Todos os capítulos de 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Capítulo 1751 - Capítulo 1760

1770 Capítulos

第1751話

安人が御島壱番館に帰ってきたのは、もう夕方の4時過ぎだった。桜はまだ27階にいた。安人は家に桜がいないのを見て、彼女に電話をかけた。電話は繋がったけど、桜のいる方が少し騒がしい。安人は少し眉をひそめて尋ねた。「何してるんだ?」「ホラー映画を見てるの!」桜の声は少し強張っていた。「今ちょうどクライマックスなのよ。用がないなら、一旦切るね!」そう言われ、安人は一瞬黙った。確かに彼も特に用事があったわけではない。「そうか、じゃ、そのまま見てていいよ。ただ家に帰ったって伝えたかっただけだから」「うん、わかった」そう言うと、桜はあっさりと電話を切った。そんな、桜に安人はすっかり言葉を失った。数秒後、彼は仕方なさそうに口の端を上げた。つれない子だな。……桜がホラー映画を見終わったのは、もう5時半だった。すっかり怖くなってしまった彼女は、一人でエレベーターに乗ることもできないでいたから、寧々と夏帆に付き添ってもらうことにした。寧々も桜と同じくらい怖がりだったけど、夏帆は落ち着いていた。3人でエレベーターに乗って28階に着くと、桜は二人を晩ご飯に誘った。でも、夏帆と寧々は首を横に振った。「明日から撮影でしょ。碓氷さんは今夜、あなたと二人きりで過ごしたいはずよ。お邪魔虫になるのはやめておくよ!」それを聞いて、桜は言葉に詰まった。一方、夏帆は何も言わず、黙ってエレベーターの閉じるボタンを押した。それを見て桜はさらになんて言えばいいのかが分からなくなった。まったく、二人とも気を利かせすぎよ。実際、今の桜にとって、安人と二人きりになることこそが一番怖いことなのに!そう思って、桜はゆっくりと閉まっていくエレベーターのドアを見ながら、そっと腰に手を当てた。やっぱり、昨日の夜、彼に惑わされて、成すがままにされるべきじゃなかった……桜は唇を結んで小さくため息をつくと、玄関のドアの前まで歩いていき、鍵を開けた。だが、ドアを開けて家の中に入ると、リビングには誰もいなかった。安人はいないの?そう思いながら、中に入って靴を履き替えようと靴箱を開けると、彼の革靴はちゃんとそこにあった。それなら、きっと書斎で仕事をしてるんだろう。桜は部屋用のスリッパに履き替えると、リビングのソファに腰を下ろ
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第1752話

どうして?どうして自分ばかり、こんなにも酷い仕打ちに遭わないといけないんだろう?前世で、よっぽど悪いことをしたんだろうか。じゃなければ、いつもこんなに酷い運命の悪戯に遭うはずがないじゃない?知らないうちに失っていたあの子のことだって、もちろん悲しくて辛かった。でも、少なくともあの頃は、いつかまた赤ちゃんを授かることができるって信じてた。安人も自分もまだ若いから、子供はいずれできるって。それなのに……安人には、そのうち彼自身の子供ができるでしょう。でも、自分は……自分には、安人のために子供を産んであげられる力がない。さらに、桜にとって一番つらくて、受け入れがたいのは、安人が自分の体のことを知っていても、それでも気持ちに揺らぎがなかったことだ。彼は本当に優しくて、責任感の強い人だ。だからこそ、桜は彼の優しさに、心から甘えることができなかった。安人を愛してる。だから、この恋愛で、彼ばかりに我慢させたり、妥協をさせたりするのは嫌だった。たぶん、もうそろそろ決断をだす時がきたのだろう。このままじゃ、どんどん深みにはまるだけ。誰のためにもならない。……その夜、桜は前の晩よりも、ずっと情熱的だった。安人は嬉しい反面、どこか桜の様子がいつもと違うことに、かすかな違和感を覚えていた。「桜、どうしたんだ?」欲情に浮かれていながらも、安人はふと動きを止めて、体を支えながら、腕の中にいる桜を見下ろした。一方、桜も目を開け、潤んだ瞳で彼を見つめた。そんな彼女の目じりは、ほんのりと赤らんでいた。時間が、まるでこの瞬間だけ止まってしまったかのようだった。二人は見つめ合い、安人の何かを探るような視線に対し、桜の瞳に浮かんでいたのは、彼への愛おしさばかりだった。安人を愛してやまない、手放したくない。その気持ちを胸いっぱいに抱え、彼女は彼の問いに答えず、腕を伸ばして彼の首に回し、自分から顔を上げてキスをした。安人は眉をひそめ、彼女を止めて話をはっきりさせようとする。でも桜はそうさせようとしなかった。彼女は、震える声で彼に懇願した。「安人、私を離さないで」それを聞いて、安人の動きはぴくっと止まった。すると、桜の唇が、彼のセクシーな鎖骨に落ちた。彼女はそっと吸いつきながら、甘く震える声でささやいた。「強く抱きし
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第1753話

