All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 471 - Chapter 480

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第471話

その頃、神谷家では入院の手続きがすでに済まされていた。病室に駆けつけた大輔と優奈が目にしたのは、入院準備を終えた実の姿だった。優奈はいきなり声を荒げた。「どこからお金が出たのよ?私の家を売ったんじゃないでしょうね!」延生の両親は顔を曇らせ、言葉を失った。あの別荘は、本来、息子に結婚のため与えた家で、名義も延生ひとりのものだ。子の命を繋ぐため売却するのは当然の判断であるはずなのに——優奈はそれすら拒む。あまりの身勝手さに、両親の胸は煮えくり返った。——あの時、情に流されて嫁を迎え入れたのが間違いだった。そう思わずにいられなかった。だが、すべてはもう遅い。哀れなのはただ幼い子どもだけだ。神谷家は今や、ただ全力を尽くし、万が一治らぬとしても財産を投げ打って心残りをなくそうとしていた。延生の母は泣きながら言う。「もういいから……せめて抱いてやって。ずっと泣いてたのよ」だが優奈は首を横に振った。子を産んだのは延生を縛るためであり、愛情など欠片もなかった。彼女が気にしているのは、ただ自分の住む家が売られてしまうかどうかだけ。「家を売っちゃダメ。絶対に!」延生の母は涙を流した。「あんたの身から落ちた子なのに、どうしてそんなに冷たいの」優奈は冷笑を浮かべ、唇を尖らせる。「私が子を思いやって、誰が私を思ってくれるの?結婚の条件は『別荘で暮らす』だったのよ。今になって家もなく、子どもも病気?そんな厄介ごと押しつけられて……冗談じゃない」延生の母は怒りに震え、言葉を失った。小さな実生は泣き続ける。だが優奈は抱こうともしない。延生との言い争いばかりだ。延生は彼女と大輔の顔を見渡し、ようやく悟った。「さっき、どこへ行ってた?瑠璃のところか?俺たちの問題に、彼女を巻き込むな!そもそも彼女を裏切ったのは俺たちだ。背中で笑われても仕方ない。優奈、お前はそれすら分からないのか!」その顔は狂気じみ、声は掠れていた。——子どもが病に伏せたときこそ家族は一つになるべきだ。家も車も売ればいい。麦飯を食ってでも治すのが親だ。だがこの女は違った。母である資格も、人間である資格すらない。延生の母は息子の姿に涙したが、どうすることもできなかった。優奈はなおも嘲笑を浮かべる。「ほら、やっぱり心は赤坂瑠璃の方
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第472話

夜。瑠璃の携帯に、一通の短いメッセージが届いた。——延生からだった。そこにあったのは、ただ【ありがとう】彼女はしばし画面を見つめたが、やがて静かに携帯を伏せた。返事はしない。延生も分かっているだろう。もはや交わることのない道だと。だからこそ彼女は姿を現さず、院長に任せただけだった。それは善意からではない。ただ、偶然に繋がりがあっただけのこと。子の治療費は家を売り、車を処分して捻出するべきもの。瑠璃が払うつもりは毛頭ない。けれど神谷家には届かぬ医療の手が、自分には届く。ひとつの命のため、それを差し伸べることはできる。夜更け、冷たい光に照らされながら、瑠璃は淡い笑みを浮かべた。やがて風聞に耳した。神谷家は結局、婚家の別荘を売ったと。優奈はその半分を手にすると、子を振り返りもせずに姿を消し、二度と実生を訪れなかった。まるで産まなかったかのように。のちに優奈は年上の小商いの男と再婚したが、実体のない会社に蓄えを奪われ、離縁。最後は両親の狭い持ち家に戻り、罵声飛び交う日々を送ることになる……(後日譚)。……病室の扉が静かに開いた。輝が戻ってきたのだ。ほのかに酒の匂いを纏い、恐らく接待帰り。彼は真っ先に赤子のベッドへと歩み寄り、小さな寝息を確かめる。ちょうど夕梨が目を覚ましていた。輝は上着を脱ぎ、やわらかく腕に抱き上げ、頬を緩めてあやした。その表情は、得難い宝を抱く人のように優しい。神谷家のことも知っていた。だが彼は口に出さない。——くだらない話だ、と。瑠璃はただ彼を見つめていた。やがて、静かに口を開く。「お酒、飲んだでしょう」問いかけではなく、淡々とした事実。「断れない席だった。顔を出して、薄い酒を一杯飲んだだけだ」輝は低く答えた。「市に図書館を一棟寄贈する話もあってな。避けられぬ席だった」説明ではなかった。ただ、夫婦のように何気ない話を交わしたかったのだ。——かつて、岸本と瑠璃がそうであったように。だが彼女はそれ以上何も言わず、窓辺に立って夜景を見つめた。輝は赤子をあやしながら言う。「明日、退院だ。午前中に使用人のおばさんを寄越して荷を整えさせる。俺が送ってから会社へ行く」言葉が途切れ、長い沈黙が落ちた。輝は静かに目を上げ、黒い瞳で彼女を見つめ
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第473話

