All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1561 - Chapter 1570

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第1561話

桜は着信を拒否して、スマホをマナーモードにした。それから優希に笑顔で言った。「じゃあ、私はこれで失礼します」優希は今のやり取りを全部見ていたけど、何も聞かずに、優しく微笑んだだけだった。「ええ。しばらくは家でゆっくり休んでいて。何か協力してほしいことがあったら、電話するわ」「はい、わかりました」桜は車を降りてドアを閉めると、優希に手を振った。優希は頷いてから、車を走らせた。桜はその場に立ち、車が角を曲がって見えなくなるまで見送ると、深いため息を一つこぼした。一方、ポケットの中のスマホが、まだしつこく震え続けているのだった。桜はエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まったタイミングでようやく意を決したかのように電話を取った。しかし、聞こえてきたのは想像していた京子の怒鳴り声ではなかった。代わりに、彰人の不機嫌で怒りに満ちた声が響いた。「桜、お母さんはもう長くない。全部お前のせいだ!」すると、うんざりしていた桜の表情が、一瞬固まった。こんな歪んだ家族関係にはもううんざりしていた。だけど、いざそんな言葉を耳にすると、やはり胸を強く締め付けられるように感じるのだった。でも、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。これまでにも、京子と彰人が口裏を合わせて自分を騙そうとしたことはあった。だからもう簡単に彼らを信じないことにしたのだ。「死んだの?」桜は冷たく言い放った。「まだなら、病院にでも連れて行けばいいじゃない。助ける気がないなら、息を引き取ってから知らせて。お葬式には出てあげるから」「桜!」彰人は激しく叫んだ。「彼女はお前の実の母親だろうが!人間としてそんな態度を取っていいのか?!」「私は前田家の人間じゃないわ」桜は強く言い返した。「言っておくけど、私の戸籍はまだ春日家のままよ?」「あのしがない漁師は、お前を13年間育てただけじゃないか?俺とお母さんがいなければ、お前なんて生まれてこなかったんだぞ!」「ええ、もとから生まれたくなかったよ!前田家には娘が一人だけでしょ?ここで父親ぶる暇があるなら、もっと彼女のことを気にかけたほうがいいんじゃない?放っておいたら、できちゃった婚でもしてしまうんじゃない?もっと言えば、相手の男は、あなたより年上かもしれないけどね!」そう言うと、桜は一方的に電話を切った。「桜!」そ
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第1562話

そこで、前田家の親戚たちが仲裁に入ったが、夫婦喧嘩は1年も続いた。結局、跡継ぎとグループの利益のため、二人はよりを戻したのだ。そして、青斗が亡くなった翌年、翠は再び妊娠した。でもその時、夫の彰人は、家で働いていた家政婦の京子とすでに関係を持ってしまったのだ。京子と翠は、同じ時期に妊娠していた。出産予定日も、ほんの数日しか違わなかったそうだ。妊娠した京子は、実家に帰って結婚するという口実で前田家の仕事を辞めた。でも実際は北城を離れておらず、彰人が友人の名義で買った郊外の邸宅に住んでいた。彰人もまた専門の家政婦を雇って、京子の世話をさせていた。若かった頃の京子は、可憐で優しく、おっとりした話し方で、彰人の心を掴むのがうまかった。さらに彰人がこっそり病院で検査させると、お腹の子が男女の双子だと判明した。彼は大喜びし、京子にこう約束した。「男の子が産まれたら、俺をいつも見下している鬼嫁の翠とは離婚するから!」こうして京子は来る日も来る日も、子供の誕生を心待ちにしていた。そして自分が翠に取って代わり、前田夫人になることを夢見ていたのだ。しかし妊娠7ヶ月を過ぎた頃、胎盤が剥がれてしまい、大出血を起こしたため病院に運ばれ、すぐに緊急帝王切開がおこなわれた。その時先に女の子の桜が取り上げられた。危険な状態だったが、体重が1850グラムあったおかげで、小児科での治療の末に一命をとりとめた。一方、男の子の圭佑は体重が1000グラムしかなく、生まれた時にはすでに息をしていなかった。そして出血がひどかったため、京子は子宮の摘出を余儀なくされた。圭佑が死に、京子も子供が産めない体になったと知った彰人。彼は京子に付きまとわれるのを恐れ、彼女の体がまだ回復しないうちに、密かに追い出してしまったのだった。当初、彰人は京子と生まれたばかりの桜を、密かに海外へ追放するつもりだった。だが彼女らが乗っていたクルーザーは事故に遭い、二人は漁師である康弘に助けられたのだ。それから康弘は、京子親子を白波町へ連れて帰った。一方、彰人は、京子を追い出してしまえば、妻の翠と以前のように何事もなく暮らしていけると考えていた。しかし、彼の非道な行いのせいだろうか。2ヶ月後、翠は娘の咲希を出産した。だが、難産で体に大きな負担がかかったため、医師から今後妊娠は難しいと告げら
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第1563話

