All Chapters of ダンジョン喰らいの人類神話: Chapter 81 - Chapter 90

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81.接近

 例の教室にたどり着くと、すぐにがやがやとした人の声が俺たちを出迎えた。「これが……」 教室の本当の姿……。教室の名に違わず、たくさんの子供が居る。そうでないと分かっていても本当の学校に忍び込んでしまったかのような罪悪感にかられた。「ほら……今更見て回ることもないでしょ。さっさと先生をさがそ」「え、ああ……うん……」 教室に入った瞬間、俺たちの方に周りの人たちの視線が集まったが……今ではもう誰もこちらを気にしていない。あの皐月に対してもだ。まさか知らないということはないと思うけれど……どうもみんなそのことを重要に思っていないみたいだ。潜入する上ではやたらと干渉が無いのは動きやすくていいのだが、かといってここまで何もないとそれはそれで妙に不安に感じたりもする。 春もここに来ているのだろうか……と、少し気になりはするが、皐月は先を急ぎたいようでここで油を売る時間は与えられなかった。 教室を出て、廊下を二人で駆け抜ける。廊下は走るな、なんていうのはお決まりの言葉だが……それが徹底されることがないことも含めてお決まりだ。窓の外は暗く、どことも分からない闇が広がっている。しかし廊下は蛍光灯こそ点灯しているものの、それはほとんど飾りのようで……光源に関係なく昼間のように明るかった。「なあ、ところで皐月……お前はその、先生の居所に心当たりがあるのか……? 今、どこに向かってるんだ?」 学校なんて施設は……まあ特別な事情が無ければ大体の人が馴染みのある場所だろう。だからすべての場所を網羅しなくても、どこにどういう部屋があるのか、どういう道がどこへ続いていそうなのかは雰囲気で大体見当がつく。先生と名乗っているからには職員室に居るのかもしれないが……そういうものなのだろうか?「いや、全然。心当たりなんか無いし、ただなんとなく走ってるだけで、どこに向かってるのかもそんなにわかんないよ」「ええっ、何……勘ってこと? 大丈夫なのかそれ……」 皐月が何を考えているのかは分からないが、しかしその直感が何かを告げているというなら着いて行くほかない。春の口ぶりだと、先生っていうのはここではそんなに珍しい存在ではないみたいだったし……難しいことは考えなくても会えるのかもしれない。 皐月とは知りながら、ふと思う。そういえば……皐月って、学校はどうしてい
last updateLast Updated : 2025-10-01
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82.焦燥

 それから数秒後……タイミング悪く誰かの足音が近づいてくる。どこへ向かっているのかは分からないが、それは徐々に近づいてきている気がした。 もしその足音の目的地がここだったら……。というか、向かってきているのが例の先生だったりしたら……。 悪い予感に背中に汗をかくが、皐月は涼しげな表情で何を気にしている風でもない。「な、なあ……誰か近づいて来てないか……? これって……俺たち見つかったらマズいんじゃ……」「大丈夫、近づいて来てるのは先生じゃない。それに……一人でもないみたいだし、普通に何でもない誰かでしょ。たぶん……私が昨日見た感じだと、先生って呼ばれてる人は一人だけみたいだし……なによりこっちに意識を向けてない」「そ、そういうもんなのか……?」 特別そういった感知系のスキルを持たない俺は、全面的に皐月の言葉を信頼するしかない。そうは言っても……どれくらいテストの自己採点に自信があったとしても答案返却の時には相応の緊張感が伴うものだ。だからその足音が通り過ぎてくれることを願いながら、生唾を飲み込んだ。「けど……だからといって安心ってわけでもない。先生自体はあのまま離れていったけど……その意識はずっとこっちに向けられてる」「それって……完全に気付かれてるってことか……?」「別にそういう訳でもないけど……あの先生とかいう人の意識は、常にこの領域内……学校全体に向いている。どのくらいの精度で状況を把握できてるかは定かでないけど……あのゲートをくぐって学校に入ってきている時点で”ずっと監視されてる”。そう思うくらいでちょうどいいかもしれない」「な、なら……ここに隠れてる意味って……」「もちろんあるよ。私に関しては……先生に会うのが二度目だから分かる。結局この学校をどういう手段で構築維持してるのかは分からないけど、これだけの規模の空間を維持するとなると監視に割けるリソースはそんなに多くないはず。結局は、目で見る必要があるってこと。推測だけど……」 なら結局どうなのかは分かっていないじゃないか……というのは置いておくとしても、相手の力量が分からない以上こうして身を隠しておくのが少なくとも安牌ということなのだろう……。大胆なようで慎重なところもある……たぶんそれが皐月の能力の高さの秘訣でもあるのだろう。俺に関しては……いざという時に自分の判断を
last updateLast Updated : 2025-10-02
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83.地獄の空気感

