ぎ、真珠のイヤリングに、シルクのブラウスと花柄のタイトスカート。二人の子を産んだ体は、熟した果実のように優美で、凛として艶やかだった。薄暮の街。車を降りてヒールを鳴らし、マンションの前に立つ。腕には一束の赤い薔薇。カードキーは使わず、彼女はベルを鳴らした。すぐに扉が開き、黒いシャツとパンツに身を包んだ長身の男が現れた。百八十七センチのすらりとした肢体はひときわ目を引き、四十を越えてなお、女を惹きつけてやまない眼差しを放っていた。「薔薇は、本来なら男が贈るものだ」その言葉と共に扉が開く。——一室を埋め尽くすのは、黒薔薇。ソファにも、床にも、テーブルにも、そして寝室や浴室にまで散りばめられていた。「ずいぶん派手ね」指先で花弁をなぞりながら、瑠璃は顔を上げた。「てっきり赤薔薇かと思ったわ」輝は腰に手を回し、低く嗄れた声で囁く。「この黒薔薇は俺だ。部屋中に散らしたのは、どんな風にでもお前に踏みにじられたいからだ」瑠璃は彼の襟をつまみ、囁く。「周防さん、ずいぶん言葉遊びが上手くなったわね」「こんな機会は滅多にない。思いきり楽しんでくれ」彼はテーブルに身を預け、挑発的に笑った。「あなたより先に欲しいのは、ご飯よ。もう飢え死にしそうなんだから」瑠璃の言葉に、輝の瞳が熱を帯びる。そのまま強く抱き寄せ、頭を大きな掌で包み込んだ。「瑠璃……俺はこれまでお前に苦労ばかりかけた。だが、まだやり
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第495話

嵐が過ぎ、部屋には静けさだけが残った。輝は瑠璃を抱きしめながら、ふいに口を開いた。「瑠璃……茉莉の姓を周防にしてやろうと思う」半ば夢の中にいた瑠璃は、ぱちりと目を開いた。「どうしたの?ご両親の意向?」輝は気怠げに笑った。「いや、うちの両親はもう何も言わない。これは、俺自身の考えだ」瑠璃は意外に思った。十歳を越えた茉莉の姓について、輝がこれまで一度も口にしたことはなかった。急に言い出したのは、年齢を重ねて跡継ぎを意識したからだろうか。続いて輝が語った言葉に、瑠璃は大きく心を揺さぶられた。それは、彼が本当に変わったのだと感じさせるものだった。かつてのように、何があっても勝ち負けにこだわる幼さはもうなかった。「お前が籍は入れないって言ったのは賛成だ。俺の人生はもうお前に預けたんだから、受け取ろうが拒もうが関係ない。けれど……茉莉を周防にするのは、あの子たちのためなんだ。琢真と茉莉は妙に気が合うだろ?相性もいい」瑠璃はさらに驚いた。今までそんなこと、考えたこともなかった。けれど思い返せば、琢真はいつも茉莉を気遣っていた。英国からわざわざお菓子を送ってきたり、電話をかけてきたり——確かに二人は自然に寄り添っていた。「子ども同士が仲良いのは当たり前じゃない?私たち、少し考えすぎよ」「いいや、少しくらい先を見ておく方がいい。もし大きくなって気持ちが通じたら……俺たちが籍を入れてなければ、茉莉が周防の姓を名乗って周防家で暮らし、そこから嫁いでいけば何の問題もない」「あなた、本当に先の先まで考えるのね」彼女が小さく笑うと、輝はその頬に触れ、かすれた声で問うた。「それでも……お前は、好きでいてくれるか?」「ええ。好きよ」答えと共に、彼女は唇を重ねた。輝は後頭を支え、すぐさま主導権を奪い返す。二年間の空白を埋めるように、貪るような口づけが重なり、さらに深まっていった。……夜更け、疲れ果てた瑠璃は眠りに落ちた。輝は満ち足りた顔で彼女の寝息を聞きながら、部屋の後片付けを始める。高価な黒薔薇はそのまま残したが、散らかった食事の皿やワインの空瓶、破れたストッキングはすべて片付けて下に捨てた。翌朝、家事代行に見られれば瑠璃が恥ずかしがるに違いないからだ。後片付けを終えると、彼はひとりバルコニーに出て、煙
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第496話

