All Chapters of 愛も縁も切れました。お元気でどうぞ: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

「天城さん、あなたは二重人格ですか?」結局彼女と結婚したのは復讐のためなんでしょ。それでいて永遠の愛だの言い出すとか、苑は本気でこの男、頭のネジが外れてると思った。「うん、多分な。だから君にも体験させてやろうと思って」食事を終えると、蒼真は苑を子ども用のおもちゃの車に乗せた。見た目はコンパクトで、遊園地の子供向けカーみたいだけど、大きな四輪タイヤがついていて、まるで山道を走るバギーみたいだった。いざ走り出すと、苑は思った。見た目で判断するなって言葉、人だけじゃなくてモノにも通じるんだな。この車、どう見てもただの遊具だけど、走行は安定してるし、スピードだって申し分ない。通りを走りながら、景色をゆっくり楽しめるくらい。蒼真は行き先を何も言わなかったけど、苑には分かった。今日は一日、遊びに連れて行ってくれるつもりなのだと。まぁいいか。ここまで来ちゃったんだし。だったら今は、思い切って楽しめばいい。そういえば、あの数年彼女は蓮に付きっきりで、休暇なんて取ったことなかったし、旅行も行けなかった。たまに出張に同行できても、ただの移動だった。唯一の例外は、万仏山での願掛け。セドナの街はとても綺麗で、人通りも少ない。店はどこも静かで、だけど店の前では路上ライブしてる人がいたりして、焦りとか生活の不安なんて一切感じられない。まるで、稼げても稼げなくても気にしてないみたいに、今を楽しんでる、そんな空気。「羨ましい?」苑の小さな心の動きを、蒼真は見逃さなかった。車が角を曲がると、白髪まじりのひげをたくわえた老人がラテンダンスを踊っていた。苑は思わず目を見張った。踊りの上手さもさることながら、あの年齢で堂々と人前で踊れるって、それだけで心の在り方が違う。苑にはまだ到底真似できない。蒼真は、苑が興味を示したことに気づいて車を止めた。苑は降りずにそのまま踊る老人を見つめながら、つぶやいた。「不思議ですな。どうしてここの人たちはあんなに焦りがなくて、あんなに楽しそうに生きられるんでしょう」「自分を許してるからだよ」蒼真のその言葉に、苑は彼のほうを見た。黒のサングラスが蒼真の鼻梁にかかっていて、光のせいか、唇の色まで鮮やかに見える。ほんと、この男ってどの角度でも、どの瞬間でも、絵になる。蒼真がふと顔を向けた。サングラス越しにも
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第52話

踊れなくても、身振り手振りでどうにかなる。少なくとも、年配の人を気まずくさせるよりはずっとマシだ。これまでの苑は、外から見れば華やかで眩しく見えたかもしれない。でも、どれほど拒絶され、無視されてきたかなんて、誰も知らない。苑には、沈黙の拒絶がどれだけ辛いかがよく分かっていた。目の前の老人は、自分の祖父ほどの年齢だ。そんな人がわざわざ声をかけてくれたのなら、それはきっと心からの好意だ。「足くじいたって、俺はおぶわねぇぞ」蒼真はまったく失礼なやつだ。ろくでもない口からは、まともな言葉は出てこない。苑は彼がわざとやってると分かっていた。だから甘やかさずに言い返す。「じゃあ抱けば?」そう言い終わる頃には、彼女はすでに老人の前に立っていた。老人はすぐに手を取らず、彼女の周りを一周まわってから、にこやかに手を差し出した。苑が手を差し出すと、次の瞬間、体のコントロールが効かなくなった。まるで足元にローラーでもついてるかのように、老人に引かれて滑るように回り始めた。体がふわりと軽くなり、まるで羽が生えたかのようだった。こんな感覚、初めてだった。自分は踊れないから体も硬いと思ってたけど、どうやらそれは思い込みだったようだ。老人は力を入れたり抜いたり、時には回転し、時には小休止を挟む。周囲の景色もそれに合わせて動いたり止まったりして、まるで二人に合わせて呼吸しているようだった……ふと、誰かが言っていた「ダンサーの魂は自由だ」という言葉を思い出す。