All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 981 - Chapter 990

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第981話

大輝、聡、裕也は、一斉に駆け寄った。「山下先生、真奈美の容態はどうですか?」「峠は越えました」山下主任はマスクを外し、大きく息を吐きながら言った。「大事には至りませんでしたので、経過観察が終われば病室に戻れます」それを聞いて、皆、安堵のため息をついた。聡は山田執事に言った。「裕也と一緒に真奈美の入院手続きをしてきてくれ。一番いい部屋を用意するように」それを聞いて、大輝は聡を見た。「聡さん、俺が行きましょうか......」「あなたが?」聡は冷笑した。「今、あなたが出来ることは、真奈美の前に二度と現れないことだ!運転手から聞いたぞ!真奈美があんなに苦しむようになったのは、途中で偶然あなたに会ってしまったせいで......大輝、まだ分からないのか?真奈美は病気なんだ!今のあなたは、あの夜のことを思い出させるだけの存在なんだよ!」それを聞いて、大輝は凍り付いた。まさか......彼は首を横に振った。「そんなはずはない。彼女は......」「二人の子供がいる手前、ずっと我慢してきたんだけど、大輝、もう頼むから真奈美を解放してやってくれ!」それを聞いて、大輝の顔は真っ青になった。彼はよろめきながら数歩後退りし、冷たい壁に背中を預けた。そして、真奈美が取り乱していた時の様子が、脳裏に浮かんだ。だから、彼女は、「もう元には戻れない」と言ったのか。あの夜、自分が魔が差したせいで、二人の未来を壊してしまったんだ。大輝は絶望に打ちひしがれ、引き止める言葉はもう何も出てこなかった。......経過観察を終えた真奈美は、聡が手配した20階の特別病室に移された。大輝には面会が許可されなかった。しかし、彼の両親は真奈美によくしてくれたので、聡は彼らを責めなかった。いずれにしても、彼らは二人の子供の祖父母なのだから。哲也も学校から帰ってきてから、初めて真奈美が病院で出産したことを知った。新井家の運転手が彼を病院へ送ってあげた。到着後、若葉は先に哲也を病室へ連れて行き、真奈美と面会させた。真奈美はまだ眠っていたので、哲也は彼女の顔に軽く触れた。彼も年が明けたら9歳になるのだ。聡は車椅子に座り、哲也を見ていた。哲也の目元は大輝に似ているが、鼻と口は真奈美に似ていると思った。実に手のかから
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第982話

哲也が病室から出てくると、隼人、若葉、そして大輝の三人が一斉に彼を見つめた。若葉は声を潜めて尋ねた。「哲也、おじさんは何か言ったの?」「おじさんは、僕がおりこうだって褒めてくれたよ」隼人は更に尋ねた。「他には?」「お母さんに似て頭がいいって」大輝は息子の前にしゃがみ込み、目を見て聞いた。「お母さんの方は?ちゃんと顔を見れたのか?」「うん」哲也は頷いた。「お母さんはまだ寝てた。おじさんが言うには、お母さんはすごく疲れてるから、何日も眠り続けるかもしれないんだって」それを聞いて、大輝はさらに尋ねた。「じゃあ、おじさんはいつ帰るんだ?」「お父さん、諦めた方がいいよ」哲也はため息をついた。「おじさんは、ずっとお母さんのそばにいるって。あなたがお母さんに会えるチャンスなんて、絶対に作らないって言ってたよ」それを聞いて、大輝は唇を噛み締めた。若葉と隼人は顔を見合わせ、力がぬけたようにため息をついた。「もう、諦めなさい」若葉は大輝の肩を叩いた。「もういいのよ。私ももう諦めたから。きっと縁がなかったのよ」大輝の胸は苦しさで締め付けられた。「大輝」若葉は息子の未練を感じていた。しかし、もうここまで来てしまった以上、息子にも非がある以上、真奈美をこれ以上苦しめてはいけない。「聡は、真奈美の心の傷はあなたが原因だって言ってたよ。今日、彼女が発作を起こした時の様子も見たでしょ?あれはあなたが謝ったり償ったりしたところで、どうにもならないの。離婚の話も聡から聞いたから。だから、踏むべき手続きはすべて済ませて。いつまでもこんなことを続けていても仕方ないでしょ。互いのためにも、子供たちのためにもならないから、どんなに嫌でも受け入れなきゃいけないのよ」大輝は目を閉じ、こみ上げる感情を押し殺した。「分かった」......大輝は弁護士に新しい離婚協議書の作成を依頼した。自分の個人資産の全てを真奈美に譲渡した。つまり、彼は身一つで離婚に承諾するということだ。聡はその協議書を見て、驚きはしなかった。男は女を愛していない時こそ、損得勘定をするものだ。しかし、本気で愛しているなら、全財産どころか、命を投げ出すことさえ厭わないものだ。だが、もう真奈美にはそんなものは必要なかった。聡は大輝に真奈美の容態が落ち着いたら、
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第983話

