All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 721 - Chapter 730

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第721話

翔雅は半ば膝をつき、澄佳は身を傾けて彼の腕に抱き寄せられていた。背筋越しに見える雪のように白い肌に黒髪が絡みつき、その艶やかな姿は、男の魂をも奪うほど妖しく美しかった。かつて翔雅もその美に溺れていた。だが今、この胸に湧き上がるのは激しい衝動よりも、深い痛みだった。彼は失いかけたものを取り戻すように、強く彼女を抱き締めた。——今はまだ自分のものではない。だが、いつかきっと。そう思った瞬間、胸の奥が熱を帯び、思わず彼女の唇を塞いだ。離れたくない、離せない、もう放したくない。その口づけは熱を帯び、肌から心臓へと火を広げていった。絡み合い、繰り返される口づけに、澄佳は身動きもできず、ただ仰け反るようにして彼の腕に閉じ込められ、その口づけを受けるしかなかった。唇が離れると、澄佳はいつものように手を上げかけたが、その手は翔雅に握り込まれた。顎を彼女の頭に寄せ、かすれた声で囁く。「服を着せてやる。な?着替えて、下に降りて一緒に食事して……せめて今夜は、穏やかに過ごそう」「嫌よ」胸元に押しつけられた声は冷たく短い。翔雅はそっと腕を緩め、漆黒の瞳で彼女を射抜くように見つめた。やがて手を伸ばし、傍らにあった衣服を取り上げると、慈しむように彼女の肩へと掛ける。その間も視線は一瞬たりとも逸れなかった。長く温かな指が布越しに身体を撫でるたび、澄佳の身に細やかな震えが走る。忘れかけていた熱の記憶が、胸の奥から次々と呼び覚まされていった。やがて彼は立ち上がり、衿のボタンを外し、シャツを脱いだ。逞しい胸板と肩幅は、鋭い視線と相まって雄々しい美を放つ。浅灰のシャツに袖を通すその背中を、澄佳はソファにもたれて黙って見つめた。思い返すのは痛みばかりの記憶。伏せた唇に、苦い笑みがこぼれる。——誰もさすらいを望むわけじゃない。誰も唯一の存在でありたい。けれど、翔雅はそれを与えてはくれなかった。着替えを終えた翔雅は再び彼女の前に戻り、膝を折ってその細い足首をそっと包み込んだ。指先で軽く押さえると、澄佳が小さく息を呑む。その瞬間に動きを止め、彼は顔を上げて見つめる。「氷で冷やそう。終わったらちょうど食事の時間だ」返事を待たず、彼は階下のキッチンへ向かった。居間の冷蔵庫にも氷はあったのに、あえて下まで取りに行ったのだ。一階のダイニング
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第722話

食後、翔雅は澄佳と二人の子どもを周防邸まで送り届けた。一日中遊び疲れた芽衣と章真は、チャイルドシートに沈み込み、すやすやと寝息を立てていた。小さな口元からは甘い寝息がもれている。車内は薄暗く、翔雅は横顔で澄佳を見やり、少し掠れた声で呟いた。「今日がどれほど嬉しかったか……お前にはわからないだろう。こんなに長い間、一家そろって食事をしたことなんてなかったんだ」澄佳は顔を背け、冷ややかに言った。「誰があなたの家族だって?」それでも翔雅は怒らず、低く笑みを洩らし、アクセルを踏み込む。深夜の風は冷たく、車内は静寂に包まれていた。子どもたちの甘い寝息だけが響く。翔雅は何度も言葉を飲み込んだ。澄佳が冷淡に応じるたび、結局は黙り込むしかなかった。車をわざとゆっくり走らせ、少しでも一緒にいる時間を延ばそうとした。やがて周防邸が近づいた頃、堪えきれず口を開く。「あいつと、まだ連絡を取っているのか?」咳払いし、居心地悪そうに付け足す。言うまでもなく、それは佐伯楓人のことだった。澄佳は数秒ほど戸惑い、低く答えた。「ええ。毎日ね」翔雅はそれ以上問わなかった。ただ顎をわずかに固くし、横顔に厳しさを刻む。黒いレンジローバーが邸に到着すると、駐車場には澪安の姿が待っていた。車が止まるや否や、助手席のドアを開け、妹の顔を見つめる。「一ノ瀬に何かされたんじゃないか?」澄佳は首を横に振る。澪安は黙って自分の背を叩き、乗れと合図した。澄佳はそっと身を預け、兄の背に負ぶわれる。翔雅には子ども二人が残されたが、彼にとっては重荷ではなかった。耀石グループの社長が、片腕に一人、背中にもう一人。子どもを抱えるその姿は、むしろ誇らしく幸せそうに見えた。夜は静かで、美しかった。——幾度追い求めても、澄佳は頑なに心を開こうとはしなかった。やがて翔雅が彼女に触れる機会は少なくなり、厚かましい笑みだけが彼の拠り所となった。秋が過ぎ、冬が訪れる。十二月、立都市には初雪が降った。雪は激しく降り続き、街は一面厚い白に覆われていた。多くの店は早々に店を閉め、嵐のような雪が過ぎ去るのを待っている。その中を一台の黒いレンジローバーが静かに走り、幼稚園に取り残されていた二人の子どもを乗せて、周防邸へと送り届けていった。翔雅は用
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第723話