今、ようやくその意味が分かった気がした。苑の最初の恥じらいはどこかへ消え、全てが舞いと身体の動きに溶け込んだ。老人のステップもどんどん高揚し、見物人も次第に増えていった。最初はただ流れに身を任せていた苑も、次第に自分なりの動きを見出していく。やがて老人と呼吸が合うようになった。老人の腕から伝わる力が次第に強くなり、旋回の弧もどんどん大きくなっていく。その空中を舞うような自由な動きに、苑の魂までもが解き放たれたようだった。この瞬間、彼女の世界にはもう蓮の傷も、佳奈への想いも、蒼真の気まぐれさえもなかった。まるで世界が自分のためだけに存在しているようだった。苑は空を仰いだ。澄み渡る青空が、心の埃をすべて洗い流してくれるようで、老人にぐっと引かれた瞬間、そっと目を閉じた。世界は一瞬暗転し
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第53話

「おはよう、あなた!」蓮が目を開けると、琴音が黒いキャミのナイトドレスを着て、出窓に腰掛けながらコーヒーを飲んでいた。掛け布団の下の自分が何も着ていないことから、何があったのかは明白だった。記憶が飛んでいたとはいえ、まったく覚えていないわけではない。彼は目を閉じ、目の前の女を見ようとしなかった。琴音はそんな反応にも動じず、「あなた、どこか出かけようよ。見てよ、白石さんたち、すっごく楽しそうじゃない?」彼女はスマホをくるりと回し、さっき見た動画を蓮に見せた。自分じゃ惹きつけられないなら、別の誰かに頼ればいい。この作戦は的中した。蓮は目を開け、画面を見た。苑が踊っていた映像、蒼真が姫抱きする場面、大きなおもちゃの車に二人で乗る姿。動画はまるで映画のワンシーンのようにロマンチックに編集されていた。蓮の胸の奥に大きなレモンがねじ込まれたような痛み。彼は布団をはねのけて洗面所に向かい、やがて琴音の耳にえずく音が届いた。それが酸っぱさなのか、苦さなのか、彼女には分からない。酸味でも苦味でも、蓮は結局、蒼真と苑の前に現れた。傷跡を隠すために帽子とサングラスをかけ、カジュアルなセットアップに身を包んで。琴音もスポーツウェアに着替え、二人で並ぶ姿は見栄えだけは良かった。「また君のひっつき虫が来たぞ」蒼真と苑は今、広大な芝生にいた。どこまでも続く緑に、まるで大草原にいるかのような気分になった。「なんで君のって言うんですよ」太陽が眩しくなってきたので、苑もサングラスをかけた。その冷ややかな美貌に、欲と野性が混じる。蒼真は足を組みながら体を斜めにして横になっていた。「だな、俺のだよ。だって……君も俺のもんだし」「……」この男、体は何もしてこないくせに、言葉ではずいぶん調子がいい。昨夜また逃げたくせに、「自分から望むまで待つ」なんて都合のいい言い訳までつけて。苑は呆れつつも言い放つ。「天城さん、口だけじゃなくて行動で示せば?」くくっと笑って、蒼真は言った。「そんなに俺と寝たいのか。挑発までしてくるとはな、奥さん」苑は立ち上がって彼のそばに寄り、肘掛けに手を置いて身をかがめた。垂れた長い髪の先が、彼の鼻先をかすめるように揺れる。「ちゃんとできるのか、試してみたいだけですよ」そう言い残して、苑は彼の鼻にかかったサングラス
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第54話

「天城蒼真、条件を出そう。どうしたら苑を手放す?」蓮は先ほど苑が座っていたソファに腰を下ろした。そこにはまだ、彼女の体温が微かに残っている気がした。それだけで、彼には十分だった。蒼真は横のボタンを押し、日除けのシェードを上げる。そのまま仄暗い陰に身を隠すように座りながらも、サングラスは外さなかった。「朝倉社長、昨夜の酒がまだ抜けてないのか、それとも夢遊病でも発症した?」蓮はその皮肉も冷笑も無視し、単刀直入に本題へ切り込んだ。「天城蒼真、望むなら馬走山を譲る」馬走山は新市街地の核心にあたるエリア。先月の最終入札で、残っていたのは蓮と蒼真だけだった。