Semua Bab 私が去った後のクズ男の末路: Bab 481 - Bab 490

560 Bab

第481話

美羽は二階のバルコニーに立つ琢真を見つけると、ふわふわの声で叫んだ。「お兄ちゃん、早く降りてきて!きれいな灯りがいっぱいだよ!」その声に釣られるように、輝が上を見上げる。老いも若きも、二人の男の視線が空中でぶつかり合った。琢真は真っ直ぐに彼を見つめ、一歩も退かない。しばし視線が絡み合い、やがて茉莉の声が響いた。「お兄ちゃん!パパが線香花火いっぱい買ってきたよ!」琢真の瞳がわずかに揺らぎ、やっと返事をした。「今行く」部屋に戻り、ロングダウンを羽織り、クローゼットから羊毛のマフラーを二本取り出す。階下に降りると、妹たちをひとりずつ捕まえ、丁寧に首元へ巻いてやった。茉莉は「暖かい!」と笑みをこぼす。だが美羽は不満げに頭を振る。琢真はきゅっと結び直して言った。「我慢しろ。風邪引いたら大変だ」その時、輝が倉庫から束になった線香花火を持ち出してきた。火を点け、少女たちに手渡す。群青の暮色のもと、星のように瞬く灯りに照らされ、美羽と茉莉の笑顔は雪の白さに溶け込むように明るく、無邪気に輝いていた。足元には厚く積もった雪。けれど二人の小さな足は濡れることがない。瑠璃の母が心を込めて用意した特別な靴が、しっかりと守っていたからだ。美羽は本当に大切にされていた。——結局、胸の奥でぎこちなさを抱えているのは自分だけなのだ。あの子は実の娘と何ひとつ変わらぬほどに愛されている。燃え立つ火の光が、少女たちの顔をやわらかく染め上げていた。琢真は参加せず、ただ玄関の階段に立って眺めていた。そこへ黒一色の姿が近づき、彼の隣にしゃがみ込む。逆に、大人が低く、少年が高くなる構図となった。輝はポケットからタバコを取り出し、一本咥える。「雅彦さんに叱られそうだから我慢してるが、本当はお前にも味を教えたいところだ」琢真は黙ったままだった。心の中で思う。——大人になれば、きっと自分も煙草を口にするのだろう。商売の世界では避けられない。だが今は興味もない。輝は火を点け、煙をくゆらせながら横目で少年を見やる。「英国に行くのは勉強のためだぞ。ガキのうちから恋なんてするな……もしやったら、俺が飛んでって脚をへし折ってやる。お前の父さんから正式に権限を預かってるんだからな」琢真は心の中で驚いた
Baca selengkapnya

第482話

男たちが酒を酌み交わしている間、舞は子どもたちを連れて庭で花火を楽しんでいた。佳楠も来ており、山田との間に生まれた息子を抱いていた。賑やかな光景の中に、やはり欠けている存在がひとつある。佳楠はふと舞に顔を寄せ、小声で囁いた。「輝さんと赤坂さん、どうなってるの?」舞は視線を琢真と美羽へと移し、静かに答えた。「難しいわね。瑠璃と雅彦との関係はさておき、あの年頃の男の子の気持ちは大事にしないといけない。輝の立場はどうしても微妙になる。琢真は口数こそ少ないけれど、底の知れない子よ」佳楠は口元に笑みを浮かべた。「立派な親からは、やはり立派な子が育つものね……あの子、澪安に少し似ているわ。将来は互いに肩を並べるかもしれない」舞は淡々とした表情のまま続けた。「母も父も早くに失った分、澪安よりも思慮深くなるでしょうね……とにかく難しい子よ。でも瑠璃がいてくれて、本当に良かった。でなければ、母方の親族に財産を食い尽くされていたはずだから」「ええ、しかも今は輝さんが支えているものね」佳楠はそう言って頷いた。舞はそれ以上は語らず、再び子どもたちに視線を戻した。花火の光が小さな顔を照らし、皆を笑顔に染めていた。琢真は最年長の兄として、妹たちに線香花火を配り、よく面倒を見ていた。澄佳は彼の隣に寄り添い、火花が散ると自然に腕で庇われる。「ありがとう、琢真お兄ちゃん」澄佳が笑いかけると、彼も淡い笑みを返す。その端正な笑顔に、少女は思わず胸をときめかせた。未来の葉山家の後継者が心惹かれるのは、やはり美しい少年なのだろう。茉莉はその様子を横目で見つめ、胸の奥が少し翳った。——お兄ちゃんは澄佳のことが好きなのかもしれない。けれど次の瞬間、琢真は茉莉の手を取って自分の傍へ引き寄せた。彼女は唇をきゅっと結び、そっと彼の肩に寄り添った。共に夜空に舞い上がる花火を見上げながら。この先、何年経てば琢真が学業を終えて帰国するのか。その年がいつになるのかは、まだ誰にも分からなかった。琢真はふいに口を開いた。「茉莉。十年以内に必ず帰ってくる。もう二度と離れない」茉莉は静かに見上げた。長い睫毛に縁取られた瞳は、花火のように眩しく輝いていた。少女はほころぶように笑った。……その頃、輝は酔いつぶれていた。京介
Baca selengkapnya

