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私が去った後のクズ男の末路 のすべてのチャプター: チャプター 521 - チャプター 530

560 チャプター

第521話

茉莉はベッドから起き上がり、裸足のまま大きな窓辺のソファへ駆け寄った。掌をガラスに当て、外の夜景を見つめる。ふと、頭に浮かんだのは幾つかの曖昧な記憶。頬が赤らみ、そっと手を離した。その時、琢真が部屋に入ってきた。足取りは静かで、少女は気づかない。背後から抱き寄せ、髪に顔を寄せて香りを吸い込み、優しい声で囁いた。「顔を洗っておいで。ルームサービスがちょうど届いたから」茉莉はその腕の中で、ひとときの温もりを名残惜しそうに味わった。胸の奥には秘密がある。イギリスの建築学院への留学申請が、正月の後に承認されたのだ。だが、まだ琢真には言えずにいた。こんな柔らかな瞬間だからこそ、今こそ告げたいと思ったのに——口を開く前に、彼は茉莉を抱き上げた。スイートのリビングには灯りがなく、長いダイニングテーブルの上には銀のローソク立てが置かれ、五本の蝋燭が静かに揺れていた。傍らには口の広い花瓶に、白い長茎の薔薇が挿してある。茉莉は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、椅子にそっと座らされ、琢真は視線を注ぎながら片膝をつく。ポケットから取り出したのは、上質なビロードの小箱だった。片手で開けると、そこには緑色のダイヤの指輪が輝いている。琢真は見上げ、声をわずかに震わせた。「ずっと探していた。ようやく見つけたんだ、プロポーズにふさわしい指輪を」「この指輪の名は【青梅】同じように、茉莉、お前をずっと探して、ずっと待っていた。一生を共にしたい。子どもを授かってもいい、望まなくてもいい。美羽や夕梨もいる。どんな未来でも、毎朝お前と目覚めたい。貧しくても、富んでいても、健康でも病でも、必ずそばにいる。お前を幸せな嫁にする。子どもが生まれたなら、その命も大切にする。俺は永遠にお前に忠実であり続ける。この愛と、この婚姻に。茉莉、俺と結婚してくれ!」……手を伸ばせば、彼にも、その緑のダイヤにも触れられる距離。若くして結婚する未来が、すぐそこにある。承諾すれば、一生安泰だろう。琢真は全ての風雨から守り、妹を支え、両親の面倒も見てくれる。幸福は約束されている。茉莉は心から頷きたかった。彼を深く愛しているから。だが、夢もあった。妻であるだけではなく、優れた建築家になりたい。世界を巡り、琢真が学んだ地にも立ちたい。彼の隣に立ちながらも、自分自身
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第522話

琢真は思いもしなかった。茉莉がイギリスへ留学したいなどと。何年もの間、学業と仕事のほかに唯一抱いてきた夢は——若いうちに結婚し、茉莉を妻に迎えること。それが人生で最も大切な願いのひとつだった。だが、今、彼の恋人は「留学したい」と告げている。長い沈黙ののち、琢真の喉仏が上下した。「何年だ?」茉莉は彼が怒っているのを悟った。だからこそ、場をしらけさせるようなことを言うべきではないと分かっていた。けれど、それ以上に隠してはいけないとも思った。後になって大きな亀裂を生むのは、もっと嫌だったからだ。小さな顔を俯かせ、肩にもたれたまま小声で答えた。「三年……」三年。たった三年。けれども三年。千日を超える別れの時。琢真は長く黙り、ようやく口を開いた。「国内じゃ駄目なのか?立都市の大学が嫌なら、H市や西市にも建築のいい学部がある」茉莉は顔を上げ、勇気を振り絞った。「どこも、あの大学にはかなわないの」怒られるのは分かっていた。それでも伝えなければ、この関係はただの従属になってしまう。そうなれば健全な愛ではない。琢真の視線は夜よりも深く、さっきまで燃えていた熱は少しずつ冷えていった。怒りよりも、胸を満たしたのは落胆だった。大きく抱いた期待が崩れ去ったとき、人の心はこうも虚しくなるのか。彼は茉莉の小さな手を握り、かすれ声で問う。「じゃあ、どうして受け取った?」茉莉の声は震えていた。「だって、好きだから!怒られるのが怖かったし……見捨てられるのも、もっと怖かったの」琢真はかすかに笑った。苦みを含んだ笑みだった。彼女を叱りたくなかった。泣かせたくなかった。今夜を、最高の夜にしたかったのに。胸の奥の失望はどうにも覆えない。最後に髪を撫でてやり、そっと言った。「食事にしよう」「琢真……」茉莉は袖をつかんで、必死に呼び止めた。彼は小さな顔を撫で、低く吐息をもらした。「止めたら泣くか?別れるって騒ぐか?」茉莉は正直に答える。「泣く……でも、別れない」琢真は笑みを漏らし、彼女の背を抱き寄せる。「なら、どちらかが妥協するしかないな。妥協は誰にとっても愉快なものじゃない。俺だって完璧でも、冷たい機械でもない。感情はある」「今、怒ってるの?」「どう思う?」「だって……もう指輪は
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第523話