翔雅が去ったあと、舞いしきる雪の中に、真琴だけが取り残された。その顔は虚ろで、何を思い、何を回想しているのか、自分でもわからない。ただ遠い清嶺の雪を思い出したのかもしれない。撮影チームと囲んだ丸焼きの牛、響く笑い声——あの頃、まだ自分は人間らしかった。だが、そんな人間であることに何の意味がある?力も地位も金もなければ、犬と変わらない。真琴は笑った。笑いながら、涙を流した。……自分の車に歩み寄り、ドアを開けて乗り込もうとしたとき、荒々しい腕が彼女を車内へ引きずり込んだ。「このアマ、ようやく戻ってきやがったな」耳を打つ濁声——羽村克也だった。真琴の背筋に冷たいものが走る。半年ぶりに見るその顔は、以前よりも凶暴な色を帯び、殺気を孕んでいた。だが真琴もただ怯える女ではない。かすかに笑みを浮かべて言った。「羽村克也……本当に萌音を売ったの?」男は冷笑する。「泣き虫のガキのことか?ああ、売ったさ」真琴は射抜くような目で睨み返す。その視線に、男は容赦なく手を振り下ろした。乾いた音が車内に響く。「クソ女!お前が金を出さなかったからだ!そのせいで俺はあのガキを売るしかなかったんだ!今度はお前の番だ。金を出さなきゃ、山奥に売り飛ばしてやる。七十過ぎのジジイの相手でも、お前の痩せた身体なら上玉だ。五十万六十万はすぐに稼げる!」頬を腫らしながらも、真琴は笑みを崩さない。「羽村克也……萌音の実の父親が誰か、知ってるの?」「知るか!俺にとっちゃただの野郎のガキだ!」吐き捨てたその瞬間、羽村の目が止まった。目の前に浮かんだ娘の瞳——それはあまりにも見覚えのあるものだった。羽村の手から力が抜け、全身が運転席に崩れ落ちた。唇からは途切れ途切れの呟きが漏れる。「あの目は親父と瓜二つじゃないか。なんで……なんで今まで気づかなかった……!」呟きは次第に狂乱へと変わり、血走った眼で真琴に馬乗りになる。髪を掴み、容赦なく平手を浴びせる。何度も、何度も。顔は腫れ上がり、原形をとどめなくなった。「クソ女……お前は人間か?それはお前の血を分けた子だぞ!それなのに、海外へ逃げ、あの子を見捨てた!萌音はどこだ?俺の娘はどこだ!」怒号とともにさらに十数発の平手が飛ぶ。息も絶え絶えの真琴は、それでも嗤った。「売ったの
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第724話