5月のM市はもうすっかり夏。日中の気温は30度まで上がり、夜でも25度を下回ることはない。夕方5時、黒いワゴンが浦豊町に入った。映画『海上の錠』のメインロケ地だ。M市の国際空港からずっと続く海の景色が、車窓から見えた。海面上ではカモメが飛んでいた。夕日が空を赤く染めていく中、道中時々走り去る車が見えていた。山村部に入ると、伝統的な服装を着た地元の人たちが目に入り、安人は思わずそちらに視線を向けた。新太は助手席に座っていた。運転手は地元の人だった。雪国育ちの新太にとって、このM市の文化はとても珍しいらしく、道中ずっと運転手と話が弾んでいた。運転手は、この浦豊町の歴史や文化について新太に紹介した。新太もまた真剣に聞き入っていた。一方、後部座席の安人は、どこか上の空だった。「もうすぐ撮影現場ですよ」と運転手が言った。「この町は最近、町おこしに力を入れててね。観光地も周りに多いんですよ。今回の映画も、地元の観光メディアと提携してると聞きました。きっと効果が期待できますよ。撮影中だけでもファンが押し寄せてるくらいだから、公開されたらロケ地巡りでも沢山の観光客を呼び寄せられそうですね!」それを聞いた新太は、「それは地元の観光業にすごく役立ちそうですね!」と笑った。「ええ。うちらはだいたい漁業で生計を立ててるんですが、最近の若いもんはきつい仕事を嫌がってね。漁業もだんだん廃れてきてるんです。もし観光業で町が潤うなら、そりゃあもう、ありがたい話ですよ!」「女優の桜さんは今、大人気ですからね。彼女一人の力で、廃れかけていた地方の伝統芸能をブームにしたくらいです。だから今回もきっと大丈夫ですよ!」ワゴンは、町のコミュニティセンターの事務所前にある駐車場に停まった。運転手は前を指さした。「あそこに見えるプレハブが、撮影チームがいつも会議とかで集まる場所です。事務所の後ろにある新しい建物は、町が来客をもてなすための施設でしてね。今は撮影チームの皆さんが泊まってますよ」それを聞いて、安人は新太が降りるのを待たずに、自分でドアを開けて車を降りようとした。その様子を見て、新太は慌てて車を降りて彼の前に回った。「社長、先ほど伺ったのですが、桜さんは皆さんと一緒にあの建物にお泊りまりのようです。社長の宿泊先も、手配いたしましょう
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第1754話

