All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

夜が更けた。マンションの大きな窓辺、白いカーテンが夜風に揺れている。茉莉は琢真に抱かれて帰ってきた。少女はずっと俯いたまま、若い男の肩に顔を寄せ、甘えるように身を預けている。琢真は覗き込み、柔らかく囁いた。「まだ恥ずかしいのか」茉莉は答えず、ぎゅっと抱きついて顔を隠す。彼は低く笑い、それ以上からかうことはせず、客室のソファへと彼女をそっと降ろした。両腕でソファを支え、茉莉を背もたれとの間に閉じ込める。額から垂れた黒髪が影をつくり、幼さに艶めいた色を添えていた。「まずドレスを脱いで、化粧も落とせ。俺はキッチンで夜食を作る」そう言って彼女の細い腕を軽くつまむ。「痩せすぎだな」茉莉は唇を噛み、恥ずかしそうに囁いた。「あたし、白玉が食べたい。あんこの……」「家にはないな。けど、下に二十四時間のコンビニがある。買ってこよう。その前に、キスしてくれ」茉莉はまだ一度も自分から彼に触れたことがなかった。男は急かさず、ただじっと待つ。やがて、少女は小さく身を寄せ、頬を赤らめながら唇を触れさせた。「これで、いい?」「十分だ」琢真は微笑み、彼女の小さな鼻をつまんでから立ち上がる。ドアの開閉音が遠ざかり、部屋には茉莉だけが残された。灯りに照らされた茉莉の顔は華奢で愛らしい。抱き枕を抱え込み、唇に指を添えては、くすぐったそうに笑う。……琢真は下へ降り、煙草に火を点けた。歩きながら吸うその姿は、どこか家庭的な男の顔をしていた。コンビニであん入り白玉を一袋、さらに輸入フルーツと茉莉の好きな牛乳を選んで持ち帰る。ドアを開けると、客室から水音が聞こえた。茉莉がシャワーを浴びているのだ。胸に満ちるのは、得も言われぬ充足感——新婚を思わせる生活だった。裕福な家に育った彼だったが、家事に不自由はしない。白玉を煮て、茉莉の胃袋に合わせ六粒だけを椀に盛り、残りは自分で片づけた。果物も皿に綺麗に盛り付ける。茉莉はなかなか出てこなかった。琢真は急かさず、彼女が支度をしているあいだ、数枚の書類に目を通していた。やがて、客室から軽い足音が近づき、彼はスマートフォンを置いて顔を上げる。現れたのは、きちんと寝間着を着こんだ茉莉だった。ボタンは一番上まで留められ、洗いたての黒髪は丁寧に乾かされて、ほんのりと香りが
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第512話

朝になった。茉莉はすっかり寝過ごしていた。一緒に眠り込んでいたのは、ほかならぬ琢真だった。昨夜、彼は茉莉を自室に連れていき、二人は同じベッドで眠った。今回は毛布ごと抱きしめるのではなく、素直に一つの布団に潜り込み、少女は温かな胸に包まれて幸せそうに眠っていた。目覚ましをかけ忘れたのも無理はない。目を覚ますと、もう午前九時。茉莉には十時から授業がある。急いで準備すればぎりぎり間に合うかもしれないが、寝坊の腹立たしさは彼に向かう。「ぜんぶあなたのせいよ!寝ちゃったら起こしてくれればよかったのに」むくれて腕を叩く茉莉に、琢真は笑みを崩さず、頬をつまんで宥める。「顔を洗ってこい。朝食は車で食べろ。学校まで送っていく」「もちろん送ってもらうわ」唇を噛んで答える声は、甘く、柔らかかった。二人は慌ただしく洗面を済ませ、互いの寝起きの姿を眺める余裕もなく着替えを終える。三十分後、茉莉は彼の車の助手席に座っていた。手にしたのは焼きたての卵クレープ。もぐもぐと食べながら、ふと思い出したように小声で尋ねる。「ねえ、昨日のドレスは?居間のソファに置いたままだったと思うけど」琢真は長い指で手際よくネクタイを締めながら、横顔のまま答えた。「朝、秘書が取りに来てた。クリーニングに回してある。別荘のクローゼットに戻しておくさ。八十平米のクローゼットを作ってあるから、服も宝石も余るくらい入る」——新しい別荘に、八十平米のクローゼット?