 狭い個室トイレの中、無理やり押し込められた皐月が俺を睨んでくる。俺は未だに何かに怯えたまま呼吸を落ち着かせていた。「ご……ごめん。けど……ほら、なんか見られちゃまずい気がして……。ていうか、ほら……ここ男子トイレだし……むしろ見られたら困るのは皐月の方なんじゃ……」「はあ……」 後付けで自分の気持ちに説明をつけようとするが、俺のその言葉は皐月を呆れさせるだけだった。「そんなの……関係ないよ。だって……」 皐月の視線が、閉じられた個室の扉越しに男子トイレの入り口に向く。その瞬間、トイレに入ってきた誰かの声が聞こえてきた。「ええ、ほんとにここで……?」「別にどこでもいいじゃんよ。どうせ他のとこはもう誰かいるだろうし……」 その声を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がり息が漏れそうになる。それでも隠れるという行動から逆流して発生した見つかりたくないという思いが、何とかその息をひそめさせた。「まあ……なんでもいいから早く済ませて……」 男子トイレにやってきた二人組。その片方は男だったが、もう片方は……女の声だった。皐月の「関係ない」の意味をそこで理解する。 だが……それ以上に俺を驚かせたのは……。「なあ……お前さ、今日なんか機嫌悪くね……? 春……」 その二人組の片割れ……女の方が、昨日俺をここまで案内してくれた……春だったということだ。 皐月は二人の到来に露骨に嫌そうな表情を浮かべて二の閉まった便座に腰かける。その眼差しは「隠れなければこんなことにはならなかったのに」と言いたげだ。「……」 俺も……少し状況が望ましくないことに気づいて、言葉に詰まる。よりにもよって、春が男と……人気のないトイレにやってくる、それがどういうことなのか分かってしまったから、絶句するしかなかった。 こうなるともう……いよいよ出ていけない。個室の外側から……カチャカチャとベルトを外す嫌に生々しい音が響いてくる。頼むから今からでも個室が一個だけ不自然に閉まっていることに、その中に誰かいるということに気づいてくれと念じずにはいられなかった。 しかしそんな思いが届くはずもなく……。「……っ」 それは静かに始まってしまった。皐月はもう呆れを通り越してうんざりした表情を浮かべて何があるわけでもない個室の仕切りをじっと眺めている。俺もひたすらに気まずくて
last updateLast Updated : 2025-10-03
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84.鏡