「うん」そう言って、安人は再び夏帆を見た。「案内を頼む」夏帆は頷くと、安人と新太を撮影現場へと案内した。……その頃、楽屋で桜は着替えを終え、ドレッサーの前に腰を下ろした。メイクさんが、彼女のメイクを落としにかかっていた。ドアが開き、夏帆が入ってきた。寧々はタンブラーの蓋を緩めながら、夏帆を見ながら聞いた。「どこ行ってたの?」「ちょっとお迎えに」夏帆はそう言うと、メイクさんにちらりと視線を送った。寧々はすぐに状況を察し、桜にタンブラーを渡すと、メイクさんの腕を引っ張りながら言った。「荒戸さん、ちょっと外で話そう」「えっ?ちょっと、急にどうしたの。せめて春日さんのメイク、最後まで落とさせてよ」「大丈夫。メイク落としぐらい、桜さんは自分でできるから。とにかく今は外に出ましょ」そう言って、寧々はメイクさんを連れて、楽屋を出た。桜はタンブラーを持ったまま、鏡越しに夏帆を見つめた。「彼が来たの?」夏帆は頷いた。「碓氷さんも、あなたが関係を公にしたくないことは理解しているから、裏口から入って来てもらったんです。誰にも見られていません」これを聞いて、桜は静かに答えた。「分かった。入ってきてもらって」どうやら、いよいよ向き合うべき時がきたようだと、桜は思った。実際のところ、安人が今日まで我慢できたことの方が、むしろ桜を驚かせていたのだ。……それから、夏帆が去ると、楽屋はしんと静まり返った。桜はドレッサーの前に座り、鏡に映る自分を見つめていた。やがて、ドアが静かに開き、すらりとした長い脚が部屋に踏み入れた。気配を感じ、桜は鏡越しに安人を見た。白シャツに黒いスラックス。広い肩幅に長い脚を持つ彼の姿は、特別なオーラを放っていた。1ヶ月ぶりに見る彼の姿に、桜の目頭はじわりと熱くなった。楽屋のエアコンは18度に設定されている。普段なら涼しいとも思わない温度なのに、今は凍えるほど寒かった。そう思って、桜は持っていたタンブラーを、ぎゅっと握りしめた。一方、安人はドアを閉めると、彼女に向かって歩いて行った。1ヶ月以上ぶりの再会。以前の彼女なら、すぐにでも胸に飛び込んできただろう。だけど今は、空気が明らかに張り詰めている。だが、安人がここまで来たのは、彼女から答えを聞き出すためだ。こ
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第1755話

安人は考えれば考えるほど腹が立ち、しまいには皮肉な笑みを浮かべた。「桜、君はただ自分の理屈を正当化しようとしているだけじゃないのか?それで俺が何も気が付いていないとでも思っているのか?」桜はきょとんとした。安人は一歩前に出て、桜の顎をぐいと掴んだ。そこにはいつものような優しさは微塵もなかった。顎にじんわりとした痛みを感じ、顔を持ち上げられた桜は赤くなった目で、彼と目線を合わせざるを得なくなった。いつになく、整った顔を強張らせ、冷たい表情を浮かべて、安人は桜を睨みつけ、怒りを滲ませた冷たい声で言った。「子どもが産めない、ただそれだけじゃないか。子どもがいないと、俺たちはやっていけないのか?」ガツン!鈍器で殴られたように、桜の顔からは一気に血の気が引いて、真っ青になった。彼女は信じられないという顔で安人を見つめた。「あなた、どうしてそれを……」「君が自分の体のことを知ってるって、俺がどうして気づいたか聞きたいんだろ?」安人は鼻で笑った。「桜、もうわざとらしい芝居を打つのはやめろ。君が何を考えてるかなんて、顔を見ればわかるんだよ。だから、俺のためだなんて気遣ったようなことはするな!君がもう俺を愛していない、それ以外の理由での別れは絶対に認めないから」桜は呆然と安人を見つめていた。この人は、自分のことをすべてお見通しなんだ。自分の考えていることも、感じていることも、彼の前では全部隠せない。1ヶ月も悩んで決意を固めて別れを切り出したのに、彼の目には下手な芝居のようにしか映っていないのだ。桜の目から涙がこぼれ落ちた。唇をぐっと噛みしめるけど、鼻の奥がツンとしてきて、涙はますます溢れてきた。彼女はもう、どうすればいいのか分からなかった。安人の足手まといにはなりたくない。彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。一方、彼女の涙を見て、安人の目から怒りの色がほとんど消えた。彼は深いため息をつくと、顎を掴んでいた指を離し、その指先でそっと彼女の目元の涙を拭った。「桜、いい子だから、そんなに考えすぎるな。子どもがいるかどうかは重要じゃない。俺たちが一緒にいられることが一番大事なんだ」だけど、それでも桜は首を横に振り、涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。「違うの」そんな彼女の顔を両手で包み込み、安人は真
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第1756話