唇を離した後、二人の顔には、言葉にできない陰影が宿っていた。瑠璃の身体は小刻みに震えていた。輝はなおも口づけを求めようとしたが、彼女は胸を押し返す。ただ、拒絶の言葉は喉に詰まったまま出てこない。けれども——許すこともしない。輝の瞳は夜よりもなお深く沈んでいた。「どうした?さっきは良かったじゃないか。お前はまだ、俺に気持ちが残ってる」「それは……あなたの錯覚よ」瑠璃は頬をそらし、取り繕うように平静を装った。「ただの一度の口づけ。それだけ」そう言いたかった。けれど、早鐘を打つ心臓と荒い吐息が、彼女の本心を容赦なく暴き立てていた。輝はじりじりと距離を詰め、目を逸らさずに低く囁いた。「覚えてるか?栄光グループの頃……京介にもしものことがあって、俺たちが会社のオフィスで——」言葉はどんどん逸れていく。「言わないで!」瑠璃の声は掠れ、震えていた。輝の声はさらに低く、熱を帯びる。「なぜ怯える?心の奥に今も残っているからだろう。俺たちの時間を……忘れられないから」瑠璃は無理に笑みを作った。「忘れられないことなら、他にもあるわ」輝は沈黙し、その瞳は夜よりもなお深く、底知れなかった。彼には分かっていた。彼女が何を指しているのかを。夜はさらに深まり、寄り添うことのできない二つの心を静かに包み込んでいった。……翌日、瑠璃は退院し、岸本の別荘へ戻っていった。そこからの日々は続いていった。瑠璃と四人の子ども、そして母。さらに、周防家の長男・輝。奇妙な家族のかたち。家の使用人たちは承知していた。周防家の御曹司がここにいるのは「家族を助けるため」——そういうことになっていた。誰ひとり口に出す者はいない。輝は客室に住み、日々会社へ通いながら、帰れば美羽と遊び、茉莉の話を聞き、夕梨を抱き、琢真の勉強を覗き込む。ただ、琢真はどこか距離を置き、淡々とした態度を崩さなかった。——男の子はそういうものだ。自分も昔はそうだった。そう言い聞かせながら、輝は「冷たい背」に笑みを貼りつけ、諦めずに距離を詰め続けた。時折、周防家の者たちが訪れ、子どもたちに贈り物を届けてくれる。誰も区別しない。茉莉と夕梨に届いたものは、琢真と美羽にも同じように渡された。年月とともに、琢真も周防家の人々には打ち解
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第474話