 皐月と共に、体育館を目指す。先生が出てきた部屋(やはり保健室だった)の位置からすると、体育館の位置はそう遠くない。怪我人が出やすそうなところだし、初めから体育館から保健室はアクセス良く設計されているのだろうか……。ともかく、あの時先生が向かっていった方向と同じ方へ俺と皐月も走って行った。「なんだ……これ……」 その道中で、少し周りの様子に違和感を抱いてぼそっとこぼす。少なくとも俺たちがトイレの個室に隠れる羽目になる前まではいたるところで好き勝手していた人たちが、どうやら全員何かに導かれるように体育館へつま先を向けている。 皐月も体育館に近づくにつれ増していく人の密度に何か変なものを感じたのか、必死に答えを探すようにあちこちに視線を向けていた。「……」 しかしその忙しなく動き回る瞳も何も捕らえられなかったようで、結局今何が起きているのかは定かでないようだった。「確かに……少し変……。先生、の方に向かってるんだろうけど……どうして……?」「なあ、これ……俺たち、行かない方がいいんじゃ……?」「いや、それはダメ。何か起きるかもしれないとしたら、それを止めるのが私たちの仕事だから……」 道行く人々の全ては、特に意識が混濁しているような風でもなく……催眠とかその手の影響を受けているようには見えない。皆しっかり意思のある瞳を保ったまま、まるで授業にでも向かうかのようにそれぞれの歩調で体育館に向かっていた。「そうか……授業……」 考えようによっては、この光景は特別異質でもないのかもしれない。なにしろここは学校の姿をしているものだから……多くの人数が一か所に同じ目的をもって足を運ぶことはごくありふれた光景。 しかし、ここに訪れている人の質を考えれば……やっぱり少し妙でもある。偏見だが……不良たちがそろいもそろって反発もせずに、そういう「群れの行動」を強いられることを良しとするだろうか?それとも……それほどまでにこの先に、体育館に……彼らにとって魅力的なものがあるのだろうか……?「あ……春だ……」 体育館に向かっていく人々の中に、一瞬春の姿を見つける。だがすぐに人の圧を嫌うようにさっさと駆け抜けていってしまい、その姿を見失った。「あれって……さっきのトイレの……。水瀬、知り合いだったの?」「え……あれ!? 皐月、なんであれがさっき
last updateLast Updated : 2025-10-04
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85.眠る時間

「さあ、わたしに身をゆだねて。大丈夫、心配は要りませんよ。さあ……どうか正直に……あなたの心を見せてください」 先生は、近くの男に歩み寄ると……その額に手を伸ばす。男は、ただその指先が自らに触れるのを待っていた。「皐月……これ……」「……分からない。いったい……何をしようとしてるの……?」 俺と皐月は……これから何かが起こるのだとすればそれを止めなければならない。しかし、こうして周りの人たちに身を紛れ込ませている以上迂闊に飛び出していくわけにもいかず……目の前の光景に二の足を踏んでいた。「……っ……!」 ならば……皐月はともかく、俺だけなら……相手に見つかっても損失は少ないはずだ。 説明を省いて、先生の元へ躍り出ようと意を決する。しかし、俺がその一歩目を踏み出すよりは……先生の指が男の額に触れるのが早かった。「あ……ああっ……。う、うぅ……」 指先で額を小突かれた男は……呻くような声を漏らして膝から崩れ落ちる。見開かれた瞳からは……静かに涙があふれ出していた。「な……」 間に合わなかった……?あれは今……いったい何が起きて……? ここからその様子を見ていただけじゃ何も理解することができない俺に対して、皐月は冷静に状況を静観する。「はあ……よかったね、水瀬。さっき無茶して突っ込むのが間に合わなくて」「うっ……」 別に隠していたわけでもないし、何かあったらなんなら皐月は後から俺の考えも察してくれるだろうとさえ思っていたが……単純に間に合わなかっただけという以上、それを指摘されると恥ずかしかった。「結果的にだけど……ここから飛び出してでも止めに行く必要のあることじゃなかった。あの男の人も……命に別状は無いし、何より周りの人の様子を見てみて。これはスキルがあるとかないとか関係ない、ただの観察で分かることだから……」「え、えっと……?」「……はあ……。見たまんまだよ。誰も驚きも怯えもしない。これは常習的に行われてることで……たぶんみんな、このためにここに来てる……」 皐月に言われて改めて周りを見てみると……一人の男が突然崩れ落ちたというのに確かにそれに関して誰も違和感を抱いたり、不思議に思ったりしている様子はなかった。このこと自体には……誰もが無関心……というか、自分の番を待っているようですらある。 いったん全体の様子を確
last updateLast Updated : 2025-10-05
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86.起源へのノスタルジー