一方、桜は家に帰ると、まっすぐリビングへ向かい、お気に入りのカーペットに寝転がって何度かゴロゴロした。「ああ、愛しのカーペット、愛しいおうち。もう二度と、あなたたちを置いて行ったりしないからね……」桜はさらに数回ゴロゴロしてから、やっと体を起こした。そして、スマホを取り出すと寧々に電話をかけた。寧々はすぐに応答した。きっと、彼女からの連絡を待っていたのだろう。「桜さん、どうでしたか?」桜は笑って答えた。「康弘さんに伝えてほしいんだけど、手作りの漬け物がまた食べたくなったの。だからこの数日で多めに作っておいてもらって、あなたが北城に来るときに一緒に持ってきて!」すると、電話の向こうで、寧々は一瞬言葉を失った。でも、すぐに状況を理解したのか、喜びの高い声を張り上げた。「うそでしょう?本当に決まったのですか?本当に輝星エンターテイメントですか?」「その通り!」桜は得意げに言った。「新井先生が話を通してくれて、輝星エンターテイメントが契約してくれることになったの。しかも、桐島との契約で発生する違約金も、輝星が肩代わりしてくれるって!」「ほんとに?」寧々は口を押さえながら叫んだ。「私、夢でも見てるんじゃないですか?」「寧々、これは夢じゃないわよ。私はこれでスターになれるんだから!」「あははは!よかったですね!やっぱりね、やっぱりそうだと思いました……うぅ……あんなに頑張ってたんですもの。神様が見捨てるわけがないって信じました……」「もう、嬉しいことなんだから。なんで泣いてるのよ!」「だって、感動しちゃったんですもん!」寧々は鼻をすすりながら、こう尋ねた。「それで、輝星エンターテイメントは、いつからお仕事をくれるんですか?」「まだ桐島との契約も正式に切れてないしね。契約解除の後に、新しい契約を結ばなきゃいけないから、早くても1か月はかかると思う」「ええ、じゃあ一度こっちに帰ってきたらどうですか?休養も兼ねて、それに、北城にいたら、またあなたの母たちがあなたを探して来るかもしれないでしょう?」桜は一瞬、黙り込んだ。きっと探してくるでしょうね。でも、このマンションはセキュリティがしっかりしているから、住人の許可がない部外者は入れないはずだ。「大丈夫よ。向こうが来たって、私が会わなきゃいいだけだもん!」桜はわざと明る
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第1564話