第483話

年明け16日目、琢真は英国へ留学することになった。輝は自ら彼を送り届け、数日間は現地に留まり、環境に馴染むまで見守ってから立都市へ戻る予定だった。荷造りは、周到に準備されていた。瑠璃の母と瑠璃が細かく揃えてくれたのだ。寒さの厳しい英国の冬に備え、瑠璃の母は厚手の防寒具を幾つも詰め込み、二つの大きなスーツケースがいっぱいになった。だが専用機なので荷物が多くても問題はない。到着先には整ったアパートメントが用意され、専任の家政婦が二人つき、外出の際は専属運転手が送迎する——すべて輝の手配である。未成年の彼を思ってのことだった。瑠璃はようやく安堵した。男の子だから独立をと望むかと心配したが、そういう衝突もなく済んだ。彼女はさらに大量の書籍を用意した。英国では手に入りにくく、配送も不便なため、思い切って数十冊を詰め込んだ。最後に、彼女は一枚の家族写真を取り上げ、丁寧にスーツケースへ収めた。そこには琢真と両親が写っている。「おばさん」琢真がそっと近づき、机の上の別の写真立ても手に取った。そこには岸本と瑠璃、そして自分と茉莉、美羽が並んでいる。一家五人の姿だった。少年はその写真もまた、慎重に荷物へ収めた。——それが彼の家族なのだ。子が旅立つ時、母親は言葉を止められない。亡き母に代わり、その役を果たすのは瑠璃だった。彼女は少年の頭を撫で、声を震わせながら言った。「家を離れたら、まずは体を冷やさないこと。人と競うばかりじゃなくてね。休息も忘れずに、勉強だけじゃなく交友関係も大事にすること。困ったことがあれば必ず連絡を。急ぎの時は現地支社の叔父さん叔母さんに。連絡先は全部入れてあるわ。琢真、初めての旅立ちだから……何事も気をつけるのよ」……言葉は尽きず、やがて彼女は堪えきれず少年を抱きしめた。次に帰ってくる時、彼はもう大人になっているかもしれない。——子どもたちに早く大きくなってほしい。けれど同時に、あまりにも早く大人になって、責任や苦しみを背負ってほしくはない。琢真、そして美羽も茉莉も……どうかいつまでも子どものままで、無邪気に笑っていてほしい。本当は、それだけを願っている。だが——私はやはり手を放さなければならない。琢真、あなたを自由に成長させるために。廊下では、輝が声をかけようとしたが
Baca selengkapnya