「水瀬……念のため私の後ろに……」「え、あ……ああ……」 皐月の背に身を隠すというのは、なんだか複雑な気分だが反発するわけにもいかず俺は後ろに下がった。それを見た先生は……相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだった。「ふふ、そう警戒する必要はないのですよ。あなたたちが欲するのであれば……ええ、なんだって答えて差し上げましょう」「……」 皐月は……未だ眼前に居る人物の底を測りかねているいるようで出方に迷っているみたいだった。「何も……聞きたいことはありませんか……? なら……そうですね、お話しするより……実際に私に心を預けてみてはどうです? そう……彼らのように……」 先生は「御覧なさい」と手を広げる。そこにあるのは……先生の手によって意識を失った者たちだ。皆……まるで死んだかのように眠っている。「あなたは……何者……?」 皐月が先生を視線で牽制するようにして、問いを投げる。先生は……そんな視線などまるで意に介さず、しかし皐月を刺激しないためかそれ以上一歩も動かず答えた。「わたしは何者か……ですか? ふふ、見ての通り……わたしはここでは”先生”でしかありませんよ」「そういうことを聞いてるんじゃない。それくらいは分かってるでしょ。こっちは無駄な問答がしたくてここまで来てるんじゃないの」 皐月はインベントリから……簡素な見た目の短剣を取り出す。先生はその刃の輝きを瞳に映すと、少し目を細めた。「……なるほど、そういうことですか……。どうやら今宵ここを訪れたのは……特別なお客さんのようですね。ですが……ええ、やはり……あなたも彼らと変わらないですよ。じきに分かります……」 先生はまるで無防備に、ゆっくりとその腕を持ち上げる。皐月が「動くな!」と切っ先を向けるも、今度はその制止に従わなかった。「大丈夫、おびえることはありませんよ。あなたにとって……世界は優しく温かいですから……。あなたの望みは何であれ、全て叶うと約束しますよ。仮初のカタチを捨て、生命の種を芽吹かせるのです。最も……あなたらしい姿で……」 歩みを止めない先生に、皐月は迷わず剣を突き出す。しかしその一瞬の刃の閃きは……心臓を貫くことも喉を切り裂くこともなかった。ただ空を切り、何も傷つけることなく……変わらぬ姿で皐月の手に握られている。そして……。「え……」 頓
last updateLast Updated : 2025-10-06
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87.血の色

「水瀬! 水瀬……!」 皐月は倒れた優になんども語り掛けるが、反応はない。肩を揺すれば……揺すっただけ頭がガクガク揺れるだけだ。 皐月はこの状況に舌打ちしながらも、冷静さを取り戻して立ち上がる。そして再び、優を他の”生徒”達のように眠らせた張本人である先生を睨みつけた。「ふふ、心配は要りません。彼は自ら望んで起源へと沈んでいったのですから……。郷愁……この感情に抗える人間は居ません。それは何よりも……あなたたち自身が、そしてわたしが分かっていることです。歪で不完全な生命よ……今度はあなたの番ですよ……」「来るな! 訳の分からない言葉を重ねるのはやめてって、私さっきも言ったよね? あなたは何で……ここで何をしている? それが何であれ……止めるけど」「ああ……可哀想に……怯えているのですね?」 先生は皐月の言葉などまるで聞かずに、ゆっくりと近づいて行く。皐月はそれを牽制するように、スキルを使って先生の足元を凍り付かせた。水分も冷気もなかったはずの場所に氷結した氷の刃は、それ以上脚を踏み出すことを許すまいと輝いていた。「……ふふ、あなたの中にはもう……芽が出ているじゃありませんか。同じことですよ、わたしがしていることも……。ただ彼らが、彼らの望むあるべき姿に還れるよう手助けをしているのです……」「あんたが……闇雲に一般人のスキルを覚醒させているって認識でいいの? だったら……まどろっこしいのは嫌いだから、私も躊躇わないけど」「あなたの欲しいものは……本当にそんなものでしょうか? あなたの目は……ふふ、全く違うものを物語っているようですが……。もしかしたら、ここに居る他の誰より……あなたはわたしの助けが必要かもしれませんよ? 不信、失望、卑屈、孤独、諦め……そして羨望……。言葉に当てはめてしまうと少し陳腐に感じるかもしれませんが……わたしならそれらを、あなたのあるがままを受け止めてあげられますよ」「ふざけないで」 皐月はこの先生という人物とは話が通じないと判断して、とうとう本格的に短剣を構える。何の特徴もない、地味な短剣。しかしそれはあらゆる素材や労力を躊躇わず注ぎ込まれ極限まで鍛え上げられた刃だった。 しかし、あの先生というのも……ただものではない。先ほどの一瞬の展開……皐月の攻撃を躱し、優に迫ったあの瞬間……。あれは皐月でさえそ
last updateLast Updated : 2025-10-07
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88.昔話