茉莉の頬が熱を帯びる。頭に浮かんだのは「若くして結婚」という言葉。口にすれば図々しい花嫁志願のようで、結局は黙って彼を見つめた。忠犬のように見つめ続ける視線に、男はすっかり慣れた様子で笑い、アクセルを踏んだ。この日から、二人はほとんど同居を始める。茉莉は琢真の寝室で眠るようになったが、抱きしめたり口づけたりするだけで、それ以上の境界を越えることはない。時折、茉莉は「もしかして身体に問題が?」と疑うが、触れ合う彼を見ていると、そんなことはないと思えてしまう。朝はたいてい彼が学校まで送ってくれ、午後は林が迎えに来るか、運転手付きの車で一人帰る。以前はタクシーで出かけていた茉莉も、彼と付き合い始めてからは一人で外出することがほとんどなくなった。琢真がきっちり時間を管理していたからだ。
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第513話

瑠璃には、その心配が痛いほどわかっていた。舞はさらに言葉を続ける。「でもね、京介はまるで気にしてないの」瑠璃はふっと笑みを浮かべ、柔らかく答えた。「私は、澄佳が損をするとは思わないわ。あの子はただ、少し多めに差し出しているだけ。もしもこれ以上は無駄だと感じたら、きっと自分から引いてしまう。周防家に愚かな子はいないもの」その言葉に、舞の胸は少し軽くなった。やがて車は立都市の中心にそびえる高層ビルの地下二階へと滑り込んだ。ここは富裕層の婦人たちに人気のティーラウンジ。何よりも、秘匿性が高いことで知られていた。奥のフロアには高級エステサロンが併設され、新しい美容プランも導入されている。舞と瑠璃は並んで施術を受け、その間、茉莉はひとり茶室で待つことになった。暗色のヴィンテージ調のテーブルと椅子。すべて英国製の高級磁器のカップ。供される紅茶も最上級品だった。茉莉はゆったりとした花柄Tシャツに黒のショートデニム。さらりとした黒髪を肩に垂らし、清潔感のある可憐さを漂わせている。ここで働くスタッフは皆、彼女が「葉山社長の姪」であることを知っており、決して粗末な扱いはしなかった。その時、偶然にも妃奈がやって来た。彼女は今や本庄家の御曹司と交際し、最上級の暮らしを手に入れていた。高級マンションに住み、最新のスポーツカーを乗り回し、日常の消費すら貴婦人同然。富を知ってしまった彼女には、もはや以前の暮らしに戻ることなど考えられなかった。不意に茉莉の姿を見つけ、妃奈は少し驚いた様子を見せる。サングラスを外してバッグにしまい、少女の前へ歩み寄った。「ご一緒してもいいかしら?」茉莉は本を読んでいて顔を上げる。その瞬間、店員がすぐに寄ってきた。「周防様、店内をお貸し切りにいたしましょうか?」妃奈の表情が固まった。——貸し切り?周防茉莉に、そこまでの顔が利くの?茉莉は小さく首を振った。「この方にも紅茶を一杯」仕方なく腰を下ろした妃奈は、虚勢を張るように振る舞う。運ばれてきた紅茶のカップを指で弄びながら、探るように言葉を投げかけた。「あなた、ここにはあまり来ないでしょう?私は何度も来てるけど、一度も見かけなかったわ」茉莉は白い指を本の上に添え、穏やかに答える。「このお店は、私の叔母が経営しているの。紅茶
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第514話

夕暮れどき。黒塗りの車が静かに停まると、後部座席のドアが開き、琢真が片腕で茉莉を抱き寄せた。瑠璃は小さく首を振り、もう口を挟むのをやめる。舞とともにその場を離れていった。暮光のなか、夜風が頬を撫で、風には金木犀の香りが混じっている。琢真は細い腰を支えながら囁いた。「一日中、お茶をしてたのか」茉莉は手にした本を掲げて答える。「半分は読んだよ」本を受け取った彼は一瞥し、恋愛小説だと気づく。「恋愛の勉強か?そんなもの要らない。俺が教えてやる」茉莉の顔はたちまち紅潮する。「違うもん、ただ暇つぶしよ」ふと思い出したように口を開いた。