一週間後——クリスマスの夜。立都市は彩りの光に包まれていた。街を飾るネオンでさえ、今日は聖なる夜に譲る。大通りには英語のキャロルが流れ、サンタクロースを乗せた馬車が子どもたちに贈り物を配っていた。もちろん、十分な金を払えば馬車に同乗することもできる。翔雅は六万円を支払い、芽衣と章真を馬車に乗せてやった。白馬の蹄が澄んだ音を響かせ、南瓜型の車体にはカラフルな灯りが巻きつけられ、きらきら瞬いている。芽衣は父の膝に座り、小さな鞭を振って得意満面。——章真は黙って控えめに微笑むだけだった。澄佳は広場の真ん中に立ち、白いダウンコートに身を包み、分厚いマフラーを首に巻いていた。子どもたちが遊ぶあいだ、手にしたミルクティーを啜りながら、観覧車を見上げる。こんなふうに肩の力を抜いたのは、いつ以来だろう。ずっと働きづめで、ただ前へ進んできた。照明が空を照らし、夜空はまるで白昼のように明るかった。ベルリンで見た雪を思い出させる光。ふと、楓人のことが脳裏をかすめた。連絡を取ることはなかった。それは互いの優しさ。時間はすべての感情を薄めていく。どれほど愛しく思ったものでも。物思いに耽るうち、馬車が再び戻ってきた。翔雅は先に降り、二人の子どもを抱き下ろす。芽衣はまだ名残惜しげで、章真も目を輝かせて父を見上げていた。ちょうどそのとき、翔雅の携帯が鳴る。表示は見知らぬ番号。少し考え、澄佳に二人をもう一度乗せてやるよう任せると、皮財布から札束を抜き出し御者に渡した。さらに自分の黒いカシミアのコートを脱ぎ、澄佳の肩にかける。「寒いだろ。しっかり着てろ」コートは柔らかな手触りで、ほのかに新しい煙草の香りがした。澄佳が返そうとすると、翔雅は前を留め、深い眼差しを向ける。ちょうどその時、鞭が振り下ろされ、馬車は再び走り出した。芽衣と章真の歓声が夜空に響く。翔雅はしばらくその光景を見つめ、煙草を一本取り出し火を点けた。淡い煙は夜風に溶けていく。再び携帯が鳴る。同じ番号だった。翔雅は煙草をもみ消し、通話を繋ぐ。「一ノ瀬社長ですね。お会いしたい。取り引きの話です」低い男の声がした。「羽村克也か」「さすがだ。安心してください、あなたの家族には手を出さない。これはあくまであなたに有利な話だ」翔雅は鼻で笑う。「指名
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第725話

翔雅は先に二人の子どもを抱き下ろし、最後に澄佳へ手を差し伸べた。澄佳は受け取りたくなかったが、馬車は高く、結局はその手を握って飛び降りるしかなかった。着地の瞬間、足元がふらつき、そのまま翔雅の胸に倒れ込む。漂うのは新しい煙草の香り。思わず眩暈を覚える。逃れようとした腰を、彼の腕がさらに強く引き寄せた。「久しぶりだな。こうして抱くのは」掠れた声が耳に落ちる。このところ顔を合わせる機会はあったが、澄佳は慎重に距離を保ち、近づかせなかった。翔雅の渇望は募るばかりだった。今、腕に抱いた温もりは甘美でたまらない。だが、その時間は長く続かない。小さな芽衣が首を傾げ、父をじっと見上げている。その視線はまるで「この変なパパ、何してるの?」と問いかけているようだ。やがて無邪気に言った。「パパ、なんでママをそんなに抱きしめてるの?ママ、いい匂いだから?」翔雅は笑みを浮かべ、もっともらしく答える。「ママは寒がりだからな」「芽衣も寒い。パパ、芽衣も抱っこ」小さな腕が伸びると、翔雅は嬉々として抱き上げた。——誇らしかった。澄佳との小さな娘。可愛らしく、堂々として、まるで彼女の生き写しのように。一方で章真は母の手を握りしめている。四人は連れ立って駐車場へ向かった。そしていつものように、子どもたちはチャイルドシートに座るや否や、小さな頭を傾けて眠り込んだ。「まるで眠り薬でも盛ったみたい」澄佳が呟くと、翔雅は低く笑い、囁いた。「じゃあお前はどうして眠らない?俺がお前に口づけするたび、それが解毒薬になるから?」「下品なこと言わないで」澄佳はコートを脱ぎ、ダウンを直しながら睨む。その仕草に、翔雅の視線は釘付けになった。「……」澄佳は顔を背け、相手にしない。翔雅は車をすぐには動かさず、口だけが滑らかに走り出す。「なあ、俺たち、いま誰とも付き合ってないんだし……一緒にやり直してみてもいいだろ?試しに、って感じでさ。お前だって、キスされて無反応じゃなかった。俺たちの間には、まだ火が残ってる」澄佳は振り返ろうとして、近すぎる距離に驚く。唇が羽のように触れ合った。柔らかく、甘美な一瞬。慌てて身を引いたが、味を占めた翔雅が逃がすはずもない。後頭部を支え、覆いかぶさるように深く口づける。繰り返し、強引
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第726話

