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私が去った後のクズ男の末路 のすべてのチャプター: チャプター 531 - チャプター 540

560 チャプター

第531話

午後五時、設計院の科室が退勤時間を迎えた。春奈が真っ先に立ち上がり、スマホを掲げて同僚たちに言う。「今夜は茉莉のおごりで【雅苑】よ!先に着いた人は、路地の椅子でも拭いて待っててね。特に男性陣、女の子に気を遣ってあげなさいよ」その物言いは悪意に満ちていた。笑い声を上げる者もいれば、同情の眼差しを茉莉に向ける者もいる。春奈の恋人は隣の科室の課長で、普段から横柄な態度で知られていた。茉莉は入所わずか一年で大賞を受賞した。それが気に食わない春奈は、あの手この手で彼女を困らせている。茉莉が耐えられるかどうか——以前には嫌がらせに耐えきれず、涙ながらに辞めていった女性もいたほどだ。だが茉莉は涼しい顔で言った。「じゃあ、六時に現地集合で」背を向ける彼女に、春奈は冷笑を洩らす。「見栄っ張りめ」噂では茉莉は既婚だというが、春奈は信じていなかった。——あんな計算高い女が、早々に結婚なんてするはずがない。どうせ金持ちを捕まえようとしているに違いない。……茉莉が車に乗り込むと、ちょうど琢真から電話が入った。自宅に戻った彼は、娘の真宝を腕に抱き、母を恋しがる子に代わって電話を掛けてきたのだ。小さなアヒルのように母を呼ぶ真宝は、話す言葉よりも涎の方が多い。矜持を纏った父親は、嫌な顔ひとつせず拭ってやっていた。電話の向こうで琢真が尋ねる。「和田さんから聞いた。今夜は雅苑で科室の集まりだろう?終わったら迎えに行く」茉莉は元来、夫をひけらかすのを好まなかった。設計院では未婚だと思われており、言い寄ってくる者もいれば、見合いを勧める者もいた。必死に既婚で子持ちだと説明しても誰も信じない。ならば、いっそ夫の存在をはっきり示しておこう。「じゃあ七時に迎えに来て。二次会は私が代金を払って欠席するから」電話を切る頃、車は雅苑の前に停まっていた。目の前に広がっていたのは、豪華絢爛な世界だった。茉莉はしばらくその光景に目を奪われ、和田へメッセージを送った。【雅苑、一人当たりいくら?】【最低料金は一人約二十万円です。今回は十五人なので計三百万円。酒とサービス料を加えると一卓で四百万円になります】——これが琢真の日常?茉莉は思わず苦笑した。運転手が降りてきて声を掛ける。「奥さま、車は回しておきま
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第532話

その場にいた全員が石のように固まった。しばし沈黙が流れ、やっと春奈が声を震わせて問いかける。「あなた……周防さんの夫?それとも雇われた役者か何か?」琢真は思わず笑ってしまう。——自分がいつから役者になったのだろう?役者なら、むしろ澄佳の彼氏の方がよほど名演技をしている。そのとき、誰かが声を上げた。「あの人、翔和産業の社長じゃないか?岸本……」一瞬で皆が悟る。翔和産業の社長夫人は、周防という姓のはず。——周防茉莉。莫大な資産を持つ大企業の社長夫人が、まさか同じ科室にいて、一緒に汗を流し、今夜は自腹でこんな高級な料理を振る舞い、極上のワインまで用意しているなんて。自分たちは偶然にも、上流社会の扉を覗き見てしまったのだ。羨望と敬意のまなざしが一斉に茉莉へと注がれる。ただ一人、春奈を除いて。彼女は隣でひたすら食べ飲みしている恋人を見て、抑えきれない苛立ちを覚え、口を突いて出た。「そんなにお金があるなら、家にいて家庭を守ればいいじゃない。外に出て働くなんて……異性の目を楽しんでるからじゃないの?」一言で、彼女の心根の醜さが露わになった。茉莉は何も言わない。こういう場面は、夫が処理してくれる。果たして、琢真は上着を脱ぎ、妻の隣に腰を下ろした。そして彼女をじっと見つめ、柔らかな溜息とともに言った。「もし彼女が他人の視線を楽しんでいるのだとしたら、それは私の魅力が足りないせいだ……もっと努力しないとね」場がどっと沸き、皆がうつむいて忍び笑いを漏らした。——春奈の完敗だった。彼女の顔色は変わったが、それ以上は何も言えない。同僚たちは気を取り直し、社長に次々と盃を差し出した。最初は冗談半分だったが、琢真はあっさり車のキーを茉莉に預け、笑って言う。「この後はお前が運転して」そして本気で飲み始めた。さすがに鍛えられた経営者、酒量は桁違いだ。設計院の面々が次々と酔いつぶれていく一方で、彼は終始余裕を崩さず、しかも気さくに会話を交わす。デザインの話題にも軽く応じるあたり、専門書を読み込んでいるのだろう。——まるで、妻に付き添う同伴学生のように。場は大いに盛り上がった。春奈ひとりを除いて。だが、茉莉にとって春奈の不機嫌など取るに足らない。——もし本当に気にし
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第533話