「茶室で妃奈に会ったの。本当に本庄宴司(ほんじょうえんじ)と付き合ってるの?」琢真は指先でページをめくりながら、淡々と答える。「そうじゃなきゃ、あんな場所で金を使えるわけがない」茉莉はそれ以上言葉を続けなかった。妃奈の選択を咎めるつもりはない。宴司には妻がいないのだから、形式上は普通の交際とも言える。ただ、妃奈が琢真に向ける気持ちが、胸に小さな棘を残すだけ。彼女が黙ると、彼も話題を変えない。ただ手にした本をぱらぱらとめくり、一箇所で止めた。「この場面、意味わかるか?」茉莉はなんの疑いもなく身を寄せ、細い髪が男の腕をかすめて小さなざわめきを呼んだ。彼はちらと視線を落とし、表情ひとつ変えずにページへ戻す。茉莉の視線が、そのページに落ちる。微かな照明の下、描かれていたのは赤裸々な情事の描写だった。「これ、好きなのか?それとも好奇心か」低く響く声に、茉莉の顔は真っ赤に染まる。本を奪おうと腕に手を伸ばすが、彼はひらりと高く掲げた。小さな身体が自然と彼の腕に覆いかぶさり、距離は一気に縮まる。次の瞬間、彼の手が腰を押さえつけ、掠れた声が落ちる。「周防茉莉……お前、わざとか?」慌てて顔を覆う少女の手を退け、彼女を黒のマイバッハに押しつける。それは輝の愛車だった。二人の影が車体に重なり、唇を重ね合う。若い恋人同士の口づけは、幾度も尽きることがない。往来する使用人の目を憚りながら、隠すほどに熱は募る。遠くで花火が上がり、月は枝先に昇り、白い光を降り注いでいた。……幼なじみ。家族に祝福され、臆することなく愛し合う二人。そして日曜の夜。
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第515話

妃奈に限らず、取り巻きの女たちにも一切興味はなかった彼が好きなのは、ただ一人——茉莉だけ。だが彼女はまだ若すぎる。欲望がないわけではない。けれど、抑えている。長い沈黙のあと、彼は掠れた声で言った。「もう、ほかの男からのラブレターなんか受け取るな」茉莉は何も言わず、肩に頬を寄せる。一週間の出張に出る彼を思うと、胸の奥がしんと寂しくなる。もしこれが三年の留学だったら——彼はどれほど彼女を恋しがるのだろう。想像しただけで苦しくなる。小さな指が、彼のシャツのボタンを外そうとする。だがその手はすぐに捕まえられた。「茉莉?」名を呼ぶ声は、耐えがたく掠れている。「いろいろ考えたけど……やっぱり印をつけたくなったの」甘えた声に、男の瞳がぎらりと光を帯びる。次の瞬間、首筋に鋭い痛み。白い肌に噛み跡が深く刻まれ、血脈が浮き上がる。彼の手はソファの肘掛けを力いっぱい掴みしめていた。その克己心が、彼女の悪戯を許していた。「……」茉莉は満足げに傷跡を見つめ、にっこりと笑う。琢真は少女を抱きしめたまま、夜が更けても眠れなかった。胸に満ちる幸福と、募る切なさ。——年が明けたら、婚約の話を進めるべきだ。彼はそう考えていた。茉莉を正式に妻として迎え、あらゆる形で自分のものにしたい。幼なじみの絆は、いまや骨の髄にまで染み込むほどの激しい渇望へと変わっていた。……翌朝。茉莉は運転手と共に空港へ向かい、彼を見送った。搭乗口近くで、妃奈と宴司が目に入る。妃奈は早朝から濃い化粧を施し、二十四歳ほどに見える派手な美貌を作り上げていた。彼女は本庄の腕に絡みつき、まるで女優のような派手な振る舞いをしていた。もっとも、実際は無名のモデルにすぎないのだが。宴司は琢真に気さくに声を掛け、妃奈がかつて琢真を想っていたことなど意に介していない。茉莉は幼いながらも、その裏を感じ取っていた。本当に妃奈を大切に思っているなら、琢真の存在を意識しないはずがない。わざわざ同じ便に乗り合わせること自体が、彼の打算を物語っている。妃奈は結局、本庄にとってその時々の「恋人」に過ぎないのだ。琢真にとって妃奈など空気同然。一方で、本庄は茉莉を可愛がってきた。幼いころから目にしてきた存在だからだ。彼は軽い調子