澄佳は何も言わなかった。ただ静かに翔雅を見つめていた。しばらくして、彼女はそっと彼を押しのけ、顔を車窓の向こうへ向けた。潤んだ視線が遠くに落ちる。やがて、その瞳がぴたりと止まった。広場の中央に、ひときわ長身の影が立っていた。黒のコートに包まれ、細身で背の高い姿。——佐伯楓人だった。彼はベルリンから戻ったばかりで、なぜかここに来てみたくなったのだろう。翔雅の車にも、車内の澄佳にも気づかず、ただ広場の真ん中で、過ぎ去った愛を懐かしむように立っていた。その表情には、悲しみも喜びも乏しく、ただ淡い悔恨が滲むばかり。楓人は、いつもそういう淡白な人だった。淡い悔恨と共に、一生を歩むのだろう。照明に照らされ、彼の顔に浮かぶわずかな感情の揺らぎまで鮮明に映し出されていた。眼差しの奥のかすかな潤みさえも。澄佳は手を窓に添え、夢中でその姿を追っていた。その瞬間だけ、隣にいる翔雅の存在を忘れて。翔雅もまた、その視線の先に気づき、胸の奥にざらついた不快感を覚える。ハンドルを撫でながら低く言った。「まだ忘れられないのか?降りて挨拶でもするか?」口ではそう言いつつ、アクセルを踏み込んだ。黒いレンジローバーが静かに走り出す。澄佳は窓を叩き、振り返って翔雅を睨む。「翔雅、変なんじゃない?」彼は鼻で笑った。「変なのはおまえだよ。恋煩いだろ」ずいぶん長いあいだ口にしていなかった荒い言葉が、今夜は堪えきれず零れ落ちる。「心の中じゃ、まだあいつを忘れられないくせに……どうして俺には絡んでばかりなんだ?」澄佳の瞳が怒りに燃える。「一方的に無理やり迫ってきてるのは、あなただけでしょ!」「無理やり?俺がキスした時、お前抵抗したか?」澄佳は冷たく嗤った。「それを受け入れたって言うわけ?」車が急に路肩に止まった。シートベルトの金具が外れる音と同時に、翔雅は彼女の顔を両手で捉え、覆いかぶさるように唇を奪った。荒々しく、そして細やかに絡み合う唇。息を奪うような深い口づけの合間、彼は唇を重ねたまま、凄烈で卑小な祈りのように囁く。「もう……あいつのことは考えるな。いいな?」澄佳は苦く笑んだ。「無理よ」翔雅の瞳は墨を流したように暗く揺れた。だが、それ以上の脅しを口にすることはなく、た
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第727話

翔雅は彼をじっと見つめた。ズボンのポケットにできた膨らみの形が刃物のそれだと見て取ると、さほど気に留めないように笑った。「会ってくれって呼び出したのは、俺に頼みがあるからだろ?俺が何を怖がるっていうんだ。さあ、言え。条件を聞かせろよ。俺の心を動かせるかどうか見せてみろ」その羽村という男も、人の心をよく知っているらしかった。「一ノ瀬社長が来てくれたってことは、心が動いたってことですよ」翔雅は相変わらず笑みを浮かべ、コートのポケットから一箱のタバコを取り出した。一本を唇に挟み、手早く火を点けて一服する。淡い青い煙が夜風に溶けていった。羽村は哀願するように声を落とした。「一ノ瀬社長、あの女がいなければ、こんなところまで来て、あなたに頭を下げてお願いすることもなかったはずです。私は粗野な人間です。率直に申し上げます。もう行き場がありません。萌音は私の娘なのに、あの女はそれを教えてくれませんでした。あの女は……あの人は、私が娘を売り渡してしまうまで、ずっと黙っていました。半年ものあいだ、黙っていたのです」翔雅の瞳が鋭く縮み、その奥に驚愕の影が走った。羽村の黒ずんだ顔に、涙の跡が二筋できていた。彼は手で拭い、続ける。「知らせを受けて、清都に戻りました。あの家を探しましたが、すでに引っ越しておりました。何日も探しましたが、見つかりません。噂では、一ノ瀬萌音は脚を折られて地方に連れて行かれ、物乞いをしているとか、別の家にもらわれたとか言われています。捜し方もわからず、私は指名手配の身です。ですから一ノ瀬社長に頼みに参りました。一ノ瀬萌音を見つけてください。よい家を見つけてください。施設でも構いません。私は自首して、あの女の罪を証言します。一ノ瀬社長、どうか、どうか一言、私に恨みを晴らさせてください」翔雅はすぐには答えず、ただ静かに羽村を見据え、ゆっくりと煙草を吸い込んでいた。しばしの沈黙ののち、彼は薄く笑みを浮かべる。「どうして俺が助ける?おまえは早く捕まるべきだ」羽村は鋭く彼を睨みつけた。そして次の瞬間、男は真っ直ぐに膝をついた。頭を深く垂れ、土に額をつけるようにして懇願する。「お願いします。どうか一ノ瀬萌音を助けてください。私は罪を犯しました。相沢も罪を犯しました。ですが、あの子は無垢です。親の罪を子が
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第728話