茉莉は胸元を押さえ、まるで図星を突かれた子どものように慌てた。「な、何も見てない……」琢真はそれ以上からかわず、布団の中に手を伸ばし、彼女の細い脚を優しく揉んでやった。「今日は氷の彫刻展に行こう。今年の作品は面白いらしい」「スキーじゃなければ大賛成!」茉莉の瞳はきらきら輝いた。「じゃあ、外で待ってて。着替えてくるから」そう言ったが、恋人同士にそんな遠慮は要らない。琢真はそのまま茉莉を抱き上げ、クローゼットへ。片腕で抱きしめながら片手で服を選び、白いロングダウンに柔らかなカシミヤのマフラーを添えてやる。茉莉は顔をマフラーからのぞかせ、不満げに言った。「琢真、これじゃ前が見えないよ」彼は低く笑い、両手で小さな顔を包んで軽く口づけた。「さ、洗面しておいで。俺はベッドを片づけておくから」茉莉は一瞬にして頬を染め、琢真はその姿を楽しむように眺めてから、機嫌よくシーツを整えに出ていった。やがて二人は外で朝食をとり、地元の名物料理を楽しむ。車には乗らず、並んで市電に揺られる。笑い声は途切れることなく、まるで普通の恋人同士の休日。悩みも憂いもない、ただ甘やかな時間。若く美しい二人はどこへ行っても注目の的で、多くの羨望を集めた。茉莉はあれも見たい、これも見たいと落ち着かず、絶えず話しかける。琢真の袖をつまみ、指には【青梅】の緑の輝き。「こんな若いのに結婚したんだって!」「え、あれ緑のダイヤじゃない?」「まさか!四億円は下らないよ。電車に乗ってるなんて信じられない」「コート見てみなよ、あのブランドだよ。四百万以上するやつ。普通の人じゃ無理だって。女の子も育ちの良さがにじみ出てるし……きっと立都市の御曹司とお嬢様ね」……囁きは耳に入らず、茉莉の視線は前方へ釘付けになった。巨大な氷の彫刻が立ち並ぶ光景に、歓声を上げて琢真の腕を掴む。「見て見て!あんなに大きい!」琢真はくすっと笑い、彼女を抱き寄せる。その姿は再び周囲の羨望を誘った。駅に着くと、茉莉は琢真を引っ張って走り出し、券売所へ。琢真はただ優しく見守る。昨夜の不穏な空気など跡形もなく、二人は休日を思い切り楽しんだ。写真を撮り続ける茉莉。ところが、不意に表情が固まる。——桐生智也の姿があった。隣に立つのは年配の女性。顔立ちは彼に
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第524話