赤ちゃんはまだ新生児科にいるのだ。そして、目を覚ましてからずっと、真奈美は赤ちゃんについて一言も聞いてこなかった。聡は、真奈美がこの子供を望んでいないことを薄々感じていた。彼女が触れないので、聡も何も言えなかった。グループチャットのメッセージも彼女は見ていないようだった。真奈美のスマホはずっと電源オフのままだった。栄光グループの方は霞と誠也が見てくれているから、心配はいらなかった。聡には、真奈美の落ち着きがどこか不自然に感じられた。彼女は赤ちゃんの話も、大輝の話もしない。だけど、幸いなことに、まだ哲也のことを気にかけているようで、哲也は毎日学校が終わると真奈美のところに来ていた。そして彼は毎晩、産後ケアセンターで真奈美と一緒に夕食を食べ、その後、宿題をするのだ。真奈美もまたベッドに横になりながら、哲也を見守った。その視線に込められた優しさは本物だった。聡は心配になり、こっそり臨床心理士に連絡を取った。しかし、真奈美が反発するといけないので、産後ケアセンターの医師に扮装してもらった。臨床心理士は3日間観察し、彼女は今、心を閉ざしている状態だと診断した。そして、哲也への愛情と関心は、一種の感情の埋め合わせだと言った。つまり、真奈美は哲也を産んだ時、新井家で大変なことが起こり、一人で海外で出産し、産後のケアも受けられなかった。哲也は生まれてすぐに家政婦に預けられたため、彼女は無意識のうちに哲也に申し訳ない気持ちを抱いているのだ。そして、臨床心理士は赤ちゃんのことを尋ねた。「彼女は今でも赤ちゃんに会っていないのですか?」聡は頷いた。「未熟児で、まだ新生児科にいます」「彼女は子供から目を背けているのです」臨床心理士は言った。「心の中で、子供と夫を一括りにし、そして自分と夫を別の世界に切り離しています。これは感情の分離、無意識の自己防衛メカニズムと言えるでしょう」聡は眉をひそめた。「つまり、今は長男だけを認識していて、次女は認識していないということですか?」「そういうことです」臨床心理士は少し間を置いてから、続けた。「彼女の状況は少し複雑です。今は介入するのはお勧めしません。まずは体をしっかり休ませ、その後、可能であれば、海外で専門的な治療を受けるのが良いでしょう。今は彼女が望むようにさせてあげてくださ
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第984話