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第516話

立都市から少し離れたH市。宴司が予約したホテルは、本来なら琢真とは別の場所だった。だが宴司には琢真に頼みたいことがあり、わざわざ同じホテルへ変更したのだ。琢真は表面上、気にも留めなかった。だが心の奥では宴司に対してしこりが残った。感情と商売は別物だ。宴司が妃奈の野心を知りながら、彼女を自分の近くに置こうとする——そのあたりに、どうしても反感を覚えた。それでも顔には出さない。それが琢真的な礼節であった。毎晩、仕事を終えるのはたいてい深夜だった。けれど必ず、夜九時には茉莉へ電話をかける。「今日も俺のことを考えたか」——そんな甘ったるいやり取りを欠かさず、若い恋人たちの時間は、糖分過多なほどに濃密だった。その晩は逆に、茉莉から電話がきた。小さな声で愚痴をこぼす。「もう十月なのに、なんで蚊がいるの?琢真、足を二か所も刺されたんだよ」琢真は思わず笑い、宥めるように答える。「見せてみろ」間もなく届いたメッセージには、白く柔らかな太腿に浮かんだ赤い腫れが写っていた。胸に小さな波紋が広がる。思わず口をついて出た。「もうすぐ帰る。あと二日だ」電話口で、茉莉がくぐもった声で「うん……」と応えた。彼女を抱きしめ、夜風に吹かれながら並んでテレビを見る光景が脳裏をよぎる。早すぎる進展だと分かっている。だが、それは自分の欲深さゆえ。そんな折、スイートルームの扉がノックされた。客室サービスを頼んでいた琢真は、そのままスマホを片手に玄関へ向かう。だが、そこに立っていたのは妃奈だった。艶やかなスリップドレスに身を包み、濃やかな化粧を施していた。手には赤ワインのボトル。その視線は挑むように細められ、琢真を射抜く。「宴司はいないわ。岸本さん、少しだけ……一緒に飲まない?」受話器越しの茉莉の耳にも届いた。琢真は女性を尊重する男だった。だが、この女には節度という言葉がなかった。だからこそ、彼ははっきりと告げた。「悪いが、特殊サービスは頼んでいない」妃奈の顔が凍りつき、扉は無情に閉ざされた。苛立ちを押し隠し、琢真は茉莉へ告げる。「気にするな。取るに足らない人間だ」それでも茉莉の胸には複雑な思いが残った。同じ二十歳の少女でありながら、あの女はあそこまで躊躇なく迫れるのか。
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第517話

茉莉は一瞬きょとんとしたが、すぐに玄関へ駆けだした。足元は裸足のまま、靴を履く暇さえなかった。ドアの前では、琢真がスーツケースを片手に靴を履き替えていた。濃紺のトレンチコートを纏ったその姿は、旅路の疲れを帯びながらも、いっそう成熟した光を放っている。忍び足で近づいた茉莉だったが、すぐに気づかれる。男の腕が伸び、細い腰をさらって抱き寄せた。そして気づく——彼女の足は冷たいまま。白い素足をそっと自分のスリッパに乗せると、コートを脱ぎながら、夜よりも低く沈んだ声が落ちる。「どうして靴も履かないんだ」少女は胸にしがみつき、細い腕を首に回す。小さな声で驚きの色を含ませて問う。「だって……明日帰るって言ってたのに」問い終えるより早く、唇を塞がれた。邪魔なスーツケースは脇へ蹴られ、少女はそのまま男の身体に絡みつく。幾度も深く重なる口づけは激しさを増し、茉莉は息を詰めて小さく抗議する。「……や、やさしく……」それでも二人は唇を離さぬまま、もつれるようにソファへと辿り着いた。積もる想いを吐き出すように、ひとしきり抱き合ったあと、琢真は額を彼女の髪に落とし、低く囁いた。「明日の会合は断った。だから早めに戻ったんだ。ここに迎えたんだから、気づいてもよさそうなものを。まったく、息も合わないな」軽く小さな頭を指で弾く。茉莉は首をすくめ、甘い声で返す。「さっき……妃奈から写真が送られてきたの」そう言って、頬にひと口のキスを残す。「ねぇ、書斎まで抱っこして」男は気怠げに彼女の尻を軽く叩き、そのまま抱き上げる。