All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1621 - Chapter 1630

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第1621話

一方、健三は安人を見て、少し驚いた。「こちらは……」彼女は安人を見て、言葉を濁した。「この人は、わたしの」「彼女の恋人です。はじめまして」安人は改めて堂々と自己紹介し、健三に手を差し出した。こうして、安人は持ち前の気迫を以て、簡単にその場を収めたのだった。健三は一瞬ぽかんとしたが、すぐに我に返って安人と握手した。まるで町内会長と話すときのような丁寧な態度で言った。「これはどうもご丁寧に。三浦です。桜たちとは長いご近所付き合いなんです」「ああ、あなたが三浦さんでしたか。彼女からお話は伺っています。いつもお世話になっております」「いえいえ、とんでもない」健三は手を引っ込めると、彼女を見てにこにこと笑った。「桜さんは見る目があるねえ。彼氏さん、すごくかっこいいじゃないか。二人が並んでいると、まるで絵に描いたみたいにお似合いだよ!そりゃあ、康弘さんも嬉しくて飲みすぎちゃうわけだ。将来のお婿さんが挨拶に来たんだから、興奮するのも無理ないよな」彼女は黙ってしまった。頭の中はもうぐちゃぐちゃで、何も考えられずにいた。自分たちはただ恋人の振りをするだけのはずだったのに。どうしてこんなに予想と違う方向に進んでるんだろう?それから、健三は手を振って言った。「彼氏さんがいるなら、私も安心だ。初詣は康弘が起きたら一緒に行けばいいさ」彼女は頷いた。「はい。三浦さんも、よいお年をお迎えしてくださいね」「ははは、じゃあ、そろそろお暇するよ。良いお年を」そそくさと帰る彼を見て、桜はまたしても言葉を失った。そして、健三が帰ったあと、彼女と安人も家の中に戻った。彼女は甘酒の入った保温ジャーをローテーブルに置くと、振り返った。すると、安人がまたキッチンに入っていくのが見えた。彼女は安人の背中を見つめながら、不思議そうに首を傾げた。さすがに鈍感な彼女でも、この時にはもうピンときていた。今夜の安人の一連の行動は、ただ恋人の振りをするというだけでは説明がつかない気がする……もしかして……彼は私のことが好きなんだろうか?その考えが浮かんだ途端、彼女は自分でびっくりしてしまった。そんなおこがましいこと、考えちゃだめだ。安人が自分を好きだなんて、ありえない。彼女はぶんぶんと頭を振って、自分の頭をぽんと叩いた。そして、「思
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第1622話

まあ、いいか。酔っ払いを相手にしても、話が通じるわけないか。「今はもう11時過ぎだけど、さっき三浦さんが言ってた初詣なんだけど、どうする?」「初詣行くよ」桜は首をかしげた。「除夜の鐘を聞くんだから、12時を回ったらゴーンって鳴って、すごいのよ!」安人もこれまで除夜の鐘なんて間近で聞いたことがないから、行ってみたいと思った。桜は酔ってはいたが、安人と初詣に行って除夜の鐘を聞く約束は、まだ忘れていなかった。「碓氷さん、今何時?」安人は無意識に手首に目をやったが、腕時計をさっき外したばかりだったことに気づいた。彼は一瞬動きを止め、振り返ってテーブルの上から腕時計を取って時間を確認した。「もうすぐ11時半だ」一方、桜は、彼が手慣れた様子で高級腕時計を手首にはめるのを見ていた。彼女は真剣な眼差しで見ていたが、思ったことがつい口から漏れてしまった。「顔もかっこいいし、手も綺麗だし、スタイルも文句なしだし……碓氷さんって、何か欠点とかあるんですか?」そう言われ、安人は眉間にしわを寄せた。スタイル?彼は呆れて鼻で笑った。だが、彼女はいたって真面目な顔をしていたから、彼は思わず気になって尋ねた。「どうして俺のスタイルがいいなんて分かるんだ?」「え?」桜は顔を上げると、彼の深く、漆黒の瞳と視線が合った。すると、彼女が瞬きを繰り返すと、脳裏にいくつかの光景がよぎった。「見たことあるもん」彼女は潤んだ瞳を細め、確信に満ちた口調で興奮気味に言った。「腹筋が割れてました」安人は言葉を失った。「うん、割れてた……」桜はすぐに首を振り、懸命にその光景を思い出そうとした。「あれ?何個割れてたっけな?」そう言われ、安人の表情が曇る。彼女があまりに真剣に思い出そうとしているのを見て、なんだか面白くなかった。「俺は女の子に腹筋を見せた記憶は、まったくないんだが。桜、よく思い出してみろ。一体どこの男の腹筋を見たんだ?」「あなたが見せたんだもん」桜は安人を見つめ、きっぱりと言い切った。「夢の中で!それに、触ったんだから」それを聞いて、安人はなんて言っていいか分からなくなった。彼はとんでもないことを知ってしまったようだ。「でも残念だなぁ、何個だったか、はっきり思い出せない……」安人はこめかみを押さえた。「桜、お前
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第1623話