琢真は軽くシャワーを浴び、バスルームから出てベッドに身を沈めた。視線の先には、小さな真宝が眠っている。「ますます美羽に似てきたな。性格までそっくりだ……よく食べて、ぷくぷくして」彼は囁くように言い、茉莉は優しく娘の額に口づけた。「美羽に似てるの、いいことじゃない。あの子、とっても可愛いんだから」琢真はそっと妻を抱き寄せ、細い腰に手を回し、頬に手の甲を触れさせながら問う。「もう一人、欲しくないか?」茉莉は彼の首に腕を回し、静かに答えた。「今はまだいいわ。二十八になったらでいい。その頃には真宝も幼稚園だし……それまでは、彼女に父と母の愛を独り占めさせたいの」「茉莉は、ほんとにいいお母さんだ。若いお母さん」……彼は口づけを重ね、茉莉は観念したように顔を仰け、されるがまま。結婚して何年経とうとも、琢真の情熱は少しも衰えない。週に四、五日は必ず、夜は二度三度——茉莉はよく思う。——自分はまるで俎板の上の魚。毎晩、焼かれては裏返され、食べ尽くされる。けれど他の夫婦がどうなのかは知らない。少なくとも琢真は、欲深い男だ。ただ、茉莉が知らないだけだった。——彼がここまで熱を上げるのは、彼女だからこそ。愛していなければ、決してこれほど夢中にはなれない。翌年の秋、茉莉は再び予期せぬ妊娠をした。浴室で検査薬を見つめる。二本の赤い線。——また、妊娠した。呆然としていると、外で足音が近づく。琢真だった。会食帰りに、茉莉の体調が悪いと聞き、コートも脱がずに飛んできたのだ。バスルームを開けると、茉莉は便座に腰掛けたまま、棒を手に茫然としている。琢真は黙ってそれを受け取り、すべてを悟った。再び、父と母になるのだ。腕の中の妻は、複雑な顔で彼を睨む。思い返せば——先月の琢真の誕生日。あまりに激しかった夜、避妊を忘れていた。胸の奥が甘く締め付けられる。琢真は茉莉の頭を撫で、そっと抱きしめた。「俺の若いお母さん。また、お母さんになるんだね」茉莉は鼻をすすりながら反発する。「生むのは私なんだからね」彼はコートを脱ぎ、かがんで彼女の頬に触れた。「だからこそ、支えるのは俺だよ。ずっと一緒にいる」「ほんとは、来年の予定だったのに。今日は職階審査があるのよ?真宝にも説明し
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第534話