瑠璃は言葉を失っていた。長く黙したまま。輝は残りの茶を飲み干すと、ふいに口を開いた。「実は年明けからと言ったのには理由がある。先週、琢真の担任から電話があってな。成績が落ちたらしい。学年一位から五位まで下がったと」「五位でも十分優秀よ」瑠璃は静かに答える。輝は笑みを浮かべ、彼女を見つめながら低く言った。「俺も京介も、子どもの頃からずっと一位を譲ったことがなかった。琢真も将来は家業を継ぐんだ、同じくらい優秀でなければ」「話をするたびに自分を引き合いに出さないで……それに、あなたが言うほど立派でもないでしょう。結局は先祖の遺産にすがってるじゃない」輝は杯を置き、肩をすくめた。「どんな家に生まれるかも、一つの腕前ってやつだ」——厚かましい。瑠璃は思わず呆れた。だが、琢真の未来を案じる気持ちは彼女も同じ。「じゃあ、私が担任と話してみるわ」「もう行ってきた」輝は当たり前のように言った。「だから年明けまではお前に会社へ戻ってほしくない。この冬休みは名門の塾に入れて徹底的に鍛える。あいつは天分が高い。ひと冬あれば十分だ。もし伸びなければ、努力が足りないってこと。最近は妹たちばかり構ってるからな。特に夕梨を抱いてばかりで、このままじゃ遊びに溺れる」「まるで夕梨がおもちゃみたいな言い方ね」「違うのか?」……瑠璃は再び言葉をなくした。しばらく考え、結局は彼の提案を受け入れる。二、三か月会社を離れたところで困ることはない。だが琢真の学業を疎かにはできない。妹と遊ぶことに異を唱える気はなかったが。夕梨もお兄ちゃんに懐いている。こうして何気ない会話を交わす二人。瑠璃にはただの家庭の相談事でも、輝にとっては胸が熱くなるほどの幸福だった。子どもの将来を語り合う——それは、普通の夫婦と変わらない。夜を共にしないことを除けば。彼の視線は火を帯びていった。だが、瑠璃はさっさと彼を追い出した。寝室。琢真は腰をかがめ、夕梨をあやしていた。だが表情は沈み、どこか上の空だった。そこへ瑠璃が入ってきて、意外そうに目を見開く。「さっきの話、聞いてたのね」少年は小さく頷いた。「おばさん、心配しなくていい。僕は自分で取り戻せるから」琢真が通うのは立都市でも最高峰の学校。そこに集う
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第475話

琢真の瞳が、真っ直ぐに瑠璃を射抜いた。「おばさん、僕はあなたにもう一つの選択肢をあげたいんだ」その一言で、瑠璃はすべてを悟った。この小さな少年の胸の奥に隠されてきた、静かな優しさを。胸は複雑に揺れた。罪悪感も、安堵も、言葉にできない感情も——最後には、ひとつの抱擁に変わった。大きくなった彼を抱きしめることは滅多になかった。もう少年であり、子どもではないから。けれど、その瞬間、彼を強く胸に抱いた。女性の温もり。母が幼子に与えるような優しさ。彼がそんな温もりに触れるのは、本当に久しぶりだった。琢真の顔が彼女の胸に埋もれると、喉が詰まった。言葉が出ない。「おばさん」長い沈黙のあと、少年は掠れる声で囁いた。「行かせてよ。僕は学んで強くなる。そして帰ってきて、家を支えて、妹たちを守るんだ。彼女たちに苦労なんてさせない。一生、安心させてやる」せめて——おばさんのように、苦労させないために。母代わりの愛を享けてきただけではない。今度は自分が大人になって、その肩を支えたい。瑠璃は腕を解かなかった。月が西へ傾く頃になって、ようやく喉の奥から絞り出す。「でも、琢真。私はまだ心配なのよ」だが、一度決めた少年の気持ちは止められない。その夜、瑠璃は輝に相談した。聞いた瞬間、彼は苦笑した。「やれやれ……こいつ、本気で飛び立つつもりか。十年も行ってたら、帰ってきた時にはすっかり一人前だな」輝は直接、琢真とも向き合った。反抗心に燃えた眼差しは、自分の若い頃にそっくり。結局、彼は頷いたのだ。「あなた……賛成したの?」瑠璃は理解できなかった。応接室を行ったり来たりし、立ち止まって彼を睨む。「正気じゃないわ!もし何かあったら、私、何て顔して雅彦に詫びればいいの」輝はソファに優雅に腰かけていた。深夜にもかかわらず三つ揃えのスーツを崩さず、背筋は凛然。対照的に、瑠璃は羊毛のルームワンピースに、黒髪を解き下ろしたまま。柔らかな姿。その眼差しを見て、彼は面白そうに目を細めた。「私は真剣に話してるのよ!」輝は茶を一口含み、低く答える。「分かってる。だが、琢真はいずれ留学することになる。やがては家庭を持ち、妻や子の面倒を見るようになるんだ。ずっとお前の傍に置くつもりか?そのときまで手をかけ
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第476話