第484話

翌日、琢真は英国へ旅立つ日を迎えた。輝は自ら同行し、数日間そばで見守ってから立都市へ戻る予定だった。空港のVIPラウンジには、家族全員が集まった。生後五か月の夕梨までもが連れられ、「お兄ちゃんを見送ろう」と抱き上げられていた。琢真も名残惜しさを隠せなかった。瑠璃の母と瑠璃に抱きつき、茉莉と夕梨を抱きしめ、そして最後に——一番離れがたいのは美羽だった。決して差別しているのではない。だが彼女は自分と同じく、両親を失った身。だからこそ気にかかるのだ。いつも明るい美羽も、この時ばかりは涙をこらえきれず、兄にしがみついて泣き声を上げた。琢真はしゃがみ込み、細い肩に顔を埋め、嗚咽を堪えながら囁く。「叔父さんや叔母さんの言うことをよく聞くんだ。夜、ママが恋しくなったら茉莉と一緒に寝るんだぞ。すぐ帰ってくるから」「お兄ちゃん」小さな声が震え、目には涙が溢れていた。琢真はめったに見せない涙を落とし、妹を抱き締めた。「琢真」輝が肩に手を置き、優しく告げた。「三十分後に出発だ。そろそろ検査に行かないと」少年は頷き、妹の涙を拭い、微笑んで言った。「美羽、最後に……お兄ちゃんにキスして」濡れた瞳のまま、小さな両手で兄の顔を包み、ぎゅっと口づけをした。もう一度泣き出しそうになったが、琢真は彼女を強く抱いてから、あえて振り返らず歩き出した。背後で子どもの泣き声が響く。だが足を止めれば別れられない。搭乗橋に入った時、透明なガラス越しに振り返る。美羽が必死に走り、ただ一目でも兄を追いかけようとしていた。「お兄ちゃん!」琢真は立ち止まり、彼女を見つめた。そして唇の動きで伝えた。——待ってろ、必ず帰る。最後の記憶は、涙に濡れた妹の瞳。やがて彼女は誰かの腕に抱きとめられ、姿が遠ざかっていった。灰色の機体は空へ舞い上がり、彼を遠い国へ連れ去った。美羽はずっと窓の外を見つめ、飛行機が見えなくなるまで手を伸ばしていた。……一週間後、輝は帰国した。持ち帰ったのは一枚の写真。英国の学校の芝生で撮られたもので、サッカーユニフォームに身を包んだ琢真が、陽光を浴びて笑っていた。「立派な少年になったわねえ」瑠璃の母は何度も見返しては感嘆の声をあげた。その写真はやがて美羽の手に渡る。
Baca selengkapnya

第485話

琢真は、よく家族に手紙を送ってきた。通信がいくら便利になった時代でも、彼は欠かさず瑠璃やお婆さん、それに妹たちへ便りを出し、ときには輝に英国製の葉巻を一箱託けることもあった。ただし、それを直接渡すことはなく、必ず瑠璃の手を通した。琢真からの荷物が届くたび、家族全員が集まり、分け合うのが常だった。美羽には毎回、兄の写真が一枚。大事そうにアルバムに収め、月ごとに増えていくその数が百枚になれば——兄はもう二度と出て行かないのだと信じていた。茉莉には、兄が選んだ色とりどりのキャンディ。可愛い包装を剥き、一粒口に含めば甘さが広がる。しかも箱の中には、琢真の手書きカードが添えられていた。まだ茉莉には読めない英語の文字で。夕梨には、粉ミルクや玩具。瑠璃とお婆さんには英国ブランドのスカーフなどが届き、少年は細やかに気を配り、すっかり異国の暮らしに馴染んでいた。瑠璃が手紙を読み、そっと告げた。「今月には戻るはずだったけれど……学校が急にブライトンの町での行事を決めて、二週間滞在しなきゃならなくなったの。帰国は来月になるみたい」輝は手にした葉巻の箱から一本を取り、眺めながら言った。「この一箱で、あの子の生活費がだいぶ消えただろうな。次はもっと仕送りを増やすか」瑠璃はたしなめるように微笑む。「甘やかしすぎないって言ったのは、あなたでしょう」指に葉巻を挟んだまま、輝の黒い瞳が瑠璃を射抜く。その視線には、盲目でさえ気づくほどの熱が潜んでいた。気を利かせた母は二人の娘を連れて部屋を出、赤子の夕梨だけを瑠璃の腕に戻していった。もうすぐ一歳になるその子は、姉の茉莉によく似ていて、やはり同じ血を分けた子どもなのだと、愛らしい面差しが物語っていた。夜は静まり返り、瑠璃は夕梨と遊びながら小声で促す。「もう寝る時間よ」輝は葉巻の箱を閉じ、何気ない口調で切り出した。「俺たちのこと……どうするつもりだ?」琢真が家を離れて半年。輝の暮らしは僧侶のように質素なままだった。瑠璃の態度は以前と変わらず、冷たくはないが決して温かくもない。夫婦らしい営みなどなく、せいぜい夜更けに交わす「おやすみ」の口づけがあるだけ。ふと、葉巻の箱の上にアパートのカードキーが置かれた。瑠璃は目を見開く。輝の声は低く抑えられていた。「無理
Baca selengkapnya