あとはね……だが、占い師は改めて運勢をよく見てみると、急に顔色を変えた。桜は身内との縁が薄く、人生は華やかなものになるけど、26歳で大きな災いに見舞われるでしょう。それを乗り越えられたら、その後は幸せで順風満帆な人生が待っている。でも、もし乗り越えられなかったら、彼女の人生は26歳で終わりだ、と言っていたのだった……それを聞いて、当時桜はその場で怖くなって泣き出してしまった。そしてそれを知った康弘が駆けつけ、彼女を宥めてくれたのだった。あの時いつも穏やかな康弘は、珍しく真剣な顔で桜に言った。「運命は自分で切り開くものだから、怖がっちゃダメだ」そう言われ桜のざわついた心は、康弘の言葉でやっと落ち着いたのだった。まだ子供だったこともあり、彼女はその出来事はすぐに忘れてしまった。でも、半年後。桜の人生で初めての映画の監督が、白波町にロケハンに来ていた。そして、港で康弘を待っていた彼女を偶然見つけた。そして当時の監督は家までやってきた。康弘は桜が映画に出ることに反対したが、京子はそんなチャンスを逃すはずがないと、康弘の反対を押し切り、13歳だった桜を連れて監督と一緒に北城へ向かった。これが、桜の芸能界での人生の始まりだった。そして、その年はまさに占い師が言っていた年齢とぴったり一致していた。その映画は桜を一躍有名にした。彼女はその映画での役で、人生で初めての賞、しかも今もなお一番の栄誉である新人賞を獲得した。康弘は、占いなんて当てにならないと言っていたが、大人になるにつれて、運命は本当に決まっているのかもしれない、と桜は思うようになった。少なくとも、あの占い師が言ったいくつかのことは、今のところ全部当たっていたからだ……そのせいで、桜は人と人との縁をより強く信じるようになった。それに、人と人の間には相性というものが確かにあるのだと、固く信じていた。だから、桜は最近自分の身の回りで起こった一連の変化を注意深く思い返し、ある一つのことを確信した――「上の階に住んでるあのすごい人が、きっと私の幸運の神様なのよ!」幸運の神様なら、当然もっと会って、仲良くなっておかないと。そう考えると、桜は俄然やる気が出てきた。この前作った煮物、あの人、喜んで受け取ってくれたみたいだし……きっとああいう和食が好きなのよ。
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第1565話

それを見て、桜は一瞬言葉を失った。やっぱり、自分とこの大物は、ただならぬ縁があるんだ。差し入れを届けに来ただけで、こんなタイミングで会うなんて。でも……桜は、安人の隣にいる女性に目をやった。その見た目も雰囲気も、文句のつけどころがないと思った。もしかして、この人が彼の恋人なのかな?それなら、恋人がいる前で邪魔するのはやめておこう。桜は一歩下がると、安人ににっこり笑いかけた。「あの、私、降りますね。次のエレベーターを待ちますから!」安人は、桜が抱えている保温ジャーに目をやり、それから彼女の顔に視線を移した。「こんな夜中に、誰に差し入れをするんだ?」桜は知らないふりをしてやり過ごそうと思っていたのに、まさか安人の方から話しかけてくるなんて。思わず、とっさに嘘をついてしまった。「友達に届けようと思ったんです!」すると安人は眉を上げた。「そうか?なかなか美味しそうな匂いがするじゃないか」そう言われ、桜は乾いた笑いを浮かべた。「そ、そうですか?」「この前の小籠包は、とても美味しかった」安人は薄く笑みを浮かべて言った。「すごく気に入ったよ」そう言われ、桜は気まずそうに答えた。「……それは、よかったです」そしてなぜか背筋がぞくっとして、桜は後ろめたさを感じながら真帆をちらりと見た。一方、真帆は安人の隣で、涼しげな美しい顔を無表情に保っていた。でも、その視線は隠すことなく桜を品定めしているのだった。桜といえば、芸能界でスキャンダルまみれの、見た目だけの女優。そんな女が、どうして安人と知り合いなのかしら?真帆がさらに驚いたのは、安人の桜に対する態度だった。真帆には、桜が気まずさを感じて距離を置こうとしているのが分かった。でも安人は、その考えに全く気づいていないかのように、エレベーター越しに平然と会話を続けているのだから。長い間ドアが開いたままだったので、エレベーターから警告音が鳴り響いた。桜は慌てて言った。「ブザーが鳴っていますから、早く上へどうぞ!」しかし安人は言った。「もし急いでないなら、一緒に上がってこいよ」「え?」桜はきょとんとした。「わ、私が一緒に乗っていいんですか?」「この前のタッパーを洗ったんだけど、なかなか返すタイミングがなくて」安人は低い声で言った。「ちょうど今日会え
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第1566話