赤ちゃんの名前はまだ決まっていない。大輝は真奈美に決めてもらいたいと思っていたが、さすがに自分から言い出す勇気はなかった。若葉は以前、聡にこっそり真奈美の様子を尋ねていた。聡は、精神科医の診断結果を若葉に伝えた。それを聞いた若葉は、涙を拭いながらため息をついたが、どうすれば真奈美を助けることができるのか、彼女にも分からなかったのだ。真奈美の今の状態では、誰も赤ちゃんのことを軽々しく口に出せなかった。そこで、皆は哲也に期待を寄せた。哲也は、今や母親のお気に入り、そんな彼はその重要な任務を背負い、産後ケアセンターに戻っていった。聡はその間ずっと、病院でリハビリをしていた。今はリハビリ科で治療を受けている時間なので、すぐには帰ってこない。真奈美は目を覚ましたばかりで、ベッドでぼんやりしていた。部屋には、いつも穏やかな音楽が流れている。哲也は近づいていき、「お母さん」と言った。真奈美はゆっくりと振り返り、息子を見て、「哲也、どこに行ってたの?」と尋ねた。哲也は彼女を見ながら、「今日、妹が退院したから、見に行ってきたんだ」と答えた。それを聞いて、真奈美の表情は固まった。哲也は、彼女の表情を注意深く観察した。しばらくして、真奈美は、「彼女は元気?」と尋ねた。哲也の目は輝いた。「先生は妹はすごくいい子だって言ってたよ。おとなしくて、可愛くて、肌も白くて。写真も何枚か撮ったんだ。お母さん、見てみる?」そう言って、彼はキッズスマホのアルバムを開こうとした。「哲也」真奈美は哲也の言葉を遮り、「お母さん見たくないの」と言った。哲也はきょとんとした顔になり、顔を上げて母親を見た。「哲也」真奈美は手を伸ばして彼の頭を撫でた。「お母さんは疲れているの。赤ちゃんの面倒を見るのは大変だから、彼女は石川家にいるのが一番いいのよ。あなたももう9歳だし、これからは赤ちゃんの面倒を見るのを手伝ってくれるわよね?」哲也は眉をひそめた。「お母さん、どういう意味?どこかに行ってしまうつもりなの?」「ええ、お母さんは別の場所で暮らしたいの」真奈美は彼を見つめた。「でも、お母さんはあなたたちを連れて行くことはできない。お母さんのことを恨む?」哲也は首を横に振った。「分かるよ、お母さん。海外に行って暮らす方がお母さんが幸せにな
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第985話

「あなた......」「あいつも、少しは大人になったということだな」隼人は若葉の言葉を遮り、言った。「彼の意思を尊重してやろう」それを聞いて、若葉はため息をついた。「もう、あなたたちには敵わないよ!」彼女は手を振り、諦めたように言った。その時、哲也から電話がかかってきた。若葉はすぐに電話に出た。「哲也、どうだったの?あなたのお母さんは、赤ちゃんに名前を付けてくれた?」「うん、付けてくれたよ」哲也の声が車内に響いた。「『石川心優』って付けたんだ」「石川ここは?」若葉は後部座席の大輝を見ながら尋ねた。「どんな漢字を書くの?」「うん......優秀の優に心って書くんだ」哲也は答えた。「心優......」若葉は笑った。「いい名前ね。あなたのお母さんも、赤ちゃんのことを大切に思っているのね」しかし、それを聞いた大輝はうつむき、目に苦悩の色を浮かべていた。心優......大輝は腕の中で眠る娘を見ながら、胸に締め付けられるような痛みを感じた。「優しい心」かいい名前だ。だけど彼女は娘に会いたいとは一言も言っていない。彼女は娘に会いたくないのだ。娘にも、自分にも会いたくないのだ。一方で、若葉は真奈美の決断に気が付いていないようで、哲也と楽しそうに話していた。「お母さんに、赤ちゃんの写真は見せてあげたの?」「ううん、まだなんだ」哲也は祖母をがっかりさせたくないと思い、言い訳をした。「お母さんはすごく疲れていて、少し話したらまた眠ってしまったから、起こさないようにしたんだ」「そうね、お母さんはまだ体が弱っているのだから、無理をさせないのが一番よ」若葉は笑顔で言った。「哲也、お母さんのそばにいてあげて。おばあさんはまた明日にでも、お母さんに会いに行くね」「うん」電話を切ると、若葉は大輝の方を向いた。「真奈美も、赤ちゃんに名前を付けてくれたのね。石川心優。ニックネームは『ここちゃん』にしようか」しかし、大輝はずっと黙ってうつむいていた。若葉は眉をひそめた。「どうしたの?真奈美が名前を付けてくれたのに、嬉しくないの?」「そんなことはない」大輝は沈んだ声で言った。「お母さん、真奈美に会いに行くときは、なるべく俺と心優の話はしないでくれ」若葉は一瞬、きょとんとしたが、すぐに意味を理解した。聡から、真
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第986話