一方、桜は彼を見つめ、涙がとめどなく溢れてきた。そんな彼女を見て、安人はため息をついた。「しばらく距離を置こう。でも覚えておいてくれ。これは君に冷静になってほしくて与える時間だ。別れるつもりはないからな。俺はずっと君を待てる。俺の傍にはいつだって君の戻ってくる場所があるから」安人はそう言うと、ウェットティッシュを数枚取り出し、彼女の崩れてしまったメイクを優しく拭き取ってあげた。「撮影、頑張れよ。薬もちゃんと飲むんだぞ」安人の声は低かった。「時間はやる、桜。俺は待てる。でも君にも、俺と真剣に向き合ってほしい。本当に俺を愛してるなら、俺のためにもう少し勇気を出してくれ。今日ははっきり言っておく。君とじゃなきゃ結婚しない。さもなければ、俺は一生ひとりでいるつもりだ」「安人」綾の目から、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。「もう行くよ」安人は綾の頭を優しく撫で、その髪に深く口づけを落とした。「撮影は大変だろうけど、ちゃんと自分の体をいたわるんだぞ」その間、桜は、ひたすらぼうっとしたままだった。彼女は涙で滲む視界の向こうに、ドアへ歩いて行く安人の背中をただ見つめていた。思わず手を伸ばしかけた。引き留める言葉が喉まで出かかったけれど、ぐっとこらえた。一方、安人はドアを開けると、少し足を止めた。振り返らなかったが、彼はすぐに出て行こうともしなかった。ドアノブを握る手に、次第に力がこもっていった。しばらく待ってみたけれど、桜が引き留めることはなかった。彼はぎゅっと目を閉じ、込み上げる感情をぐっと押し殺し、最後の理性を保ちながら、楽屋を後にした。こうして、楽屋のドアが、ゆっくりと閉まっていく。ドアの外で、安人は目の前に広がる夜の闇を見つめた。その漆黒の瞳には、かすかな戸惑いが浮かんでいた。必死に平静を装ったところで、一体何になるっていうんだ。桜が怖気づいたあの瞬間から、この恋の主導権はもう自分の手にはなかった。所詮、恋愛をしている彼もただの男だ。愛する人に認められ、選ばれることを望む、ごく普通の男にすぎない。……片や楽屋の中に残された桜は、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。そして、顔を覆って声にならないほど泣いた。「ごめんなさい、ごめんなさい」「ごめんなさい」という言葉以外、彼女には何も思
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第1757話

安人が去った後、桜は無理やり涙を拭いて、仕事モードに切り替えた。寧々がメイク室に入ってきた時、桜はもう顔を洗い終えて、すっかり落ち着いていた。寧々の顔を見ると、桜はただ淡々と「メイクさんに入ってきてもらって」とだけ言った。寧々は桜の赤くなった目元を見て、少し眉をひそめた。「桜さん、碓氷さんと喧嘩でもしたの?」「喧嘩ってわけじゃない」桜の声は平然としていた。「ただ、別れたいの」「えっ?」寧々は目を大きく見開いた。「正気なの?順調だったじゃない、何馬鹿なこと言ってるのよ!」「寧々、私、体に問題があるの」そう言われ、寧々は驚いて固まった。数秒後、彼女は慌てて駆け寄って桜の手を握った。「桜さん、脅かさないでよ、病気になったの?」「生まれつきなの」桜は寧々を見て、鼻の奥がツンとした。「だから、前に流産したのも事故なんかじゃない。妊娠しても、結局無事に産むことができないの」その事実に、寧々は顔が真っ青になった。「一体どういうこと?誰に聞いたの?」「安人はずっと知ってた。でも、私が気に病むのを心配して、ずっと隠しててくれたの。私が偶然、彼と北条のお爺様の会話を聞いちゃって……それで真相を知ったの」寧々はたちまち泣き出した。「そんな、うそでしょ。あなたまだ若いじゃない、そんなはずない!誤診だったんじゃない?そうよ、きっと誤診よ」「誤診じゃないわ」桜は言った。「北条のお爺様の医者としての腕は、あなたも知ってるでしょ」寧々は言葉に詰まった。「でも、絶対ってわけじゃないでしょ。今の医学はこんなに進んでるんだから、不妊はもう治らない病気じゃない。桜さん、たった一つの診断だけで碓氷さんと別れるなんて言わないでよ。そんなの碓氷さんにとってもフェアじゃないわよ」「寧々」桜は寧々の言葉を遮った。「もし私が一生子供を産めないなら、私と一緒にいることこそが、安人にとってフェアじゃないのよ」寧々は唇を噛みしめて、わんわんと泣いた。桜はティッシュを抜き取って彼女に渡した。「もう、このことは気にしないで。私と安人は、それぞれ少し冷静になる時間が必要なの。だから、あなたも覚えておいて。私の許可なく、勝手に安人に連絡しちゃダメよ」寧々は鼻をすすった。「じゃあ、もし碓氷さんから連絡があったら?」「そしたら、私は元気にやってるって言って
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第1758話