そして、28階に着くと、エレベーターのドアが開き、安人が先に降りた。その後から、桜もついてきた。真帆は、もちろん一緒ではなかった。怒って帰ってしまったのだ。安人は鍵を開けると、ドアを開けて中に入った。一方、桜は彼の後ろで、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。安人は靴箱を開けて女性用のスリッパを出すと、床に置いた。振り返ると、桜がドアの外で複雑な表情をして自分を見つめているのだった。安人は少し眉を上げて、「俺を怖がっているのか?」と尋ねた。桜はきょとんとしたが、すぐに首を横に振った。「じゃあ、入りなよ」と安人は少し間を置いてから、「今日は猫は一緒じゃないのか?」と尋ねた。彼の問いに、桜ははっと我に返った。「あ、猫は実家に……」安人は何でもないことのように尋ねた。「もうこっちでは飼わないのか?」「いいえ、友達が地元に連れて帰っているだけですから」桜は、彼に何でも話すような仲ではないと思い直し、少し考えてから簡潔に答えた。「数日したらまた一緒に戻って来る予定です」「ふーん」安人はそう頷くと桜が抱えている保温ジャーに目をやって言った。「じゃあこれは、君が作ったの?」「え?あ、うん……」桜はまだ頭が真っ白で、安人と二人きりでいると、わけもなく落ち着かなかった。さっき安人が階下で真帆に言った、あの言葉のせいかもしれない。安人が自分をダシにして真帆を断ったんだろうとは思うけど……でも、すごく気まずい。そう思って桜は数歩前に出たが、部屋に入るつもりはなく、保温ジャーを差し出した。「これ、私が作ったんです。友達に教えてもらいながら作ったので、味もそこそこだと思います。碓氷さん、よかったらどうぞ。もし気に入ったら、また作りますね。じゃあ、私はこれで失礼します」だが、安人は桜が差し出した保温ジャーを一瞥したが、受け取ろうとはしなかった。彼の切れ長の瞳がじっと桜を見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべて、低く魅力的な声で囁いた。「俺って、女の子を騙すような悪い男に見える?」「え?まさか……碓氷さんはとても素敵で、爽やかで紳士的ですね。こんなに完璧な方が、悪い人に見えるわけないですよ、あはは……」安人はこんな風に褒められたのが初めてで、面白い子だなと思った。桜を見るその眼差しをさらに深めていくと、彼は尋ね
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第1567話

安人はもらった保温ジャーをキッチンに置くと、すぐに戻ってきた。そして彼は手に持ったジュースを桜に差し出した。「ハーブティーもあるんだけど、夜だし、眠れなくなるといけないから。ジュースで我慢してね」目の前に差し出されたジュースを見て、桜はぱちくりと瞬きをした。「もしかして、今搾ったのですか?」安人は口の端を上げて笑った。「キッチンに入ってから2分も経ってないよ。俺が魔法使いに見えるかい?」桜は言葉に詰まった。彼女は黙ってジュースを受け取ると、小さな声でお礼を言った。でも、両手でグラスを持ったまま、飲もうとはしなかった。一方、桜の向かいに腰を下ろした安人は、そのぎこちない様子にふっと笑った。「大丈夫、買ってきたジュースだから。ほら、ちゃんと『搾りたて』って書いてある」それもそのはず、彼みたいな人が飲むものはきっと美味しいに決まっているだろう。そう思うと、桜は安心して飲んだ。でも、なんだか今夜の彼には、何か別の目的があるような気がしてならなかった。桜はジュースをちびちびと飲み続けた。グラスが半分以上空になったところで、ついにしびれを切らし、向かいの安人を見上げた。「碓氷さん、私に何かお話があるんじゃないですか?」安人はかすかに微笑んだ。「春日さんなら、俺が何を言いたいか分かってるんじゃないかな?」桜は黙り込んだ。なんだかこの人と話していると、すごく頭を使うから桜は少し疲れを感じていた。安人はオーラがすごくて、会話の主導権を握るのもうまい。だから、彼が良い人だとわかっていても、ちょっと油断するとすぐに言いくるめられそうになるから。そこで、安人はひとつ咳払いをすると、さっきより真剣な口調で言った。「さっきは君に相談もせず、紫藤社長をやんわり断るのに利用してしまって、本当に申し訳ない。失礼なことをしたと反省してる」桜は黙り込んだ。彼女はさっきの光景を思い出す。紫藤社長の凍りついたような表情を……あれが、「やんわり」断ったことになるんだろうか?この人は言葉の意味を勘違いしてるのかも。そう思って、桜はバツが悪そうに笑った。「私は大丈夫です。碓氷さんには助けてもらいましたから。今度は私がお役に立てて、むしろ嬉しいくらいです。ただ、あの紫藤社長って、敵に回すとちょっと怖そうな人ですよね……」その言葉に、
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第1568話