一方、真奈美は伏し目がちに、役所の前で立ち止まった。その時、白いベンツが目の前に停まった。運転席のドアが開き、清彦が書類袋を持って車から降り、真奈美の隣に立った。「新井社長、協議書が完成しました。碓氷社長も確認済みです。もう一度ご確認ください」真奈美は落ち着いた声で言った。「山本先生と碓氷社長の手腕は信頼しています。石川社長にお渡しください」「承知しました」清彦は軽く頷き、大輝の方へと向かった。真奈美はすぐには後を追って行かなかった。大輝は、彼女がまだ自分と向き合えないことを分かっていた。車から降りてから、一度も自分を見ていないのだから。大輝の心は苦痛に満ちていたが、受け入れるしかなかった。清彦は大輝の前に立ち、書類袋を渡した。「石川社長、こちらは新井社長から委託された新しい離婚協議書です。問題がなければ、署名と捺印の上、こちらで公証役場で手続きを行なわせていただきます」大輝は書類を受け取り、中身を確認した。新しい協議書では、真奈美は大輝に一銭も要求していなかった。二人の財産は、きっぱりと分けられていた。そして、すべてを断ち切っていたかのようだった。彼女は子供の親権も放棄していた。内容を確認した大輝は眉をひそめ、清彦を見上げた。「なぜ条件が変更されているんですか?私が提示した協議書では、私が全て放棄するはずでした」「新井社長が同意しませんでした」清彦は説明した。「二人の子供が石川家で暮らしていることを考慮し、教育や成長に必要な費用は石川社長が管理した方が良いです。いずれ成人すれば、子供たちのものになるのですから」「今持っている財産を全て彼女に渡したとしても、私は子供たちに素晴らしい環境を与えられます。彼女が心配する必要はありません」「新井社長はもちろん石川社長の能力を理解しています。それに石川家は裕福なので、子供たちが不自由することはないでしょう。ですから、なぜ新井社長がこの財産を受け取らないのか、お分かりでしょう」大輝はハッとした。真奈美は、こんな形で償いを求めていないのだと、彼は理解した。しかし、この方法以外に、今更自分にできることがあるだろうか?ない。何もない。18年前、自分が彼女から背を向けた時から、全ては決まっていたのだ。大輝は協議書を握りしめ、車のそばで待
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第987話

真奈美は車に乗り込み、ドアが閉まった。黒いマイバッハは前方に走り去り、大輝の視界から徐々に消えていった。大輝はうつむき、無言で涙がこぼれ落ちたのだった。18年前、真奈美は言った。「大輝、本当に本当にあなたのことが好き。私のことを見てくれない?」そして18年後、真奈美は言った。「大輝、あなたを愛したことを後悔しているの。お願いだから、私を解放してくれない?」大輝は胸を押さえ、ゆっくりとしゃがみ込んだ。180センチを超える大男が、道端で人目を気にせず、声にならないほど泣いていた。......それから、大輝は役所から光風苑に戻った。そこに、リビングで若葉が泣き止まない心優を抱っこして、行ったり来たりしていた。大輝は靴も脱がずに家に入り、ジャケットを梨花に手渡し、除菌シートで手を拭くと、すぐに若葉から娘を受け取った。退院してからというもの、心優の世話は大輝が中心になって行っていた。賢い子で、父親の腕に抱かれることに慣れているため、少しでも離れるとすぐに泣き出してしまうのだ。「もう泣くな、パパがいるぞ」大輝は娘を抱きながら、優しく声をかけた。父親の言葉を聞くと、心優はすぐに泣き止んだ。それを見て、若葉は複雑な気持ちになった。「本当に、あなたにしか懐かないのね」祖母の自分には見向きもしないんだから。大輝は娘のお尻を軽く叩きながら言った。「俺の可愛い娘だ、俺に懐くのは当然だろ?」若葉は拗ねたように言った。「私の可愛い孫娘でもあるのよ!」「お腹が空いたんだろう」大輝は時計を見て言った。「お母さん、田村さんにミルクを作ってもらってくれ。最近は飲む量が増えて、90ミリリットル必要なんだ」若葉が指示を出すと、家政婦の田村恵子(たむら けいこ)はすぐにミルクを作りに行った。大輝は娘を抱いてソファに座った。若葉は孫娘をあやしながら、それとなく尋ねた。「全て、済んだの?」大輝は一瞬表情を硬くしたが、すぐに小さな声で答えた。「ああ、済んだ」これで若葉の心に残ったわずかな希望も完全に打ち砕かれたようだった。小さくため息をつきながら、若葉は言った。「あなたは財産を何ももらわずに出て行ったのね。では、立響グループの経営権は......」「彼女はもらってくれなかった」若葉は驚いて聞き返した。「どういう
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第988話