酔ってはいたけど、記憶がなくなるほどではなかった。ついさっき、安人を引きとめて色々話してしまったことを康弘は思い出した。後悔と同時に、自分の話が桜に悪い影響を与えないかと心配になったのだ。安人は彼の心配を察して、なだめるように言った。「そんなに気にしないでください。むしろ桜さんのことを話してくれて、感謝しています。おかげで、彼女をより深く知ることができましたから。安心してください、俺がいる限り、全力で桜さんを守ると約束します」康弘は康人の顔を見て、力強く頷いた。「うん、君のその言葉を聞けて、安心したよ」目頭が熱くなるのを感じた康弘は、また取り乱してはいけないと慌てて言った。「もうすぐ12時だ。そろそろ初詣に行く準備しないと」「はい、桜さんも起こさないとですね」「なら、いいや」康弘は慌てて手を振った。「毎年行ってるから、そんなに焦らなくても大丈夫だ」そう言われると、安人も無理に桜を起こすのは忍びないと思って言った。「じゃあ、桜さんが目覚めるのを少し待ちましょう」それを聞いて、康弘も彼の気遣いに感心したかのように、笑って頷いた。それから、二人は一旦桜が起きてくるのを待つことにした。そこで康弘は安人に言った。「桜は毎年、初詣に行くのを楽しみにしてるんだ。今年は君が一緒にいてくれるから、きっともっと喜ぶだろうな」安人は口角を上げた。「これからは毎年大晦日に、彼女を連れて帰ってきますよ。一緒に年を越しましょう」康弘は手を振った。「いや、それはいい。気持ちはすごく嬉しいけど、女の子は嫁いだら、嫁ぎ先の家を優先しなくちゃ。この辺りの嫁はみんな、大晦日には旦那さんの家で過ごすもんなんだ。実家に帰ってきたりしたら、周りに色々言われちまう」本来なら、安人はそんな保守的な考えには賛成できなかった。でも、地域ごとの考え方の違いは、自分一人でどうにかできるものではないことも分かっていた。それに、桜とはまだ結婚の話が出ているわけでもない。だから、この話題をこれ以上続けるのは適切ではないと思った。しばらくして、康弘は時間を確認した。「そろそろ時間だ。私はお焚き上げの札の準備とかがあるから、君は桜を起こして、先に行きなさい」安人は頷くと、桜に向かって歩いた。一方、桜はまだソファに丸まっていた。そして、いつの間にか、その小さな顔
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第1624話