澄佳は大手メディア会社を経営し、数百人の芸能人を抱える女社長だ。どれほどの美男美女を見てきたか、数えきれない。それでも、彼女が惹かれたのは桐生智也ただ一人。身長一八四センチ。白い肌に、どこか知的で気品ある佇まい。澪安は彼を一目見て「完全に一目惚れじゃないか」と茶化した。芸能界に美形は掃いて捨てるほどいるが、本物の気品を備えた者は少ない。智也はその数少ないひとりだった。澄佳が彼に夢中になるのは、何ら不思議ではなかった。二人が出会ったのは澄佳が十八の頃。今や二十六になり、人生で最も輝く八年間を彼に捧げてきた。昼間は彼のために資源を動かし、夜は滋養のスープを作り、寝台の上でも彼の欲望に身を任せる。——まさに純愛の戦士。六年の歳月で、智也は無名の新人から一躍トップ俳優へ。主演作は次々と大ヒットし、映画賞を総なめにし、いまや一作ごとに数億円のギャラを得る大スターだ。澄佳はずっと待っていた。いつか彼がプロポーズしてくれると。だが二十六歳になって悟る。——彼は結婚など一度も考えていなかったのだ、と。智也は立都市に豪邸を購入し、母親と幼なじみを呼び寄せて世話をさせていた。そのことを、澄佳は半年ものあいだ知らされていなかった。ある晩、智也は「外で食べた」と言って帰ってこなかった。その直後に届いた探偵の写真で、澄佳はようやく気づく。——自分は、彼にとってただの金主にすぎなかったのだ、と。愛だの、結婚だの……すべては虚しい幻想。智也は、別れを望んでいることをはっきりと突きつけたのだ。澄佳は乾いた笑みを浮かべる。——無理に結んだ縁に、幸せは宿らない。……その夜、豪奢な邸宅の灯りは煌々と輝いていた。澄佳は黒のキャミソールドレスに身を包み、その百七十センチの肢体はすらりと伸び、顔立ちは名だたる女優をも凌ぐほど整っていた。手には赤ワインのグラスを持ち、カウンターバーに寄りかかって静かに口を湿らせる。「夕飯をお出ししましょうか?」使用人が問うと、彼女は軽く首を振った。「いいわ、あとで素麺でも茹でて」やがて車の音。玄関から入ってきたのは智也だった。使用人が彼を見て、柔らかく声を掛けた。「桐生さま、お帰りなさいませ」智也は軽くうなずき、使用人が下がるのを見届け
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第535話

二人が再び顔を合わせたのは、星耀エンターテインメントの定例会議だった。智也は会社を代表する看板俳優、会議の資料も彼の実績で埋め尽くされ、まさに「業界の帝王」といった風格だ。だが会議室に入った瞬間、智也の視線は思わず凍りついた。澄佳の隣に、見慣れぬ青年が立っていたからだ。まだ二十歳そこそこだろうか。透き通るように白い肌、端正な顔立ち。澄佳の気迫にやや圧倒されながらも、澄んだ瞳は一心に彼女を追っている。——従順な、可愛らしい子犬のようだ。そんな存在を嫌う女性はいない。胸の奥に、不快感が走る。もう別れたはずの彼女の隣で、誰かが自分の席を奪っている。ただそれだけで、智也の心はざらついた。会議は進み、第二四半期の売上報告は彼の名声を称えるものばかり。だが智也の胸に喜びはなかった。散会後、彼は担当マネージャーの真壁朱美(まかべあけみ)に尋ねた。「澄佳の隣にいたあの子……新人研修生か?」朱美はガラス扉を押し開けながら笑う。「某芸大を途中で辞めたらしいわ。家の事情でね。条件が抜群に良かったから、紹介されて葉山社長のもとに来たとか。ここ数日、いつも側に置いてるそうよ。当時のあなたを思い出させるって噂もあるし……もしかすると、新しい寵愛かもね」智也の胸に、さらに強いざわつきが広がった。朱美は話題を変えるように尋ねた。「で、契約更新はどうするの?あんたの頑固さには呆れるわ。葉山社長のバックグラウンド、普通なら頭を下げてでも縋りつくわよ。これを逃したら次はないわよ」智也は答えず、ただ窓辺で煙草に火を点けた。別れて半月、澄佳から一度も連絡はない。——これが、本当の終わり。……背後から軽やかな足音が近づいた。振り返ると、新人の松宮悠(まつみやゆう)が戸惑い気味に立っていた。「この脚本、どうしても理解できなくて……川村先輩が、今夜は葉山社長の別邸で一緒に読み込めって……」思いがけず智也と目が合い、悠は気まずそうに身を縮める。智也は澄佳の反応を探るように視線を送った。彼女は一瞬彼を見たが、すぐ悠の顔に目を戻す。その目は慈しみに満ち、頬に触れる手つきさえ優しい。「ええ、いらっしゃい。夕食を二人分用意させるわ。念のため着替えも持ってきなさい。夜遅くまで掛かるかもしれないから」
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第536話