廊下を進む間も、唇を離すことはできなかった。書斎に着いた時、琢真はすでに堪えるのがやっとだった。少女は兎のように身を絡ませ、真っ赤な顔で震えている。彼女にも分かっていた。彼の想いが切実であることを。「琢真!」羊のように柔らかい声が震えを帯びて零れる。男は彼女を机の上に乗せ、腕を緩めぬままスマホを手に取る。茉莉は慌てて叫ぶ。「ちょっと!なんでパスワード知ってるの?」「勘で当てただけだ」彼は笑いながら画面を開いた。そこには、妃奈からのメッセージ。写真とともに、身の程知らずな一文が添えられている。琢真はしばらく眺め、やがて写真を削除し、彼女をブロッ
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第518話

浴室には湯気が立ちこめていた。シャワーブースの中で琢真が汗を流すあいだ、茉莉は浴槽の縁に腰かけ、手にしたハンドメイドの石けんを撫でるように体に滑らせながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。先ほど二人は最後の一線を越えることはなかった。けれども、限りなく近いところまで踏み込んでしまった。書斎での激しい抱擁のあと、彼に抱き上げられ寝室へ。普段の穏やかな顔つきとはまるで違う琢真の表情は、猛々しくさえあり、恐ろしさと期待がないまぜになった体験は、茉莉の想像を軽々と越えていた。——男というのは、あの時あんなふうになるものなのか。水流が象牙のように滑らかな肌を伝い、頬から首筋にかけて薔薇色の紅が広がっていく。やがて琢真がシャワーを終え、白い浴衣姿で現れた。浴槽に腰を下ろし考え込む茉莉を見つけ、思わず笑みを洩らしながらしゃがみ込み、手の甲で彼女の頬をそっと撫でる。「熱を出すぞ。それは普通の男女の触れ合いだ。恥じることなんてない……あの時、お前も嬉しそうだったじゃないか」茉莉はぱしゃりと水をはねさせ、拗ねたように顔を背ける。男はますます笑みを深め、仔犬をあやすように囁いた。「俺が嬉しかったんだよ。そろそろ湯が冷める。出ておいで」そう言い置いて、琢真は浴室を後にする。寝室を抜け書斎へ入ると、机の上には茉莉の描いた建築図面が整然と並んでいた。まるでプリントしたように正確で、思わず目を見張る。その一方、艶やかな痕跡を残したばかりの机上を丁寧に片づける。——残しておけば、彼女はまた頬を膨らませるだろう。浴槽で頬を染める可憐な姿を思い出し、胸の奥が柔らかく疼いた。片づけを終えると、窓辺に立ち、一本の煙草を唇に咥える。携帯を手に取り、宴司に短い電話をかける。低く抑えた声で二言三言、わずか五分ほどで通話は終わった。寝室から物音がして、琢真はスマホを置き、足を運ぶ。茉莉は髪を濡らしたまま、ゆったりとした男物の浴衣をまとい、こっそり自室へ戻ろうとしていた。その姿を見て、彼は微笑ましく思う。バスタオルを握りしめ俯いた茉莉が、小さな声で言う。「自分の部屋で寝る」琢真は彼女を制し、タオルを受け取るとソファへ座らせた。優しく髪を拭き、ドライヤーで乾かしてやる。透きとおるような肌は、高価な化粧
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第519話

今や宴司という男は、別の女を甘やかしていた。妃奈は込み上げる怒りを必死に抑え、卑屈な声で呼び止める。「宴司、話せないかな」宴司は新しい恋人を車に乗せ、無表情に妃奈を見下ろした。ポケットからタバコを取り出し、火を点けて無造作に吸い込む。その態度は冷淡そのものだった。「妃奈。俺が遊んだ女の数なんて、もう数え切れない。だが、ここまで馬鹿な奴はお前が初めてだ。俺の金で飯を食い、俺の金で着飾っておきながら、裏で琢真を狙う?しかも周防茉莉に喧嘩を売った?」煙を吐き出しながら、嘲笑混じりの声を投げつける。「分かってんのか?お前、俺の稼ぎ道を潰してるんだぞ。お前の身体が汚れてようが、俺に本気だろうが、そんなことはどうでもいい。