第486話

瑠璃は、いつの間にかこの生活に慣れていた。岸本の妻という立場にも、そして輝の存在にも。この一年間、彼は身を削るようにして支え続けてきた。それを拒むのは、まるで非情であるかのように思えた。けれど、その一歩を踏み出せば——二人はもう「情人」になってしまう。まだ幼い娘たちはともかく、もし琢真が知ったらどう思うだろう?彼女は父を裏切った、と感じはしないか。震える指先で、瑠璃は葉巻をそっと箱へ戻した。その夜、彼女は眠りが浅く、夢の中で岸本に会った。彼は穏やかな笑みを浮かべ、ベッドの脇に立ち、やさしい声で呼びかける。「瑠璃……琢真を、英国に見に行ったか?」夢の中で瑠璃は息苦しく、必死に手を伸ばす。だが彼の姿は霧のように遠ざかり、掴めるのは夜の冷えただけ。それでも岸本は変わらぬ声で繰り返す。「琢真に会いに行け。輝と一緒に」瑠璃は夢の中で静かに答えた。「分かったわ。明日、朱音に専用機の準備をさせる。琢真はブライトンの町にいるのね、学校のキャンプだって……雅彦、あの子に何か伝言はある?」だが雅彦はまるで聞こえないかのように、なおも同じ言葉を繰り返した。「琢真に会いに行け。輝と一緒に」「……雅彦」そう口にした瞬間、瑠璃は目を覚ました。部屋は真っ暗で、ただ夕梨の甘い乳の匂いに包まれている。柔らかなその香りに胸が締めつけられる。もう眠れず、ベッドの上で婚約指輪を見つめ、夢の余韻に心を乱される。英国に電話を入れ、琢真の担任と話すと「問題はない」とのことに安堵する。電話を切り、再び目を閉じる。やがて朝が訪れ、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた。昨夜の夢魔は幻のように遠ざかり、瑠璃は「きっと輝の言葉が心に影響したのだ」と自分に言い聞かせ、身支度を整え会社へ向かう準備をした。……そのころ輝は、重要な会議のため早く家を出ていた。朝食は車内で済ませ、信号待ちの間にパンをかじる。朝はほんの少しで済ませ、その分、昼と夜にしっかり食べるのが常だった。青に変わり、黒いベントレーが静かに走り出す。だが道路の中央、人だかりの中に横たわる人影が目に入った。顔は横を向き、蒼白な頬、見開いた瞳、乱れた髪——灰になっても見間違えない。——高宮絵里香だった。彼女は死んでいた。しかも、あの茉莉が事故
Baca selengkapnya

第487話

輝は下階に降りても、絵里香の亡骸を一瞥すらしなかった。その足で翔和産業に向かうと、瑠璃はちょうど朝会の最中だった。会議室には中堅以上の幹部がずらりと並び、昨年までチームを率いていた周防社長が蒼白な顔でゆっくりと入ってくるのを目にした。そして、その掌を瑠璃の肩にそっと置く——一切の遠慮もなく。ざわめきが走る中、輝は抑えきれぬ掠れ声で口を開いた。「琢真が参加しているキャンプ地で津波が発生した。俺たちは今すぐ英国へ飛ばなければならない。家にはすでに連絡を入れた。両親も昼には一時的に家へ行き、子どもたちの世話を手伝ってくれる。お前の母一人では負担が大きいからな。余計な波風を避けたい……瑠璃、もう手続きは済んでいる。今すぐ行こう」瑠璃はしばし呆然としたが、副社長へと顔を向けた。「あなたが会議を仕切って。私は……」本当は体面を保って最後まで言い切りたかった。だが堪えきれず、声は嗚咽に震えてしまった。副社長は胸を打たれた。継子である琢真のために、彼女はここまで心を込めている——その姿に即座に応じる。「ご安心ください、赤坂社長。会社は私が必ず守ります。どうか周防社長と共に、琢真を無事に連れ戻してください」瑠璃は深く頷き、ふらつく足をなんとか支え直し、輝を仰いで力強く言った。「行きましょう!」……二時間後、専用機は立都市の空港を飛び立ち、英国へ。周防家が独自に編成した国際救援隊と、医療班も同行していた。十数時間の飛行の間、輝も瑠璃も一切私語はせず、救援チームと方法を練り続けた。新たな情報に基づき、次々と予案を立てる。食事も水も取らず、ただ一つの思いに駆られていた。——「琢真に何かあった」などという想定は許されない。彼は岸本家の長男なのだから。到着は英国の朝。瑠輝グループ英国支社が用意した五台のバスが待ち、救援隊をブライトンへと運ぶ。現地の担当者は険しい顔で報告した。「被害は甚大です。周辺十数か所の町も壊滅的で、人員が圧倒的に不足しています。水深は二メートル以上、浮かぶ遺体も多く、衛生面の危険も大きいです。さらに余震による再度の津波の可能性も高く、極めて危険です」輝はすぐにスーツを脱ぎ、救援用の装備に着替えた。瑠璃も同行しようとしたが、輝に制された。「瑠璃」掠れた声で告げる。「行
Baca selengkapnya