口づけの余韻がまだ残っていた。女は男の胸に押し込められるように寄りかかり、窓の格子越しに外の暴風雨を見つめていた。瞳には、どこか呆然とした色が滲む。——寂しさからではない。ただ、なぜ彼に隙を与えてしまったのか。一夜を共にしたわけではない。せいぜい、唇を重ねただけ。けれど、その一線は明らかに越えてしまった。男女の関係を変えるものは、必ずしも床を共にすることではない。体温の交わり、小さな仕草や眼差し、それだけで心は揺れる。自分は貞操を死守するような女じゃない。だが、これは——やはり違う。「何を考えてる?」輝の声が近い。「私たち、これは……間違ってる」瑠璃の声は震えていた。「なら、一生間違ったままでいい。子どもたちを育て上げて、老いたら山深い里に隠れ住もう。夫婦として、静かに」……瑠璃はかすかに笑った。「山里には会員制クラブもなければ、美人の接待もないわ。あなた、本当に堪えられる?」輝は目を細めた。「つまり、お前はその気なんだな」「違うわ。もう休む。戻る」そう言って背を向けた瞬間、細い手首が熱を帯びた掌に捕らえられる。輝の瞳は熱を帯び、そこに込められた意味を、成熟した女なら誰もが悟る。瑠璃もすぐにそれを理解し、かすかに囁いた。「私はまだ受け入れていないのよ、輝。無理に迫らないで」囁く声が弱く揺れた。「無理はしない」だがその指は、名残惜しそうに彼女の手を強く握りしめた。瑠璃はほとんど逃げるように部屋へ戻った。扉に背を預け、目を閉じる。——琢真、輝。どうしてこの家の男たちは、揃いも揃って心を休ませてくれないのだろう。けれど、琢真の留学はすでに決まった。正月を越えたら渡英し、輝が同行して手配を整えた後、帰国する。瑠璃の胸の奥にようやく一抹の安堵が広がる。しかし瑠璃の母は納得しなかった。「琢真は大事な子。雅彦の遺言でも託された存在だろう!」と、瑠璃も輝も叱りつけた。口汚くはなかったが、家の空気は一層ぎくしゃくしていった。それから琢真は夕梨を抱く時間を控えるようになった。一日せいぜい一時間。彼にとって夕梨は、父が残した最後の温もりに最も近い存在だから。机に向かい勉強をしていると、窓の外の大樹が目に入る。冬枯れの枝に、雨上がりの氷
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第477話

年の瀬も押し迫り、大晦日の少し前、家々では正月を迎える支度に追われていた。輝は久しぶりに周防家の本邸へ戻った。家族は皆揃っており、欠けているのは彼ひとりだけだった。席についた途端、京介の皮肉が落ちてきた。「兄貴はもう岸本家の婿殿。年中走り回って、正月ですら顔を見るのも稀だな」輝は杯を取り、一気に飲み干してから舞に視線をやった。「舞、お前が少しは彼を抑えろ」舞は微笑む。「私にそんな度胸、あると思う?」輝は大きく頷き、調子を合わせる。「その通りだ。うちの京介様は昔から反骨の塊。腹の底は悪知恵ばかりで、俺じゃ太刀打ちできない。まあ、勝てないなら仲間に入ればいい。そう思えば恥でも何でもない」京介は小ぶりな杯を弄びながら、指の関節が際立つその手で笑みを浮かべた。「兄貴も岸本家の婿になってからは、悟りでも開いたような顔をするようになったな」輝は笑いながら悪態をつき、自らも杯を干す。「俺があの家で婿をやるのがどれほど大変か……娘たちは素直で手がかからないが、琢真だけは骨が折れる。十代にしてすでにお前の若い頃を彷彿とさせる。表には出さずとも底が知れない。下手に優しくすれば媚びているようで、大人の威厳が立たない。だが冷たくすれば『実子ではないから』と勘ぐられる。託された子を守る立場として、その加減が難しい……継父というのは、本当に骨が折れるものだ」父の寛は満ち足りた顔で頷いた。「輝も成長したな」母も感激して目に涙を浮かべる。「本当に……安心したわ。琢真は良い子なのね。若い頃の京介にも似ているってことなら、きっと将来は抜群に優秀になるわ」礼の妻も顔をほころばせた。そのとき、京介が杯を回しながら冷ややかに笑った。「継父だって?兄貴、お前に正式な名目なんてないだろ。岸本家での立ち位置は何だよ。瑠璃の愛人か、それともただの居候か。聞いてるこっちが恥ずかしい」礼は箸で息子に菜を取ってやり、穏やかに言った。「ほら、食え。兄上を貶さなきゃ気が済まんのか。更年期か?」輝の母は慌てて笑いながら取りなした。「いいのよ、冗談半分。兄弟なんだから。普段は京介もずいぶん助けてくれてるし、正月はこうして賑やかに笑い合うのが一番」輝は肩をすくめる。「母さん、それって、俺の苦しみの上に楽しみを築いてるだけじゃ
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第478話