背後から、足音が近づいてきた。次の瞬間、女の柔らかな体が背中に寄り添い、黒髪が彼の肩に絡む。胸の奥にざわめきが走り、男はわざと横を向いて言った。「もう一度なんて無理だぞ……瑠璃、三十路女は盛りって言うけど、お前は本当にその通りだな。欲が尽きないんだな」瑠璃はそんな彼の毒舌を知り尽くしている。笑って受け流し、首に腕を回して、温もりを分かち合うひとときを味わった。やがて家に帰れば、彼らはただの保護者役に戻る。ひとつの部屋で眠ることもできない。だからこそ、髪をかき上げて耳もとに熱を注ぎ込むように囁いた。「さっきの……どうだった?」わざわざ聞くまでもない。先ほどの熱は互いに分かっている。男は低く笑って返した。「お前はどう思う?」女は唇を重ね、かすれた声で囁いた。「すごく、よかったわ」彼はそのまま膝に抱き寄せ、深く口づけ、額に軽く口を落とす。「帰ろう」……帰り道、雨が降り出した。車の外は湿り気を帯び、輝の運転は慎重だった。ワイパーが激しく動き、立都市のネオンをかき混ぜる。滲んだ光は乱れてなお、美しい。今夜、二人は再び結ばれた。過去のことは口にせず、たとえ輝が高宮絵里香の死を目撃していても、もう触れなかった。瑠璃もまた、あのニュースを見たはずだ。やっと二人きりになれたのだ。語るのは、楽しいことだけ。愛の言葉だけ。雨は途切れることなく降り続けた。信号が赤に変わったとき、男はそっと女の手を握った。——瑠璃、愛している。……十年後、初秋。立都大学。茉莉は唇を噛み、机の中に押し込まれた数通のラブレターを慌てて鞄に詰め込んだ。誰かに見られたら困る。鞄を背負い、校内の並木道へ出る。放課後、家に帰るときはいつも、この美しいプラタナス並木を歩くのだ。心ここにあらずのまま進んでいたせいで、固い胸板にぶつかった。鞄が床に落ち、散らばった手紙が足元に広がる。茉莉の頬はたちまち赤くなり、相手を見もせずに小さな声で謝った。「すみません」そのとき、階段の上に立つひとりの青年。雪のように白いシャツは皺ひとつなく、黒のスラックスは細身の腰に完璧に沿っている。気品ある若い面差し。長身で端正なその姿は、どこか近寄りがたいほどだった。一方で、茉莉は黒のゆったりしたTシャツに白いレースのスカ
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第497話

茉莉の頬がうっすら赤く染まり、散らばった手紙をまとめて鞄に押し込んだ。「なんでもないの」青年はそれ以上追及せず、彼女の鞄を受け取って肩に掛け、もう一方の手で細い腕を掴んだ。「茉莉、この二年、ちゃんと食べてたのか?こんなに痩せて……」少女は小さな声で抗議する。「ちゃんと食べてるよ。ちゃんとお肉もあるの」琢真は横目で彼女を一瞥し、どこか含みのある視線を送った。だが少女は気づかない。二年ぶりに会えた喜びに胸を満たし、歩くときもぴったりと寄り添ってくる。近すぎて、彼女から漂う清らかな甘い香りがまた鼻をかすめる。小さな顔は白く愛らしく、まるで生クリームをつけた子犬のようだ。自然と琢真の眼差しは柔らぎ、駐車場へと彼女を連れて行った。黒のロールスロイスを開け、鞄を後部座席に放り込み、助手席のドアを開く。「乗れ」茉莉が座ると、琢真は昔のように当然のようにシートベルトを掛けてやる。二人の距離は近く、互いの匂いが重なった。ひとつは梅のように清らかで、ひとつは淡く松の香をまとい、ふたつの匂いは爽やかに溶け合っていたその長い指先がふと少女の体に触れ、彼女は子猫のように小さく声をあげた。「岸本琢真」彼は目を上げ、低く返す。「ん」自分のシートベルトを締めながら、ゆっくりと言葉を続けた。「この二年は学業と、叔父さんの英国支社の仕事で忙しくて帰れなかった。でも、もう行かない。これからは翔和産業を継ぐつもりだ」茉莉は小さく頷いた。「いいと思う」彼は横顔をまっすぐ見つめた。「他に、聞きたいことは?」