「やっと……仮面が剝がれたね、先生様? 胡散臭いただ穏やかなだけの中身のない表情より、そっちの方が好感持てるよ」 先生は皐月の言葉に、その瞳に怒りの色を浮かべる。傷のふさがった腕で頭を抱え、どこか狂気的に笑った。「ふざけないでください! あなたとわたしに通う血が同じ!? 自惚れないでください! 高潔な魂を持たない紛い物が、わたしと同じ……!? ああ、愚か……!! あまりにも愚かっ……!! ですが……」 感情のままに激昂していた先生だったが、その怒りを徐々に収めていく。そして先ほどまでの取り乱した様子は数回の呼吸の後に鳴りを潜めた。「ですが……許しましょう。その愚かさこそ……あなたたちがあなたたちたる所以ですから……。無尽の生命の祝福が……わたしに囁いている。ああ……そう、わたしはこの不完全な生命を導かねばなりません。ですから……まず初めに、あなたは分をわきまえるということを学ぶ必要があるかもしれませんね……」 未だ攻撃のタイミングを窺っている皐月の眼前で、先生は静かに……そしてあまりにも無防備に人差し指を立てる。それを自身の唇に添え「静かに」とでも言うように、皐月を見つめる目を細めた。「……!」 その瞬間、皐月が目の色を変える。先生は……ただ人差し指を立てるというプロセスだけで、皐月から言葉を奪ったのだ。 しかし……先生による干渉はそれだけに留まらない。視覚的には何が起こっているわけでもないのに……皐月は言葉の次に身動きを封じられた。これをゲームの対戦で例えるなら、まるでチートを使っているようなものだろう。しかしダンジョンにおいても……こうした保有する能力による壁はほとんどチートのように高くそびえる。 だから皐月は……この理不尽に対しては……特別な感情は湧かなかった。ただこうして自分の理解の及ばない状況に際しても、小さな頭蓋骨に収まった脳は懸命に突破口を模索し続けるだけだ。既にこの数秒のうちに、皐月は自身にできるやり方を六つ試し……そしてすべて失敗していた。「ふふ……やっと他の子供たちみたいに可愛らしくなりましたね……。あなたは……今は立場上難しいのかもしれませんが、もう少し素直になるべきですね。それとも……そんなに自分自身を直視するのが怖いですか?」「……」 一切の抵抗を封じて、置物同然になった皐月の顎を指先で撫でる。
last updateLast Updated : 2025-10-08
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89.目覚めの時間