杏の長い髪はまるで鳥の巣のようだった。片目は真っ青に腫れ上がり、鼻のプロテーゼも歪んでいる。やつれた顔にはかつての人気女優の面影などどこにもなかった。体液と血痕で汚れたシーツに、無数の痕跡が残る痩せ細った体が包まれていた。変わり果てた姿は、見るも無残だった。この1か月以上、大介はこの部屋に数え切れないほどの男を送り込んだ。彼らは皆、街のチンピラで、様々な動画や写真を撮影していった。1か月以上にも及ぶ拷問で、杏は精神的に錯乱し、不正出血と激しい腹痛に襲われていた。何度も死のうとしたが、全て失敗に終わった。大輝は、彼女をじわじわと苦しめるつもりだったのだ。その時、再びドアが開き、杏はゆっくりと目を開けて入口を見た。「安西さん......」杏は腹痛をこらえて上半身を起こした。「本当に反省している。どうか石川社長にお願いして、お願い、もう解放してください......」「小林さん、社長は、完全な動画を渡さない限り、特別な待遇はずっと続くと言っていました」大介は眼鏡を押し上げた。「今日の相手は数日前に検査を受けたばかりですが、残念ながらHIV感染歴があります。小林さん、これからはもっと苦しむことになりますよ......」「やめて!」杏は目を見開いた。「安西さん、お願い。こんなことしないで!石川社長が私への復讐を望んでいるなら、殺して!殺して!こんな風に苦しめないで!楽にして......」大介は、苦しみながら懇願する彼女を、冷ややかな目で見つめた。18歳にして自堕落な生活を送り、人を陥れるような人間に同情の余地はない。「社長は、死ぬのは簡単すぎて、あなたには生きて苦しんでもらうべきだと言っていました」そう言うと、大介は外を振り返った。「連れてこい」「かしこまりました!」足音が近づいてきた。太った中年男性が、ボディーガードに押されて部屋に入ってきた。ボディーガードは男の頭からフードを外した。男は脂ぎった顔で、杏を見ると、ニヤニヤと笑い、黄ばんだ歯をむき出しにした。それを見て、杏は恐怖に慄いた。この1か月、様々な男に陵辱されてきた彼女だが、今回は違う。HIV感染者なのだ......杏は布団を体に巻き付け、ベッドの隅に縮こまった。「完全な動画を渡す。でも、条件がある!」大介は冷笑した。「小林さん
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第989話