そして、静まり返った真夜中、彼は何度も書斎のパソコンの前に座っていた。その度にマウスを動かしながらツイッターやSNSを遡り、桜のデビュー以来十年間の活動を追った。桜は20歳の時、とある歌番組に出演した。透き通るような歌声で、一時は高い評価を得た。しかし、それも長くは続かず、彼女はたった3回の収録で他のタレントと交代させられてしまったのだ。安人が気にかけて調べてみると、彼女の代わりに番組に出たのは、所属事務所の別の女性タレントだった。その理由なんて、安人は調べるまでもなく察しがついた。事務所が桜を干したり、思い通りに操ろうとしたりし始めたのは、多分あの時からだっただろう。それ以来、桜のスキャンダルが次々と報じられるようになった。それに伴って、彼女の芸能活動は急降下し、だんだん仕事も減っていき、ついには完全に干されてしまった。人を好きになるということは、その人のことを知りたいと思うことから始まる。安人は、桜のことを調べれば調べるほど、彼女のことを知れば知るほど、その境遇に胸を痛めるようになった。本格的に行動を起こそうと決心したのは、優希からある話を聞いたからだ。悠翔が、桜に近づくために有名監督からの映画のオファーを断ったらしい。そして、桜が今レッスンを受けている劇団に、どうしても入りたいと言っているそうだ。安人は口では「悠翔が成功するはずがない」と言っていた。でも、心の中ではその知らせを無視できずにいた。現に、その知らせを聞いてから、彼がここに来るまでの丸三日間、心はずっと落ち着かなかった。優希は彼のいつもと違う様子に気づいて、わざわざ会社まで会いに来た。その時、優希はこう言っていた。「お兄ちゃん。女の私だからわかるんだ。桜は絶対あなたのことが好きだよ。でもあなたが言うように、彼女はまだ子供っぽいし、それに育った環境もあって自分に自信がないの。だからきっと、この気持ちをずっと隠しておくつもりなんだと思うわ。彼女は女の子でまだ若いから、自分から告白に踏み出せないのも当然でしょ。もしあなたも彼女が好きなら、男らしくぐずぐずしないで自分から行動しなきゃ。彼女が未熟かなんて気にしないで、好きならハッキリ教えてあげなきゃ。そういう『育んでいく恋愛』も、素敵じゃない!」その場で、安人は優希の言葉に何も答えなかった。しかし、優希
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第1625話

花火が咲く夜空の下、彼の腕の中は広くて暖かかった。桜のあごを支えていた手は、いつのまにか彼女の後頭部に回されていた。長くて綺麗な指が、彼女の豊かで柔らかい髪の間に差し込まれる。キスは優しいものから情熱的なものに変わり、彼女特有の甘い香りを少しずつ奪っていくのだった。彼女は慣れていなくて、まったく彼の相手にならなかった。激しい胸のときめきの中で、呼吸は少しずつ彼に奪われていき、抵抗することもできず、足は立っていられないほど力が抜けてしまった。でも、腰に回された彼の腕は、ずっとしっかりと彼女を支えてくれていた。長くて熱い口づけは、しばらく続いた。キスが止むと、彼女はだらしなく彼の腕の中にもたれかかり、少し開いた唇で、はあはあと息を切らしていた。この息苦しさは、息ができなくなるのとは全然違う。全身の血が沸き上がって、頭のてっぺんから足の先まで痺れ、くらくらするものだった。安人は、彼女の呼吸が落ち着くのを少し待ってから、そっと顔を覗き込み、指の腹で赤くなった頬を優しく撫でた。彼の薄い唇がかすかに弧を描く。口を開くと、その声は低く、少しセクシーにかすれていた。「教えてくれ。どう感じた?」彼女はぱちぱちと瞬きをした。彼が何を言っているのか、すぐに理解できなかったようだ。すると安人は、キスで濡れて艶っぽくなった彼女の唇を指の腹でそっと撫でた。「俺がお前にこんなことをして、嫌な気持ちになったか?」彼女は一瞬動きを止め、そっと下唇を噛んだ。少ししてから、うつむいて、正直に首を横に振った。安人は、くすっと笑った。「嫌じゃないのか。じゃあ、気持ちよかったか?」そう聞かれ、桜は、思わずかっと顔が熱くなるのを感じた。なんでそんなこと聞けるのよ!彼女はそう思った。そして、顔を赤らめたまま、桜は慌てて後ろに下がろうとした。しかし、手応えを感じた彼が、このまま彼女を逃すわけがなかった。それから彼女は再び彼の腕の中に閉じ込められた。彼の意図を察して、桜はまつ毛を激しく震わせて何かを言おうとした。「碓氷さん……ん……」だが、安人は再び唇を重ねてきて、キスをさらに深めていった。彼女は彼の胸の服をぎゅっと掴み、頭がくらくらした。今夜飲んだ甘いお酒が一気に頭に上ってきたみたいだ。息継ぎがうまくできないのと、お酒のせいで、最後には目の前が真っ
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第1626話