今でも、その競争の日を思い出せる。その日、苑もそばにいた。蒼真はこう言ったのだ。「朝倉社長、愛を割いてくれ」今にして思えば、蒼真が欲しがった愛は、馬走山の土地だけじゃなかった。苑の存在までもが含まれていたのだ。蒼真が苑と結婚したのには目的がある。だが、同時に彼女に恋情を抱いていることも否定できなかった。同じ男として、蓮にはそれが見えていた。だが、彼が苑に心を奪われたのは、いったい、いつからだ?「タダで?」蒼真の声はどこか眠たげで、気怠い響きを含んでいた。午前十時、本来なら最も集中力が高まる時間帯。そうでないなら、昨夜ろくに眠れていない証拠だ。思わず、蓮の脳裏に浮かんだのは電話越しに聞いた、苑の甘い吐息……顎を引き締めたまま、蓮は呟く。「不可能じゃない」苑を取り戻せるのなら、手放せないものなど、ひとつもない。「朝倉社長、ずいぶんと俺の嫁にご執心のようで。百億規模の不動産をぽんと渡すなんて」蒼真は体勢を変え、寝転がった姿勢を少し起こした。蓮は迷いなく言い切った。「彼女のためなら、すべてをくれてやっても惜しくない」「じゃあ、彼女が俺にとってはどうなんだと思う?」蒼真は淡々と問い返す。数秒の沈黙。「天城さん、あなたも苑に惹かれてるのは知ってる。でもそれは、あくまであなただけの片想いだ。苑が愛しているのは俺だ。彼女はこの数年間……」「確か、自分の口で言ってただろ。いつ俺と彼女がくっついたのかって?たった二日で忘れたのか?」蒼真が途中で遮るように言った。蓮の表情がこわばる。「あれは感情的になってただけだ」「なら、苑がどう答えたかも忘れたってことか?」蒼真
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第55話

苑が芝生の上でひとり遊んでいると、車が一台近づいてきた。誰かなんて、聞くまでもなかった。さっき蒼真が「しつこい連中」って言ってたけど、あれは的を射てる。こんなに距離を取ってんのに、なお貼りついてくるとは、まさに最強のしつこさ。でも琴音が会いたいからって、そう簡単に会わせてやると思う?苑はそんなに甘くない。アクセルを踏み込み、さらに広い芝生エリアへと走り出した。このおもちゃみたいな乗り物、思ってたより全然イケる。初めの印象を謝りたいくらい。楽しいし、走り心地も抜群。本気で一台まるごと空輸して、街中で乗り回したいくらいだった。琴音は苑が遠くへ走っていくのを見て、皮肉げに口元をゆがめた。そして自分もアクセルを踏み込み、緑の芝生の上で二人の女が乗り物で追いかけっこを始めた。「白石さん、逃げてんの?」琴音が追いつけずに叫んだ。苑の黒髪は風に揺れて、まるで映画のワンシーンみたいに映えていた。琴音の叫びなんて気にも留めず、彼女はただひたすら運転を楽しんでいた。これだけ広い場所じゃ、琴音がどれだけ必死になっても、声が届くわけがない。喉鍛えたいなら、勝手にどうぞって感じ。「白石さん、話があるの。ちょっと止まってよ」琴音が命令口調で叫んだ。苑はすぐさま補助加速モードを起動した。これはさっき蒼真が教えてくれたばかりの隠し機能で、初心者には分からない設定だった。一気にスピードが上がり、琴音は後方で完全に置いてけぼり。風どころか、匂いさえも届かない。でも少しは匂わせておかないと、追いかける気を失くすだろうし、それじゃつまらない。こんな犬の散歩みたいな遊び、滅多にできるもんじゃない。「白石苑、わざとでしょ?私のこと、怖くて向き合えないんだろ?」琴音の声は怒りで裏返っていた。彼女を怖がる?琴音が見た目は小さいけど、腹の中は真っ黒。挑発してきやがって。そんな手には乗らない。苑は加速して、自分のペースで走り続けた。運転の快感は増すばかり。苑はご機嫌。でも琴音のほうはイライラが止まらない。「なんであいつのはあんなに速いのよ!私のはなんでこんなトロいの?」琴音は苛立ち、ハンドルをバンッと叩いた。苑は芝生をどこまでも走り続け、ついには蒼真の姿も見えなくなるほど遠くまで来た。そして、芝生の果てに流れる川に辿り着いた。