俺にとっては、金を余計に払って少し高い女を買ってるのと同じだ。女同士で嫉妬して揉めるなんて、笑い話にしかならねえ。だがな、お前は俺に代わって、絶対に怒らせちゃいけない相手を敵に回したんだいいか、あいつは周防の姓を持っているんだ。お前、それが何を意味するか分かっているのか?大勢が金を積んででも繋がりたい家柄に、やっと俺は琢真を通じて一歩踏み込めたんだぞ。それをお前は挑発して潰そうとした。妃奈、お前、学校で『身の程をわきまえろ』って字を習わなかったのか?」言葉を言い終えた宴司の目は、氷のように冷たく、かつての情は一切なかった。彼は車に乗り込み、助手席の新しい恋人が不安げに「誰?」と尋ねると、彼は頬を軽くつまみ、薄笑いで答えた。「ただの頭のおかしい女だ」高級車は静かに走り去っていく。秋風の中、妃奈は全身を冷やされ、その場に立ち尽くした。——立都市を去りたくない。藁にもすがる思いで、彼女は琢真に会おうとした。翔和産業を訪ねるも、受付に遮られた。「副社長は予約なしの来訪者にはお会いになりません」仕方なく、社屋の外で待ち伏せる。夕暮れ。真紅に燃える空の下、一台の黒いロールスロイスがゆっくりと駐車場に滑り込んだ。運転席から降りたのは、若く品のある男。彼は副座席を開け、茉莉が姿を現す。長い髪を肩に垂らし、小さなバッグを背負ったその姿は、清楚で儚げだった。彼女が社内に入ると、すれ違う人々が揃って挨拶をする。——その瞬間、妃奈は痛感した。自分と彼女との、決定的な
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第520話

車内は静まり返っていた。茉莉は横顔で琢真を見つめたが、言葉はなかった。その小さな手は、しっかりと彼の掌に包まれている。「もう、あの女がお前の世界に現れることはない」低く掠れた声で告げる。彼には分かっていた。妃奈のような女は、ほんの少しの美貌を武器に最後の札を握りしめ、決して手放そうとしない。最悪でも、金を持つ男の囲われ者になるだけだ。だが、その男は宴司のように若くはない。多くは四十を越えた中年である。どれほど稼げるかは、妃奈自身の腕次第だった。茉莉は沈黙を守った。妃奈を弁護することも、貶すこともしない。——そもそも、彼女のような人間は自分の周りにいるべきではない。高級な黒塗りの車は、マンションへ向かって夜道を進む。車内に漂うのは、茉莉の甘やかな青梅の香り。それは、琢真が十年抱き続けた想いの結晶だった。……それから本当に、妃奈は茉莉の世界から姿を消した。ただ時折、人づてに耳に入る。四十代の男に身を預け愛人となったが、すぐに本妻に見つかり、鼻筋を折られ三度も整形手術をしたという。ただ、その代わりに慰謝料は多額だった。その後も幾人もの富豪の間を渡り歩き、一財産を築いた。やがて消息は途絶え、最後は国外へ渡ったらしいとだけ伝わってきた。……正月。茉莉は琢真と共に過ごした。普段は仕事に追われ、遠出もままならない。二人の恋は、まるで長年連れ添った夫婦のように、食卓を囲みテレビを眺めるだけの日常。だからこそ、琢真はこの休みに茉莉を連れ、浜市へスキー旅行に出かけた。一日中遊んだ後、茉莉の脚はすっかり棒のようになり、帰りの車内で小声で不満を漏らした。「どうせなら、あったかい街に行けばよかったのに。スキーなんて、疲れすぎ」琢真はいつものように宥める。「悪かった。俺が滑りたかったんだ」十年を過ごした英国で、彼はスキーを得意としていた。だが茉莉には向いていなかった。何度教えてもできず、最後には彼が抱き上げたまま滑った。——その時は楽しそうに笑ったものの、ゲレンデで美女に声をかけられるたび、茉莉の胸は曇った。ホテルに戻り、コートを脱いだ彼女は小さく文句を言う。「女に言い寄られてばっかり」「ん?何だって?」琢真は笑い、彼女を抱き寄せる。
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