安人はその中から桜が一人で写っている写真を一枚取り出した。それは桜が小学校のお遊戯会で撮った写真のようだった。子供らしい舞台メイクをして、前歯が抜けた顔で笑っていて、とても可愛らしい。安人はその写真をスマホで撮ってから、元の場所に戻した。そして、ベッドでぐっすり眠っている彼女に視線を移した。桜はいつの間にか寝返りを打っていた。暑かったのか、布団を蹴飛ばしてしまっていた。安人はそばに寄って、屈んで布団を引っ張り、かけ直してあげた。「待たせて悪かったな。酔い覚ましの薬がなかなか見つからなくて」康弘は酔い覚ましの薬を手に部屋に入ってきて、ベッドの桜に目をやり、それから安人の方を見て言った。「起こせそうかい?」「やってみます」安人はベッドのそばに座り、桜の頬を優しく叩いた。「桜、桜」「ん……邪魔しないで」桜は鬱陶しそうに安人の手を振り払った。「もうちょっとで、数え終わるところなのに」安人は一瞬黙ったあと言った。「康弘さんが酔い覚ましの薬を持ってきてくれたんだ。起きて飲んでから寝たら?」「イヤッ」桜は寝返りを打つと、そばにあったぬいぐるみを撫でながら言った。「碓氷さんの腹筋を数えてるの……あれ?この手触り」それを聞いて、安人は一瞬言葉を失った。そして、そばで聞いていた康弘の顔も曇った。「桜、寝ぼけたこと言うんじゃない!女の子が、そんなはしたないことを」しかし、桜は手を振って、ぶつぶつ言った。「もう、うるさいなあ。まだ触り足りないのに」それには安人もこめかみを押さえた。「康弘さん、俺が面倒見ますから」安人は桜がこれ以上とんでもないことを言いだすのを恐れて言った。「もうお休みになってください」だが、康弘はまだ心配なようで、安人を見ながら、探るように尋ねた。「そ、それじゃあ、客間がどこかは分かるだろう?」「はい。桜に案内してもらいましたから」それを聞いて、康弘は少し安心したようだった。彼は昔気質なところがあって、結婚するまでは、いくら彼氏でも一緒に寝るのはやはり少し行き過ぎだと思ったのだ。とはいえ、安人の前で、それをはっきり言うのは気が引けた。だが、今安人の言葉を聞いて、康弘はようやく納得したかのようにうなずいた。「わかった。それじゃあ、俺は部屋に戻るから。何かあったら呼んでくれ」「
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第1627話

翌朝、外から聞こえてくる賑やかな音で、桜は目を覚ました。あまり遮光性のないカーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいるにの気づき、桜は目をこすり、ぐっと伸びをする。そして、天井を見つめたまま、しばらくぼーっとしていた。窓の外からは、子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。桜は数回まばたきをして、大きくあくびをすると、すっかり目が覚めた。彼女は上半身を起こし、頭を掻く。なんだか、すごく大事なことを忘れているような気がした……部屋を見渡すと、ふと、ある一点で視線が止まった。窓際の小さなソファに、大きなプレゼントの箱が置いてある。それは、安人がくれた新年のプレゼントだ!碓氷さん!「やばい、碓氷さんが泊まりに来てるんだった」そう言って、桜ははっと我に返ると、布団をめくりあげ、スリッパに足をつっこんで慌てて部屋を飛び出した。プレゼントの箱は、まだソファの上に置かれたままだった。もし、この時桜が先に箱を開けていたら、あとで安人にあんな言葉をかけることはなかっただろうに…………桜は慌ててゲストルームの前まで走っていった。すると、ゲストルームのドアは開いていたが、中には誰もいなかった。昨夜彼女が整えたベッドは綺麗にメイキングされていて、人が寝た形跡は全くなかった。桜は一瞬、戸惑った。「俺を探してるのか?」背後から、不意に男性の低い声がした。桜はきょとんとした顔になって、振り返った。安人は昨日と同じ服を着ていたが、それでも相変わらずかっこよくて気品があった。桜が彼を見つめていると、ふと、昨夜キスした光景が頭をよぎった……それで、その後はどうなったんだっけ?2度目のキスが1度目より激しかったことまでは覚えている……でも、そのあとは?桜は眉をひそめ、必死に思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。でも、安人の腹筋をまた触ったような、おぼろげな記憶はある……いや、あれは絶対に夢だ!いや、待って……もしかしてキスも夢だったのか?あーーーっ、もう!いったいどこまでが本当なの?!桜は心底後悔した。昨夜、好奇心で甘いお酒なんて飲むんじゃなかった。おかげで酔っ払っちゃって、現実と夢の区別がつかないじゃない!安人は、コロコロと変わる桜の表情を見て、彼女がまた頭の中で色々考えているのが分
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第1628話