「姉……さん……?」 眩しい夕日の滲む中、姉さんが俺に笑いかける。波打ち際に立つ姉さんのかかとを打ち寄せる波が濡らしていた。「優くん……おいで……。……くん……」 姉さんが俺を呼ぶ。なぜか二度目に呼んだ名前は……複数の音が重なっているように聞こえて、言葉が不明瞭だった。「ここは……」 何度辺りを見回しても、ここは見たことのない場所だ。もちろん海なら今まで何度も見たことがあるが……しかしこの海は知らない。それどころか……この場所、そもそも日本なのか……?「××くん……」 いい加減俺を呼ぶ姉さんを無視するわけにもいかず、そのそばに歩み寄る。俺の接近を受け姉さんは……その視線を海に向けて、隣までやってきた俺の手をそっと取った。「姉さん……?」 なんだか……波の音のせいだろうか、不思議と心が安らいで……けれども何一つ状況が分からないので、海を見つめる姉さんの横顔に尋ねた。俺の声を聞くや否や……姉さんはゆっくり首を横に振る。そして、俺の手を握る手に僅かばかり力を込めた。俺の手のひらに……姉さんの体温が染み込んでくる。「大丈夫、心配しないで。全部うまくいくから、わたしを信じて、ね?」「全部うまくいくって……どういうこと? 何が……?」「……今はまだ……分からないかもしれない……。けど、世界の始まりに……眩い光が降り注いだように……今度はわたしたちが……やさしく、全てを抱きしめればいいの。そして……最も大切なこと、それは……××が××自身のことを愛すること。××くんの孤独は永遠かもしれないけど……信じて、あなたを愛して、あなたに笑いかけてくれる人の、その思いは……決して、嘘でも軽薄なものでもないんだよ」「……」 いったい、なんについての話なのか分からない。けれどもどうしてか、その言葉は胸に響いてくるものがあった。 胸の中に、今まで抱いたことのない感情が渦巻く。しかし同時に、もう何度もこんな思いこの胸に刻んできているような気もした。それは……孤独。まるで何もない暗闇で、ただ空しく自分の呼び声だけが反響しているような感覚だった。だれも俺の言葉には応えず……それどころか聞こえてすらいない。どうあがいても、冷たい壁が……全てを閉じ込めてしまうのだ。「……ん? あれ……?」 ふと、違和感がして手の甲で頬を拭うと、濡れていること
last updateLast Updated : 2025-10-09
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90.箱庭の教室

 意識が海から抜け出すと、視界が暗転する。代わりに先ほどまでは感じなかった体にかかる重みを感じた。地球の重力を肌に感じて、自分が現実に戻ってきたのだと悟る。もう目覚めているのだから……あとは目を開けるだけだった。 浅く呼吸しながら、ゆっくりと目を開く。視界に映るのは……あの神秘的な砂浜じゃなく、しっかり俺の認識する現実と地続きなあの体育館だ。 音を立てないように体を起こすと、対峙している皐月と先生が見える。どことなく一触即発の雰囲気を漂わせながらも、何か言葉を交わしているようで戦闘中という感じでもなさそうだった。 俺が起き上がったのに気づいたのか、皐月の瞳がほんの一瞬だけこちらに向く。たぶん意識的に見たというわけじゃなくて、視界の中で動くものがあったから半ば自動的に反応するようにこちらを見たのだろう。そして、その一瞬の瞳の揺らぎを先生も見逃さず、ゆっくりとこちらに振り向いた。「ん……? あら……?」 俺が立ち上がっているのを見ると、存外驚いたようでその目を丸くする。というか……なんだか、俺が眠りに落ちる前とは先生の雰囲気が微妙に違う気がする。なんというか……あのただ神秘的なだけの鏡のような瞳でなく、意思とか、感情とか……そう言ったものの色が浮かび上がった瞳だ。言うなれば……何があったかは知らないが、化けの皮がはがれた、というやつかもしれない。「……ふむ、こちらの方には……眠りから目覚めてくるほどの意志力のようなものは見て取れませんでしたが……わたしの目も鈍ったのでしょうか? どちらにしても……」 まだかろうじて笑みを保っていた先生の顔面から……表情がスッと消える。その瞳には軽蔑にも似た嫌悪感がありありと浮かんでいた。「どちらにしても、少し面白くないですね……。それにあなた……あなたには、正直客人としての価値も感じません。ふぅ……今すぐここから出ていくことをお勧めしますよ。ここは……あなたの来るべき場所でなかった……」「俺が出ていくのを黙って見守っててくれるのか? だったら遠慮なく帰らせてもらうけど……」「ふふ、ええ……もちろん、帰っていただいて構いませんよ。ただ、ここについての記憶は置いて行ってもらいます。ちょっとしたつじつま合わせをすれば……あなたが再びここを訪れることもないでしょう」「ああー……なるほど……」 ぶっ
last updateLast Updated : 2025-10-10
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