警察が到着する前、羽村はドサリと翔雅の前に膝をついた。黒ずんだ顔に涙の跡を残し、地面に頭を叩きつけるように伏して言う。「刑期が延びようと、銃弾を浴びようと構いません。一ノ瀬萌音さえ見つけていただければいいのです。普通の暮らしが送れるようにしてくだされば、それで十分です。お願いです、どうかあの子の身の上だけは伏せておいてください。実の父親に売られたなんてことは、絶対に知られてはいけません」羽村は地に突っ伏し、声を殺して泣き崩れた。涙は血に混じり、床に染み広がっていく。それは悔恨であり、取り返しのつかぬ後悔だった。娘の成長を見守ることも叶わず、もし生きて再び会えたとしても、遠くから一目見るのが精一杯だろう。その時にはもう嫁ぎ、幼子の手を引いているかもしれない……羽村の涙は止まらなかった。……やがて羽村は裁きを受けた。その供述によって、真琴が拘束された。最初、真琴は必死に否認し、責任を逃れようとした。だが羽村の手には数ギガに及ぶ動画の記録が残されていた。二人の「証拠」が余すことなく映されており、もはや言い逃れはできなかった。一方、翔雅は病院へ搬送され、緊急手術となった。手術室の外には人だかりができた。一ノ瀬家の親族だけでなく、悠、美羽も駆けつけ、周防の人々も集まっていた。京介夫妻、澪安、そして澄佳が二人の子どもを連れて来ていた。誰もが翔雅がこの危機を乗り越えられるかと胸を詰まらせていた。一ノ瀬夫人は心配でたまらなかった。これまで息子の振る舞いを憎み、縁を切るとまで口にした。だが、命の境で横たわる姿を前にしては、涙が止まらず、夫の手を強く握りしめて震えた。「どうにか……どうにかならないの……中の様子を……」平川は妻を支え、静かに答えた。「もう頼んである、大丈夫だ」焦りは消えなかった。周囲の者たちも皆、固く口を閉ざし、不安を隠せなかった。芽衣と章真も幼いながら父の危険を察していた。眠気に抗いながらも帰ろうとせず、病院の椅子で涙を溜め、母の傍らに寄り添って待ち続けた。澄佳の顔に感情は表れていなかったが、視線はずっと手術室の扉に注がれていた。その胸の内を知る者はいない。……三時間後、ようやく扉上の灯りが消え、医師が姿を現した。マスクを外し、重い声で告げる。「危ないところ
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第729話