至近距離にある端正な顔に、茉莉は頬を赤らめつつもわずかに青ざめて、小さな声で尋ねた。「お仕事以外で、大事なことってあるの?」「あるさ。急いでる。一年以内に片づけるつもりだ。茉莉、俺はたぶん……若くして結婚する」……少女は唇を噛み、どもりながら問う。「だ、誰と……?」琢真は指先で彼女の黒髪を一房すくい取り、絡めて弄ぶ。親密で甘やかな仕草に、声は驚くほど柔らかかった。「結婚したいんだ。誰がいいと思う?茉莉が言うなら、その人にする。全部お前に任せたい」茉莉は慌てて髪を引き戻し、顔をそむけた。「私の結婚じゃないんだから!私が決めることじゃないよ!」琢真は彼女の横顔をじっと見
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第498話

そして今も、まさにそう。琢真は車から降りる彼女を待ち、軽く笑って言った。「茉莉、俺が帰ってきたのに……お前、まるで歓迎の儀式もしてくれないんだな」——男だって、儀式が欲しい。茉莉はゆっくりと歩み寄り、照れくさそうに抱きついた。次の瞬間、彼女はがっしりした胸に閉じ込められる。大きな手が子犬を撫でるように頭を支え、彼の笑い声が頭上から落ちてきた。「茉莉、この二年、俺もずっとお前に会いたかった」「わ、私は、会いたいなんて言ってない」琢真は否定せず、ふっと笑った。口とは裏腹の心——それは周防家の得意技だ。輝もまた、よくそうだった。少女の鈍さに時に歯がゆさを覚える。だが、鈍い方がいい。これからゆっくり教えていけばいい。時間はたっぷりあるのだから。……三人はビルの二十六階へ。琢真は林と会議に向かい、茉莉を秘書に預けた。この和田秘書を雇った理由は、彼女が二児の母であり、上の子は十八歳。茉莉より二つ年上という点が安心できたからだ。案の定、和田は世話上手だった。夕食と甘味を用意し、広々とした休憩室に茉莉を案内して、背面投影の映画を流す。六十平米もある贅沢な空間——琢真の暮らしぶりを物語っていた。だが、どんな場所でも長くいれば飽きが来る。夜十時。茉莉は眠気に抗えず、ソファの肘掛けに突っ伏して眠り込んでしまった。……夜の静けさ。風が黒いカーテンを揺らし、影を揺らめかせる。映画はとうに終わり、ソファには眠る少女。黒髪が乱れ、脚が白く伸び、頬は透き通るほどに柔らかい。首筋の白さが、息を呑むほどに艶やかだった。ドアの前に立つ琢真は、スーツのまま、長くその光景を見つめていた。想いが静かに収まるまで立ち尽くし、やがて歩み寄って腰を下ろす。彼女を起こそうと手を伸ばしたそのとき——視界の端に、散らばった封筒が映った。正確には、恋文。琢真はそれを拾い、何気なく目を通す。【今日は、キャンパスにプラタナスの雨が降った】【あの木の下で、こんなに長く立ったのは初めてだ】【ただ、君を待ちたかった】……「今どきの子は、みんなこんなのが好きなのか」一通も二通も、同じような言葉ばかり。眉を寄せていると、茉莉が目を覚ました。ぼんやりとした視線が、彼と、その指先にある手紙を捉える。顔が一瞬で真
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第499話

頭が、またもや大きな手に撫でられた。琢真はじっと見つめ、ゆっくり問いかける。「恋愛って、できるか?」茉莉は相変わらずしどろもどろ。「う、うまく……できないと思う」彼は笑い、袖口のカフスを外して脇のテーブルに置き、再びその掌を彼女の頭に落とした。「ちょうどいい。俺も、あまり得意じゃない」——え……?彼も?意味を掴めず、問い返す勇気もない。そっと膝の上から降りようとした瞬間、再び捕まえられ、髪に顎を預けられる。低い声が響いた。「夜食を食べてから帰ろう」本当はお腹いっぱい。でも怖くて逆らえない。子どもの頃はあんなに近しかったのに、大きくなるほど、彼に心の内を話すのも憚られるようになった。普段は海外にいるくせに、彼の管理はやたら厳しい。