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第56話

彼女が会いたい人、なんでみんな知ってるわけ?天城家が彼女の実績を晒したことで、過去まで掘られたってことか。でも琴音の目的は何?猫なで声で近づいてくるなんて怪しすぎる。苑は何も返さず歩き続けた。どうせ、相手が勝手にしゃべり出す。そのまま立ち去られるとは、琴音も意外だった。蓮を取り戻すために帰国前から苑の調査は済ませていた。確かに仕事はできる。でも、ここまでプライドが高いとは思ってなかった。親もいない孤児のくせに、何をそんなに自信満々でいられるのか。認めざるを得ない。あらゆる面で自分より下なのに、苑はずっと堂々としていて、決してへりくだらない。正直、すごくイライラする。しかも今じゃ、あの蒼真を夫にした。その蒼真が苑にひざまずく男になったなんて思うと、琴音は妬みと悔しさでいっぱいだった。芹沢家が帰国前に国内の状況を調べたとき、父が目をつけたのは蒼真だった。でも琴音は彼について調査した結果、到底手が届く相手じゃないと判断して、仕方なく昔の縁がある蓮を選んだのだ。まさか最後に得をするのが苑だとは。苑の背中を見つめながら、琴音は足元の芝生を踏みつけた。そして苛立ちながら追いかけた。「白石苑、いい加減そのクールぶって駆け引きしてるフリやめたら?はっきり言うけど、天城蒼真はあなたを彼女に会わせたりしないわよ」「へえ?それ、本人から聞いたわけ?」苑は皮肉っぽく返す。国内の空港からここに来るまで、彼女が蒼真に話しかけるたび、彼は一度も相手にしていなかった。苑は全部見ていた。図星を突かれて気まずそうだったが、琴音は必死にこらえた。「白石さん、強がらないで。本気で言ってるのよ。あなたの力になれる」言葉は真剣そのものだったけど、苑の態度は冷めきっていた。「どうして私を助けるの?」琴音は数歩前に出て苑の前に立ちはだかった。追いかけながら話すのは性に合わない。今までずっと自分が追われる側だった。「私たち、もう敵じゃなくていいじゃない」川辺の風はさらに強まり、琴音の髪を乱す。それどころか、苑は頭までやられてるんじゃないかと思った。苑が無言でいると、琴音は続けた。「もうお互い新しい人生を歩き出してるんだし、過去はもう過去でしょ。国内で友達もいないし、一番関わりのあるのがあなたなの、正直……」少し間を置いて、「あなたのこと、わ
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第57話

苑のLine友だちは少なく、実際にメッセージのやりとりをしているのはたった一人。その相手があの大チョンボの原因だった。そのメッセージを見た苑は、思わずぼうっとした。もう一通。【こっちに来た?】苑のまぶたがぴくっと動く。つまり、この人も今ここにいるってこと?そんな偶然、ある?彼とはずっとネット上でやり取りはしていたけど、一度も会ったことはなかった。昔、一度だけ会おうかと言われたけど、苑が断って以来、その話は出てこなかった。苑がここまで長く彼との関係を保てたのは、彼が無理をせず、距離感を保ってくれていたから。決して押しつけず、気まずくもならず、礼儀をわきまえた相手だった。三通目。【俺もセドナにいる。君の近くにいるよ。だから……会えないかな?】気遣った文面だったけど、苑の答えはノーだった。前も会わなかったんだし、今さら会う理由もない。ここ数日で、もう彼とは連絡を断とうと考えていた。今回の誤送信の件で改めて痛感した。ネットと現実は違う。苑の指が動き、チャット欄に文字を打ち始める。【これからは私……】「どうりで戻ってこないと思ったら、俺に隠れて何してんの」蒼真の声が背後から突然響き、苑はビクッと驚き、あやうくスマホを落としかけた。いつ来たの、この人?気配なさすぎでしょ。スマホを握りしめ、ドキドキしながら振り向く。サングラスをかけていてよかった。でなきゃ絶対、動揺がバレてた。何もやましいことなんてしてないのに、今のこの状況、まるで浮気現場を押さえられたみたい。「歩いて来ました?」