この夜、輝はかなり深酒をしていた。酒が回り、頭が霞のようにぼんやりする。結局、運転手に支えられて階段を上ることになった。廊下は静まり返り、家の老人も子どもたちもすでに眠っている。月明かりのような灯りが一室に差し込む。運転手が慎重に支えながら小声で言った。「岸本家は早寝ですね……まだ十時半なのに」その言葉と同時に、二階の踊り場に女の姿が見えた。薄手のコートを寝間着の上に羽織り、手にはテレビのリモコン。どうやらテレビを見ていたらしい。輝はまっすぐに彼女を見つめ、やがて横にいる運転手へ呟く。「待っていたんだ」運転手は返事を避け、瑠璃に会釈した。「赤坂さん、新年おめでとうございます」輝は淡々と口を開く。「まだ数日あるだろう」運転手は気づいて苦笑した。「では私は帰らせていただきます。赤坂さん、輝様をお願いします。ずいぶん飲まれましたから、あとで水を飲ませてあげてください。火照って眠れなくなりますから」瑠璃は黙って頷く。運転手が去ると、輝はゆっくりと手すりにすがり二階へ。頭上のシャンデリアが灯り、瑠璃の顔を柔らかく照らしている。まるで玉のように艶やかで、思わず手を伸ばしそうになる。だが彼女は顔を逸らした。軽率に見えるのと、屋敷には使用人がいるからだ。「部屋まで送る」長年付き合っていたからこそ、彼の酒癖は分かっている。数杯飲めば途端に方向感覚をなくす。寝かせてしまうのが一番だった。彼女が腕に触れた瞬間、逆に掴まれ、そのまま引き寄せられる。男は顔を伏せ、熱のこもった声で囁いた。「急ぐな。まだ子どもたちに顔を見せてない。夕梨はおとなしかったか?茉莉や美羽は楽しそうにしてたか?琢真はまた書斎に籠もって勉強してるんだろう?少しは外に出してやらないとな」瑠璃の胸に、淡い温かさと同時に感慨がよぎった。「みんな元気よ」そう答えながら彼を客室へと連れていく。輝は素直に従い、靴を脱ぎ、静かにベッドに横たわった。布団を腹まで掛ける。彼女が靴を揃え、室内履きを置いて出ようとしたとき、不意に手を掴まれた。強く引かれ、身体ごと彼の上に落ちる。厚い布団越しでも、火照った熱が伝わり、恐ろしいほどに灼熱だった。腰を押さえられ、逃げ場を失う。黄昏色の灯りの下、瑠璃の額に汗が滲む。声はかすかに震えた。
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第479話