「大丈夫だよ」安人は、一睡もできずに腰が痛くなったことには一切触れず、平然と答えた。桜は、安人の様子をじっと観察した。見たところ、大丈夫そう。じゃあ、ちゃんと眠れたんだ!そう思って、桜は少しほっとした。「康弘さんが朝ごはんを作ってくれてるよ」安人は桜のキャラクターもののパジャマに目をやった。「顔を洗って着替えておいで。ご飯を食べたら、薬を取りに市内の薬局まで行かないとだから」そっか、薬局に行くんだった。桜は頷いた。「じゃあ、下で待ってて。すぐ準備するから」安人はうなずくと、階下へおりていった。……そして桜は部屋に戻り、クローゼットを開けて、じっくりと服を選んだ。なんといっても、安人と初めて二人で出かけるのだ。桜は、少しはおしゃれをすべきだと思った。新年ということもあるから、彼女は少し明るめのタートルネックのウールのワンピースを選んだ。下はシンプルな裏起毛のチャコールグレーのレギンスに、同系色のムートンブーツを合わせた。最後に、彼女は軽くメイクをした。そして、空気が乾燥する季節だから、口紅ではなくリップグロスを選んだ。鏡に向かってグロスを塗りながら、桜の頭にはまたもや、昨夜の二人のキスシーンが自然と浮かび上がってきた……すると、彼女は手を止め、鏡の中の自分をじっと見つめた。もし本当に夢だったなら、どうしてキスの感触が、あんなにリアルだったんだろう?……それから、桜が階下に降りていくと、康弘がちょうど朝ごはんの準備を終えたところだった。この辺りでは、年の初めにはわんこそばを食べることになっている。このそばが、桜にとっては悪夢なのだ!康弘は、いつも自分がお腹を空かせているんじゃないかと心配して、必要以上の量を用意してくるのだ。その上、お雑煮までついてくるから、その量は驚くほどだ。でも、普段なら断れても、元日の朝ごはんだけは絶対に断れない。この地方では、元日の朝は揃ってごはんを食べるのが縁起が良いと言われ、康弘もその習わしをとても大切にしているのだ。そう思って、桜はリビングを見回したが、安人の姿はなかった。「碓氷さ……じゃなくて、安人さんはどこですか?」「お庭にいるんじゃないのか」康弘は朝食を置きながら言った。「早く呼んできておくれ。そばが伸びてしまうからね」桜は
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第1629話