その連絡役を務めるのが美羽で、代わりに中学生に大人気の限定カードをもらってご機嫌。茉莉は、もう怒る気力すら湧かなかった。……やがて、あの恋文を入れていた鞄は琢真の手に掛けられた。彼は茉莉を連れて秘書室を通り抜ける。「副社長」秘書たちが一斉に立ち上がる。若いながらも数年の経験を積んだ琢真は、軽く頷くだけ。「もう上がれ」二人が去ると、部屋はざわめきに包まれた。「二人、やっぱりそうなんじゃ?」「幼なじみでしょ?」「副社長の周りに女を見たことある?アシスタントも男だし、唯一の秘書は四十代の既婚女性……未来の奥様に安心させるためなんだろうな」……エレベーターの中。「疲れたか?」琢真が見下ろす。「疲れてないです」まるで業務報告のように背筋を伸ばす茉莉。彼女は小さな顔を仰ぎ、紅を差したような唇に白い歯がのぞく。すっと通った鼻梁は仄かに艶めき、全身からは青梅のように清らかな香りが漂って——どうしても想像を掻き立てられるのだった。「そうか。ならいい」……その後、琢真は茉莉を連れて、評判の和食料理屋へ向かった。秘書が事前に個室を押さえていたのだろう。到着すると、板前姿の店主が二人を二階の小さな座敷へ案内した。広くはないが、二十五畳ほどの落ち着いた空間だった。注文はすべて琢真が決めた。滋養の鯛茶漬けに、いくつかの季節の小鉢。さらに茉莉には冷やした柚子ソーダを。料理はすぐに並び、琢真は仲居を下がらせると、
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第500話

車内は薄暗く、しかしフロントガラスの向こうには、立都市でいちばん賑わう街並みが広がっていた。眩い灯火が窓越しに差し込み、琢真の若々しく端正な顔立ちに陰影を刻む。その奥深い表情は、一瞥しただけでは心の内を窺い知れない。琢真が家を出て一人暮らしを始める——そう聞いて、茉莉はなんとなく胸がざわついた。自分でも理由が分からず、小さな声で尋ねる。「どうしても、引っ越すの?」琢真は短く「うん」と応え、ふいに顔を向けてじっと見つめる。その眼差しは妙に深い。「キス、したことある?」少女はぶんぶんと首を振り、頬がみるみる赤くなる。「な、ない……!」かすかな音を立てて、琢真はシートベルトを外した。男らしい体躯がぐっと近づく。先ほど夜食の時に上着を脱ぎ、今は白いシャツ一枚。ネクタイさえ外されている。二人の距離は、まつ毛が触れ合いそうなほどに近づいた。低くかすれた声が落ちる。「俺もないんだ。だから……少し練習してみないか?」茉莉は慌てふためき、両手で彼の胸を押し返す。薄いシャツ越しに熱が伝わってきて、すぐに逃げたくなる。だが細い手首を捉えられ、強引に引き寄せられた。「目を閉じろ」兎のように怯えた彼女はぎゅっと瞳を閉じ、けれど怖々とまた開けてしまう。潤んだ視線で見上げながら、声を震わせた。「琢真、私たち……」言葉は最後まで届かない。彼がゆっくりと顔を傾け、その唇を塞いだからだ。「んっ……」小さな呻きとともに、彼女はもがく。細い腰を揺らすが、すぐにシートベルトを外され、そのまま抱き上げられて彼の膝の上に座らされる。白い脚が黒いスラックスに重なり、息を呑むほど艶めいた光景となる。「琢真……琢真……」慣れない恐れと、初めて触れる男性への戸惑い。しかも相手は、あの琢真だった。彼自身も不器用だったが、学ぶことの早さはさすがで、すぐに深い口づけを覚え、互いの息を分け合う。酸素を失いそうになるまで続いた後、やっと唇が離れる。羞恥と熱気がこもり、車内は甘い匂いに満たされた。茉莉の心臓は激しく打ち、胸の奥で兎が暴れているみたいだ。目を合わせることもできず、彼の肩に顔を埋める。長い黒髪が彼の胸元に絡まり、まるで甘えながらも逃げ場を求めるようだった。だが、琢真の心も同じだった。これが初めての口づけ。彼の鼓動も荒
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