安人は桜の目を見て、低い声で言った。「春日さん、さっき下で言ったことだけど、一つだけ本心があるんだ」「どれですか?」「『誰かを好きになるかならないかは、気持ちの問題』って言ったことだ」桜はぱちぱちと瞬きをした。安人は彼女のそんな様子を見て、まだまだ純粋だな、と思った。こんな子が芸能界で10年もやってきて、会社で他のタレントと取っ組み合いの喧嘩をするなんて。あの日の態度は強がりに見えたけど、本当はもう後がなかったんだろうな。安人はこれで、桜への印象が初めて会った時とはずいぶん変わったことを認めざるを得なかった。といっても、それはあくまで彼女への評価が上がっただけで、恋愛感情とはまったくの別物だった。でも、桜の性格と、自分に気がないことははっきりしている点。その二つは、今の安人の状況にちょうど都合が良かった。「俺は恋愛に興味はない。でも、家族も周りも俺が独身だからって、過剰に干渉してくるんだ」安人は桜を見つめ、低い声で続けた。「ちょうどご近所だし、もしまた今日みたいなことがあったら、協力してもらえないだろうか?」桜は、彼がそういう話をするだろうと、うすうす感づいていた。でも、どうしても気になってしまい、思わず尋ねた。「碓氷さん、一つ、失礼なことをお聞きしてもいいですか?」安人は口の端を上げた。「俺たちはもう、持ちつ持たれつのご近所だ。遠慮なくどうぞ」よし、持ちつ持たれつのご近所だなんて言ってくれたんだから、こっちも遠慮するのはやめにしよう。そう思って彼女は聞いた。「普段から、あなたに言い寄ってくる女性は多いんですか?」「まあまあだ」安人は言った。「今、頻繁に接触がある女性は、紫藤社長だけだがな」桜は言葉に詰まった。「紫藤社長とは仕事のプロジェクトで、今後も顔を合わせる機会が多い。今日一度断ったくらいじゃ、意味がないんだ」桜は頷いた。「確かに、簡単には諦めそうにないタイプに見えますね」「それに、さっきは君にアプローチしているとしか言っていない」安人は唇を引き締め、少し間を置いて続けた。「つまり、俺はまだ独身だということ。彼女は、まだチャンスがあると思うだろう」桜は思わず感嘆の声を漏らした。「彼女はよっぽどあなたのことが好きなんですね!」「……どうかな」それを聞いて、桜はまた言葉を失った
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第1569話