女の呼吸は乱れ、途切れ途切れだった。彼女だってひとりの女、欲を持たないわけではない。——けれど、駄目なのだ。どうしても心が許せない。それは岸本のことだけではない。茉莉のあの出来事も心に重くのしかかり、決して割り切れなかった。かつてのように情人でいることさえできない。いざという時になると、心の奥から強烈な拒絶が込み上げる。この男と関係を結ぶことなど、あり得なかった。燃え立った情は、やがて静かに冷えていった。輝は無理に迫ろうとはしなかった。先ほどの衝動は酒の勢いに任せたものに過ぎない。実際、この屋敷で本当に彼女に手を出すことなどできるはずもない。心のどこかで、岸本への敬意がまだ残っていた。彼は彼女をそっと抱き寄せ、薄いコート越しに黒髪を撫でた。夜の静寂に溶けるような声で、掠れきった言葉を落とす。「嫌なら、それでいい。待てばいいんだ。瑠璃、俺は待てる」輝は何度も髪を撫で、瑠璃を腕の中に閉じ込めた。かつて若い娘に向けた優しさを、今は彼女に注いでいる。だが、心境はもう昔とは違う。自分は四十路を過ぎ、彼女もすぐに同じ歳を迎える。輝は抱きしめながら、痛切な表情を浮かべる。「瑠璃、ごめん。本当にごめん。もしやり直せるなら、すべてを最初からやり直したい。お前に一片の苦しみも、傷ひとつも負わせたくなかった。若い頃から、俺の心にあったのはお前だけだ。お前が孤独に子を産むなんてことも、他の男に嫁ぐことも、絶対にさせなかったのに……でももう、取り返しはつかない。それでも俺は、まだお前を愛している。一緒に生きたいと願っている。だから自分に誓ったんだ。輝の人生はもう自分だけのものじゃない。瑠璃と子どもたちのものなんだ、と。いいんだ、俺は待てる。お前が頷いてくれるその時まで、子どもたちが大人になるその日まで。離れたくないんだ。お前を、そしてこの家を」言葉を続けるうちに、男の声は嗚咽に変わった。酔ってはいない。ただ嬉しさと切なさが入り混じって胸を満たしていただけだ。瑠璃は彼の胸に顔を埋め、かすれた声で答えた。「今さら言ったって、何になるの」輝の胸は締め付けられるように痛んだ。「でも……俺たちには、もう新しい子どもたちがいるじゃないか。琢真は優秀だし、美羽も愛らしい。俺は……みんなが愛おしくてたまらない
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第480話

夜が更けても雪は降り続いていた。外の道には次第に積雪が増し、時折、夜更けに帰宅する車の轍が刻まれる。ひとひらひとひら舞う雪は、向かう先も定めず、ただ静かに降り積もる——世界のどこであっても、雪は同じ白さをしていた。その夜、美羽が目を覚ました。小さな体でそっと起き上がり、誰も起こさぬようにひとりで窓辺へと歩み寄る。外に舞い落ちる雪を、じっと見つめる。やがて小さな指を窓に伸ばし、雪に触れようとするが、指先は冷たいガラスに遮られるだけだった。——この雪のひと片に、パパが変わって帰ってきてくれたりしないかな。けれど雪は白い。最後に見た父の髪は黒かった。だからこれはパパじゃない。ママでもない。瑠璃は目を覚まし、隣にいたはずの小さな影がないことに気づく。薄闇の中で探すと、美羽が窓辺にしゃがみ込み、小さなお尻を突き出しながら外を見ていた。瑠璃は静かにベッドを抜け出し、ソファに腰を下ろして彼女に毛布を掛けた。「美羽、パパのこと考えてたの?」少女は横を向き、黒曜石のように澄んだ瞳で瑠璃を見つめる。言葉はなく、ただ小さな体を瑠璃の胸に飛び込ませる。細い腕がきゅっと瑠璃の体に絡みつき、くぐもった声を漏らした。泣き声とも、甘え声ともつかぬ音。瑠璃は外の雪を見つめながら、そっと囁いた。「パパは戻って来られなくてもね……美羽が毎日元気に過ごしていることは、ちゃんと分かってるわ。琢真もそうよ」ふっくらした唇が震え、小さな声が返る。「じゃあ、いつか……パパに会える?」瑠璃は頷いた。「ええ。ずっとずっと先の未来に。でも、その前にやることがたくさんあるわ。世界は広い。美羽が大きくなったら、あちこちを見て回れる。たくさんの人や出来事に出会えるのよ」美羽は甘えるように問い返す。「ママも一緒に行ってくれる?お兄ちゃんも、お姉ちゃんも?夕梨と……叔父さんも?」瑠璃はふっと微笑む。「どうなるか分からない。でもね、みんなで一緒に生きているはずよ。きっと」美羽は少し安心したように目を細め、けれど念を押すように囁いた。「じゃあ……ずっと一緒にいてね」瑠璃は頷き、小さな体を抱き上げる。まるで赤ん坊のように揺らしてあやすと、美羽は照れくさそうにしながらも、その温もりに身を委ね、やがて眠りに落ちた。閉じかけた瞼が一度
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