「分かりました」電話を切ると、大輝は書斎に一人ぽつんと座っていた。あの日、拓海が真奈美に渡したUSBの動画は編集されたもので、聡が手を出した場面しか映っていなかった。真奈美が被害を受けている動画や写真は無かった。拓海は警察署で全てを自白した。動画撮影だけを担当していて、それも途中で戻ってきた杏にスマホを奪われ、追い払われたそうだ。そして、それらの動画は時限爆弾のようなものだった。大輝は杏から全てを回収し、完全に破棄しなければならなかった。十数分後、大介から再び電話がかかってきた。「社長、小林さんの証言では、当時撮影に使ったスマホはマンションの寝室に隠してあるそうです。さらに安全のために、USBにコピーしたデータも、マンションのあちこちに隠しているとのことです」「すぐに人を連れて捜索に向かえ。住所を送れ。俺も今すぐ出発するから、現地で合流しよう」大輝は冷徹な声で言った。「承知しました!」電話を切ると、大輝はすぐに大介から送られてきた住所を受け取った。光風苑からだと、20分ほどかかるだろう。大輝は書斎を出て、子供部屋を覗き、階段を下りていった。「田村さん、心優が寝たばかりなので、ちょっと出かける。様子を見ていてくれ」恵子は恭しく頭を下げた。「かしこまりました」大輝は玄関に掛けてあった黒いコートを羽織り、靴を履き替えた。「こんな夜遅くに、どこへ行くの?」若葉が物音を聞きつけてやってきた。彼女は哲也の宿題を見ていたところだった。窓の外の雪景色に目をやり、若葉は眉をひそめた。「すごい雪よ!心優は夜、あなたから離れられないでしょ?用事は明日でもいいんじゃないの?」「どうしても今日中に済ませなければならない用事なんだ」大輝は靴を履き替えながら、若葉に言った。「いつ戻るかわからない。今夜、心優の子守をお願いできないか?」「私がいても役に立たないんじゃないかしら......」若葉は手を振った。「もう、しょうがないわね。どうせ言っても聞かないんでしょ?こんな大雪の日に、車の運転には気をつけて。安全第一よ」「ああ。行ってくるよ」大輝は振り返り、ドアを開けた瞬間、冷たい風と雪が玄関から吹き込んできた。大柄な男の姿が外へ出ていき、ドアが閉まった。庭から車が遠ざかる音を聞きながら、若葉は小さくため息をついた
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第990話

「石川社長、あの日、あなたは新井の手から刃物を取り上げた時血だらけになったでしょ。本当に感動しました!」杏は顔を上げて、あざと腫れで歪んだ顔をさらに歪ませながら、嘲るように笑った。「口先だけの愛なんて、薄っぺらいじゃありませんか。石川社長、もし自分の胸を刺せる勇気がおありなら、あの動画とクラウドに保存してあるデータを全部お渡ししますよ」大輝は杏の肩を蹴りつけた。杏は悲鳴を上げ、地面に倒れこんで激しく咳き込んだ。そして、そのまま床に転がり、高笑いし始めた。「あいつを愛しているですって?血を流すことさえできないくせに、よく言いますね。あの夜、まさかあなたが私の言葉を簡単に信じるなんて思ってもみませんでしたよ。あなたがあんなにあっさり出て行った後、私がこっそり戻ったことなんて知らないでしょうね......ハハハ......新井は言うことを聞かなくて、竜紀に噛みついたんです。それで、平手打ちをくらわされて、口から血を流しました。逃げようとしたけど、竜紀がキレて、髪の毛を掴んで壁に叩きつけました。たった二発であいつは気絶しましたよ。ハハハ......」「このメスブタ!!」大輝は杏の腹を蹴りつけ、頭を殴ろうと拳を振り上げたが、大介に止められた。「落ち着いてください!彼女はわざと社長を怒らせているんです。彼女はもう死ぬ気で、社長を利用して自分を殺させようとしています。こんな女の罠にハマってはいけません!こんな女のために、社長が手を汚すことはありませんよ......」杏はさらに高笑いしながら言った。「さあ、殺して、殺してくださいよ!私を殺せば、あの動画のありかを知る者はいなくなるんですから!さあ、一思いに殺してくださいよ――」大輝の目は血走り、まるで制御不能になったようだった。「放せ!彼女の言うとおりだ。彼女が死ねば、誰にも知られずに済む!」「社長!子供たちのことを考えてください!」大輝の動きが止まった。「この女が死んだところで何も変わりません。ですが、社長が殺人犯になったら、子供たちは......」それを聞いて、我を忘れていた大輝は、正気に戻った。そうだ、哲也と心優がいる。二人の子供を育てなければならない。それが、真奈美に対する、せめてもの償いだ。落ち着きを取り戻した大輝は言った。「放してくれ」大介は手を放し
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