でも、桜はまだ少し迷っていた……「急いで返事しなくていい」安人はスマホを取り出した。迷った様子の桜を見つめ、落ち着いた声で続ける。「まずは連絡先を交換しよう。よく考えて、気持ちが決まったら教えて」「……はい」桜は安人に見つめられながら、自分のスマホを取り出した。……それから家に帰り、ドアを閉めると、桜はリビングへ向かい、カーペットの上に寝転がった。そして、彼女は天井を見つめた。今この瞬間に至っても、今夜起こったことが信じられないでいたからだ。安人みたいな大物から、彼女の振りをしてほしいなんて頼まれるなんて。すごい方とご近所になったかと思えば、今度は恋人の振り?あまりにもドラマチックすぎる。占い師が言ってた運命の人って、こういう人のことだったのかなあ。でも、10億円か……たまにあの人の彼女役を演じるだけで、10億円もらえるなんて。自分が一生懸命ドラマに一本出たって、そんな大金は稼げないのに。10億円あれば、色々なことができる。康弘にいに大きな邸宅だって建ててあげられる。そう思ったが、桜の思考は混乱していた。あまりに急な話で、じっくり考える時間が本当に必要だった。だって、利害関係が絡んでくるし……それにこんなの優希に言うのも恥ずかしいくらいだ。こうして桜はあれこれ考えているうちに、いつの間にか眠ってしまった。そして夜中に、突然の大きな雷の音で目を覚ました。桜は飛び起きてスマホを見ると、午前2時半だった。カーペットの上でそのまま寝てしまっていたなんて……「くしゅんっ――」桜は思わずくしゃみをして、鳥肌が立った自分の腕をさすった。だめだ、ちゃんと部屋で寝なきゃ。しかし、部屋に戻り、マットレスと枕がむき出しになっているのを見て、桜ははっと思い出した。寝具セットは全部外してしまったんだった。仕方なく、彼女はウォークインクローゼットから新しい寝具セットを取り出した。一人で長いこと悪戦苦闘して、なんとかセットし終えた。ぐちゃぐちゃだけど、まあ寝られるか。そう思って、桜は本当に眠くてたまらなかったから、布団にもぐりこむとすぐに眠った。そしてその晩、彼女はあまりよく眠れなかったのだ。寒かったり暑かったりを繰り返し、嫌な夢にもうなされた。ついにスマホの着信音が、彼女を夢
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第1570話

安人は、倒れかかった桜を咄嗟に受け止めた。腕の中の桜は、すでに意識を失っていた。安人は気を失った桜を横抱ききにすると、部屋に入り、ドアが開いていた寝室へと運んだ。桜をベッドに寝かせると、安人は険しい顔つきで彼女を見つめた。桜は荒く苦しそうな息をしていて、高熱のせいか、両頬が異常なほど赤く染まっていた。安人は身をかがめ、手のひらを彼女の額に当てた。ひどく熱い。本来なら、すぐに病院へ連れて行くべき状況だった。しかし、ネットでの騒ぎが大きすぎて、今の桜を外に出すのは危険だ。安人はすぐに新太に電話をかけた。「信頼できる医者を呼んでくれ」……20分後、新太が石川医師を連れて駆けつけた。ほどなくして、寝室で聴診器を外した石川医師は、そばに立つ安人に向かって言った。「彼女はもともと喘息持ちのようですね。子供の頃の病気が関係しているのかもしれません。先ほど薬を使いましたので、呼吸は楽になりましたが、まだ熱が高いですし、喉も炎症を起こしています。抗生物質を使った方が良いでしょう」安人は、「家で治療できますか?」と尋ねた。石川医師は正直に答えた。「できれば病院で診てもらうのが一番です。レントゲン撮影や血液検査もしたほうがいいかもしれません」「彼女は今、病院には行けないんです」と安人は言った。石川医師は事情を察した。自分は芸能界に疎いが、それでも桜の顔と最近のスキャンダルのことは知っていた。だから彼女だと気づかない方が難しかった。それで安人が病院へ行かせたがらないのも、桜が今日、再び世間の注目の的になってしまったからだろう。もし病院に行けば、間違いなくもっと大きな騒ぎになるはずだ。「でしたら、一度病院に戻って薬を用意してきます。ご自宅で点滴をしましょう。喘息の症状は今のところ安定していますが、安全のため、状況が許せば後日病院でレントゲンを撮ることをお勧めします」安人は静かに、「お願いします」と答えた。……それから石川医師が病院に戻ると、安人は新太に、今日のスクープ記事について調べるよう指示した。ついでに、桜の個人情報もできるだけ詳しく調べるように、とも頼んだ。新太はうなずいた。「すぐ手配いたします」「それと……」安人は付け加えた。「前田グループの現在の経営状況も調べてくれ」「はい!
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