「入籍」——その二文字が、茉莉の胸に根を下ろしていた。正月が過ぎると、琢真は一層忙しくなった。瑠璃は彼に、二年以内に全面的な事業の引き継ぎを終え、翔和産業の代表取締役社長に就任するよう求めていた。そのためには株主たちを納得させる実績が必要だった。琢真は才能にあふれ、結果を出した。瑠璃も満足げだった。茉莉の留学については、すべて琢真の判断に委ねられていた。彼が許すなら、それでよかった。輝も瑠璃も一切口を出さなかった。幼い頃から知っている間柄だからこそ、信じて任せられたのだ。留学の日程は夏の終わりに決まり、それまでの時間を茉莉は大切に過ごした。イギリスに渡ってからのことは互いに触れず、ただ今を重ねた——彼が忙しいなら、自分は飛んで帰って会いに行く。それで十分。愛されているという確信が、愛を続ける勇気を与えてくれる。……五月の終わりから、琢真はさらに多忙を極めた。恋人らしい時間を過ごす余裕もなくなった。林が常に同行し、茉莉を迎えに行くこともできなくなった。けれど茉莉も課題に追われていたため、不満はなかった。空いた時間にはリュックを背負い、バスに揺られて彼のマンションへ行き、事前にメッセージを送って「部屋で待ってる」と知らせた。琢真が仕事を終える頃、必ず茉莉のメッセージがそこにあった。その日々は、茉莉の方がより多くを注いでいた。深夜に帰宅すれば、必ず温かい夜食が用意されている。素麺の一杯、香ばしい海老の揚げ物。仲夏のある夜。琢真が深夜に帰宅すると、室内には茉莉の好むジャスミンの香りと、白い薔薇の匂いが漂っていた。食卓には保温ポット。開ければ、出来立ての肉粥。彼はまず一椀を食べ、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。両親を早くに亡くしたが、不思議と愛に飢えることはなかった。そして今、最も完璧な愛情を手にしている。これ以上の幸せがあるのだろうか。粥を飲み干し、寝室に向かう。そこもまた、茉莉の香りと、彼女自身の甘い匂いで満ちていた。シャワーを浴び、浴衣に着替え、布団をめくって横になる。茉莉は半分眠ったまま彼に身を寄せ、囁いた。「帰ってきたの?」「うん」小さな頭を抱き寄せ、軽く叩いてやる。まどろみの中、茉莉がぽつり。「明日、少し時間ある?二時間でいいの」髪を撫でながら、しばらくして問い
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第525話

早朝、琢真は茉莉を車に乗せ、岸本家へ戸籍謄本を取りに戻った。「降りなくていい」そう言う彼に、茉莉は頬をふくらませておどけた顔を見せた。「お父さんとお母さん、知ってるでしょ」「だからいいんだよ。俺はこっそりの方が好きだ」「……」車内で待つこと十分、琢真は謄本を手に戻ってきた。エンジンをかけ、勢いよく笑う。「さあ、入籍だ」……茉莉はただふたりきりで手続きをするものと思っていた。だが、市役所に着くと小さな応接室に案内され、両家の家族が勢ぞろいしていた。美羽が白いヴェールを差し出し、茉莉の髪に載せてやる。ふたりは揃って白いシャツに着替え、婚姻届と共に記念写真を撮った。最良の年頃で、互いのものとなる。指輪を交換するとき、瑠璃と輝は視線を合わせ、目に涙を浮かべていた。自分たちの愛は不完全だったが、育て上げた子らは世界で最も美しい愛を手にしたのだ。署名し、朱印を押す。茉莉と琢真は正式に夫婦となった。——若き日の結婚。心が高ぶるふたり。琢真は妻の顎を持ち上げ、十秒にも及ぶ口づけを落とした。瞳の端はわずかに潤み、低い声で囁く。「茉莉……愛してる」「……私もよ、琢真」真の愛は、迷いも逡巡もない。確かに、この人と生きていくと決められる。互いの青春を与え合う幸運。寛の妻は涙をぬぐい、「琢真はいい子だ」と頷いた。琢真も微笑む。「必ず大切にします」——愛して、尊重して、成長できる自由も与える。彼女は俺の妻であると同時に、ひとりの人間でもある。周防茉莉という名を持つ、自分だけの人生を歩む存在。決して「岸本琢真の妻」だけに留まるものではない輝は横を向き、瑠璃にぼそりと漏らす。「自分で育てた白菜を、結局うちの豚が食った気分だ」瑠璃はくすっと笑い、そっと答えた。「でも、あなたに似ず真っ直ぐに育ったんだから……良かったじゃない」輝が苦笑しながら言う。「俺がろくでなしだって分かってて、まだ一緒にいるのか?」瑠璃は横目で睨み、冷ややかに返した。「私たちなんて、せいぜい情人――ただの客分よ。自分に都合よく飾らないで」それでも輝は穏やかに笑った。「それでも、お前は唯一だ」——唯一。その二文字だけで、彼にとっては十分なロマンだった。……夜八時、立都市随一のホテルで
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第526話