後ろには車もない。蒼真の澄んだ視線が苑のスマホを持つ手をさっと見て、それから手を上げた。苑は本能的にスマホを守るように一歩引き、背後へと隠す。その挙動がいかにも怪しすぎて、蒼真は彼女を指さしながらにやりとした。「俺はな……シュッって念でここまで飛んできた」ふざけてるんだろうけど、苑は全然笑えなかった。さっきの動きが完全に自白してる。さすがに蒼真、たった一つの仕草で全部引き出してくる。本当は、その相手とのやりとりにやましいことなんてない。けど、もう関係を切るつもりだったから、蒼真に知られる必要もないし、何よりあの「プロポーズメッセージ」を間違って送った相手が彼だとバレるのは絶対に嫌だった。この気まずさは何とかしないと。
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第58話

彼女の嘘は、結局この人には通じなかった。バレたなら仕方ないと、苑はスマホをあっさり仕舞った。でも、また通知が届いていたのはわかっていた。けど今は見ていられなかった。帰り道も運転するのは苑だった。蒼真はというと、まるで旅館の主みたいに足を組み、片腕を彼女のシートの後ろに投げ出して、悠々と座っていた。「なんで断ったんだ?」蒼真がぽつりと聞いた。苑は何の話かすぐにわかった。琴音が「会わせる」と言ってきた件だ。「信用できないですから」蒼真の指先に、ふわりと苑の長い髪が絡まった。その一房を指に巻きながら、彼は言った。「じゃあ、誰か信用できる相手っている?」その問いは図星だった。かつては蓮を信じていた。でも彼は彼女の最後の信頼すら裏切った。沈黙がその答えだった。突然、苑のハンドルにもう一つの手が重なる。蒼真が寄り添いながら囁いた。「これからは旦那を信じとけよ」そんなセリフ、冗談だろうと流して苑は黙ったまま運転を続けた。蓮と琴音の姿はすでにどこにもなかった。目に入らなければ、気にもならない。いなくなって正解だった。「ちょっと疲れた」苑はもうここにいる気も失せていた。たとえどれだけ素敵な場所でも、それは一時のものだ。何よりあの人がここにいると知っている。万が一、会いに来られたら面倒になる。だから今、あの人との関係を断ち切る決心がますます固くなった。人はシンプルに生きるのが一番。物を減らして、余計なものを手放せば心が軽くなるって、よく言うけど。人間関係だって同じ。知り合いが少なければ、面倒もそのぶん減る。そのとき、苑の手が握られた。指を絡めるほどの密着。まわりには誰もいないのに、急なスキンシップに苑は眉をひそめた。「子どもって、疲れたら抱っこか手つなぎ、だろ?」蒼真の言葉に、苑ははっとした。もう二十歳を過ぎているのに、ずっと祖母は自分を子ども扱いしていた。でも祖母以外で、そう見てくれる人は初めてだった。昔、蓮と付き合っていたとき、彼は何度も言っていた。「お前はもう子どもじゃない」って。ぼんやりする苑の手を、蒼真がそっと軽くつまむ。「手じゃなくて、抱っこがいい?」「……」手をつないで歩く二人の姿は、知らない人が見たら、ラブラブな新婚夫婦そのものだった。蒼真は苑を自宅へ連れて帰り、そこでは家政婦がすで
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第59話

【ごめん……さっきの言葉、取り消す】【他意はないんだ。ただ、こんな異国の地で偶然会えるなんて、すごく嬉しくて】【旅行?それとも仕事?】苑はスマホを開くと、Lineに三通のメッセージが届いていた。相手のアカウント名は「十二のあの年」今でも本名は知らないまま。苑は彼を「十二」と呼び、彼は苑を「キャンディ」と呼んでいた。苑のIDが「甘くないキャンディ」だったから。苑はチャット履歴をさかのぼったが、今日届いたメッセージしかなかった。定期的にデータを消す癖があるから、記録はほとんど残っていない。その癖のせいで、誤って蒼真にあのメッセージを送ってしまった。ドアの外の男の顔が浮かび、彼女のこめかみがピクリと引きつる。蒼真はまるで獲物を狙うヒョウ。