第488話

輝の目は滲み、肩に手を置いた相手へ低く言った。「京介に礼を言わなきゃな」そして表情を引き締め、東の空に昇る太陽を仰ぐ。「出発だ!」朝陽が彼の背を染める。救難服に包まれた長身のシルエットが、海へと向かって進む。人の群れの中で瑠璃はすぐに彼を見つけ、大声で叫んだ。「輝!気をつけて!」振り返りはしなかった。ただ片手を上げ、静かに振っただけだった。……およそ三百人の隊が、ブライトンの町をくまなく探索した。三昼夜。輝の脚は塩気を帯びた水に浸され、皮膚が剥けるほどになり、眠気に耐えきれぬ時だけ物陰で三十分足らずの仮眠をとり、すぐに再び立ち上がる。三日目、乾パンも底をつきかけた。その夕刻、町の上空に警報が鳴り響いた。「今夜、再び津波が襲来します。全ての救援隊は直ちに退避してください」スピーカーの声が繰り返し町を覆う。各国の救助隊が次々と撤収し、海が鎮まるのを待つしかない状況。輝は顔を拭い、茫然と群れ飛ぶ海鳥を見上げた。琢真も人だ。救援隊員たちもまた人間であり、家族を持っている。彼は深く息を吐き、命じた。「撤退だ。バスで安全な場所へ退け。海が落ち着いたら戻る」夕陽は巨大な火球のように海面に浮かび、輝は隊の最後尾を黙々と歩いていた。——どう瑠璃に伝えればいいのか。琢真を失ったかもしれない現実を、どうやって彼女の心に寄り添えばいいのか。男はめったに涙を見せない。だがその漆黒に焼けた頬には、はっきりと涙の跡が光っていた。退避の途中、彼の目に廃墟と化したサッカー場が映った。門は錆びついた鎖で閉ざされ、誰一人捜索していない。輝は隊長に「自分が入る」と告げ、部隊と瑠璃を先に退避させた。反対もあったが、彼には「これが最後の機会だ」という確信があった。暮色が闇に呑まれる頃、輝はフェンスをよじ登り、サッカー場へ。恐怖がなかったわけではない。結末を知らぬはずもない。だが——「必ず琢真を連れて帰る」と瑠璃に誓ったのだ。暗闇が広がり、彼は海水をかき分け、手掛かりを求めて歩く。広いグラウンド、すべて調べれば二時間はかかる。まずは観客席を照らし、一段ずつ確かめていく。完全な闇。ライトの光だけが揺れ動く。「琢真……琢真……!」声を張り上げ続け、衣服は水に濡れ
Baca selengkapnya