朝早く、最初の陽光がホテルのスイートに差し込んだ。茉莉はまぶしそうに小さな顔を琢真の胸に埋め、甘えるように囁く。「琢真、太陽がまぶしすぎるよ。カーテン閉めてくれない?」琢真はベッドのヘッドボードに背を預け、手を伸ばしてリモコンを押した。カーテンがゆっくりと閉じ、室内は闇に包まれる。だが、少女はすぐに後悔した。闇の中、新婚の夫が蠢き出す。茉莉は唇を噛み、小さく抗議する。「琢真……昨夜、もう……気持ちよくなったでしょ」低く笑った琢真は、黒髪を掬い上げ、白い首筋に顔を寄せて香りを吸い込んだ。「昨日は昨日。今日は今日の分だ」あまりに真顔で言うから、茉莉は拗ねたように彼の首に抱きつき、「琢真さん」と可憐に呼んだ。彼は驚くほど優しい声で問う。「今、なんて呼んだ?もう一度」茉莉は頑なに口をつぐみ、ただ甘えてしがみつく。琢真はそれ以上追及せず、唇を重ねた。若い二人の身体は自然に絡み合い、激しく、そしてひどく甘やかに燃え上がった。波が引いた浜辺のように、静けさが残った。気がつけば、もう昼近くになっていた。琢真の身体がわずかに動くと、腕の中の茉莉が小さく抗議した。「もうやだよ、琢真……」若い男は満ち足りた声で笑う。「お前の方こそ欲しがったんだろう……俺だってもう力が残ってない」茉莉は軽く拳で彼の胸を叩いた。黒髪が彼の胸に散らばり、互いに絡み合ったまま、しばらく静かに横たわっていた。やがて思い出したように、彼女が問いかける。「琢真……今日、会社は?」彼は小さな鼻をつまんで笑った。「年休を取ったよ。新婚二日目に妻をホテルに置き去りにしたら……父さんに殴られる」婚姻届を出してから、彼はもう「叔父さん」とは呼ばず、自然に「父さん」と呼ぶようになっていた。「父さん」と呼んだその響きに、茉莉は一瞬ぼんやりした。「イギリスに行く前、マンションで一緒に住もう。向こうには大きめの部屋を買った。家政婦を二人つけて、月に四日は俺が飛んで行く。三年後帰国したら、正式に披露宴をしよう。茉莉……結婚って、本当にいいな」茉莉は鼻をすんと鳴らした。——彼が元気なのは当然だ。朝から、もう自分は絞り切られたみたいになっているのだから。昨夜あれほど優しく気遣ってくれたのに、今朝はまるで別人のように激しかっ
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第527話

夏の終わり、茉莉はイギリスへ旅立った。琢真は自ら彼女を送り、一週間そばに付き添い、生活に慣れたのを見届けてから立都市へ戻った。それからの日々、二人はそれぞれ忙しく過ごした。琢真は翔和産業の経営を任され、四つの部門を兼ね持つことになった。瑠璃は容赦しない。愛情ゆえに甘くすることなどなく、徹底的に鍛え上げる。月にわずか四日間の休暇を捻り出し、すべてをイギリス行きに費やしたが、移動時間を差し引けば、茉莉と過ごせるのは二日ほどにすぎなかった。立都市に初雪が降ったその日、琢真はロンドンへ飛んだ。専用機を降りると、タクシーで茉莉のマンションへ向かう。ロンドンの一等地にあるその部屋は220平米。家政婦の部屋とリビングを除けば、大部分は主寝室のスイートで、合わせて90平米ほど。新婚夫婦が再会するために誂えた空間だった。着いた時、茉莉はまだ授業中だった。家政婦は笑顔で迎えた。「旦那様、ようこそ。奥さまは授業があと一時間ほどで終わります。先にお風呂でもいかがですか?外は雪が残っていて、とても冷えますよ」琢真は頷き、荷物を置いたが、疲労が限界に達していたのか、ソファにもたれて眠りに落ちてしまった。茉莉が帰宅した時、家政婦は料理をしていた。「旦那様は午後に着かれましたが、とてもお疲れのようで、今は寝室で休んでいらっしゃいます」茉莉は「うん」と返事し、そっと主寝室へ入った。部屋は暗く暖かい。暖炉のそばで眠る彼。黒髪は自然に垂れ、照明が彼の顔に陰影を刻む。若く清潔で、完璧としか言いようがない。コートを脱いだ茉莉は、半跪きで夫の寝顔を見つめた。——本当に、きれい……その瞬間、手首を掴まれる。「結婚してから、まだ見足りないのか?」かすかに掠れた声が闇に響いた。強く引かれ、小さな身体は彼の腕に落ちる。外から戻った茉莉の身体はすっかり冷えていた。彼女は靴下を脱がされ、そのまま琢真の胸に抱き込まれる。冷たい小さな足は、彼の掌の中で温もりを求めるように震えていたが、やがて足りなくなり、さらに彼の胸元へと潜り込んでいった。黒い瞳が黙って彼女を射抜く。茉莉はますます大胆になり、シャツのボタンを外し、冷たい素足を滑り込ませた。ひやりとした感触に、彼の腹筋が強く収縮する。捕まえられた足は逃げられない。
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第528話