澄佳はまっすぐに翔雅を見つめた。やがてふっと笑みを浮かべる。「私が妬く?考えすぎよ」否定の言葉。しかし翔雅の耳には、女特有のやきもちにしか聞こえない。胸の奥にとろりとした甘さが広がる。誰もいないこの場で、彼は真面目な声を出した。「若い子なんか、興味ない」澄佳はうなずき、淡々と言う。「そうね、私はもう若くないから」普通なら慌てて否定するところだが、翔雅は図々しく、彼女の手を引き寄せた。「俺は……成熟した、色香のあるお前が好きだ。ほかの誰もいらない」澄佳は小さく鼻を鳴らし、用意した薬膳スープを器に注ぎながら問う。「先生には、もう食べてもいいって言われたの?」翔雅の目はさらに深く沈む。「お前が、食べさせてくれるなら」「そんなわがまま、どこで覚えたの」彼女が取り合わない様子に翔雅は肩を落としかけたが、次の瞬間、澄佳は椅子を引き寄せ、ベッドの傍に腰を下ろした。匙を手に取り、彼に向かって小さく笑う。「ほら、口を開けて」その一言に、翔雅の意識がくらりと揺れた。胸に押し寄せる歓喜に、どう受け止めていいか分からない。若き日の衝動も、幾度の心震える瞬間も、この一匙の驚きには遠く及ばなかった。「澄佳」翔雅は呟いた。「口を開けなさい」彼はただ彼女を見つめ、ゆっくり口を開く。匙が唇を越え、温かな薬膳が流れ込む。翔雅はゆっくりと飲み下し、燃えるような眼差しで澄佳を凝視した。肉を食い破る獣のような熱を帯びた視線に、澄佳もさすがに頬を染める。だが動じず、もう一匙を差し出した。翔雅はすぐさま受け入れる。その火照りを、無邪気な子どもたちが察することはなかった。彼らはソファに移り、楽しげに遊んでいた。一椀を飲み終え、翔雅が横になろうとした時、澄佳がふいに尋ねた。「羽村克也があなたを訪ねたのは……金のため?」翔雅はうなずく。「そうだ。執念深くてな……それだけだ」彼女がさらに問うかと思いきや、それ以上追及はせず、器を片づけようと立ち上がる。翔雅は咄嗟に彼女の手を掴んだ。「行くな」見上げる瞳は卑屈なほど切実で、ゆっくりと彼女を引き寄せる。「行かないで。ずっといてくれ」一時間でも、一日でもなく。——永遠に。澄佳は答えず、ただ言った。「入院している間は、できるだけ来るわ」
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第730話

翔雅の身体がびくりと固まった。——澄佳は、あの瞬間のことを知っているのか?言葉を返そうとした時、彼女は別の問いを重ねた。「すごく痛かったでしょう?」安堵の吐息が漏れる。考えすぎだったようだ。翔雅はそっと彼女の髪を撫でた。珍しく、澄佳は避けずにその手を受け入れる。病室に、仄かな温もりが満ちていった。澄佳は俯いたまま、かすれた声を落とす。「もし刃が少しでもずれていたら……あなたはどうするつもりだったの?芽衣と章真はどうなるの?ご両親は?翔雅、考えたことある?」翔雅は言葉を失い、しばらく沈黙したのち、低く呟く。「考えたさ」澄佳は何も返さず、代わりに彼の頬を左右から打った。乾いた音が二度。力を込めた本気の平手だった。芽衣と章真はじっと見守り、もう慣れたように顔を見合わせる。——パパはいつもママに叩かれているのに、怒るどころか嬉しそうなのだ。澄佳は荒い呼吸のまま吐き捨てる。「馬鹿野郎」翔雅は彼女を見つめ、しばらくして静かに問う。「気は済んだか?」澄佳の唇が震え、目頭の潤みを隠すように顔を背ける。翔雅はその涙を指先で拭い、低く囁いた。「俺のせいで泣いてるんだろう?」「違う」「じゃあ……病室に砂でも入ったか。ここに砂なんてないのに」再び、二度の平手打ち。翔雅はすっかり満ち足りたように笑みを浮かべた。その頃、廊下で様子を覗いていた一ノ瀬夫人は、持ってきた弁当箱を手にして立ち尽くした。息子が叩かれる姿にそっと扉を閉じ、胸に手を当てる。心臓が早鐘を打ちながら、つぶやいた。「叩くのも、罵るのも……愛情なのよね」今の若い人たちは、こういう粗野なやり取りでしか愛を表せない。けれど、翔雅のあの顔を見れば——十分に幸せそうだ。一ノ瀬夫人は看護師に弁当を託し、自らは立ち去った。——邪魔はしないほうがいいわね。手を擦り合わせながら、心の中ではすでに「結婚式の準備」を思い描いていた。……午後四時。芽衣と章真がお腹を空かせたため、澄佳は外へ甘味を買いに出た。冷え込みが強く、子どもたちは病院に残した。向かいの店で菓子を買い、戻ってきた病院の玄関で、思いがけず楓人と鉢合わせる。楓人はこの病院で学術交流のために来ていた。彼は澄佳の手の中の甘味と、病院の方向に目を移し、静か
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