そう聞かれて、桜はトラちゃんの頭を撫でて言った。「友達も一緒だからお世話はできるんだけど、昼間はホテルに閉じ込めておくしかないの。ホテルの方が毎日掃除に来るから、逃げたりパニックになったりしないようにケージに入れるんだけど、この子はそれが嫌いでずっと鳴いたりするのよ。そう思うとトラちゃんがなんだか不憫でしかたないの。だからいっそ実家に預けておこうかなって。北城に戻る時にまた迎えに来ればいいし。」それを聞いて、安人は言った。「田舎の猫はみんな野良みたいなもんだろ。こんなに臆病じゃ、ここにいたら毎日いじめられるようになるんじゃないのか?」すると、トラちゃんは安人の言葉を不満に思ったようで、彼に向かって一声鳴いた。「ニャーッ!!」それに気づいて安人はちらっと猫に目をやり、桜に向き直った。「だったら、うちで預かろうか。君が北城に戻る時に、迎えに来ればいい」しかし、それを聞いた途端、桜が返事をするより早く、トラちゃんはまるで言葉がわかったかのように桜の腕の中に飛びつき、丸い頭を彼女のあごにすり寄せた。ご主人様、こんなに可愛くてふわふわなボクを置いていかないで!あの腹黒男は嫌だ、ボクはご主人様と一緒にいたいんだ、とでも言いたげのようだった。トラちゃんにすり寄られてくすぐったかったのか、桜は思わず笑ってしまった。「もう、どうしたの……」一方、安人は、桜の腕の中で甘える猫を見て、目を細めて思った。なかなかの、あざとい猫じゃないか?彼は冷ややかに口角を上げたが、口調はあくまでも穏やかだった。「トラちゃんも嬉しそうだ。どうやら俺のことが気に入って、うちに来たいらしい」すると、甘えていたトラちゃんは驚いたかのように、動きがぴたりと止まり、勢いよく安人の方を振り返った。「ニャーッ!」トラちゃんは安人に向かって大きく鳴いた。まるで、この腹黒男!勝手なこと言うな!とでも言っているかのように。その様子を見た安人の瞳に、いたずらっぽい光が宿った。彼はにっこり笑って続けた。「ほら、すごく興奮してる。どうやらトラちゃんもそう思っているようだな」一方で、トラちゃんは言葉を失った。「ほんと?じゃあ、お願いしようかな」桜はトラちゃんを抱き上げて立ち上がると、安人に微笑んだ。「あなたなら安心して任せられるわ。トラちゃんがあなたに懐くなんて、珍
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第1630話

車内はとても静かだった。気まずい空気が流れるなか、桜はスマホを取り出してラインを開いた。すると、寧々からメッセージが何件も届いていた。写真付きのものもあれば、実家に帰ったら親にお見合いをせかされたという愚痴もあった。桜はそれを見て、なんとも言えない気持ちになった。小林家は兄妹が多く、四人姉妹に弟が一人いる。寧々は三女で、上の姉二人はもう結婚していた。寧々は年が明けると24歳になる。この地方では、大学に行かなければこの歳にはもう親が決めた相手と結婚させられているのが一般的だった。もちろん、寧々には桜のアシスタントという仕事が、格好の言い訳になっていた。だから、桜はここ数年ほとんど稼ぎがなかったが、たとえ自分の愛車を売るようなことになっても、寧々に給料を払わなかったことは一度もなかった。寧々もまた毎月、給料の半分を実家に仕送りしているのだ。親孝行だと言っているけれど、実のところ、そのお金で自由を買っているようなものだった。寧々の両親もお金をもらっている手前、ここ数年は寧々に無理やり結婚を迫ることはなかった。しかし、毎年お正月に実家へ帰ると、寧々は決まって結婚の催促をされていた。そして結婚の催促とはいっても、実際には寧々の両親が桜をだしにして、プレッシャーをかけているだけなのだ。彼らは、桜と寧々の仲が良いことを知っていた。だから寧々が無理やり結婚させられるのを、桜が黙って見ているはずがないだろうと思っていた。そして桜もまた、彼らが寧々に結婚を催促するたびに、立派な手土産を持って家を訪ねていった。その上、彼ら家族にも桜は毎年、新年の挨拶という名目で多額のお祝い金もあげていた。その金額は、寧々の一年分の給料に匹敵するほどだった。しかし、桜はそうやって余分にお金を渡していることを、決して寧々には知らせなかった。それは、桜と寧々の両親だけの秘密だった。寧々の両親も、娘に知られたいとは思っていなかった。寧々がどれだけ桜を大切に思っているか知っていたからだ。もし、自分たちが彼女に隠れて桜から多額のお金を受け取っていたと知れば、寧々は結婚を選んででも、桜のもとで働くのをやめてしまうだろう。どうせ桜はいずれ嫁に行くのだから、もう2、3年家に残って、家の負担を少しでも軽くするのも、娘としての務めだと彼らは考えていたのだ。…
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