男は彼女を抱き上げ、手頃な場所へ運ぶと、ひと月分の思いをすべて注ぐように激しく愛した。ひと月ぶりの恋しさを、どうして抑えられるだろう。久々の再会は、初めてを超えるほど甘く、熱を帯びていた。血気盛んな年頃の琢真は、当然のように幾度も彼女を求めた。幾度も重なり合ったあと、茉莉は息も絶え絶えになっていた。夜はまだ長い。募る想いは語り尽くせない。幸い、翌日茉莉に授業はなかった。二人は一晩中、愛に溺れた。琢真は本来なら多忙を極めていた。だが、イギリスにいる間はほとんど仕事の電話を取らない。よほどの緊急事態でない限り、それも赤坂瑠璃が処理してくれる。英国滞在の目的はただひとつ——茉莉のそばにいることだった。四日の休暇を終えると、彼は再び立都市へ戻る。そうして幾度も空を往復し、二人の時間を紡いでいった。茉莉はイギリスで二年を過ごし、三年目を迎えた頃。琢真は翔和産業の経営を正式に継ぎ、社長へ昇進した。その冬、立都市に雪が降ったと聞いた日。ロンドンのマンションには、不意の訪問者があった。——高城妃奈。家政婦は彼女の正体を知らず、ただ立都市時代の同級生だと思い込み、快く迎え入れてしまった。茉莉は家政婦を咎めず、コートを羽織ると淡々と言った。「外で話しましょう」マンションの下にあるカフェへ。二人は向かい合って座った。会話らしい会話はない。もし妃奈が訪ねてこなければ、茉莉はおそらく彼女の存在を忘れていただろう。たまに思い出すとしても、それは琢真のかつての追求者という程度にすぎなかった。妃奈は毛皮をまとい、いかにも華やかさを誇示していた。だが、その装いは年齢と釣り合わない。彼女はじっと茉莉を見つめ、苦笑する。「茉莉、あなたは少しも変わらないわね。まだ少女のように見える。でも私は、もうすっかり世の中に揉まれて……今でこそ羽振りがよくて、人から見れば立派に見えるかもしれない。でも、夜になると、これが本当に望んだ生活だったのか、何度も自分に問いかけてしまうの。私は今や資産も億を超えて、お金なんて使い切れないくらいある。でも……もう子どもを産めないの。遊び過ぎた代償よ」そう言って煙草に手を伸ばしたが、店員に止められる。「申し訳ございません、当店は禁煙です」妃奈は軽く謝り、再び茉
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第529話