罠はもう仕掛けられている。まだ食われてないだけで、時間の問題。彼女は生贄にはならない。だから、構えておく必要がある。【十二、これからはLineにもうログインしない】苑はその文面を見直してから、送信をタップした。今どきLineなんて誰も使わない。みんなもっと便利なアプリに移ってる。この一言で、相手には十分伝わるはずだった。すぐに「入力中」の表示が出た。ずっと待っていたのだろう。【キャンディ、ごめん。俺がルールを破った。もう二度としない】苑がまだ読みきる前に、もう一通。【約束する】彼は関係を断ちたくないのだと苑には分かった。だけど、彼女の決意は固かった。【出会いに終わりはつきもの。今までのお付き合い、ありがとう】そのメッセージを送り終えると、彼女はLineをアンインストールした。苑は眠りに落ち、夢の中で佳奈を見た。さらに十二の姿まで。彼は会いたいと現れ、苑は彼の元へと近づいた。もう少しで顔が見えそうなところで、鼻先がくすぐったくなり、くしゃみとともに目を覚ました。目の前にあったのは、完璧すぎる360度無死角の蒼真の顔。彼の指には、苑の髪がつままれていた。鼻がくすぐったかった理由も、こいつの仕業に違いない。苑はいたずらで起こされたことにムッとしながら、ぷいと背を向け、また目を閉じた。さっきの夢で見た十二は、背が高くて体格もよくて、どこか蒼真に似ていた。ただ、顔は見えなかった。十二の見た目に興味なんてなかったはずなのに、あと一歩で見えそうだったのに邪魔されたせいで
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第60話

彼女がそう言った直後、運転手がドアを開けた。風がひんやりと吹き込み、苑は思わず小さく身震いした。蒼真は背もたれに体を預け、口元に気怠げな笑みを浮かべた。その目は笑っていないまま、苑を見つめて言った。「天城夫人、また俺に何か思い出させたいのか?」え?苑は一瞬ぽかんとしたが、すぐに気づいた。今日は新婚三日目。わざと話を曲解してくる。この男、ほんとに……「俺は嫁を社交に連れてく趣味ないんで」そう言って先に車を降りた蒼真は、彼女に手を差し出しながら安心させるように言った。蒼真に手を引かれ、展望エレベーターで上昇していく。苑の目には、また違った表情を見せるセドナの夜景が広がっていた。美しくて、どこか静かだった。この空中レストランの内装は、写真で見たことがあった。アシスタント時代、苑は蓮のクライアントに合わせて、あらゆる接待スポットを事前にリサーチしていた。来たのは初めてでも、この手の高級店には慣れている。蓮のクライアントの一人がこの手の店を溺愛していて、子どもの日ですらここで食事をするレベルだった。苑もそのために何度も下調べをした。ただ、実際に目にする贅沢さは写真以上だった。足元のカーペットに足を踏み入れた瞬間、まるで雲の上を歩いているような感覚。それでいて、不思議としっかりと地に足がついている。店内は完全なオープンレイアウトで、テーブルに仕切りは一切ない。それでも、周囲の話し声や視線を気にせず過ごせるのは、各テーブルの周囲三メートル以内が赤外線で隔音されているからだった。見た目は開放的でも、実はしっかりとプライバシーが保たれている。苑が蒼真に連れられて向かったのは、窓際の一卓。その傍らに、背の高い男が立っていた。少なくとも187cmはありそうな長身。彼はロビーに背を向け、外の夜景を見ているようだった。苑は思った。きっと、彼が今夜会わせる人だ。二人が近づいても、男は微動だにせず、両手をポケットに入れたまま窓の外を眺めていた。蒼真が軽く咳払いすると、ようやく男がこちらを向いた。仕立ての良いスーツに、鼻梁にかかる金縁の眼鏡。華美ではないが、品と威厳をまとっていた。無言のままだが、苑はその佇まいに不思議な安らぎと落ち着きを感じた。ただ、彼の目元にはほんのりとした憂いが滲んでいた。その一瞥で、苑は悟った。この人は蒼真
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