夕暮れ時、澄佳は別荘のソファに身を預け、退屈そうにテレビを眺めていた。その時、中庭に車のエンジン音が響く。悠のマネージャーが彼を送り届け、軽く挨拶だけしてすぐに引き下がった。悠はごく普通の家庭の出身で、両親は共働き。家の事情が悪化して初めて芸能界に入ったが、足を踏み入れた場所は、よりによって澄佳という「女王の牙城」だった。白いシャツに黒いスラックス、清潔感に満ちたその姿。澄佳は心の内で思った——誰かに装いを指南されたのだろう、まるで智也のコピーのように。だが、彼女にとってはどうでもいいことだった。ただ暇を紛らわす相手が欲しかっただけ。澄佳が相手をしなくても、悠は気を利かせて台所でお手伝いをし、野菜を洗い、食器を片づける。使用人も好感を抱き、「葉山さんのそばにいれば損はしないわよ」と耳打ちしたほどだ。悠は薄い唇をわずかに上げて笑った。半時間後、六品一汁が整い、悠が自らテーブルへ運んだ。ソファに座る澄佳の手からリモコンを取り上げ、礼儀正しく声をかける。「葉山社長、夕食のご用意ができました」澄佳は顔を上げ、若い男の緊張した面差しを一瞥し、静かに言った。「おばさんはもう帰らせて。皿は明日洗えばいい」悠は一瞬戸惑ったが、言われるままに動いた。戻ると、澄佳はすでにテーブルに座っており、彼を伴って食事を始める。彼女はいつものように赤ワインを開けたが、悠には勧めず、自分だけで半分ほど口にした。悠には分かった。澄佳の機嫌がよくないことが。彼は恋愛経験もなく、人をもてなしたこともない。ただ父が母を気遣うように、骨を取り除いた魚を皿に置き、カロリーの低いものを選んで彼女の前に並べる。澄佳はちらりと彼を見て、いくつか質問を投げかける。悠はおずおずと答え、彼女は淡い笑みを浮かべただけで、それ以上は問わなかった。その時、再び車の音。澄佳は澪安だろうと思った。普段ここを訪れるのは彼くらいだから。だが現れたのは——智也だった。かつての愛の巣へ足を踏み入れた智也の胸に去来するものは、決して小さくなかった。視線の先にいたのは悠。自分の代わりの存在。場の空気は微妙に張りつめた。智也は平静を装い、「忘れ物があってね、取りに来ただけだ」と告げる。澄佳は二秒ほど彼を見つめ、ゆっくり唇を拭った。「私の秘書
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第537話

夜が更けた。智也は車の中で煙草をくゆらせていた。この別荘には三年住み、澄佳との思い出が幾つもある。だが今、その屋内にいるのは別の若い男で、自分はこうして外で身を削るように待っている。——あの少年が抱かれて出てくるのを見たいのか?——それとも、夜明けに澄佳が悠を連れて仕事に出かける姿を見届けたいのか?智也にはもう、澄佳の後ろ盾がなくとも十分やっていける立場がある。人脈も実力も揃い、独立しても稼ぎは尽きない。では、なぜ別れたのか?結婚を迫られたからだろう。智也は結婚を望まなかった。彼にとって二人の関係は、常に「合意の上の関係」でしかなかった。だから母を呼び寄せ、静香を家に置いた。それが澄佳への答えだった。そして実際に澄佳は別れを切り出し、彼を別荘から追い出した。そうだ、周防家の令嬢がこんな侮辱を許すはずがない。——だが、なぜ今、苦しんでいるのは自分なのだ?喉仏が上下し、智也は最後の一本をもみ消した。このままでは別荘へ踏み込み、ベッドでの光景を目にしてしまう……そうなれば耐えられない。ハンドルを握る指に力を込め、一気にアクセルを踏み込んだ。奪われるのは我慢ならない。本来は自分の女だったのに。——気づけば、澄佳への憎しみすら滲んでいた。……深夜、智也は自宅へ戻った。母はすでに休んでおり、リビングには若い女性の姿。幼馴染みの静香だった。静香は智也の故郷の隣家で育ち、両親を亡くしてからは智也の母に面倒を見てもらった。幼い頃は「お兄ちゃん」と呼んでいたが、今はもうそうではない。智也は車のキーを放り出し、額を押さえながら腰を下ろした。「まだ起きてたのか」静香はリモコンを置き、控えめに声をかける。「どこに行ってたの?彼女のところ?お腹すいてない?夜食つくろうか?」智也は天井のシャンデリアを仰ぎ、「食欲ない、もう寝ろ」とだけ答える。それでも静香は席を立たず、ふと切り出した。「明日、仕事探しに行くわ。働き口が見つかったら、ここを出る……私がいるせいで、あなたと葉山さんの仲が悪くなったんでしょ」智也の声は少し掠れていた。「俺はもう、彼女と別れた」静香は慌てる。「じゃあ、取り戻さなきゃ!」だが智也は口をつぐんだ。——取り戻す?二人の間に横たわっていたのは感情
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第538話