男はスーツに身を包み、外には黒いロングダウンを羽織っていた。まるで祝宴の最中からそのまま専用機に乗り込み、直行でロンドンへやって来たようだった。琢真は、社員たちの祝賀を置き去りにしてでも、妻に会いに来た。それほどまでに、茉莉を愛していた。……彼の瞳が細められる。驚きと共に、不快の色が滲んだ。——あの女には、もう二度と茉莉を煩わせるなと警告してあったはずだ。それなのに、海を越えてまで現れるとは。怒りが口を突きそうになる前に、妃奈が先に言った。「私は……商談の途中で寄っただけ。決して彼女を狙って来たわけじゃないの。ご安心ください、もう二度と現れません」苦い笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。「昔は、身の程知らずだった」そう頭を垂れると、妃奈はそそくさと去っていった。琢真は振り返りもしない。ただ真っすぐにカフェの扉を押し開け、妻のもとへと歩み寄った。彼女はまるで何事もなかったように、のんびりとコーヒーを口にしている。その無邪気さに、思わず口元が緩む。気配に気づいた茉莉は、小さな顔を上げて微笑んだ。「ブルーマウンテンを頼んでおいたよ。琢真、一緒に飲んでから帰ろう?」彼は答えず、ただ深く妻を見つめる。どれほど見ても、見飽きることはなかった。羽織を脱いだ男の姿に、周囲の視線が集まる。立ち居振る舞いすべてが矜持に満ち、異性の目を引きつけていた。ふと見ると、茉莉は窓の外に目を向けている。「茉莉……俺、わざわざこんなに遠くから飛んできたのに。こっちを見もしないなんて、恋人らしくないだろ」茉莉はくるりと振り返り、悪戯っぽく笑う。「だって、もうすっかり夫婦なんだから」23歳の茉莉と27歳の琢真。結婚して二年半、新婚の蜜月は過ぎ、次に待つのは「七年目の壁」かもしれない。悪戯な返しに、彼の目が鋭く光る。——今夜は、ただでは済まない。茉莉もそれを悟りながら、なお小さく笑った。窓の外では細雪が舞っている。茉莉はガラスに指先を触れ、囁いた。「琢真……雪が降ってる」「ご注文のコーヒーです」侍者が差し出したカップを、琢真は受け取り、ゆっくりと口にした。雪のロンドンで、妻と並んで飲む一杯。それは、結婚三年目の静かな記念だった。……一杯を終えると、二人はマンショ
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第530話

さっきまで互いを求め合っていたばかりだった。茉莉は夫の胸に頬を埋め、小さな声で囁いた。「たぶん先月ね。あなたが来て、一緒に外で泊まった時……あの日は安全日だと思って、何もつけなかった。でも……それで授かっちゃった」琢真はようやく我に返り、妻の顔を両手で包み込む。沈黙ののち、決然と口を開いた。「俺はここに残る。お前が学業を終えるまで、一緒にいる」仕事は遠隔で指揮すればいい。茉莉と子ども、何より大切なものを守るために。一か月後、妻と胎内の子を連れて立都市へ帰る。そして最速で、正式な披露宴を挙げる。……寝室は春のように温かく、窓の外には細雪が舞っていた。茉莉はベッドに仰向けになり、小さな蛙のように両腕を広げて笑う。琢真はその腹を掌でそっと撫で、生命の気配を探す。茉莉は彼の頭を優しく抱き寄せ、囁いた。「琢真……まだ小さいよ」彼は目を上げ、言葉では尽くせないほどの深い愛情をこめて見つめた。そして唇を落とす。「ありがとう、茉莉」——ありがとう、俺に家族をくれて。彼女は微笑む。「どういたしまして、岸本さん」やがて厚手のパジャマに着替えた茉莉は、ソファにもたれて夜の雪景色を眺めた。一方の琢真はシャワーを浴び、書斎で矢継ぎ早に電話をかける。双方の両親、副社長と秘書、翔和産業の広報部。すべてに連絡を入れ、最後に寛夫妻へも報告した。「茉莉が妊娠しました」知らせに二人は大喜びし、「祖父の墓前にすぐ報告に行く」と繰り返した。電話を切ると、琢真は再び寝室へ。掌を愛おしげに妻の腹へあてがう。——来年二十八歳。自分の最初の子を迎える。茉莉はくすぐったそうに笑った。「ねえ、もし女の子だったら……岸本真宝って呼んでいい?」「真宝?」「だって私は、琢真にとっての宝物でしょ」頬を染める彼女に、琢真は破顔した。「幸せだよ、茉莉」耳朶に口づけながら、彼は心から呟いた。雪の降る静けさの中、二人は寄り添った。……一か月後、茉莉は学業を修め、共に帰国した。正月前、身内だけを招いた控えめで盛大な婚礼を挙げ、報道陣の取材はすべて断った。翌年八月、茉莉は女児を出産。名は「岸本真宝」琢真の宝物だった。茉莉は二十五歳となり、翌春からは立都市の設計院
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