「そういう意味じゃないけど……」「いいから、もうメイクさんを呼んできて」寧々はうなずくと、くるりと背を向けて部屋を出ていった。……30分後、桜のメイクは仕上がった。時間はちょうどよかった。しかし、桜が浩平たちと合流しようと部屋を出たところで、美雨が先にやってきた。「桜さん、今夜のシーン、少し変更になるかもしれない」「変更ですか?」桜は眉をひそめた。「もうすぐ撮影なのに、直前の変更はちょっとまずいんじゃないですか?」「急な話なのは分かってるの。でもさっき我妻監督と話したら、監督も前の脚本には少し問題があるって感じてたみたいで。私が新しく手直ししたプロットを見てもらったら、こっちのほうがいいって言ってくれたのよ」そう言われては、桜もそれ以上何も言えなかった。「変更点は多いんですか?」桜は尋ねた。「いえ、少しシーンを追加しただけよ」美雨は言った。「でも安心して。セリフのことは我妻監督と相談して、あなたのアドリブに任せることにしたから。今夜のシーンは内野有海(うちの あみ)の身に起きた出来事を、もっと切実に、生々しく表現してほしいの」それを聞いて、桜は眉をひそめた。「私に、アドリブでやるようにということでしょうか?」「そう。一番リアルな効果を出すために、我妻監督と相談したの。監督もその方法で試してみようって」美雨はとても真剣な顔つきで桜を見た。「もちろん、もしやりにくいって思うなら、それはそれで大丈夫よ。もう一度、監督に元の脚本に戻せないか相談してみるから」そう言われ、桜は少しの間唇を引き結んで黙りこんだが、結局折れて言った。「監督と石原さんがそのほうがいいとおっしゃるなら、お二人の意見に従います」「よかった、桜さん!」美雨は桜の手を取り、にこやかに言った。「あなたみたいにプロ意識が高い女優さんと、我妻監督の腕があれば、この映画で絶対に賞が取れるわ!」桜は微笑んだ。「石原さん、褒めすぎです。私はまだまだ未熟者ですから」「私の目に狂いはないわ、安心して!」美雨はそう言うと桜に手を振り、外へ向かいながら続けた。「じゃあ監督に伝えてくるから、準備ができたら直接現場に来てね」「はい」桜はうなずいた。……その夜のシーンでの桜の演技は、すさまじいものだった。浩平でさえ、予想していなかった。カメラ
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第1759話