映画「風のささやき」の主演という大役は、ついに悠の手に渡った。その知らせに、芸能界全体がどよめいた。制作費六十億円、耀石グループ出資の超大作。主人公は「誰が演じても必ず化ける」と評されるほどの垂涎の役柄で、長らく智也に与えられると目されていた。だが、突如として横から現れたのは悠——ただひとつ、澄佳の寵愛を受けていたがゆえに。怒りに駆られた智也が彼女のオフィスに踏み込むと、若い男は澄佳の肩に手を添え、まるで従順な伴侶のように振る舞っていた。「悠、もう少し優しくして」彼女の声は、どこか甘えるような響きを帯びていた。悠は弟のように年下だが、彼女の我儘や癇癪を柔らかく受け止める。智也には欠けていた部分を、悠は補っていた。その光景に、智也はしばし呆然とした。やがて低く言葉を絞り出す。「葉山社長と二人で話したい」澄佳が目だけで合図すると、悠は素直に退室した。ドアが閉まった瞬間、智也は爆発した。自分がもう別れた男であることも忘れ、声を荒げてしまった。「正気か?こんな大役を、あんな新人に渡すなんて!」澄佳は革張りの椅子にもたれ、滅多に怒りを見せない彼を眺め、微笑した。「あなたが新人だった頃、私は最高のチャンスを与えたわ。あの時、私はまだ羽も伸び切っていなかった。たった一役を取るために、ワインを二本も空けて頭を下げた。その役を掴んだのは、無名の新人だったあなたよ」智也は息を呑んだ。過去の記憶が一気に胸に押し寄せる。酸っぱく、苦く、そして甘い――複雑な思い出。二人で歩んだ道は、確かに忘れ難いものだった。だが、それがどうしたというのか。智也は決して多くを口にできなかった。結局、自分たちは別の世界の人間だから。「澄佳、理性的になろう。君は星耀エンターテインメントの大株主だ。会社のことを考えなくては」声は低く、怒気は収まっていた。澄佳は淡く笑った。「愛に理性なんてある?智也、私はあなたを捧げて育てたように、悠を育てる。それは私の気まぐれ。だって私は周防家の令嬢、あなたもそう思っていたでしょう?」智也が口を開く前に、彼女は表情を引き締め、冷ややかに告げた。「きれいに終わったことを、私の最後の情けだと思いなさい。これから先、私のことに口を挟まないで」智也の顔は蒼白になった。しばしの沈黙の後
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第539話