第489話

海水が押し寄せ、狂風と豪雨が町全体を呑み込もうとしていた。空はすでに本来の色を失い、漆黒が海とつながり、一切の境界がなくなる。世界は異様な光景に染まり、光も闇も渦を巻いていた。「赤坂さん、すぐに撤退を。もう時間がありません。バスには皆が待っています」隊長の声が震える。瑠璃の舌先に浮かんだのは——「私も残る」という言葉だった。けれど、口にはできなかった。輝が言ったではないか。「中へ入れるのは一人だけ」残らなければならないのも、一人だけ。狂風と大波が、愛する二人を容赦なく攫ってゆく。瑠璃の頬を涙が伝う。それでも嗚咽はなく、ただ強く見据えて命じた。「発車して。撤退」バスはゆっくりと動き出し、闇の中で二つのヘッドライトを灯しながら、先行部隊に合流していった。数万人規模の救援組織。車内に座る一人ひとりの心は重く沈んでいる。救えなかった命は、この地に永遠に眠るのだ。ブライトン——そこは、彼らの最期の地となった。濃紺の海が町の隅々にまで入り込み、浮かぶのは数多の遺体。子どもの玩具、店先の衣服、片付けられなかった食器やワインの瓶……かつての暮らしの痕跡が、波間に漂っていた。瑠璃は窓際に座り、掌をガラスに当てたまま、ひたすら町の方角を見つめる。バスが進むにつれ、景色は遠ざかり、やがて完全に闇に沈んだ。停電で、もう一つの灯りも残ってはいなかった。安全圏に着くと、救援隊はその場で休息をとった。といっても過酷な条件で、一人一枚の布を地面に敷き、身体を横たえる程度。食事は乾パン、水もわずか。体力を回復させ、津波が去った後に再び町へ戻るために。だが瑠璃は眠らなかった。やっとの思いで京介と連絡を取る——輝の両親には言えなかったから。感情を抑え込み、現地の状況を簡潔に伝える。電話の向こうで、長い沈黙が流れた。やがて京介の声。「琢真は岸本の息子だ。だが、兄貴もきっと心から彼を愛していた。それが兄貴の選択だったんだ……すぐに俺も行く」その頃、立都市は昼。京介はオフィスで英国の情報を追っていた。電話を切ると、すぐに出立の準備に入った。帰宅すらせず、妻へ一本の電話を掛ける。舞はメディアグループの本社にいた。受話器越しに、夫の穏やかな声が届く。「舞、俺は英国
Baca selengkapnya

第490話

痛い。津波が押し寄せた瞬間、輝は琢真を抱き倒し、その身で覆い守った。狂風と怒涛。波は次々と高くなり、轟音を立てて襲いかかる。すでにサッカー場の最上段にいたはずなのに、荒れ狂う水は容赦なく二人を打ち据えた。大自然の力は恐ろしい。波がぶつかるたび、それは巨岩に何度も叩きつけられるような衝撃。痛い。痛い……輝は奥歯を噛みしめ、必死に堪えた。自分が倒れれば、この少年も生き残れない。冷え切った身体は、いつ低体温症に陥ってもおかしくなかった。それでも激しい痛みに耐えながら、輝は琢真の手を擦り、震える指で背負っていた荷を解いた。取り出したのは、薄い保温シート、最後の乾パン一袋、そして軍用の水筒に残ったわずかな湯だった。輝は毛布を琢真に掛け、腕で抱き締めると、小さな欠片の乾パンを口元へ運んだ。三切れすべてを。自分には一欠けらも残さず。水も大半を少年に飲ませ、最後の一口だけを自分の唇に含んだ。唇はひび割れ、声は掠れていた。「琢真。寝るな。今夜を越えれば、必ず助けが来る」だが風雨は容赦なく、鋭い針のように打ちつけてくる。琢真は衰弱しきり、顔を男の胸に埋めた。これまで何度も探るように見上げた、その男。父との複雑な因縁ゆえに、素直に好きになれたことはなかった。だが——今、この人は命を投げ出してまで自分を守っている。たった数枚の乾パン。それが生き延びる最後の希望だったのに、すべてを与えてくれた。喉が鳴り、言葉を絞り出そうとした時、粗い掌が顔に触れた。「喋るな。力を残せ」男は絶え間なく声をかけ続け、眠りに落ちないよう導いていた。琢真は必死に目を見開き、暗闇を見つめた。夜は長い。寒気は骨の髄まで染み込み、見知らぬ腕の中で、なぜか心は安らいでいた。三日間、孤独と渇きに死を覚悟した。だが今は、この人と共に死ぬのかもしれない。怒涛は幾度も打ち寄せ、男の身体を打ち据える。やがて——声が途絶えた。長い沈黙。三日三晩と同じ恐怖。琢真は小さな声で呼ぶ。「おじさん?おじさん、まだ起きてる?」返事はなかった。手を伸ばすと、波間に広がるぬるりとした感触——それは血だった。さきほどの怒涛に煽られた鉄板が、男の背をまともに打ち据えていたのだ。背中の肉は裂け、血はじわじわと海に溶けていっ
Baca selengkapnya
Sebelumnya
1
...
4748495051
...
56
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status