こうして、撮影は一旦終わった。桜は、寧々と夏帆に付き添われて部屋に戻った。しかし、部屋に戻っても、桜はソファの上で膝を抱えたまま、うつろな表情で動かなかった。寧々がぬるま湯を用意し、桜のメイクを拭き取ってあげた。その間、桜はされるがままになっていた。そんな桜を見て、寧々は心配でたまらなかった。彼女は必死に桜に話しかけ続けた。でも、桜からは何の反応も返ってこない。その時、部屋のドアがノックされた。夏帆がドアを開けに行った。ドアの外には、浩平とカウンセラーの藤川清美(ふじかわ きよみ)が立っていた。「我妻監督、藤川先生」夏帆が挨拶をすると、浩平がすかさず尋ねた。「桜ちゃんの様子は?」夏帆は首を横に振った。「まだ、あまり良くないみたいです」すると、清美は眉をひそめ、「私が中に入って様子を見ましょう」と言った。夏帆が体をずらして、二人を中に通すと、浩平と清美が部屋に入っていった。二人の姿を見て、寧々はすぐに立ち上がって挨拶した。「我妻監督、藤川先生」清美は寧々に軽く会釈すると、「まずは桜さんの様子を見させてください」と言った。寧々は鼻をすすりながら、少し横にずれて場所を空けた。それから、清美は桜の前にかがみ込み、彼女の目をのぞき込むと、とても優しい声で尋ねた。「桜さん、私のこと覚えていますか?」それでも桜からの反応はなかった。「有海?」その名前を聞いた瞬間、桜のまつげがぴくりと震えた。そのかすかな反応を見逃さず、清美はため息まじりに言った。「あなたは有海じゃない。あなたの名前は桜よ。有海は架空の人物。あなたは桜、湊里村から来た桜でしょう」それを聞いて、桜は眉をひそめた。うつろだった彼女の瞳も、少しずつ焦点が合うようになってきた。そして、目の前にいる清美の姿を、ようやく捉えることができた。そこで、清美は彼女に微笑みかけた。「今、あなたの名前を教えてくれる?」その言葉に、桜はまつげを数回震わせて、ゆっくりと口を開いた。「私の名前は、桜。桜です」「そうよ、あなたは桜。そばにいる友達を見てあげて。すごく心配してるわ」そう言われ、桜は清美が見つめる方へ、ゆっくりと顔を向けた。そこには、泣きじゃくり、目を真っ赤に腫らしている、不憫な寧々の姿があった。桜は眉をひそめ
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第1760話

それを聞いて、浩平も神妙な面持ちで言った。「俺が悪かった。もっと慎重になるべきだった。彼女の役作りの仕方は危険だとわかっていながら、あんなシーンを選んでしまうなんて」「監督、あなたのせいじゃありません。でも今回の件で、私も正直怖くなりました。だからこれからは、桜さんのことをもっと考えてあげてください。実はあの子、子供の頃に色々辛い経験をしてるみたいなんです。こういうシーンを演じるのは、彼女にとってすごく大きな精神的負担になるんです」「子供の頃の経験?」清美は眉をひそめた。「もう少し詳しく教えてくれるか?」「詳しいことは私もわからないんです。でも、桜さんが13歳の時に何かあったらしくて。その時に康弘が漁船を一隻だめにして、桜さんも怪我で入院したって聞いてます」それを聞いて、浩平は物思いにふけるような表情を見せた。……一方、眠りについた桜は、恐ろしい光景ばかりを夢に見ていた。夜中にハッと目を覚ますと、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。体を起こし、薄暗い部屋を見つめていると、涙がとめどなく溢れてきた。役である「有海」の感情が亡霊のようにまとわりつき、桜自身の意思とは関係なく、あの真っ暗な路地を思い出させてしまっているのだ。あのざらついた手……そして、悪魔のような甲高い笑い声が、耳元で何度も何度も響き渡る——桜は頭を抱え、体は小刻みに震えていた。忘れなきゃ。この苦しい記憶を、一刻も早く忘れなくちゃ!自分にそう言い聞かせるうち、桜はいつしか再び眠りに落ちていた。翌日、目が覚めたのはもうお昼だった。知らせを聞いた朋花は、その日の朝に駆けつけた。彼女はまず浩平から事情を聞き、その後、脚本家の美雨と直接話をしに行った。その場で、朋花ははっきりと伝えた。今後、撮影現場での脚本変更は認めない。どうしても変更が必要な場合は、必ず事前にマネージャーである自分を通すように、と。美雨はとても恐縮した様子で、自分の配慮が足りなかったと謝罪し、朋花の申し出を受け入れた。朋花も相手を追い詰めるような性格ではない。浩平と美雨との話し合いを終えると、彼女は急いで桜の部屋へと向かった。……朋花が部屋に入ると、桜は昼食をとっているところだった。メニューはご飯と、少しの漬物だけだ。「これだけ?」朋花は夏帆と寧々に目をやり、
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