背後に広がるのは、きらびやかな芸能界。八年をかけて築き上げた地位。智也が歩けば、誰もが「業界のトップスター」と認めた。それなのに——彼は澄佳を失った。あれほど激しく愛され、全身全霊で支えられていたのに、別れは驚くほど冷淡で、徹底していた。澄佳の決意は揺るぎなく、智也の胸には冷たい虚無だけが残った。夢をすべて手に入れたはずだった。数百億円規模の財産、母親に最上の老後を約束できる力、一生困らない生活。大した犠牲も払わず、欲しいものを次々と手に入れた。なのに、別れは——ワインを浴びせられただけで終わった。涙も罵倒もなく、彼女はもう夢から醒めていた。まだ夢の中に取り残されているのは、自分だけだった。衝動に駆られ、智也はガラス扉を押し開け、宴会場を飛び出した。「桐生さん、今日は晴れ舞台ですよ!今出れば明日の見出しが……」マネージャーの制止も耳に入らない。ただひとつ——澄佳に会いたい。その思いだけだった。……夜風を切り裂き、黒いスポーツカーは走る。辿り着いた別荘では、すでに作業員たちが家具を運び出していた。澄佳が大事にしていた花瓶、油絵。そして、外のゴミ置き場には額縁が雑に投げ出されている。覗き込むと、それは彼と澄佳のツーショット写真だった。かつては宝物のように大切にされていた写真が、いまや粗大ゴミのように放り出されていた。智也の胸に、言いようのない痛みが走った。そのとき、現場監督風の男が歩み寄り、一本の煙草を差し出した。「有名な俳優さんですよね?葉山さんなら、もう引っ越しましたよ。探しても無駄です」智也はゆっくりと顔を上げた。目の奥には、自分でも気づかぬほどの紅が差していた。声は震えていた。「どこに……引っ越した?」男は苦笑を浮かべ、肩をすくめた。「そんなこと、俺が知るわけないでしょう」普段なら、智也はこういう男たちを相手にすることすらなかっただろう。だが今は違った。彼は無言で財布を取り出し、数万円を押しつける。その見返りに、彼は澄佳の新しい住所を手に入れた。立都市で最も高価な「白金雅苑」……その扉が開いた瞬間、澄佳の顔に驚きが走った。「どうやって入ってきたの?」ドア口に立つ智也は、もはやトップ俳優の威厳もなく、ただ狼狽し、憔悴してい
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第540話

智也が去ったあと——澄佳は背をドアに預けたまま、長い間動けなかった。八年。それほどの時間と想いを捧げてきたのに、簡単に立ち直れるものではない。心の奥底で、彼を許すことはもうできなかった。彼に与えられる最後のものは、ほんのわずかな体面だけ。「戻る」と口にしたその言葉は、彼女にとっては生きながら少しずつ切り刻まれるような、最後の拷問に等しかった。もし本当に選ばれていたのなら、どうして他の女の存在があるのか。しかも、その女は長年彼の傍にいて、彼女は自分に嘘をつき続けてきた——ただの幼なじみ、家族同然だと。けれど実際は、母親公認の「嫁候補」だったのだ。——澄佳、お前の八年は、ただの笑い話だった。……扉ひとつ隔てて、智也は壁にもたれて煙草をくゆらせていた。理性は「去れ」と告げる。だが足は動かず、彼女のいる場所に縛り付けられる。それは後悔かもしれない。……深夜、智也が帰宅すると、母は宵食を用意して待っていた。「金を失ったくらいでくよくよするな。真面目に仕事を続けて、いい人を見つけて結婚しなさい。うちは昔ながらの家だ、子をもうけて家を継がねば。あの葉山さんって人は……どうも真っ当な暮らしをしているようには見えないわ」智也の箸がぴたりと止まった。「澄佳は、あなたたちが思うような女じゃない」十八歳の澄佳は、明るく快活で、まっすぐに彼の前へ歩み出てきた。「智也、私と付き合ってくれる?」その瞬間、彼は澄佳に心を奪われた。美しかった。立都市に名だたる女優たちでさえ、彼女の魅力には及ばないと思えたほどだ。彼が彼女と共にいたのは、ただ仕事のためだけではない。澄佳の美しさと人懐こい性格に、確かに惹かれていた。最初は別れなど考えていなかった。だが次第に思い知らされた。——彼女との間にある、越えられない階級の差を。静香はそっと隣に腰を下ろし、小声で切り出した。「でも……二人は長く一緒にいたんでしょ?会社を辞めたからって、四十億もの違約金を取るなんて。ひどいわ、まさに資本家そのもの」智也は淡々と返す。「契約に基づいただけだ。彼女は間違っていない」さらに言おうとした静香を、母が目で制した。そして口を開く。「智也、あの人と別れたのなら……静香と考えてみてはどう
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